第7話

 部屋に戻ると、エリナは布団の中でケイタイを握ったまま眠っていた。美奈が、エリナ、エリナ、と呼んだが返事がない。さらにとんとんと肩をたたいたが、動かない。美奈は、声を落として言った。


 「寝ちゃってるね。ちょっと照明落とそうか」


 美奈が、ピッピッピッ、とリモコンのボタンを何度か押した。ここの照明は、調節が六段階くらいある。部屋は一気に薄暗くなった。

 早々と座っていた俺が、買ってきたカフェオレを飲もうとしていたら、美奈が立ったまま、あっちの部屋行ったほうがよくないかな、と言った。俺は、また美奈と二人っきりになれると思って、喜んで立ち上がる。



 美奈の後について、エリナの寝室に入った。うっすらとただよっているエリナの残り香で、胸が妙にそわそわする。

 美奈は勝手が分かっているのだろう、すぐにベッドの枕元にある小ぶりのライトをつけた。部屋が暖色系の明かりで、ほわん、と薄明るくなる。

 俺が、電気これだけ、と聞くと、美奈が、私もちょっと眠くなってきたからこれくらいがちょうどいいんだよね、と言った。


 美奈はベッドの上に座り、ジュースちょうだい、と言った。俺は、持っていたコンビニ袋から、『桃リッチ』というジュースを出して渡し、それから、美奈の隣に、少し間を空けて座った。


 美奈は、こくこくとおいしそうに『桃リッチ』を飲んだ。こっちのほうにまで、とろりと甘い桃の匂いが来た。


「はあ~、おいしい。エリナ寝ちゃったね。せっかくジュース買ったのに」 


 左手と左腕に、まだ美奈の柔らかな感触が残っている。俺は冷たいカフェオレを飲みながら、美奈の手に持たれた、『桃リッチ』のアルミボトルを見た。パッケージは全体的に、つやのない黒だ。その黒の中に、しずくを垂らした桃の写真が鮮やかに浮かび上がっている。キャップの縁取りや商品コピーの文字など、ところどころに金色があしらってあり、それもまた黒い色に映えている。 


 カフェオレをわきにあった化粧台の上に置いて、美奈の顔を見ると、胸がぎゅっとするように甘い感情がこみ上げてきた。美奈が、何、と小首をかしげた。俺は、手、と言って、左手を差し出した。美奈が、黙って『桃リッチ』を持ちかえ、少し冷たくなった右手を俺の手にのせた。手のひらは相変わらずやわらかく、手の甲や指の背中はすべすべとしている。

 俺は嬉しさを隠すために、言葉を発した。


 「眠くなったんだ?」


 美奈は、うん、と言って、一口『桃リッチ』を飲んだ。俺はもう少し美奈と二人で時間を過ごしていたかったので、少しがっかりした。

 美奈が腰を浮かせて、『桃リッチ』を俺のカフェオレの隣に置いて、ねえ、と言った。


 「今、何時?」


 俺は美奈の手を握ったまま、時計を見て、三時半、と言った。


 「もうそんな時間なんだね。私、ちょっと横になっていい?」


 「うん」


 ああ、この甘い時間ももう終わりか。


 美奈は、細い鎖のネックレスをはずし、化粧台の上に置いて、上着を脱いで椅子の上にかけた。きれいな首元があらわになった。


 美奈が布団に入って、あー、あったかーい、と言った。

 俺は、美奈が寝てしまうんなら、もうここにいる意味はなくなったと思った。


 「清太さん寒くないの?」


 そう言われてみれば、少し寒くなっている。


 「ちょっと寒い」


 「布団、あったかいよ」


 俺は思わず声を出しそうになったくらい、驚いた。

 美奈は、同じ布団に俺を招き入れようとしているんじゃないか? いや、まさか。でも、もしそうだとしたら、美奈に恥をかかすことになる……。

 一瞬のうちに頭を動かして考える。


 違ったら冗談で済まそうと思って、平然を装って言ってみた。


 「そう? じゃあ俺も入るわ」


 「うん」


 うん!! 俺は心の中で叫んだ。体中の血が、急に激しく流れ始めて、耳が熱くなった。


 (美奈は、もしかして、今から俺と寝るつもりなんじゃないか?) 


 鼓動が、音が聞こえるんじゃないかというくらいに激しくなる。 


 「あ、先にちょっとトイレ行ってくるわ」


 一緒の布団に入るなんて、微塵も思っていなかったから、少し頭を整理したかった。


    ◆                   ◆


 服のまま便座に座って考える。

 さっきの美奈を思い出してみると、二人で一緒の布団に入ることを、ごく普通、という感じで扱っていた。多分そのまま一緒に眠るだけだとは思うが、もしかすると、キスどころか、セックスまで見越しているかもしれない。もちろんはっきりしたことは分からないが、その可能性はある。


 (人の家のベッドで、コトに及ぶだろうか。あっちの部屋にはユカリとエリナがいるんだぞ。……でも、俺が知らないだけで、大学生くらいになれば、これくらい普通なのかも知れない。……いや、あの美奈が、そんなことをするだろうか。……)


 俺は高校のときに悪友とソープランドに行ったことがあるので、童貞ではない。でも、美奈みたいな、同い年くらいの普通の女の子とは、キスどころか、手をつないだこともない。一応、高校一年のときに一度だけ彼女ができたこともあったのだが、好きすぎて照れくさくて何もできないまま、すぐに別れを告げられてしまった。だから、正直言って俺は、普通の女の子に関して、丸っきり無知に等しい。

 この無知を美奈に知られることは、何とかして避けたい。特に、セックスに関する無知は、絶対知られたくない。二十歳も過ぎてるのに、今まで何やってたの、と思われるのが、嫌だ。そんなことにこだわっていても損をするだけだと、自分でもわかってる。でも、それでも虚勢を張るのが俺の性分なのだ。



 俺は不充足の多い青春を、虚勢を張って生きている。内心はどうあれ、内実はどうあれ、周りにはいつも平然とした顔を見せて生きている。中学生のとき大勢の見ているケンカでボコボコにされたときも、高校生のとき大好きだった彼女にふられたときも、いや、そんなのはまだいい、大学内で一番の親友だった竜也とトラブって人間不信になり、その周りの友達はおろか、学校の誰とも話せなくなったときだってそうだ。地元から遠く離れた地で、助けてくれる人もなく、悶々としたものを抱えながらパチンコ屋に入り浸り、単位を落としまくって、何度も学校をやめようと思ったが、かろうじて踏ん張った。虚勢を張り通した。


 俺は、単位もなければ、これといった将来の夢もないし、彼女も、身近な友達さえもいない。俺が持っているたった一本の刀が、虚勢なのだ。この虚勢こそが、ときにはボロボロになりながらも、今までへし折れずに俺を支えてきてくれたのだ。侍と刀が一心同体であるように、俺と虚勢も一心同体だ。


      ◆                  ◆


 怪しまれるといけないから、一応トイレの水を流し、手を洗った。ついでに洗面所で口もゆすぐ。

 掛けてあったタオルで手を拭きながら、美奈がどういうつもりなのかは、とにかく一緒に布団に入ってから判断しようと決めた。向こうの様子をうかがって、俺は俺の出方を決めよう。……万が一、セックスすることになったとしたら、その時はその時だ。全く心の準備などしていなかったが、腹を決めて、やるしかない。


 部屋に戻ると、美奈は仰向けの体をわずかに傾けたような体勢で、布団を首までかぶっている。

 布団に入ると、仰向けになった俺の肩に、美奈の肩が触れ、温かな体温が伝わってくる。毛布は、今まで触ったことがないくらい滑らかで肌触りが良い。

 俺が、いい毛布だね、と言うと、美奈が、うふふ、うん、と言った。


 美奈が、電気もうちょっと暗くするね、と言って、電気スタンドのつまみをしぼり、部屋はかなり薄暗くなった。俺の部屋にある蛍光灯の常夜灯よりも少し暗いぐらいだろうか。

 このまま眠るのかな、と思ったら、急に美奈が、こっちに体を向け、俺の肩のあたりに顔を寄せ、寄り添うようにくっついてきた。俺は心臓をバクつかせながら、自由な左手を、美奈の肩に置いた。


 美奈は、ただ一緒に寄り添いたいだけだろうか。それとも、それ以上の展開を待っているのだろうか。判断がつかないが、とりあえず美奈のほうを向いて、左手でそっと背中を抱くようにした。

 美奈が、俺の首のあたりに顔を擦り付けるようにした。シャンプーなのだろうか、おもわず吸い込みたくなるような、さわやかで甘いにおいがする。美奈の体温が、俺の中にある緊張と安心とを対流させるかのようにかき混ぜた。


 十秒ほど考えて、俺は決心した。意気地なしと思われるのだけは避けたかったし、美奈の行動に応えることが流れとしては自然だろうと判断したのだ。

 美奈の体に手を回し、両腕でぎゅっと抱きしめる。思考は完全に停止して、耳がキーン、とした。俺は、そのままじっとして、美奈の柔らかなぬくもりが、じんわりと胸にしみこんでくるのに身を任せた。


 俺は人を抱きしめる喜びを初めて知り、思わず興奮してしまい、今度は力を込めて、ぎゅーっと抱きしめた。美奈が、甘えるように高い声で、強いよぅ、と言った。それは美奈が今まで出したことのないような種類の声だったのだが、なぜか俺の感情をさらに昂ぶらせる効果を発揮した。俺はもう一度同じように、ぎゅーっと力を入れた。美奈が、うぅーん、もう、と言った。


 「強いってばぁ」


 笑いを含んだ声だ。


 「ごめん」


 俺は少し照れくさくなって、ふふっ、と笑った。美奈の顔も笑っている。暗い中で見る美奈の顔には、また違った魅力がある。 



 俺は、こみ上げる感情の表現方法として、今のところ、抱きしめる、というそのただ一つの行為のみしか持ち合わせていない。手詰まりになったような恰好で、美奈の顔を見つめた。見返してくる表情が、真剣味を帯びている。じっと見ると、美奈は目を伏せた。恥ずかしいのだろうか。


 勇気が出てきたので、美奈の顔を、触ってみることにした。まず、驚かせないようにゆっくり手を動かして、顔にかかっていた髪をよけた。薄暗さの中で、白い頬が仄かに発光しているようだ。

 指先で頬を触ってみると、美奈はピクッと少しだけ首をすくめた。一度手を止める。そのまま、頬の盛り上がり方を親指で確かめるようになぞると、美奈が、くすぐったい、と小さな声で言った。

 俺は美奈の顔の造形に夢中になって、次に、かすかに丸く盛り上がった、きれいな顎の先を触った。女の顔をこんなに近くでまじまじと見るのは初めてだが、男とは全然違うものだ。何というか、全体的に上品な感じがする。美奈が、何で顔さわるの、と言った。俺は、何でかな、と、言った。好きだから、とか、きれいだから、とは照れくさくて言えなかった。



 美奈が髪を耳にかけた。そうすると、一段ときれいに見える。俺はまた美奈を抱きしめた。感情が昂ぶるから、抱きしめるわけだが、不思議なのは、抱きしめるとさらに感情が昂ぶることだ。

 と、体を離し、美奈の顔を見た瞬間、俺は感情の昂ぶりに乗じるようにして、美奈の唇にキスをた。自分で自分の行動に興奮し、美奈の小ぶりの唇と俺の唇が重なっていることに興奮した。

 顔を離して、美奈の顔を見ると、照れたような、驚いたような表情をしている。

 つき動かされるように再度キスをすると、美奈の唇が、さっきより俺を受け入れているのがわかる。俺の唇とは全然違う形だな、と興奮しながら思う。


 なぜかすごく大胆な気持ちになってきて、少しだけ空いた美奈の唇の間から、舌を入れた。一瞬ためらった後に、美奈の口は俺の舌を受け入れた。美奈の舌はにゅるりとやわらかくて、『桃リッチ』の味がした。俺が舌を動かすと、美奈が応じるように舌をからめてくる。味わったことのない恍惚感が口から全身へと入り込んできた。三十秒くらいにゅるにゅるとやって、顔を離すと、美奈は、少し息を荒くして、うっとりしたような顔で俺を見た。


 俺はキスのとりこになった。噛みたくなるほど柔らかい内唇を舌でなぞり、舌をからませた。本能的に舌を動かしていると。美奈の鼻から漏れる息が、一瞬、んんぅ、という、かすかな声になった。きっとこのやり方でいいんだろう。

 美奈が、俺の背中に手を回してきた。


       ◆                  ◆


 さんざんキスをしたので、そろそろひと段落かな、と思って顔を離した。ずっと大胆だった俺も、少し冷静になって、照れくさくなる。美奈の視線を避けるようにして、仰向けになり、一つ、ゆっくりと深呼吸した。


 白い天井に取り付けてある、照明が目に入る。中心の電球が、円筒状の覆いで囲まれている。 

 俺は、つい夢中になってここまで来てしまったことに、今さらながら気づいた。でも、美奈とキスできたんだと思うと、大声で叫びたいくらい、嬉しかった。


 ねえ、と美奈が言った。


「今、何考えてる?」


「何も考えてない。あの照明見てる」


 俺は天井の照明を指差した。美奈が、何で、と言って笑ったので、俺も笑った。笑い声が止まると、自分の呼吸の音が聞こえるくらい、部屋がしいんと静かになった。

 美奈が、ねえ、と小さな声で言った。俺は、上を向いたまま、何、と言った。


 「もう一回、ちゅーしたい」


 頭に、一瞬びりびりと電流のようなものが走った。


 今度は、仰向けの美奈に、覆いかぶさるようにして、キスした。舌を入れると、美奈のつるりとした前歯がきれいに並んでいるのに触った。

 しばらく舌を絡ませていると、今度は美奈も舌を入れてきた。俺の興奮に火がついた。と同時に、こんな時に考えることじゃないのかもしれないが、美奈は今までに、誰かにこうやって舌を入れたことがあるんだ、と思った。

 二人はしばらくの間、さっきより一層濃厚になったキスに、没頭した。


 顔を離して、五センチくらいの距離で見つめ合った。俺も美奈も、もう照れを通り越したようだった。俺は、美奈の両目の下のぷくっとした膨らみを見た。

 美奈が、もうやばいかも、と言った。俺は、美奈を抱きしめる恰好をして、考えた。


 何だ、やばいって。



 美奈が、俺の耳もとで、かすれるような声を出した。


 「したくなっちゃったかも」


 鼓動が、苦しくなるくらい速くなった。驚きと、プレッシャーとで、頭がかあっと熱くなったが、俺は落ち着いた声を作って言った。


 「あっちの二人、起きないかな」


 「大丈夫。酔ってたし、ここのドア結構厚いから」


 シャンプーのにおいに混じって、美奈のにおいがする。

 俺は腹をくくるしかない、と思った。

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