第6話

 俺と美奈はリビングを出て、薄暗い廊下を歩いた。俺が靴をはいて玄関を開けようとしたら、左肩に美奈の手が乗った。どきっとして見ると、美奈は俺の肩を支えにして、靴をはこうとしていた。美奈が左足のかかとを靴に収め終わるまでが、ひどく長い時間に感じられた。実際は、美奈の動きは、少し緩慢、という程度だったと思う。


 玄関を出て廊下を歩き出したところで、美奈が、あっ清太さん上着は、と言った。俺は、ああ、いいよいらない、と答えた。

 並んで歩いていると、美奈が、わ、と言って、足元をよろめかせ俺の腕を持った。心臓に、とろり、と甘い蜜をかけられたような心持がした。腕を持ったのは一瞬だったが、美奈はほとんど肩をくっつけるようにして歩くので、甘い蜜がますます心臓にかかる。


 俺はエレベーターのボタンを押して考えた。美奈が酔っているのは確かだが、どこかわざとやっているような感じもある。一体どういうつもりなんだろうか。美奈は、やはり俺のことが好きなのだろうか。 

 ちらりと美奈の横顔をみると、美奈は前を向いたまま、手で横髪を耳にかけた。


 道路に出てみると、辺りはしんと静まり返っている。美奈が、自分の腕を抱えるようなしぐさをしたので、俺は、寒い? と聞いた。


 「うん、風が吹くと寒い。清太さん、私を風から守ってよ」 


 美奈は、少し身を屈めるようにして、俺の右後ろにぴたりと寄り添ってきて、うふふと笑った。俺は、そんなに風吹いてないだろ、と思いながらも、嬉しかった。


 「俺、ちゃんと風から守れてる?」


 「うーん。もうちょっとちゃんと守ってほしいかな~」


 「ええ? 贅沢だな」


 美奈が笑って、俺も笑った。


 空の三日月が、さっきより低い位置へと移動している。



 俺は、美奈ともっとくっつきたくなった。でも、こういうことに慣れていないせいで、どうしても思い切った行動がとれない。

 ぽん、と美奈の肩に軽くぶつかってみた。柔らかな感触が何とも言えず甘美だ。またその感触が味わいたくて、もう一度、ぽん、とぶつかった。すると美奈も、同じように、ぽん、とぶつかってきた。俺は嬉しくなって、またぽんと肩で押した。美奈は、今度はぐいっ、という感じで押し返してきた。顔を見ると、少し照れたような目を伏し目がちにして、笑っている。俺は急にいたずらっぽい気持ちになって、サッカーのドリブルで競り合うときのように、肩でぐいぐいと美奈を押した。美奈がちょっとちょっとぉ、と笑いながら両手で俺の肩を押し返した。


 多分美奈は、俺のことを好いている。

 俺は、すう、と息を吸い込んで、天を仰いだ。こういう色恋めいたことは、少なくとも大学を卒業するまでは無いだろうとあきらめかけていただけに、嬉しさもひとしおだった。胸腔に、ふるえるような感覚がある。


 俺は美奈の顔を見るとこみ上げてくる、胸がぎゅっとするような衝動的な感情を持て余していた。それは大まかに言えば「好き」という感情なのだが、それ以外にも、何と説明していいかわからないような、むやみに激しい感情も交じっている。


 ひょっとして、と思った。

 もしかして俺は今、一番の勝負どころを迎えているんじゃないのか。女とまともにつきあったことのない俺が、これから先、美奈と付き合う方向にうまくコトを運べるだろうか。それよりも、もしかしたら早急すぎるかもしれないが、今、この二人っきりのチャンスを利用して、何かアクションを起こすべきなんじゃないか。多分、あくまで多分だが、これはふつうなら、手をつなぐなり、抱きしめるなりしてもいい場面なんじゃないのか。


 (手を、つないでみようか……)


 左手をちょっと伸ばせば届く距離に、美奈の右手がある。でも、いざやってみようとすると、どうしても手が動かない。


 俺たちは、道幅のせまい裏通りを歩いた。道路に落ちたブロック塀の影が、くっきりと黒い。小さなお稲荷さんのわきに立った幟が、風でかすかに揺れている。


       ◆                   ◆


 コンビニで飲み物を買う間も、俺は手をつなぐことばかり考えて、どこか上の空だった。


 美奈がジュースを選んでいるので、何気なくガムの棚を見ると、中学一年生の頃はまっていた、マンゴスチン味のガムが置いてある。このガム、まだ売っていたのか。俺は懐かしい友達に会ったような気がして嬉しくなり、思わず購入した。


 コンビニを出て、早速ガムを口に入れた。ああ、こんな味だったなあ。まだ食べたことがないが、本物のマンゴスチンもこんな香りがするのだろうか。何とも言えずいい香りだ。昼休みにこっそり食べていた、校庭の風景を思い出す。

 美奈が、そのガム食べたことがない、と言うので一枚あげると、アッおいしいこれ、と目を見開いた。


 太宰治の小説に、女は甘いものを食べさせると機嫌が良くなる、みたいなことが書いてあったのを思い出す。美奈は別に機嫌が悪いわけではないが、いま、甘い味が口の中に広がったことで、多少なりとも気分がよくなったはずだ。今なら、急に手をつないでも大丈夫かもしれない。

 ……いや、関係ないか、そんなこと。



 左手の時計を見ると、三時を回っている。

 ふと、この時計をつけた左手が、美奈と手をつないだら、と考えた。多分、いやきっと、いい画になるだろう。そもそも俺は、この時計がきっかけでここにいるわけだ。この時計をつけた左手で手をつないで、もし何かまずいことになったとしても、ゼロがゼロに戻るだけじゃないか。美奈が三か月前に彼氏と別れたことは、さっき飲みながら聞いてる。じゃあ当たって砕けろ、だ。


 よし、と心を決めた。ここで手をつなぐくらいのことができなくては、これから先の人生だって知れたものだ。


 ぱっと手を握ると、美奈が一瞬、体をピクリとさせて俺を見た。俺は鼓動を抑えて、平然とした顔を作って前を向き、そのまま歩いた。


 

 美奈は、何も言わずに俺に手をあずけている。俺の意識は、すぐに全て美奈の柔らかな手に奪われてしまった。


 俺と美奈の足音が、いやに大きく聞こえる。

 うふっ、と美奈が笑って言った。


 「びっくりしちゃった」


 「あ、そう?」


 「うん。……清太さんの手、あったかいね」


 俺は美奈が受け入れてくれたので、ほっとした。しかし、手をつなぐことが、こんなに嬉しくて、こんなにどきどきするものとは知らなかった。


 時計をつけた左手が、美奈の手とつながっている。街灯はまるで舞台のスポットライトのようだ。俺の左手が、堂々として誇らしげに見える。なんだか、見てるこっちのほうまで堂々としてくる。


 俺は手をつないだまま、美奈のほうへ肩を寄せてみた。すると美奈は、胸を押し当てるようにして、体をくっつけてきた。美奈と密着する面積が広がるほど、俺の思考回路は狭まるのだろうか。頭がぼうっとする。さっき俺の心臓にかかっていた甘い蜜の量が1だとしたら、今度のは20くらいだ。



 お稲荷さんのところまで戻って来たとき、美奈が言った。


 「今日どうするの。ちゃんと帰れそう?」


 ん? と、俺は違和感を感じた。

 俺は普段、人の言葉を、その言葉通り受け取るほうだ。でも、今のは、何か深いメッセージが隠されているような気がする。手をつないでいると、電流が導線を流れるように、伝わるものがあるのだろうか。

 ……どうも美奈は、俺に帰ってほしくなさそうだ。そんな気がする。


 俺は今まで感じたことのないような感覚を味わっていた。テレパシーのように、意識が通じ合ってるとでも言えばいいのだろうか。俺がもうちょっとこうしてくっついていたい、と思っているなら、きっと美奈も同じように思っているに違いない、そういう確信があった。


 「俺、泊まるつもりなかったけどさ、何かもう帰りたくねえわ」


 「ふうん。そっか」


 美奈は、なんでもなさそうな顔をしているが、内心で喜んでいるのが俺には分かった。

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