第5話
まだ新しい、全体的に白っぽい色のマンションを指差して美奈が、あれです、と言った。
エントランスに入ると、『ハイツ・ミルキーウェイ』という文字が見えた。俺が、天の川か、とつぶやくと、美奈が、えっ、と言って俺の顔を見た。
「いや、ミルキーウェイって書いてあるからさ」
「ミルキーウェイって、天の川っていう意味なんですか?」
「うん」
「へええ! 知らなかった。英語得意なんですね」
「そうでもないけどね。たまたま知ってただけ」
「何かロマンチックですね」
「ちょっとやりすぎかなって感じがするけど」
「ふふふ。でもここ、新しくてきれいですよ」
このマンションは家賃高そうだな、と思いながら、エレベーターに乗る。
三階で降り、廊下を歩く。向こうにスーパーヨコヅナの背中が見えた。その向こうには細い月も見える。
美奈が303号室のドアを開けた。
「ただいまあ~」
美奈に続いて玄関に入ろうとすると、むわっと温かい空気が出てきた。家のにおいもするが、その中に、どこか甘い感じのにおいがある。
(へえ、女の部屋ってこんなニオイがするのか)
入ってみると、なるほどきれいなマンションだ。靴箱の上を見ると、ぬいぐるみとチューリップの形の小さな置物が置いてある。
長めの廊下を歩いて、奥の部屋へとむかう。美奈が明かり取りのガラスがはまった扉をガチャリと開け、部屋に入りながら言った。
「ふー、ただいまあ~」
すぐに中から二つの声が返ってくる。
「美奈ありがと~」
「おつかれ~。トッポギまだあった?」
「あったあった」
俺が部屋に入ると、友達二人が、広い部屋の真ん中のテーブルの向こう側から、あっこんばんはぁ、はじめまして~、と言って頭を下げた。当然だが俺の顔をじっと見ている。
きれいな部屋だな、と思いながら座ろうとしたら、美奈が笑いながら言った。
「ねえ、ユカは何で正座してるの?」
髪を結んで腕まくりしたほうの子が、はじけるように笑った。
「きゃはハハハ、ホントじゃん。何で? 姿勢良すぎでしょ」
ユカと呼ばれたほうが、おどけたように言った。
「え~だってちゃんとお迎えしようとおもったんじゃん」
友達は二人とも酔っている。
俺はあぐらをかいて、毛糸をぎゅっと集めたような柔らかな敷物を手でさわった。急に腹が減っていることを思い出した。
美奈が、二人の友達の名前を教えてくれた。
腕まくりして髪を結んだ子はエリナで、部屋の主はこの子だそうだ。声はハスキーがかっていて、気の強そうな感じの目つき。ゆったりした茶色っぽい服をきている。
ユカは、俺が美奈と連絡先を交換したときに一緒にいた子だ。髪が長く、若干ポチャッとしていて、愛想がいい感じだ。丈の短いズボンをはいていて、黒いタイツのむちっとした太ももが見えている。
美奈は、俺のことを、生物学科の三年生で、清太さん、と紹介した。
エリナが、じゃあ準備しようか、と言って立ち上がった。美奈がすぐ後に続いて立ち上がる。
俺は明るい部屋だなあと思って上の蛍光灯を見た。指先のコイン汚れが目立ちそうな気がして、テーブルの下の手をそっと握る。
「手、洗わせてもらっていいかな?」
ユカに洗面所の場所を教えてもらい、石鹸でたくさん泡をつけて洗った。すすぐと、黒ずんだ水が流れて、排水溝へ吸い込まれていった。
部屋に戻ると、ユカが言った。
「えらいですね」
「何が?」
「いや、ちゃんと食べる前に手を洗うんだなあと思って」
「ああ。いつもは洗わないよ。今日はパチスロした後で、手がすごく汚れてたから洗っただけ」
「ふふ。いつもは洗わないんですね」
「うん」
「うん、って。フフ。ダメじゃないですかァ」
などと話しているところへ、二人が戻ってくる。美奈はビールとコップ、エリナは鍋の具材をのせた大皿を持ってきた。
エリナが手際よく鍋の中に具材を並べながら言った。
「清太さん好きなだけ食べてくださいね。まだ肉も野菜も冷蔵庫にありますから」
「ありがとう」
暑くなりそうなので、上着を脱いで、ラグランTシャツ一枚になった。美奈が、何も言わずにその上着をハンガーにかけてくれる。
ユカが、俺の前にビールを置き、女たちのコップに氷を入れながら、ねえねえ、とりあえず乾杯しようよ、と言った。
エリナが鍋にふたをのせて言う。
「じゃあ美奈が乾杯言いなよ」
美奈は座りながら口をとがらすようにして、ええ、私ぃ、と言いながらグラスを持った。斜め下を見て、一瞬、言葉を探す顔になる。俺はぷしゅッとビールの缶を開けた。
「えっとぉ、、今日は清太さん急な誘いなのに来てくれてありがとうございます。みんなで楽しく飲みましょう。、、カンパイ」
かんぱーい、と、エリナとユカがはずむような声で言った。カツッ、キンッ、カチンと、グラスや缶ビールがテーブルの上で音をたてた。
何を隠そう俺はビールが大好きだ。すぐに、ごくごくと喉を鳴らして飲む。うまい。またごくごくと飲む。うまい。最初の半分くらいまでが特にうまいんだよな、と思いながらまた飲んで、くはぁー、と小さく息を吐いた。
ユカが、梅酒のソーダ割りが入ったグラスを口元に近づけたまま言った。
「すっごいおいしそうに飲みますね」
へえ、顔にでるもんなんだな。
「ビール好きなんだよね」
「ふうん。家でも飲むんですか?」
「飲むよ。1,2缶だけどね」
「何か、お酒強そうですね」
「どうだろ。まあふつうに飲めるよ」
「ああっ、 そういう言い方する人って大体強いんですよね~。……ねえねえ、美奈。エリナとどっちが強いかな?」
エリナは、ずり落ちてくる袖をたくしあげながら、絶対私負けるって~、と言って笑った。
美奈が、いやいやエリナも大概すごいからねえ~、と真顔で主張する。
と、その真顔が、特に頬のあたりが、部屋が暖かいせいか、さっきより赤くなったように見える。色が白いせいで、血流が肌の色に反映しやすいのだろう。俺は今まで、世間が色白をもてはやす風潮に共感できなかったが、なるほど、色白の肌じゃないと、このほんのり赤くなる感じは出ないだろうな。
エリナが、鍋のふたを少し開けて、菜箸で浮き上がっている具をつゆに押し込んだ。俺はもちろん美奈が一番好きなわけだが、こういう、エリナみたいな気の強そうな顔も結構タイプだ。体つきが健康的で、背も三人の中では一番高い。酒が強いというのもうなずける。
ユカが、清太さんサークルやってないんですか、と聞いた。俺はやってない、と答えた。
「パチスロばっかりですか?」
「ははっ。聞いたんだ。パチスロばっかり、だね」
「うちのサークルの先輩もやってる人いますよ。結構勝つみたいです」
「どんな奴?」
エリナが、奴だって、と言って小さな笑いが女たちに起こった。
「なんかひょろ長い人です」
「髪染めてる?」
「染めてます」
「ふうん」
「え? 分かったんですか?」
「いや全然。でも顔は会わせてるんだろうね」
心の中で、ふん、と思う。俺はここら一帯のパチスロ打ちは大体顔を見憶えている。大学生くらいの歳で、「パチスロ打ち」と呼べるクラスの人間は、ぎょろめとあと数人だ。その数人は俺よりも2,3歳年上で、おそらくもう大学を卒業したんだろう、今年に入って姿を見せていない。
「生物学科の三年なら、……あ、岩槻さん知ってます? 私、サークルが一緒で結構仲いいんですよ」
俺の脳裏に、レンズの細いメガネをかけた、関西なまりの男の顔が浮かぶ。
「ああ、しゃべったことはないけど、知ってる。……ちなみに、何のサークルなの?」
「バドミントンです」
「へえ、夏は体育館閉め切ってやるから暑いでしょ?」
「良く知ってますね~!」
エリナが、へえそうなんだ、何で、と言って、俺は少しほっとした。うまく話しの方向を変えることができたようだ。俺に「誰々を知ってるか」とか「誰と仲がいいか」とかいう類の質問をしたところで、話しの接ぎ穂が無くなるだけだ。
それから、俺の出身県の話や、その名物や方言の話、などで話が多方向へ発展していくうちに、鍋の具が煮えて、うまそうな匂いがしてきた。エリナがふたを開けると、湯気がもうもうと立ち上って、美奈とユカが、わあ、と言った。俺の喉が、思わずごくりと鳴る。
美奈が、俺におたまと器を渡してくれた。
「いいの? 俺から食べて」
「どうぞどうぞ。私たち、さっきいっぱい食べたから、もうトッポギくらいしか食べませんよ」
「そうなの? じゃあ俺これ、全部食っていいんだ?」
「うふふ。いいですよ~。まだ具ありますから、足りなくなったら言ってください」
「よっしゃ」
ユカがふふふふ、嬉しそう、と言って笑った。でも、こんなの誰だって嬉しいに決まってる。
俺は豚肉が固まっている辺りをごっそりと取って、上に白菜とねぎと糸こんにゃくをのせた。ふうふうと息を吹いてさますが、まだまだ熱そうだ。俺はもどかしくなって、ビールで口中を冷やしてから豚肉と白菜を口に入れた。うん、うまい! 実を言うと俺はキムチ鍋を食うのは初めてだ。こんなにうまいのか。舌が少しピリッとするようなコクがある。
俺がふうふう、むしゃむしゃやっていると、エリナが、おいしいですか、と聞いた。
「めちゃくちゃうめえ」
おたまでトッポギをすくおうとしていたユカリが、ふふふ、とまた笑った。
◆ ◆
俺は、食べる量が人一倍なら、食べる速さも人一倍だ。鍋の中身はどんどん減り、集中的に食べた豚肉があっという間になくなった。エリナが、すぐに追加の肉を持ってきてくれる。美奈が、大きなパックに入った薄切りの肉を菜箸で鍋に入れながら、どれくらい食べますか、と言った。
「それ、全部食っていいの?」
「全部ですか? 全然いいですけど、食べられますか?」
甘く見てもらっては困る。それくらいの肉なんか、食えるに決まってる。俺は、余裕で食える、と言った。エリナが、いいですねぇ食べますねえ、と言って、ユカが、たくさん食べる人っていいよね、と言った。美奈もうんうんわかる、と言っている。俺はたくさん食べて若い女が喜ぶとは知らなかった。これは好都合だ。
エリナが、鍋のアクをすくいながら言った。
「買いすぎたと思ったけど、よかったね。……でも清太さん、まだあと1パックありますから」
俺は顔を上げて、それも食っていい? と聞いた。ユカリが、うそほんとにぃ、と言って、エリナが笑って、美奈が目を丸くした。
なんだか面白くなってきた。こうなったらとことん食ってやれ。美奈が野菜も切りましょうか、と言ったので、俺は、ありがとうじゃあ白菜だけ切ってきて、と言った。
鍋の中でぎゅう詰めになった肉や白菜を、片っ端から胃袋へとおさめながら思った。ここに来るまではどういう話をすればいいのかと心配だったが、こうして輪に加わってみると、話題なんていくらでもあるものだ。別に大した話じゃなくても、次から次に話が話を呼んで、つながっていく。だいたい、女たちは酒を飲みながらしゃべるしゃべる。俺は時々水を向けられたときに答えれば、それでよかった。会話はすなわちこんな感じだ。
……清太さんは肉が好きなんですね。うん、好きだね。何の肉が好きですか? 焼き肉ならカルビとタンが好きだね、でも牛も豚も鳥も、全部好きだよ。男の人って肉好きだよねー。あーそうだよね。えー女もそうじゃない。いや、やっぱり男ほどじゃないって。エリナ肉好きだよね。そうだ、エリナ豚すっごい好きだよね。好きだよ、だっておいしいじゃん。私は鳥かな。鳥もいいね、から揚げとかいいよね。あー、から揚げわかるわかる。でも焼肉は牛が一番じゃない。そうだねぇ、焼き肉は牛だね。あっ、焼き肉で思い出したけど、矢先町交差点の牛魔王知ってる? 知ってる知ってる。おいしいらしいねあそこ。へえ行ってみたーい、清太さん行ったことあります? 行ったことない。あのお店イイですよ~。この間ミキちゃんたちと牛魔王行ったんだけどさぁ。あっそれミキちゃんの彼氏も来たときじゃない。そうそう、何で知ってるの。ユカこの前言ってたじゃん。あっそうだっけ、じゃあその時の話した? してないしてない、行くっていうのを聞いただけ。あっそうだっけ? ミキちゃんの彼氏ってどんな人なの? あの工学部の人でしょ。そうそう。えー美奈何で知ってるの。学食で一緒にいるの見たんだよね。あの彼氏束縛すごいらしくてさあ、焼き肉もそれでついてきたみたいなとこあったんだって。えーそれはないな。うそ意外、あの人そんな感じなんだ、今やってるドラマに出てた人に似てるよね、ええっと。え、何のドラマ。あの、浮気のヤツじゃない。何浮気のやつって。ほら、ほら、小西真奈実が出てるやつ。ああ、わかった、じゃあ塚本じゃない? そうそう塚本崇だ! うっそ~、そんなかっこいいの? さすがにあそこまではないけど、口元似てるよね。そうだね、あと髪型じゃない?……
とうとう、鍋の中の具が、ほとんどなくなった。俺はそこからうどんを一玉とちゃんぽん麺を一玉食べた。みんなが、あっけにとられた、という感じで俺を見た。美奈が、俺の体を眺めまわして、言った。
「清太さん、ほんとすごいですね。一体どこにそんなに入るんですか」
アルコールのせいだろうか、自分でも驚くほどよく入る。俺は腹を突き出して見せた。胃から下のあたりが、ぼっこりと盛り上がっている。美奈は、笑いながらその腹を手でぽんぽんと触った。
「すごいすごい、相当ふくらんでるぅ」
手のひらの感触が、やわらかな余韻となって腹の上に残る。ユカも、うそうそ、と言いながら横から身を乗り出してきて、撫でた。女に触られるのは、少し照れくさいが、何となく嬉しい。
「うっわ、すごいすごい。あはははは。ちょっと、エリナすごいよ、来て来て」
エリナは俺の対面に座っていたのだが、いたずらっぽい顔をして、どれどれ、と立ち上がった。エリナは、俺の横に来ると、ぐるりと腹をひと撫でして、うーん、五か月ですね、と言った。みんなが、わっと笑った。俺も笑った。
俺が三本目のビールを飲み終わったのを見て、美奈が、またビールでいいですか、と言った。俺は腹も膨らんだし、焼酎をもらうことにした。エリナが、私も焼酎飲もうっと、と言ったら、ユカが、あっじゃあ私もちょうだい、と言った。エリナが、美奈は、と聞いたら、美奈は、うん、じゃあこれがなくなったら一杯だけもらおっかな、と、自分のグラスを持ち上げて見せた。氷が解けて、梅酒の琥珀色がうすくなっている。
◆ ◆
しばらくまた女たちのおしゃべりが続いて、俺はその間に焼酎の水割りを三杯飲んだ。話題は、主にはユカリのバドミントンサークル内の出来事と、エリナの元彼の話だった。俺はときどき相槌を打ったり、笑ったり、どう思いますかと聞かれたときは、こう思うと無難に答えたりした。ユカのサークルでは先輩が三股をかけるし、エリナの元彼は二十八歳だし、内心驚きの連続だった。俺がパチスロばっかりやっている間に、周りの大学生はこんな風にいろいろな経験を積んでいるのかと思った。
ちゅっちゅっといい気分で四杯目の焼酎を飲んでいると、ユカリがねえ清太さん、と言った。酒がまわって目のあたりが赤くなっている。
「清太さんって、どういうタイプが好みなんですか?」
「どういうタイプ? うーん……。目は、黒目がちな目が好きかな」
「黒目がちぃ? えーっ、どんな目? あっ、芸能人で言ってみてよ」
「畑中れいな、とか」
エリナが、ああ~、あんな感じが好きなんだ、と言った。美奈は、へえ、という顔をしている。妙に照れくさい。
「えっ、じゃあ性格とかは?」
「性格、うーん……」
正直言って、俺はそんなこと考えたこともない。ふと、なぜか高校一年のとき同じクラスだった、長篠明加を思い出した。
「俺が高校のとき、長篠明加っていう子がクラスにいてさ。結構地味で大人しい人なんだけど、朝、靴箱とか廊下で会ったとき、おはようって挨拶してくるんだよね。普段はほとんど話さないんだけど。で、後からわかったんだけど、その長篠さんは、俺だけじゃなくて、クラスのどんな人にでも、そうやって挨拶してたみたいなんだよね。なんかそれが自然な感じでさ。……俺あんまり考えたことなかったけど、今こうやって思い出したってことは、そういう性格の人が好き、なのかな?」
「へえ~。おもしろーい。何か清太さんって、ちょっと変わってる?」
「どうだろ」
俺は酒のせいで饒舌になっていることを自覚した。
エリナが、テーブルに両肘をのせた姿勢で言った。
「清太さんって、今までどんな人と付き合ってきたんですか?」
ついにこの質問がきたか、と思う。焼酎を飲みながら、できるだけ平静を装って答えた。
「俺、今まで一人しかつきあったことないんだよね」
「えー、そうなんだ。意外。いつのとき? 長かったの?」
美奈が俺の顔をじっと見ている。
「高校一年のとき。すっげえ短かかった」
「じゃあ、大学に入ってからは付き合ってないんですか?」
「うん」
「ええ、もったいなーい。……ねえ美奈?」
美奈は、うんうん、と頷いて言った。
「うん、もったいない絶対。なんでですか?」
仕方がないから、笑ってごまかす。
「パチンコばっかりやりすぎた」
「もう。やりすぎなんですよ。青春は二度と返らないんだよ? フフフ」
美奈は冗談っぽく言ったのかもしれないが、俺の心にはチクリと刺さった。
俺だって、好きで青春を空費してきたわけじゃない。そりゃあパチスロは面白いが、ただそれだけの青春なんて、誰が望むもんか。一年半も学校に行かずパチスロばかり打って過ごしたのには、それなりのわけがある。人格が破綻ぎみになっていたのには、それなりのわけがあるんだ。……
俺は、自分のグラスにロックアイスを入れ、その上から焼酎を注ぎ足した。硬くて透明な岩肌が、ぬらぬらと光った。
◆ ◆
エリナに断ってから、ベランダでタバコを吸わせてもらうことにした。
外に出てみると、ひんやりとした夜気が心地よい。俺は静かな夜の街を見下ろして、酔った頭がぼんやりと思考にもならないような思考をめぐらすのに任せた。
メンソール味の煙が、ゆらゆらと広がっては風に消えてゆく。ときどき、車やバイクの走る音が小さく聞こえる以外は、しいんとしていて、心が落ち着いてゆく。たっぷりと時間をかけて、二本のタバコを吸った。
部屋に戻ると、ユカがソファにねそべっている。意識はわりとはっきりしているようだが、酔いがまわって、体を起こしているのがしんどいのだろう。クッションを抱きかかえて、そのタグを指でいじりながら美奈たちと話している。美奈が、清太さん、時間大丈夫ですか、と言った。時計を見ると、一時五十分だ。
「ああ、全然大丈夫。みんなは平気なの?」
ユカが、平気で―す、まだ飲みマースっ、と言った。エリナが、まだ飲みますじゃないでしょ、あんたそれ以上飲んだら絶対寝るって、と言った。そう言うエリナも、アイラインをくっきりと引いた目が、少し据わっているように見える。美奈が、さっきよりだいぶくつろいだ座り方で、足を横に投げ出している。丸いひざと形の良いふくらはぎに、思わず目が行ってしまう。美奈が言う。
「私もユカもここに泊まるから、平気です」
エリナが、一度ほどいた髪を束ね直しながら、清太さんも泊まっていいですよ、と言った。俺はあわてて、大丈夫そんな遠くないし、と言った。エリナがにやり、と笑って言った。
「もし清太さんが泊まるときは、私が美奈の純潔を守ります」
ユカが、ふははははは、と笑ってクッションをパタパタと叩き、美奈が、ちょっとやめてよもう、と言った。俺はそんな冗談に慣れていないから内心動揺したが、ははは、と笑って見せた。
急に、美奈の表情が艶めいて見えた。やめてよもうと言いながら、割とへっちゃらそうな顔をしていたところを見ると、処女ではないのだろうか。……まあ、そりゃそうだよな。
俺はグラスの焼酎を、水を飲むようにごくごくと飲み干した。エリナが、おっ、という顔をした。
「どうしたの清太さん、急に」
「いや、なんか喉が渇いたし、もうちょっと酔おうかなと思って」
「えー、どうしちゃったの? まさか本当にオオカミになっちゃったりして」
エリナは髪をはさむクリップで、ぱくぱくと噛む真似をして見せた。
「ちがうって。そんなんじゃねえから」
「あ、ちがうんだ。……でも美奈ってかわいいよね? 私が男なら絶対好きだもん」
ユカが、わかるわかる私も行くと思う、と言ってハハハと笑った。
俺はさらなる酔いが回ってくるのを待ったが、なかなか回ってこない。もちろん、さっきから酔ってはいるのだが、なかなかその酔いが奥深いところまでたどり着かない感じがする。また一杯、ごくごくと飲む。と、エリナがそれに応じるかのように一杯飲み干した。エリナはやはり、かなり酒はいける口だ。
美奈が俺のグラスに焼酎をついでくれた。氷はまだ足さなくていいよね、と言われたから、うん、と答えた。
俺は高校生の頃から酒を飲んでいるが、こんなに本格的に飲むのはずいぶん久しぶりだ。グラスをちびちびと口に運ぶ。
そろそろもっとずどんとした酔いがくるはずなんだがな。知らないうちに酒が強くなっている、なんてことがあるんだろうか。
ちらりと左手の時計を見て、考えた。飯の量が増え、酒量が増えたのは、この時計のせいなのだろうか。だとしたら、一体どういう作用の仕方をしているんだろう。……感情、だろうか。時計をつけていることが嬉しい、美奈に好意めいたものを寄せられたことが嬉しい、その感情が体をエネルギッシュにしているんじゃないか? ストレスで胃に穴が空くと聞いたことがあるが、精神状態が消化器官に作用するというのは、十分考えられる。……うん、多分そうだ。
焼酎を飲み進めているうちに、気づけばユカが眠っている。エリナが、毛布をもってきてそっとかけてやる。俺はユカの腰回りや足が見えなくなってしまったので、内心がっかりした。
◆ ◆
エリナが、パチスロの話題を振ってきた。
「清太さん、今日勝ったんですよね? いくら勝ったんですか」
「一万二千」
「えー、うっそーすっごおい。いいなあ~。何かおごってくださいよぉ」
「うん。……あっ、そういや、俺今日金払ってないけどいいのかな」
「いやいやいや。いいんですって、今日は。私らが誘ったんですから。……でも今度みんなで焼き肉食べ行きたいなぁ~、なんて。あははははは」
俺は思いっきり飲み食いさせてもらったわけだしと思って、全然いいよ、と答えた。エリナがやったぁ、いいんだって、と言って美奈を見た。
「でもすごいね。だって一日で一万二千でしょ」
「一日じゃなくて、半日かな。夕方から打ったから」
「えー、いつもそんなに勝ってるの?」
「一万二千は、全然珍しくないよ。五万とかはまあまああるし、十万もたまーにある。もちろん負けることもあるけど、まあバイトしなくていいくらいには稼げてるよ」
「すごおい。いいなあぁ~」
「でも、別に楽して勝ってるって感じでもないんだよね。時間なんか、めちゃくちゃ使うからね。前日に下見に行ったり、朝早くから並んだり、良い台つかめたらつかめたで、飯も抜きで12時間以上打ちっぱなしだからね」
「ええええ。気合入りすぎでしょ」
美奈も笑った。
「うん。でもそれくらいやらないと、勝ち続けるのって難しいんだよね。常に新機種のデータ勉強したり、いくつかの店の状況を把握してないといけないし。……学校行かないでなにやってんだって話だけどさ」
「あはははは。ほんと、パチプロだね、清太さんは」
「うーん。でも金を得た代わりに、一年半学校から遠ざかってたからね。俺、まだ単位五十一しかないからさ」
「えー!? 少なっ」
「うん。俺二留まで覚悟してるから」
「でも五十一あるなら、一留でいけるんじゃない?」
「うん、まあそれを目指して今は学校に通ってるんだけどね」
「大丈夫ですって~。パチンコそれだけできるなら、単位なんて楽勝ですよ」
「うーん。……パチスロの大学があったら、俺多分首席で卒業できるんだけどねー」
「ハハハハハ。そうだ、あったらいいのにね。パチスロ学総論とか」
「そうそう。俺、絶対『優』取る自信あるわ」
美奈もエリナも笑った。
身を乗り出すような姿勢で聞いていた美奈が、一日で最高いくら勝ったことがあるの、と言った。さっきよりずいぶん距離が近くなっている。おれはすらりと長い美奈の指を見た。
「最高は十七万かな」
「えええええッ! 一日で!? うっそぉ……」
「あっでも、俺は堅実な台を打つことが多いから、それでも少ないほうだよ。ギャンブル性の高い台は二十五万とか下手すりゃ三十万以上、一日で出るから」
美奈がはあ、と口を開けた。俺すこしだけ得意な気持ちになって、焼酎をごくりごくりと飲んだ。
エリナの話し方が少しおかしいな、とは思っていたが、実はかなり酔っぱらっていたようだ。立ち上がって歩くと、足元がよたよたとしている。俺は、ははははと声を出して笑った。酒に酔っていると、それだけのことがすごく面白い。さっきより酔いが深まったのだろう。美奈が笑いながら、ちょっとエリナ大丈夫、と言った。
「どこ行くの、トイレ?」
エリナは目を一度ぎゅっとつむってから開き、布団とってくる、と言った。美奈が立ち上がり、エリナについていく。このマンションは、リビングとは別に寝室がある。そこから、美奈が敷布団を、エリナが毛布を持って戻ってきた。
エリナは髪をほどくと、ふわあああ、と猫のような顔をして言いながら、布団をかぶった。そして、すぐにくるりとうつぶせになって、クッションに両肘をついて、俺たちのほうを向いた。
「私、もうそろそろ危ないかも」
美奈が、うん見ればわかると言って、んふふふと笑った。
「美奈、寝るときはベッドに寝なよ。……清太さんも、泊まっていいですから。酔って自転車で帰ったら危ないですよ」
俺は、あーうん、と言って、考えた。ずっと帰るつもりでいたが、泊まるのもありなんだろうか。こんな状況初めてだから、よくわからない。でもとにかく、もう少し美奈と一緒にいたいことは確かだ。
とりあえず、また一口、焼酎を飲む。美奈が、少しとろりとした目で、俺をじっと見た。酒の酔いと恋の酔いが混ざって、何とも言えない陶酔が胸に来る。
「清太さん酔ってる?」
「結構、結構酔ってるよ。十段階の八は確実にきてる」
「八かあ。でも全然顔の色変わらないね」
「ああ、俺色は全然変わらないんだよね。でもさっきより笑うようになってない?」
「ああ、確かにそうかも。……私も結構、酔っちゃいました」
「そう?」
「うん。ねえ清太さん、ジュース飲みたくない?」
俺は、ジュース?、とおうむ返しに聞き返す。自分が酔いを醒ましたいのは分かるが、なぜ俺に聞くんだろう。
「うん、私ジュース飲みたい。買いにいきません?」
何でも言うことを聞いてしまいそうになるような、そんなかわいらしい笑顔で、美奈が俺を見た。
美奈は、抱えた枕にあごをのせているエリナに言った。
「エリナも、一回お茶かジュース飲んだら? 何がいい? 買ってくるよ」
「そうだね。じゃあ私『はちみつリモーネ』買ってきて」
「オッケー。じゃあちょっと待ってて。コンビニ行ってくるね。……行こ、清太さん」
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