第3話

 水曜日の二限目。A301という大講義室へ入ると、席は三分の一ほどが埋まっている。俺は、後ろから二番目の、窓際の席を取った。


 窓の外では、ちぎれたような雲が青空に散らばっている。

 

 周りからとぎれとぎれに聞こえてくるおしゃべりを、聞いていないふりをして、聞く。

 

 「……八回裏のピッチャー交代が……代打で垣内が……」

 

 「……の番組で……女って、左側から話しかけると右脳に作用するから……」

 

 「……バイト代……二十円上がって……今月のシフト見たら……」

 

 本当は、あんな風に友達と話をしていれば、二十分間の休み時間なんて、長いようで、あっという間にすぎるのだ。



 学生たちがやってきて、どんどん席が埋まってゆく。と、入り口を見ると、例のあの子が友達と二人で入って来るのが見えた。

 

 (そうか。二年生の専門講義だから、あの子も一緒なんだ)

 

 俺はすぐに気づかないふりをして、顔を窓の外へ向ける。どうせ目が合ったって、やあという顔をしたり、笑顔を見せたりなんてできないからだ。もちろん、本当はそうした方がいいのは分かっているし、そうしたいのだが……。

 万全を期して、体ごと横に向けて、窓の外を見るふりを続ける。

 

 「こんにちは」


 見ると、例の子が友達と一緒に立っている。驚いたことに、俺のところへ、わざわざ近づいてきたようだ。俺は、こんにちは、とすぐに返したが、声にも顔にも、一ミリの笑顔すら作ることはできなかった。せっかく挨拶してくれているのに、自分で自分が嫌になる。もう癖として体に染みついてしまっているのだ。


 「何見てたんですか?」


 「雲と空」


 例の子とその友達は、同時に窓の外を見た。そして顔を見合わせてくすくすと笑った。

 

 「何で雲と空見てたんですか」


 「雲と空が好きなんだよね」

 

 「ふふふ。詩人みたいですね」

  

 二人はそのまま俺の目の前の席に座った。俺は気を静めるために、指の関節を一回パキッと鳴らした。

 

 例の子が振り返って、俺の目を見た。

 

 「名前、何ていうんですか?」


 「はっ? 何の名前?」

 

 顔にばかり気を取られたせいか、とっさに何のことかわからない。


 「私は、美奈です。藤川美奈です」


 「俺、木花」


 「木に花ですか? いい名前ですね」


 「そうでもないよ」


 「ふふ。下は何ていうんですか」


 「清太」


 「どんな字ですか」


 「清らかに、太い」


 「木花清太さんですね。覚えました。私の名前も憶えてくださいね。美奈ですから」


 「うん」


 もっと気の利いた返しがありそうなものだが、うん、としか言えなかった。髪の長い友達のほうも、いつの間にか振りかえって俺のほうを見ている。

 

 美奈が、清太さん、と言った。

 

 「ん?」


 「清太さんは三年生、ですよね?」


 「うん。まあ一応」


 「彼女いるんですか?」


 「はっ? ……いないけど」


 「えー、ほんとですか」


 俺は少しムッとした。そんな嘘つくわけないだろ。

 

 「ほんとだけど」


 「じゃあ、もしよかったら連絡先とか聞いても大丈夫ですか」


 美奈は、少し首を傾げるようにして俺の顔を見た。

 こんなことってあるんだろうか。でも表情からして、冗談で言っているわけではなさそうだ。

 

 「いいよ」


 髪の長い友達が、美奈を見て、良かったね、というような顔をした。

        

 

   ◆                 ◆



 16時10分。四限目の講義が終わる時間だ。チャイムが鳴るのを待ち構えていた俺は、一番先に講義室を出ると、自転車置き場へ直行した。


 藤川美奈、藤川美奈、藤川美奈。つぶやきながら、自転車をこぐ。街路樹のクスノキの葉が日光を反射して光っている。高く澄んだ空も、程よい冷たさで吹く風も、心を洗うようにさわやかだ。

 弁当屋の角を曲がり、三十メートルほどの急な上り坂へ来た。いつもはやれやれと思いながら上ることが多いが、今日は立ちこぎで思いっきりスピードを上げて、一気に上った。

 アパートのそばまで来たが、そのまま帰らずに、ちょっと回り道をしようと思いつく。この風や、秋晴れを、もっと味わいたいし、美奈のこともゆっくりと考えたい。

 アパートへと向かう道をはずれて、ゆるゆると自転車で走った。



 住宅街の小さな公園に自転車を止めた。ベンチに腰を下ろして、ガムをかんだ。ミントの冷たさで胸がすうっとする。目の前で、落ち葉が渦巻き型の軌道で舞った。


 勝負所だな、と思った。

 今、俺は美奈というチャンスのしっぽをつかんでいる。こういう類のチャンスは、もう大学生活では二度と来ないと思っていた。何が何でもモノにしなければ。やってやる。冷静に状況を判断しながら、できる限りの手を尽くそう。


 と、だしぬけにメール受信音が鳴った。

 あわててケイタイをポケットから取り出す。自慢じゃないが、俺のケイタイは滅多に鳴らない。これは美奈に違いない。


 「おい!」


 思わず声が出てしまった。このタイミングで迷惑メールとは。何が「一万円払いますから、私とセックスしてください」だ。俺は苦笑いして、ケイタイをベンチの肘掛に置き、ぷっ、とガムを吐いて飛ばした。



 しばらくぼうっとしていると、ベビーカーを押す若い母親と、二歳くらいの女の子が公園へやってきた。子どもは何の遊具もないのに、公園にきたのが嬉しくてたまらないようだ。トコトコと走り回っている。母親は俺が座っているベンチの隣のベンチに座り、ベビーカーの赤ん坊をあやしながら水筒のお茶を飲んだ。つば広の帽子をかぶった、やさしそうな人だ。


 子供が小枝を拾ったり、草花を摘んだりして遊び始めた。ときどき、ハイ、と言って、母親にその収穫物を渡しにいく。母親はいちいち、わあ、すごいねえ、とか、きれいだねえ、とか言ってほめた。


 そのうち、子供は俺のところへやって来て、ハイ、とちびた鉛筆ぐらいな小枝を差し出した。ありがとう、と言って受け取ると、母親が、すみませ~ん、と言って向こうで頭を下げた。

 子供が、俺の手元をじっと見ている。どうも時計を見ているようだ。左手を差し出してみると、小さな手がぺたぺたと時計を触った。不思議だ。この時計は人を引き寄せる力でもあるのだろうか。



    ◆                   ◆

 


 夜、東林軒の赤い暖簾をくぐる。この中華屋は、店は狭くて古いが、料理が最高だ。安くて量も多いし、味もすこぶるうまい。

 早速カウンター席に陣取って、チャーシューメンの大盛りとチャーハンの大盛りを注文した。俺は体はあまり大きくないが、食べる量は人一倍だ。


 運ばれてきた料理に、さっそく食らいつく。外食ばかりしている俺は、がっつきながらも漫画を読むという芸当を身につけている。麻雀漫画を読みながら、まずはラーメンを重点的にふうふうずるずると攻める。うん、今日も強烈にうまい。


 あっという間に食べ終わって、ふと妙なことに気づく。まだ、頑張ればラーメン一杯くらいは食えそうなのだ。この注文の組み合わせなら、苦しいくらいに腹一杯になるのが常なのだが……。

 そういえば、ここ数日、妙に腹が減る。昨日だってそうだ。夕食はしっかり食べたのに、深夜、なぜか腹が減って、大盛りのカップ焼きそばを食べた。


 コップの水を一気に飲み干して、サッ、と袖口から左手を伸ばし、腕の時計を見た。八時だ。使ってみるとわかるが、腕時計というのはなかなか便利なものだ。

 この時計のせいだろうか、と文字盤を見ながらふと思った。この時計は、美奈と俺をつなげるきっかけになり、見ず知らずの子どもを引き寄せた。腹が減るのも、この時計が俺の体に何らかの影響を及ぼしたせいなのかもしれない……いやいや、まさかな。

 俺は、じいさんの、「この時計をつければ女にもてる」という言葉を思い出した。あれはどういう意味だったんだろう。メーカー名やロゴは見当たらないが、そんなにいい時計なのだろうか。ためしに耳をあててみたが、秒針がないせいか、何の音も聞こえない。

 

 店を出て自転車にまたがったら、星が出ている。

 ティローン、と、ポケットの中のケイタイが鳴った。メールだ。心の準備をしてから、麻雀の牌をツモるようにして画面を見ると、今度こそ美奈だ。      

 

 「こんばんは。美奈です。早速メールしちゃいました。今日は突然話しかけて、すみません。迷惑じゃなかったですか??」


 俺は少し考えて、


 「少し驚いたけど、全然迷惑じゃないよ」


 と返した。これだけの文章に、時間を食ってしまった。一応見直してから送信すると、すぐに返信が来る。


 「よかったです~。何か気分を害したんじゃないかと不安になってて」


 「なんで? 俺、目つきが悪くてよく誤解されるけど、別に怒ってるわけじゃないから」


 「目つき悪くないですよ! クールで男らしいじゃないですか。時計もステキです」  


 「俺もらい物だから分からないんだけど、あれって何かブランド物なの?」


 「すみません。私も全然わかりません。でもなんか、レトロな感じがおしゃれだなあ~っと思って」


 俺は本当はメールでちまちまやり取りするより、手っ取り早く電話したいタチなのだが、メールも、久しぶりにやってみると、なんだか新鮮で面白い。俺の場合、ケイタイは、電話やメールという主機能はあまり活用せず、もっぱら、パチスロ関連のデータ管理や、目覚ましや、天気予報や、時計という副機能のほうを使ってきたのだ。

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