第2話

 俺の目覚ましはケイタイのアラームだ。スヌーズ機能を使って、三分おきに起きてはまた寝て、だらだらと未練がましく寝続ける。これ以上寝たら遅刻するというギリギリのところまで必ず寝てしまうのだ。


 寝たりない目を薄く開けて、ベッドから出る。トイレに行って、服を着替えて、鏡を見た。よし、寝癖も大したことないし、目やにもついてない。俺は朝は飯を食うどころか、顔も洗わないし、歯も磨かない。

 ケイタイをポケットに入れようとして、時計に気が付いた。そうだそうだ、今日は時計があるんだった。


 自転車をこいで学校へ向かううちに、だんだん目が覚めてくる。ハンドルを持つ左手に、時計がはまっている。


 (うん、やっぱり渋い)

 

 ペダルをこぐ足に力が入る。


     ◆                ◆


 駐輪場に自転車を置いて、講義棟へと向かう。歩きながら見ると、時計のついた左手がカバンを抱えているのが、妙に大人っぽい。自分に酔っているのか、時計に酔っているのか、おそらくその両方なのだろうが、ドラマの主人公になったような気分だ。


 俺は単位をかなり落としているので、一つもしくは二つ下の学年と一緒に講義を受けることが多い。再履修、いわゆる「サイリ」というやつだ。月曜日の今日は、一限目からこのサイリで始まる。

 講義室に入ると、一番後ろの左端の席が空いていたので、迷わずそこへ座る。いつもできる限り後ろのほう、端っこのほうに陣取るようにしているのだ。特に今日のような学科専門科目のサイリでは、できるだけ目立ちたくない。何しろ、六十数人の講義で、サイリなのは二人か三人。俺一人だけなんてこともままあるのだ。きまりが悪いったらない。



 村川という、五十代半ばくらいの教授がやってきて、講義が始まった。

 村川は、顔つきといい、長い手足といい、カマキリそっくりだ。サイズ選びに難があるのか、そういう好みなのか、いつもぶかぶかしたブレザーを着ている。

 俺は子供の頃、カマキリを見つけると捕まえて遊んでいたが、相手がカマキリ先生ではそういうわけにはいかない。黙ってお話を拝聴する。



 ノートを取ろうと思って手元に目をやると、時計のついた左手が、賢い人の手に見える。

 その左手で消しゴムを使ったりシャーペンを握ってみたり、一人悦に入っていると、右側から視線を感じた。見ると、四人分の間を空けて隣に座っていた女子学生が、こっちを見ている。黒目がちな目と、さらりとしたきれいな肌が目に入る。目が合うと、その女子学生はまた前を向いた。


(なんだ? 俺、無意識のうちに時計見てニヤニヤしてしまったかな)


 女子学生は、以前からかわいいと思っていた子だったから、気にかかる。 

 少し時間を空けて、こっそり横顔を盗み見ようとしたら、また目が合った。今度はさっきよりも目が合っている時間が長い。何だろうと思ったら、その子はあわてたように、小さく頭を下げて、にこりと笑った。


 はっきり言って、俺は目つきが悪い。決して親しみやすいオーラは出ていないと思う。なのに、なぜあんなふうに接してきたのだろう。まあきっと、何となく見ていたら目が合って、それで気まずくなって会釈したんだろう。


     ◆                   ◆   


 カマキリ先生が、今日はここまで、と言ったので、机の上の筆記具類を片付ける。がやがやと、一気に室内が騒がしくなっていく。


 「あの~。…………あの~……。」


 学校で久しく誰とも話していない俺は、最初、まさかそれが自分に向けられた言葉だとは気付かなかった。三回目のあの~、でようやく気付いた。右を見ると、さっきの女子学生が、こっちに身を乗り出すようにしている。俺は呼びかけられることなど滅多にないから、ぎょっとしてしまった。


 「あの、靴ひもほどけてますよ」


 見ると、確かにほどけてる。


 「ああ、ありがとう」


 結び直したが、その女子学生はまだこっちを見ている。


 「ん? まだ何かある?」


 「時計、おしゃれですね」


 「ああ、これ。もらい物なんだけどね」


 「ちょっと見せてもらってもいいですか?」


 内心驚きながら、うん、と言って、左手を突き出す。

 その子はそばによって来て、時計をじっと見た。急に鼓動が速くなる。


 「わー……」


 ため息のような、小さな声を出して、その子は両手で口元を抑えた。心なしか、目がうるんでいるように見える。アップで見ても、その子の肌は一点の曇りもないほどにきれいだ。形よく整った眉が、茶色がかっている。


 「いいですね~」


 そう言って、その子は俺の顔を見た。気のせいだろうか、目に少し媚びるような、甘えるようなニュアンスがある。中学生の頃、俺を好きだった寺尾澄子がこんな目つきをしていたのを思い出す。

 俺は、時計好きなの、と聞いてみた。


 「時計って言うか、ファッションが好きなんです。こういう、レトロっぽいものってイイですよね。私の好きなモデルも古い時計つけてたことがあって、いいなぁって思ってて」 


 「へえ。……いる?」


 「え?」


 「いや、この時計、いる?」


 「いやいやいやいや!」


 その子は顔の前で両手を激しく振った。


 「どうせもらい物だしさ。欲しければあげるけど」


 気に入っていた時計だが、なぜか急に、この子にならあげてもいいかな、と思ったのだ。 

 

 「だめですダメです! それ、男がつけるからかっこいいんですよ」


 「そうかな。女がつけても変じゃないように思うけど」


 「いやいやいや。つけててください。絶対、絶対、男の人がつけた方がかっこいいですから」


 時計がほめられたのに、自分がほめられたような感じがして思わず黙ってしまう。やや間があって、その子が言った。


 「それ、大事にした方がいいですよ。すっごく似合ってますもん」


 俺は、んん、と曖昧な返事をした。何と答えていいかわからないし、この近距離だと笑顔が眩しすぎる。仕方がないので、話しを切り上げることにした。


 「靴ひも、ありがとう」


 「ハイ。こちらこそ、時計近くで見せてもらえて嬉しかったです」


 俺はカバンをつかむと、振りかえらずに講義室を出た。本当はまたあの子の顔が見たかったが、どういう顔で、どういう挨拶をすればいいかがわからなかった。

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