秒針は璆鏘の音で鳴る
木原清武
第1話
一枚のコインが手からすべり落ちて、椅子の下に転がった。拾い上げようと身を屈めると、視界の端を若い女店員のふくらはぎが歩み去ってゆく。このパチンコ店『グランドカジノ』の制服は短めのスカートだからどうしても目が行ってしまう。
メイン通路の少し手前で彼女は振り返った。楽しそうにインカムで話す口元の歯が白い。
と、ずらりと並んだパチスロ台から出ている雑多な音が、すうっと遠ざかっていくような錯覚が俺を捉えた。胸がつん、として息苦しい。
「クソッ……」
小さな呟きが、無意識に発せられた。俺は不如意な現実を冷静に受け止める術を身につけたつもりだったが、ここ最近、また以前のように消そうにも消せない感情がせり上がってくる。この感情を表現するのに適当な言葉が見当たらないが、憧憬と哀切を5:3で混ぜたような、と言えば近いだろうか。
手に入る距離にあって手に入らないものを見るとき、俺の心は乱れる。心が乱れれば、ぐっと耐える。しかし、これを繰り返しているうちに、真に冷静な人間になれるだろうか。もし仮になれたとして、果たしてそれは正しい処世法なのだろうか。単に心の乾ききったすれっからしの人間になってしまうのと同義ではないのだろうか。
……迷いはあるが、俺は真の冷静さを得ることで、世の中と対峙しようと考えている。
握った手のひらに、コインが金属質の硬さで食い込んだ。
(こういうときこそパチスロは、焦らず、腐らず、冷静に、だ……)
ぐるりと改めてシマを見渡す。
今日のようなイベント開催日は特にそうなのだが、この店は2台並びで高設定を入れる傾向がある。そのパターンなのか、どうも822番台と823番台が当たりくさい。823をデキる常連『ヤンキースキャップ』が粘っているのも嫌な感じだ。
俺が朝から打っている820番台はと言えば、昼過ぎまではわりと好調だったものの、後はジリ貧の展開で、下皿には50枚ほどのコインしか残っていない。ただ、少なくとも低設定ではないから、もう一万円の投資を目途にすれば粘り勝ちは十分あり得る。
(いや、堅くいこう。ましてや今は冷静さを欠きかねない瀬戸際だ。これが全部飲まれたらヤメだ)
それでもやはり、細くため息が出た。レバーを叩き、ポケットからパチスロ用の手帳を取り出す。必要事項を書き込みつつ、投資額を改めて確認する。本日の収支、マイナス一万九千円也。
店を出ると、騒音から解放された耳が、きいん、と鳴った。日は傾いて、秋の風が思いのほか冷たい。
ふと見ると、駐車場の方から「ギョロ目」が歩いてくる。俺と同じ大学に通うパチスロ打ちだ。俺は下を向いて、ふっ、と口の端で笑った。
大学周辺からこのグランドカジノまでやってくるためには、電車で二十分もかかる。ギョロ目は慎重派だから、今日はとりあえず最近始まった新イベントの出玉状況を確認しにきたんだろう。そしていつものように優秀台をハイエナするために粘っこく10時くらいまでは居座るんだろう。
と、突発的な感傷が俺を襲った。一言も口をきいたことのないギョロ目と、肩を叩いて打ち解けたくなるような、そんな感傷だった。
(お前も、俺と同ンなじだ……)
いつも一人でパチスロばかり打っている俺たち。友達や彼女やサークルや、そんなものとは縁のない、キャンパスライフのはみ出し者の俺たち。だけど、なァ、ギョロ目。俺たち、確率やパチンコ屋に翻弄されながらも、何とかしのいでるんだよな。少なくとも、パチスロという世界では、勝ってるんだよな……
「せいぜい頑張れよ」
口の中でつぶやいて、歩きだそうとした、そのときだった。俺は心臓のあたりをピアノ線で縛られたような気がした。ギョロ目のそばに、若い女がいる。短めのスカートにかかとの高いブーツをはいていて茶髪、という、今どき風の女だ。女は歩きながらいかにも親しそうにギョロ目に腕を絡め、二人はそのまま店の中へと入って行った。
(あいつ、彼女できたんだ……)
味のなくなったガムを吐き捨てようとしたが、ぷっ、と飛ばす力すら出なかった。ガムは、ぽとりと足元のアスファルトに落ちた。
◆ ◆
ポケットに手を突っ込み、店を離れる。パチスロの収支という点で言えば、ギョロ目なんか俺の相手ではない。でも、それが何だっていうのだ。向こうは大学も留年しない程度には通っているようだし、教養教育棟で見かけたときに後をつけてわかったことだが、友達も全くいないというわけじゃない。そして何より、今分かったが、あいつには彼女までいる。
一歩一歩踏み出す足に、うまく力が入らない。一瞬、思考が止まって、目の奥のほうから涙が滲んできそうな気配を感じたので、慌ててツッ、と舌打ちして頭を振った。
(いいんだ、俺は。人は人、俺は俺じゃないか……)
コインパーキング場内に設置された自販機が目に留まった。あたたかいコーヒーでも買うかと思って財布を開けてみると、小銭がない。千円札を投入し、嫌な予感がすると思ったら、やっぱりだ。読み取りエラーで戻ってくる。舌打ちして再投入すると、また戻ってきた。頼むよ、コーヒーくらい飲ませてくれ、としわを伸ばし、ゆっくりと投入するが、またダメ。歯をギリリと噛んで、今度は裏返して投入した。にゅいーん、と、あざ笑うかのように千円札が出て、自販機をぶん殴ろうと拳を握った瞬間、青年、と声がした。
「青年」
見ると、横にやせたじいさんが立っている。古ぼけたソフト帽と、よれよれの格子柄のジャケットといういでたちだ。顔にはしわが多く、目に力があって、画家のような、ホームレスのような、何とも異様な雰囲気だ。
じいさんは、黙って手を差し出してきた。俺が怪訝な顔で固まっていると、貸してみろ、というように手を動かす。千円札を受け取ると、じいさんはそれを夕日にすかすようにしてじっと眺めた。
「思い通りにいかないことだらけだなァ」
つぶやくような言い方だったが、心の中を見透かされたような気がしてドキリとする。
「この千円札をな、こうやって丸めていくとな……」
じいさんのしわだらけの手が、ゆっくりと千円札を覆った。と、次の瞬間、ぱっと手を広げると、千円札は消えてしまった。
思わず、えっ、とつぶやいてじいさんの顔を見る。
「はっはっはっ」
じいさんは歯の抜けた口を開けてさもおかしそうに笑ったが、俺はムッとして笑わなかった。
「返してくださいよ」
じいさんは、にやりと笑った。
「自分の上着のポケット、調べてごらん」
おいおい、ウソだろ。こういう手品はよくテレビでみるけど、このじいさんは少なくとも俺の体に一回もふれていないぞ、とおそるおそる両手をポケットにつっこむと、右手にかさりとした感触が伝わってきた。
「は!?」
思わず声が出た。じいさんが得意げな顔で頷いたので、ポケットの中身を取り出してみると、一万円札だ。
「これ一万じゃないですか」
じいさんは、良かったな、と言った。そして、ジャケットの懐から小ぶりのがま口を取り出して小銭をチャリチャリと自販機に入れ始めた。
「ホットコーヒーでいいかい?」
じいさんはコーヒーを二本買い、一本を俺によこした。
受け取った缶の熱さではっと我に返り、もう一度よく一万円札を確かめたが、どう見ても本物だ。
俺はうまそうにコーヒーをすするじいさんをまじまじと見た。この人は一体何者なんだろう。ド理系人間の俺が、もしかして魔法なんじゃないかと疑うくらい見事な手品だ。いつの間に俺のポケットに一万円札を入れたのか、全く見当がつかない。
試しに、すごい手品ですね、と言ってみる。
「ははは。驚いたかい」
なんだ、やっぱり手品か。
「どうやったんですか?」
「さあなあ。タネも仕掛けもありません~、ってな」
「これ本当にもらっていいんですか」
「いいさ。だってそれ、自分のポケットに入ってたやつだろう?」
「でも俺、ポケットに裸で金入れることなんてないし、……」
じいさんは俺の言葉を遮るように、コインパーキング隣の設計事務所の植え込みを指差して、座ろう、と言った。植え込みのふちは幅が広く、腰かけてみると、ちょうど良い高さだ。
「もう秋も終わりそうだなあ」
しみじみ、という感じでじいさんが言った。俺は、はあ、と言って次の言葉を待ったが、じいさんはそのまま黙ってコーヒーを飲むだけだった。横から顔を見ると、白髪の多い眉の長さが一層際立って、まるで仙人のようだ。
コーヒーを飲みながら、さっきの手品について考えてみる。じいさんの手の中で千円札が消え、俺のポケットに移動し、しかも一万円札になったわけだが、それはあくまでストーリーだ。千円札を消す手品と、一万円を気づかれないように人のポケットに入れる手品が組み合わさっているのは間違いない。しかし、いつどうやって一万を仕込んだんだろう。ついさっきまで、確かにポケットは空だったはずだ。
……いや、それより何より、このじいさんはどんな意図があって金をくれるんだろう。
と、じいさんが、俺のコーヒーを持つ左手を見て、あれっ、というような顔をこっちに向けて言った。
「腕時計はつけないのかい?」
「ケイタイで時間わかりますから」
「あんたは学生かね? だったら時計ぐらいつけとかないとサマにならんだろう」
「そうでもないですよ」
じいさんは自分のつけていた時計を外すと、ほらっ、というように差し出した。
「渋い時計ですね」
お世辞ではない。古いが、でもかえってそれがアンティークっぽくてかっこいい。
「いいだろう? これ、お前さんにあげるよ」
「え? 何でですか」
するとじいさんは半ば強引に時計をおしつけてきた。
「ほら。この時計つけてると、女にもてるぞ~」
「高いやつなんですか」
「そんなことはどうだっていいんだよ」
「はあ。でも何で見ず知らずの人間に金や時計を渡すんですか?」
「人がくれるって言うものは素直にもらうものさ。いらなかったら後で捨てッちまえばいい」
じいさんに促されるまま、左手に時計をはめてみると、自分で言うのもなんだが、なかなか似合う。
青年、と穏やかな声でじいさんが言った。目が、真っ直ぐに俺を見ている。
「人生、いいことばかりじゃない。だけど、かと言って悪いことばかりでもない。そういうものさ」
と、じいさんは一つ頷いて見せたかと思うと、すっと立ち上がって歩き出した。何か言おうと思うのだが、タイミングを逸したせいか言葉が出てこない。胸にズンと来ているせいか、立ち上がることもできない。そのまま、ぼんやりとじいさんの背中が意外な速さで遠ざかっていくのを見送った。
◆ ◆
歩きながら、左手の時計を何度も眺める。ベルトの皮は真っ黒で、文字盤は白、金具は銀色という、ごくありふれた配色なのだが、全体のバランスといい、デザインといい、古さといい、何もかもが絶妙だ。さっきまであんなに落ち込んでいたのに、時計をつけただけで、気分が乗ってきて、人に注目して欲しいとさえ思いはじめているのだから不思議だ。欲しかった服や靴を初めて身に着けたとき、気分が良くて、どこか得意な気持ちになるが、この時計はそれがかなり強烈だ。服や靴の数十倍は効果がある。
開けた道路に出ると、真ん丸の夕陽が、今にも沈もうとしている。
多分じいさんは、不機嫌に落ち込んでいる俺を元気づけようとしてくれたに違いない。もちろんそれは嬉しかった。一万円も嬉しかった。でも、こんなに時計が嬉しいのはどういうわけだろう。もともと時計なんて興味なかったはずなのに、左手につけたとたん、急に力が湧いてきたみたいだ。
もしかしたら、あのじいさんは本当に魔法が使えるのだろうか。「この時計をつければ女にもてる」と言っていたのも、何か不思議な力で本当にそうなったらいいんだがなあ。と、そこまで考えたが、我に返り、苦笑いが出た。現実主義の俺らしくもない。そもそも、あのじいさんが魔法使いだとしたら、俺の好みなんかお見通しのはずだから、砂糖入りのコーヒーを買うわけないじゃないか。……
最近建ったカフェオレみたいな色の家の前を通りかかったとき、駐車場のミラーに、俺の姿が映った。袖口からちらりと覗く時計が、自分の左手が、我ながら渋くキマっている。
夜、時計を枕元に置いて寝た。
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