視点
ブス
私は自分自身が不細工だと他の誰よりも理解している。ゆえに、自らブスだと自覚する事でプライドを保っているといっても過言ではないといえるだろう。
これ以上に人として超致命的な欠点を加えることは難しいだろうか。強いて欠点を加えるなら、私自身の行動に、結構嫌な癖があることなのだろうな、と自分を振り返る。
私は自分の意見をあやふやにすることによって、自分の発言に保険を持ってしまう。例の通りに、だと思う、かもしれない、って聞いたことがある、なのだろうか、などを結構な確率で多用してしまうのだ。
中で例外を用意するなら、この私が不細工という事実に関してだけはいつでも自信をもって言えることなのだろう。人として悲しい事だけどこういう事でしか発言の責任を持って口から発するコトが出来ない。
こんな事実にしか責任を持てない私の存在が恥ずかしいと、胸を痛ますことは今まで十分したので次にでも涙を流す心構えをしておこう。それをするくらいには私はみっともない者なのだからどうでもよくなりたい、とはまだ開き直り切れてはいないけれども。
不細工=私が成り立つ身恰好である今の私のコンプレックスはやはり外見でしかありえなかった。
洗面台の鏡の前に立つたびに、服の腹辺りを水道水で濡らしながら前のめりになって、自分の顔の欠点を探すのに時間を費やした。誰かが見たらナルシストやら変人やらいろいろ思うかもしれないが、今この状況を人が目撃することはドアが独りでに開かない限りありえないだろう。と、一応背に警戒を持っておく。
鏡に近づいて一番最初にわかる事がある、肌が浅黒い。自の肌色自体が黒いわけでは無いが、何となく
笑って明るい気持ちを表に再現しても、気持ち悪い薄ら笑いに見えるようになってしまう。丁寧に設計されたようにだ。ついでにとおまけを丁寧に添え付ければ、吹き出物にまみれていてその怪我痕が顔を覆っているのもまた不潔感を漂わせている。
浅黒いうえに吹き出物にまみれているなんて、自己管理がなってないだけなのだろうが、私にはこれを改善できるほどの
その次に目立つのは輪郭だ。エラは特に張っているわけでは無いが、頬が妙に高くてバランスが本当に悪い。
口角を上げたら般若に見事洋変わりだ。頬の肉があるからそうはならないにしろ、出っばっている顔の輪郭を見ると不安になる。といえれば、頑張って気にしすぎで収められるだろう。
私の顔は正面から見て何となく横に広く見える。目と輪郭までの距離も広く、目と目の距離も広い、そんなどうしようもない方向に悲惨な感じなので、これに関しては諦めて終いたい所。
その次は何だろうか、目が一重な事だろうか、鼻が低く鼻の穴が正面から丸見えな事だろうか、歯並びがが悪い事だろうか、これ以上例を上げてもキリがないので、一旦逃避して鏡から離れて落ち着こう。
落ち着こうとしても、そんな事をした後は自分の顔の構造の悪さと、自分の行動の浅はかさに失望をすることも多々あってしまう。たまに、袖やひじ辺りを濡らしてしまうのも実に情けない。
それぐらいには私の顔は絶望的である事が、受け止めたくないが現実。鏡を見るたびに、人生というものを考えてしまう現状を作るのが私の現実。
人に「可愛いよ」なんて言われた事があったとしても、その言葉を発した善人の顔のひきずり具合でその言葉の真意が分かるぐらいには絶望的。
そうやって気を使える人が周りに一人でもいる事は救いになるのだろうか。
せめてもの救いをと、逆光がまぶしく目に突き刺さりながら手を取ってみると、そんな意志を持たずにお世辞を軽々と言える物好きも居るには居ることが分かる。
それでも、大抵は可愛い娘か、私との馴れあいを目的としている子ぐらいが私を憐れんでるだけ。
同類のもののなれ合いなどに私が躓くなどあってはならない。
そんなことを思いながら片隅では、要らない同情心で私を慰めるからこの現状を諦めて終われないんだと、余計に茨を鋭く。
こんなにも腐れた私だって、さすがに人が見た目を気にすれば本心の二十割上乗せした言葉を述べるコトはできていた。
自分がコンプレックスを持っていることなのだから、人から聞いて嫌な言葉とかは簡単に分かるし、「ブスなのわ~分かってるけど~本音を言って貰いたくない~」ってのが分かってあげられるから、私は心にもない言葉で人の容姿を褒め称えていた。
普通誰もが気を利かして社交辞令を言うであろう、外見の話題でも多くの者にはっきりブスって言われてしまう私は、直接言われただけの出来事自体が二十割以上はブスなのを知らしめてくれて、涙目になり私は簡単に腐れる事が出来る。
誰かから外見をけなされるのに耐えかねた私は、いつの日か人の容姿に対して本音しか言わなくなった。
もちろん、可愛い娘に対しての妬みなどの感情がこもってる時もあるから、どんなに優れた容姿に恵まれていても私がブスって伝えてしまうのは仕方ないと思う。
こういう私みたいなやからがいるから百人中百人が絶世の美女を美女だと認めないのだと思うと、素直にざまあと思ってしまうが私が悪いわけではない。ざまあと思ってしまうのは私がブスだからではなく、その方が美女だったからに過ぎない。
他にもいい事はある、ちょっと可愛いだけのくせにブリブリと振舞う娘がたまにいることがある。それを、私がハッキリとぶすぶすと
そうやって鬱憤を晴らしても私のブスが治るわけじゃあないけれども。
私は見た目に対して、これ以上にましに見られるかだけをいつも考えていて、やがて一回しか使わずに、どこかに放って腐らしてしまう化粧品を数ほど憐れんできた。少なくともひと箱分は見送ったと思う。
せめて同じ物を使い続けていればよくなる物を、低能なことに一回の出来だけで諦めてしまう、それで、どんどん違うもの趣向に転々としてしまうから、未だに超ブスから化ケ物への進化を絶てないんだって、どこかでは理解しているつもりでいる。それでも、自分の顔を見てしまうと、変化へのどんな覚悟なんてものはどうしようもなくめんどくさくなるのだ。
それでいて、商品に対する勝手な不服感が募って、また違う物へと転々してしまう。私の見た目ではどんな良い物を使ったとて、一向でも良くなる筈がないって、この絶望的な顔の構造を見れば誰でもわかる事なのだけれども。
いや、そもそも肌がボロボロだから化粧が上手くいかないんだと目を向ける所からそらしては、インスタント物を食べないようにしたり、夜更かしをしないようにしてみる。
どんな意見を聞いても必ずいい食べ物と運動が必要だとかかれているので、食べ物に金をかけて金欠になってみたし、乗り物に乗らずに歩くことを心がけるようになって元以上に時間にルーズになった。
元々動くのはそんなに苦手ではないので楽な事だとは思うし、食べ物に金をかけるのも舌が肥えていると親に言われている私にはむしろいいきっかけというか自分へのご褒美だと思った。
肌のために始めた事は結局、肌とは関係のない私の中でブームになり私の他の趣向ために活躍するようになって、以前よりストレスが減ることに貢献した。
ストレスが減ったことによって、肌の傾向も少し良くなった。が、その肌のケアに浸かってた時間や金を私のやりたい趣向に使うようになったので、肌に割いていた労力が減り、結局は金の使い方が少しうまくなったことと私生活で人に意味も無く迷惑をかける頻度が増えた事にしか響かなかった。
本来目指したものとは違う、いいと言える結果にはなったものの、目指したものの存在は大きすぎたと感じたので、私には本来プラスになったものなどすぐに途切れてしまうことを避けられない。
他にもじたばたして足搔くことしかしなかった時を思い出すと、私の外見に対する執着が良く理解できる。
例えば、私がまだ定めの気配を感じ取ってない頃、顔に関してほぼ絶望に浸されていた時がある。私は悔しくて、他に何かの物からでも綺麗になれるのではないかと、思考を巡らせる事に励んでいた。
その時にたまたま手相占いに興味を引かれていたこともあって、手に注目を移す事になるのは容易かった。その後、綺麗な人はみんな指先から綺麗である事を風の噂で知った私は指先から手をかける事に専念することにした。
今までおろそかにしていた手の保湿を日常の一コマにするのに時間は掛からなかったと思う。気がつけば真っ先に手にハンドクリームを浴びせていては、ベタベタした手で他の物々を侵食して迷惑をばらまいたのは反省するべきだろうか。
私はネットとかにかかれている手に関する浅はかな知識で手を潤わせた。百均店で売っているだけのキューティクルオイルを爪に塗ってはそれで爪が伸びやすいと信じたし、爪を長く見せるためだけの甘皮処理を素人の手で不器用に行っては何度も手先に血をにじませることもした。
少しの間を掛けて見恰好だけキレイになった手は、ふと鏡の前で顔と並べた時に顔との釣り合いのとれなさを引きだたせることになった。それに嘆いては、結局顔を磨こうという決意をもう一度奮い立たることに繋がらせることが出來て、今も無事グジグジしている。
グジグジしても手を磨く行動自体は、私の顔に対する劣等感をよく分からせてくれるのが癖になって未だに続けている。そういう所を諦めず続けられるのは人生で珍しいことだったので、少し自分を誇りに思った。
手のケアをおこたう事無く続けた結果悪い事も沢山ある。その一つは私の顔を醜さがよく再認識できる所。また一つは人から褒められる箇所が増えたが、その分顔自体を着目させる確率が減った事。爪や手に時間を割いて顔にかける時間とフリー時間が減った事。
そんなマイナス要素などを合体させても私が時間を割いた爪への魅力は大きかった。爪がきれいである事を一目見れば、私が手をかけていれば綺麗になる物があるのだと認識する事が出来るから、この爪が私にちいさくとも達成感などをくれるのだ。それが私の小さな救いの一つだ。
指一本一本が太く、男性の粗末なもののように見えるそれを隠すようにと、上回って関節がごつごつとあるのを、他と段違いに潤った皮膚がごまかして、私の眼を錯覚させ、その錯覚が救いをもたらすのを、私は純真に喜んでいた。
そんな事を繰り返してでも私が惨めさをを諦めきれないのは、残念ながら定めなのだと悟るようになったのはつい最近な気がする。
一度、もうこんな事を想う様になっては末だ、とそれを諦めようともしたけれど、それも叶わないのが、定め。
私の覚悟した定めが不細工だと諦めてしまわないことなのは、人に対して堂々といえるモノでは決してないだろう。恥じる練習をする必要がある事に、自身に無上な情けなさを感じるが、それも残念ながら定め。
私はこの見た目に、常にとんでもない嫌悪感を感じていることは、誰かに言葉にして伝えなくとも、私の放つ雰囲気で何となくわかる事だ。無意味にわざわざ自分を恥をさらす必要はないと思う。
そんな事をわかっていながら自ら看板が立つ不発弾所に向かうのは、自分が不細工だという現実から逃げ出したいがため。ついでに、人に共感を求めることがあるのは人間の定めだと決め顔で悟ってみる。
共感を求めながらも、そういう期待は無しと矛盾を持ちながら、いざ救いの手を何度も伸ばしてみる。そうすると、前者で述べたように物好きな人が、同情してか社交辞令か、そんな事無いよ、と言ってくれるのが実は今でも少し嬉しい。
感謝するべきことなのは分かっているので、私はその物好きに「励ましをありがとう」と述べる。ながら、なんと酷い事に向かい内心で爪をたてては、上辺だけの言葉と捉えてしまう。求めたものを私の足で綺麗にカーブを作って蹴り飛ばすのちに、後悔という名のゴールにシュートを決め、勝手に自己卑下に落ちるぐらいには私はブスなのだと逆恨みする。
決してお世辞でも褒められた容姿じゃあない現実である事は、哀しいながら自分が誰よりも理解しているつもりだ。
ふとした瞬間には可愛い子の横顔を闇雲に瞳に映している自分がいる。嫉妬なのか、純粋な憧れなのか、妬みなのか、羨ましいと思ってしまってるのか。と、可愛い子を目で追った事に、あまり訳のない言い訳を並べては、可愛い子のその姿を目で追ったことを後悔する。
そんな可愛い娘達と比べて、自分の容姿の悪さに失望することも今じゃあ珍しくもない。
自分の中では可愛い娘と私の容姿を比べてみては、自分にがっかりして虚無感に落ちることは多々ある。が、世間は違うと日々日々心の内感じているというか理解しようとしている。
私が良く見られるようにと努力してもそんな努力に気づく人などいるわけでもなく、日々浴びるのは私に対する侮辱ばかりで良くしてくれる人など、人を差別しない聖人だけ。それに比べて見た目がきれいな子などはどんなゲスな事をしても笑顔で頭をコンとすれば許される。
そして聖人などいないのがこの世の過ちなのだと不公平だと思う。
私のように圧倒的に不細工で着飾る事の許されないような残念な人は、可愛く着飾って最前線でわやわやしている娘達との同じ土台に立つ事すら許されないのだって私の立場にでもならないと分かる人は居ない。
不細工は可愛い娘達と比べられる前に差別されている。いや、最初から区別されていて、見て価値を論する対象ではない存在として置かれしまう。
そういう屈辱的な扱いを日常で扱われているのが私なのだ。卵でいえば生まれる前から器にひびが入ってるようなもの、甲子園でいえば高校の野球部にすら入れなかった。いや、その高校受験ですら落ちてしまっている存在なのだ。
そういう区別があるからこそ、不利な立場にある私などが、どうして私はこんなにブスなんだろうって、どうしてあの子はあんなに可愛いのだろうって気持ちになり、チヤホヤされる存在の娘達ばかりを羨んでしまう。
こんな要素もブスだろうか。善人のお世辞を真に受けてる勘違いになってないだけまだマシじゃあないのかなどと逃げ道を考える。が、救いようにも介護してあげられそうな隙が無いのだ。
諦め論を唱える人を探す必要があるという事まで考えた末に自分がついには救いようのないブスだと気づくことが出来た。
自分がどうしようのないブスだとわかりゃりゃあとすれば、微かなる希望を絶てるコトは容易いだろう。
それでも、やはり定めなのか諦めの悪い性格なのか天からの使命か定めか、私は不細工という道を断つ手段を諦める事は今の結果的にしなかった。
私は愚図だったので、諦めない心を持つ時点で自分を偉いと浴びるように褒め称えてあげたいと思い、小さい生チョコケーキをホールで買った。そのことは人生最速の挫けた例になるに違いない。
おまけにはストレス発散もついででマカロンを人生初手作りした。失敗して余計他の物をやけ食いをしてしまったけど。
そんな自画自賛を食べ終える頃には、自分がブスである事を腹が膨れた分程だけ開き直るだろう。さながら、ちょいと可愛いと言われる娘達を叩く妄想をしながら深い眠りにつけるだろう。
徐々に浅はかになる眠りから目を覚ますのは現状的には二時間、心情的には二十倍ほどの時間を費やした。
気がついたころには、ケーキの栄養分は立派な脂肪となっているじゃあないか、と目が回るほどの衝撃を受けた。
それがバストに繋がればよかったものの、増えたのは顎と腹と二の腕の肉とか尻とか足とかだけだったのがより私に衝撃を与えることが出来た。
元々
ただの超ブスからデブで超ブスに進化する事は人から見れば大した差じゃあないが、断然前者の方が蟻程でもマシに決まっている。それを理解しながらも私がとった行動は自身ながらおろかだと思う。
私は被害妄想の極めから、これから徐々にブスの進化の速度をも増して、目もくれないようなブス界の頂点になるんじゃあないかと想像した。
自分がそんな立場に上り詰めてしまったなら、どれだけ恥で屈辱的かは勿論想像がつく。
いざ将来の哀れな自分の姿を想像していたら、恥とか屈辱感が巨大すぎて、恐怖を丁寧に供えて降ってくるので少しブルルときてしまう。降ってきたものをよく見てみれば、芯の部分は固く光っている恐怖で槍の先の所が磨き上げられて鋭く恥になって見えるようだ。この組み合わせは私には脅威すぎて一瞬ほど放心をしてしまってそのまま意識が飛んでいってしまった。
目が覚めた頃には、私は少しでも太ったという現状に恐れを感じすぎて、そのストレスですぐ元の状態まで痩せることを成し遂げてしまった。私がいくら食べてもすぐ元に戻るのはこれが原因であろうことがこのあと振り返ってやっとわかる。
しかし、痩せると云ってもベースの状態の体重に戻っただけで、スリムになったのではいのがツボだ。だからって痩せる気には中途半端までになれないから、どうしようもできなくて放置しよう。
体重計にいざ乗っていると、長期にわたっていつもの体重をベースに右往左往しているのがよく分かる。それを見ると私の優柔不断な心がよく表れていると思う。
それではやはりいつもの体重では満足できないので、これ以上痩せようと願望を抱き、痩せようとすることもあるにはある。ながら、実際に行動に移してみて成功の筋が見えたことは無いので、もうしばらく体重はありのままでいようとやっぱり放棄する。
めんどくさくなった言い訳でしかないのは百も承知なので、私も、触れることはあまり無いだろう。と、鼻で笑って現実という難を逃れたい。
わざわざ人に言う程でもないが、私はねちっこい部分があるんだろうな、とつくづく思うよう。
世に云う、自称サバサバ系が隠れ持っているネチっこさを想像してみればわかりやすいだろうか。私はあのネチネチした感じから、自称サバサバを抜いた感じをもうちょっと軽くした感じだろう。いや、これをもう一段階だけましにした感じだと思いたい。
私自身も地雷だが、自称サバサバを名乗る女性たちの地雷率は高い。私の経験談だけども、肩をぶつけただけでワザとぶつかったなどと抜かしては、一か月はネチネチネチネチしてた人がいる。嫌な思い出だから過大に記憶されているかもしれないけど。まあ、私にはその自称サバサバなどとぬかしながらネチネチするなんて器用な矛盾などは到底真似出来ないが。
私は、「サバサバだよー」と印象の薄い好である印象を持たせて、後から上げ足を見せるよりかは、最初から身の手のひらを見せて、あとからのむすバゆいスレ違いなど起こさせない方が得策なのだと思う。そうやって賢いことを練って保険を温めよう。
こういうスッキリした考え方をする私こそサバサバしてるんじゃあないかと、勘違いを起こしてしまった事は恥ずかしながら経験した。でもこれ以降に、そんな自分の力量を測り知らないような間抜けな事は決してしなかったのだから自分を偉いと褒め称えたい。経験はモノを語るのだと偉い人が言ってたような気がして自慢げに思っておこう。
そんな感じで私はネチネチしているくせにサバサバを演じる様なマヌケな事は決してしたくないし、そんなマヌケを毛嫌いしている。
それでも私は、ネチネチしていることに変わりはないので、同族嫌悪に違いないな、と、いつの間にか自分を分析し憐れんでいて悲しい事には変わりない。
まあ、私はどうせブスだから内面がどうのこうの以前に見向きされる対象ではどうしてもないけれど。
試行錯誤して精神を安定させて、どう上り詰めようとも可愛い子の引き立て役、というかどう頑張ってもやはりには可愛い娘と同じ土台に立つ事は絶対に許されない。そういうことを知る。
あの娘と比べられる以前に、見る価値の無いモノとして差別されている。差別される以前に、当たり前に目を向ける対象じゃあないモノとして区別されている。
私みたいに超残念なヤツが悲惨で残酷な世に問い騒ぎ立ててもブスのくせにとか言われて問題にもならない。それが当たり前。
分かってた事、当たり前の事、慣れている事、不細工がいつか理解する事。沼に引きずられてでも現実は悲惨だと散々思う。最底辺から引きずりおろす側とも気づかない。
また鏡に足を運んだ。
白雪姫の義母は自分の美しさに見とれるために鏡に向かうけれど、私は逆。どんな美化されているおとぎ話でも結局は皆美貌だ。
自分の顔が残念な出来合いだという事に開き直れず、愛嬌を真似ることがどうしても出来ずに落ちこぼれて、ずっとグジグジしている私は立派に人に嫉妬する事も上手く出来ない。
腫れぼったくて私には醜く見える一重瞼を爪で線を引いて、二重に見えるようにしてみた。元々の目が小さいからバランスなど良いはずもなく、目が大きくなるはずもないけれど、一重よりましだと思うから瞼に二重の跡をつけようとしてみるが、うっすらと跡が消えていくだけで何も変わらない。
何バカな事をやっているのだかと、一歩下がってため息をしたら鏡に凄く不細工な奴が映っているものだから、もう悲しいという言葉が私の目を舞わらせる。
驚いた、恐怖した、この朦朧と回る景色と踊ろうか?ふらつきながら足をもつれさせる。
転がるようにの場で屈んで膝を抱えたけど、この不快感がどこかへ行くわけじゃあないから、心の中でにゃんにゃんと呻いた。涙は流れなかった。
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