第11話

暮れも押し迫って、海風も益々冷たく感じる頃、文太に新たな試練が襲い掛かった。

このところ食は細くなったままだったが、小康状態を保っていた文太の父親が、ことのほか冷え込んだ朝、厠に行こうとしたまま、大量の血を吐いて倒れた。

直ぐに医者に診てもらったが、すでに手の尽くしようも無く、救いは文太が傍にいて最後を看取れた事だった。


長屋の住人に連絡を受けて、店の準備をおつたに任せて、茉莉花と由佳は急いで駆けつけた。

「文太、大丈夫」

亡骸の隣でうなだれて座る文太は茉莉花の声に振り向き、

「茉莉花さん、おっ父、とうとう死んじまった」と力なく泣き顔とも笑顔ともつかない表情を見せた。

茉莉花は文太の肩にそっと手をかけ、

「最後まで良く面倒みたね。お父さんは幸せだったよ」と声をかけた。

堪らず文太は声を押し殺して茉莉花に縋って泣いたが、ひとしきり泣いて、泣き止むと。

「女将さん、おっ父の事、いろいろお世話になりました」と由佳に手をついてお礼を言った。

以前の文太では考えられないことだったが、この二月あまりで成長したのか、しっかりしようとする姿が痛々しかった。


大家が手配したのか、早桶が届き、長屋の住人たちの手によって、葬儀の準備が進む。

こういった時どうすればいいのか判らない楠田母娘は、線香を手向けたあと。ひとまず店に戻る事にした。

辰五郎とおつたに相談し、世話になった長屋の人たちや弔問客のために、今日は早仕舞して、通夜料理を作ってもっていくことにした。

おつたに手伝ってもらい、精進料理を用意する。


「そうだ、お母さん、大蔵さんと安田さんにも知らせたがいいよね」と茉莉花に言われ、

大蔵には辰五郎に材料の仕入れ前に寄ってもらい、安田にはおふきとおつたが知らせに行くことにした。

安田に知らせ、一緒に文太の長屋に寄り、線香を手向けてきたおつたとおふきが戻って来た。

安田は暫く文太に付き添うと言って残ったらしい。

文太の父親は湯灌してもらい、早桶に安置されていたそうだ。

今夜は通夜で一晩寝ずの番をし、明日朝早くにお寺に埋葬に行き、それでおしまいだそうだ。

「お葬式はしないの」と聞いたが、お店とかお武家では葬式まで執り行って埋葬するが、長屋に暮らす人々は葬式を出す金もない為、早々に埋葬して終わりにしてしまうそうだ。

「そうなんだ。じゃあ、お父さんと居られるのは今夜が最後なんだね」と茉莉花がポツリとつぶやき、又おふきの涙を誘った。

「お坊さんは何時に来られるのかな」と聞くと、長屋の住人と段取りの相談をしてくれたおつたが、

「お坊さんは来ねぇそうです。貧乏人の所にはわざわざ来ないで、埋葬の時にお経を挙げて終わりだそうで、名栗ではちゃんと和尚さんが来て枕経をあげてくれるってのに、江戸ってぇところは随分冷たいもんだぁ」と在所なまりまで出て、怒った様に話した。

そうなのか、この高輪や白金あたりは寺がとても多いので、意外と生活に密着しているのかと思ったが、そうでもないらしいと由佳は思った。

「じゃあ通夜の時間は」と改めて聞くと、興奮したのを恥ずかしく思ったのか、おつたは、

「あい、すみません、おら気が立ってしまって」と恥ずかしそうにしながらそれでも名主と話をして、暮れ六つ(十七時ごろ)からとし、通夜料理をまつりが用意する旨を伝えたと報告した。

それに、長屋は狭く、料理を食べる場所が無いので、隣に一人で住むおばあさんが部屋を使っていいと申し出てくれたそうなので、好意に甘えることにしたと報告した。

「じゃあ辰五郎さんが戻り次第本格的に作るとして、それでも先にやれることは店を営業しながら準備しましょう」と決め、皆で取り掛かった。


辰五郎に連絡を受けた大蔵がやってきた。

店に来る前に長屋に寄って線香を手向けて来たそうだ。

「文太は気丈にも弔問客に挨拶をしておった。名主どのが采配して明日の埋葬は町内で仕切るそうだ」と報告してくれた。

「それじゃお寺へのお布施とかは町内でもってくれるんでしょうか」と由佳はつい気になった事を聞いた。

「うむ、日ごろこういった時の為に町内では蓄えをしているはずだ。少しは香典も集まるであろう。その辺りは心配せんでも良いはずだが」と言葉を切った。その様子を見て、由佳は

「何か、他に心配毎があるのですか」と聞いた

大蔵は「これは近所の者が話していた事を耳に挟んだだけゆえ、確かな事は名主どのに確認しなければならぬが」と前置きしてその噂を話してくれた。


大蔵の話によると文太の家はこの半年家賃を溜め込んでいたらしい。

葬式にかかる費用は町内や近所でなんとかなるが、流石に家賃までは面倒見きれない。

それに、今後身入りの充ても無く、親戚も居ない文太は長屋を出て行かないといけないらしい。

しかし、文太もそろそろ奉公に出る年頃で、今までは父親の面倒を見るために行けなかったが、

今後は住み込みで雇って貰える所を探すしかないそうだ。

近所の者の話では、悪たれ小僧と評判の良くなかった文太を雇い入れる所があるのだろうかと陰口を叩く者もいるらしい。

その話を聞いて、茉莉花は、

「ひどい、確かに前は悪たれだったかも知れないけど、最近の文太はとってもいい子だよ」

と反論した。

確かにこの二ヶ月文太は良く働いてくれた。お使いも薪割りも、時には厨房や店を手伝う事もあった。

あの日名主と共にやってきて、生まれ変わって恩に尽くすと言った言葉は嘘では無かったと由佳も思った。


由佳は暫く考えたあと切り出した。

「大蔵さん、家賃はどのくらい溜まっているんですか」と聞いた。

「そうですね、たぶんあの長屋ですと一月に五百文から六百文というところでしょう。半年となると三分と二朱くらいでしょうか」

と計算してくれた、それを聞いて由佳は頷き、

「まずは家賃の事だけど、文太から預かっているお金がちょうど三分あります。足りない分は今まで働いて貰った分としてお店から出すことにします」と言った。

それを聞いたおつたはほっとした顔で、

「それじゃ後は文ちゃんの今後ということですね」と言った。

「それなんだけど、文太は将来何になりたいとかあるのかな。お父さんと同じように職人になりたいのか、それもとお店に奉公したいのか、こればかりは本人に聞かないといけないので、それを聞いた後で、私たちでできるだけ文太の将来の事を考えてあげたいと思うんだけど」と提案した。

皆、由佳の言葉に得心し頷いた。その上で、大蔵に向き直り、

「大蔵さんにも色々とお願いするかもしれませんが、そのときはよろしくお願いします」と頭を下げた。

大蔵は「無論です。拙者も微力ながらお手伝いさせていただきます」と請け負ってくれた。

ひとまず店を開け、営業の傍ら通夜料理を作り、夕方は皆で長屋に出かける段取りにし、大蔵はまたその時刻に来ると言って帰って行った。


七つ半(十六時過ぎ)には店を出て、大蔵と共に皆で文太の長屋を目指した。

文太は一人早桶の前で座っていた。

「文太、大丈夫。あれ、安田さんは」と声をかけると驚いたように振り向いて、

「あ、女将さん、皆さん、何から何までありがとうございます」と畳に頭をこすりつけた。

おふきと茉莉花は文太のそばに上がり、

「文ちゃん頭を上げて」

「そうだよ文太、水臭いよ」と肩を支えて起こした。

「いんや、皆さん、さっき、名主さんが来て、まつりで通夜料理を出してくれるって聞いて、おっ父の為にありがてぇことです」とこぶしで涙をぬぐった。


「そんなこと気にしないで、大した料理じゃないけど、近所の人にお礼したいしね」と由佳ももらい泣きしそうなのをこらえて文太に諭した。みるとおつたは後ろを向いて泣いている。

「うん、おいら近所の人に世話になりっぱなしなのに、何も返せねぇからありがてぇ。女将さんには本当に感謝してもしきれねぇ」と鼻をすすりながらお礼を言った。

「文太はうちの店の大事な小僧さんだからね、お店として当然の事をするだけだよ。それより隣のお婆さんが料理を出すために部屋を貸してくれることになったから御礼を言っといてね」

「え、おかね婆さんが、おかね婆さんにはおいらが留守の間おっ父の面倒も見て貰ったんだ」と早桶を振り返った。

「そうだったんだ。それならちゃんとお礼言わなきゃね。それでさ、安田さんはもう帰ったのかな」と湿っぽくなりたくない茉莉花は話を変えようとした。文太も涙を拭いて

「うん、さっき名主さんの話を聞いて、通夜には戻ってくるって行って帰ったよ」

と少しはいつもの調子で答えた。

「じゃ通夜まで隣で準備しているから、何か用があったら声かけてね」と部屋を出た。


安田は店に酒を取りに戻ったようで樽を抱えて戻ってきた。

「安田さんこっちですよ」と表を掃除していたおふきに言われおかね婆さんの部屋に運び込んだ。

「由佳さん、まつりが料理を出すって聞いたんで、少しですがお酒を用意しました。一緒に振舞ってください」と樽を上りがまちに置いた。

おかね婆さんは先ほどから文太は果報者だ、心配して世話を焼いてくれる人がこんなに居ると何度も同じ話をし、そのたびに泣いては茉莉花を困らせていた。


時刻になって、名主がお坊さんを連れて来た。

貧乏人の所には枕経をあげに来ないと聞いていたので、どうしたのかと思ったら、名主さんが通夜料理を振舞うからと連れて来てくれた様だ。

思いがけずお坊さんにお経を読んでもらい、近所の人も大勢来てくれたので、貧乏長屋にしてはちゃんとしたお通夜になった。


焼香が終わった人から隣の部屋に案内し、お清めの酒と料理を振舞った。

お坊さんも般若湯を飲み、「これが最近流行のまつりの味ですか」とシュウマイと蒟蒻をいたく気に入った様で、しぶしぶ来た割にはご機嫌で帰って行った。

「名主さん、ありがとうございました。お布施とかは大丈夫だったのでしょうか」とお坊さんを見送った後聞いたら

名主は「いえ、最近流行りのまつりの料理が出るのを餌にしたのと、ちょいと脅しをかけましたので」と言った。

「脅しですかお寺に何かやましいことがあるのでしょうか」と聞くと、

「いえね、大きな声じゃ言えませんが、先日文太がかどわかしにあった件ですがね、その後の話を銀次親分から聞いておりましてね、何でも調べによると、連れ込まれた屋敷は寺の持ち物だったらしくてね。勿論、寺は貸しただけで、かどわかしには関係ないのですがね、文太がその時の子だと言ったら、それならば母親も縁があった事だし、ただで枕経をあげに行くと言ってくれました。どうやら探られたくない事情があるようです」と打ち明けてくれた。

「そうだったんですか。それにしても意外な所で繋がっていたとは驚きですね」

「まったくです。これだから悪いことは出来ないって事です」と通夜には不謹慎だが二人で笑ってしまった。

「ところで、楠田様。ちょっとご相談があるのですが」と前置きして名主がおかね婆さんの部屋の前から少し離れた。

「いえね、こんな事楠田様に申し上げるのもなんですが、文太の今後についてです」

由佳は首肯し、「店でも文太の今後について本人の希望を聞いてみてから相談しようと話しておりました」

「そうですか、気に留めていただいていましたか」と名主は少しほっとしたとうな顔をした。しかし問題は他にもありそうだ。きっと家賃の事だろうと思って由佳は、

「それと、溜まっている家賃についても清算できるめどがついています」と付け加えた。

名主はぱぁっと顔を明るくさせ、

「そうですか、それを聞いて安心しました。いえね、この長屋の大家は他にも家作を沢山もつ検校なのですが、昼間使いの者が来て温情で今まで家賃を待っていたが、父親が死んだのならきっちり清算して出て行ってくれと言われましてね。それも仕方ない話なのですが、年の瀬と言う事もあって、いくらなんでも直ぐには可哀相だと掛け合いましたら、それでも待っても松の内までと言われましたんです」

「わかりました。この後文太と話をしますが、出来るだけ早くに身が立つようにしてあげたいと思っています。名主さんには色々お世話になりました」と頭を下げた。

「こちらこそ、悪たれだった文太の面倒を見て貰いありがとうございました。おかげで文太はめっきりまともになりましたよ。顔色も顔つきも良くなり、近頃は近所の者にもきちんと挨拶したりして、皆驚いています。それもこれも、楠田様のおかげだと思って感謝しております」

「そんな、文太の頑張りの賜物です。もともと頭の良い子でしたからね。色々頼んでいて私どもも助かっていますよ」

「そう言っていただけるとお願いした私も気が軽くなるってもんです」

名主は胸のつかえが取れたのか、なにとぞよろしくと頭を下げて帰って行った。


本当はまつりで生活出来るようにしてあげれたら良いのだけれど、と由佳は思った。

しかし、こればかりは独断で決められない。

先日の「時の会」以降、戻れるかも知れないと希望が沸き、自分たちが戻ったあともおつたやおふきが店を続けて行けるようにして置かなければならないし、そんな折、さらに人を養うのはおつた達の負担になり、難しいと思ったからだ。

「なんとかなるといいんだけど」曇って星の見えない空を見上げて由佳はため息をついた。


近所の人も帰り、おかね婆さんの部屋を片付けて、まつりの面々と安田と大蔵は文太の部屋に集まった。

文太も落ち着き、改めて

「本日はおっ父の為に皆様に色々お世話になりました」と挨拶をした。

「そんな事はいいんだよ、それより文太偉かったな、俺、文太が大人でびっくりしたよ」と安田が褒めた。

大蔵も首肯し、

「文太は変わったな」と優しい眼差しを向けた。

由佳はおつたとお茶を皆に配り、ひとごこちついた辺りで切り出した。

「さっき名主さんと話たんだけどさ、まずはこの部屋について、大家から家賃を清算して出て行くように言われたそうよ」

「えーだってお父さん亡くなったばっかりだよ、それに暮なのに」と茉莉花が怒った様に言った。

「うん、だから名主さんが交渉してくれて、正月の松の内までは居てもいいみたい」

「そっか、そりゃ良かった。でも、その後はどうするの文太はどこに住むの親戚とか居るの」と茉莉花は誰と無く聞いた。

文太は

「俺、親戚とかいねぇんだ。居たとしても何処にいるかわからねぇ」と答えた。

由佳は、それはひとまず置いて、と前置きをして、

「まずは今までの溜まった家賃だけど、文太のお母さんが残したお金と、錦屋さんがくれたお金があるので、それで清算すればいいと思うんだけど。文太それでいい」

「女将さん、そりゃ勿論それで足りるんならそうして貰いてぇけど、それもで足りねぇかもしれねぇ」と恥ずかしそうにうつむいた。

「そうだね、それで、足りない分は今までまつりで働いて貰ったお給金としてお店から出す事にするから」と由佳は説明した。

「え、それじゃ、申しわけねぇ、今日だって料理を用意してもらったりしたってぇのに。それにおいら給金貰えるほど働いてねぇよ」

とあわてた。

「そんな事ないよ、文太は良く働いてくれたよ。それにこれはお店の皆で決めた事だからね。

皆、文太がちゃんと働いたって思っているんだよ」と付け足した。おつたもおふきもうなずいて茉莉花に同意した。

「みんな、すまねぇ」と文太は畳に頭を擦りつけた。


「それでね、長屋はそれでいいとして、その後の事についてだけど」と由佳が言いにくそうにしながら、

「文太もそろそろ奉公に出る年頃だし、この際だから住み込みで奉公出来る所を探した方がいいと思うんだ。でも、文太はどうしたい。将来何になりたいとかあるのかなあったら協力するから教えて欲しいの」由佳の言葉に皆驚いた。当然文太は今までどおりまつりで働くと思っていたからだ。

「え、うちでそのまま働いたんじゃ駄目なの一緒に住めばいいじゃない、てっきりそのつもりかと思ってた」と茉莉花が由佳に詰め寄る。

由佳は「それもひとつの案だよ、でもね、いつまでもって訳にいかないでしょう」

「いつまでも居ればいいじゃん。駄目なの」と茉莉花は引かない。

「文太の将来がかかっているんだよ。文太の希望も聞かないといけないし」と由佳は文太を見据えた。

「楠田どのが言うとおりですよ茉莉花さん、それでどうしたいと思っておる文太」大蔵が文太に声をかけた。

文太はうなだれて考えているようだった。

「おいら、どうしたらいいかわかんねぇ。でも、いつまでもまつりに厄介になるわけにはいかねぇし」

「そうじゃなくて、文太は将来何になりたいかを考えて欲しいの。お父さんの様に職人とか、板前とかでもいいんだよ。といっても直ぐに決めろって言うもの難しいと思うけど。ぼんやりとこんな事やってみたいでもいいんだよ」文太は言いにくそうにしていたが、由佳の言葉を聞いて、

「そしたらおいら、いつか安田さんみたいに居酒屋をやりてぇ」と答えた。

安田は驚いて、「おっと、じゃあ家で働くか。うちなら部屋もあるし、いつ来てもいいよ」と言ってくれた。それを聞いて由佳は、

「大蔵さん、どうでしょう、文太は今年十一ですが、お酒を出すようなお店で働いても問題ないのでしょうか」と聞いた。


「うむ、手伝いくらいなら問題は無いが、やはり子どもの内は日の高い間に活動するのが良いと私は考えます。それに文太は手習いも途中です。ある程度の読み書きが出来ないと先々困ることになるでしょう」

「そうですよね、私もそう思います。将来は居酒屋でも良いけど今はまだその時期ではないでしょう。それに安田さんには少々問題もあるし」

「確かにそうですね」と由佳と大蔵に言われ

「えぇ俺って問題あるかな、こう見えても俺って結構いいやつだよ」とぼやいた。

「そうではない、安田どのも山本さんの一件次第では今後の身の振り方も変わるかも知れぬであろう、そのことを楠田どのは心配されておられるのですよ」

「あ、そうか、俺だって、いつまでも店をやっていけるかどうかわからないのか」と大蔵と安田の会話を聞いて、文太は

「え、安田さん、店閉めちまうのかい」と聞いてきた。

「いや、文太、そうではなくて、今すぐって事じゃなくて」と安田はしどろもどろになりながら何とか取り繕うとした。

そのとき、「あのぉ、ちょっといいですかい」と辰五郎が手を上げた。

「辰五郎さん、何かいい案でもありますか」と由佳に促されて辰五郎が話しを始めた。

「へぇ、ちょっと考えたんですが、やっぱり子どもはお天道様の下で育てるのが一番です。それでどうでしょう、文太はまつりで引き取って、今までどおり朝から昼過ぎまでは店の手伝いをし、夕方は安田さんの店の仕込みを手伝い、年が行けばおいおい安田さんの店を手伝って行くっていうのはどうでしょうか」

「ですが、安田さんの店の先行きもまだどうなるかわかりませんが」

「へぇ、それもそうですが、それはその時考えればいい事で、それまでに店の事を覚えれば他の店に行くって手もあります」

「確かにそうですね。でもそれだと文太が手習いする時間が無くなってしまいませんか」

「何も侍になるわけではありませんので、読み書きくれぇならあっしだって教えられます。今だってお嬢さんに教えて貰って、だいぶ読めるようになってまさぁ」

「辰五郎さん、私も最初にそのことを考えたんです。でも、皆さんご存知の様に、まつりは川越藩のおかげで店を開けています。もし、この先、私達が居なくなった場合、お店がどうなるのかわからないんですよ。それで、万が一の場合でも、私としてはおつたさんとおふきさんにこのまま店をやって行く事が出来るように先日丸山様に相談したんです」

「え、女将さん達もどこかに行ってしまうのかい」と文太は目を丸くした。

由佳は「今直ぐって訳じゃないけど、私達は今は仮住まいで、いずれは元居たところに戻る予定なんだよ」と説明した。

「それじゃぁ長崎に帰るって事かい」と文太に言われ、茉莉花はあいまいに

「まぁそんな所かな」とはぐらかした。

「それで丸山様はなんておっしゃったんですか」と茉莉花の困惑を察したおふきが話しを戻した。

「丸山さんは、お店の家賃以外の開店資金は藩のお祝いって事で返さなくては良いと言われました。それで、お店の店賃は半年分は前払いしているので、それはお店が軌道に乗ってからおいおい返してくれれば良いとも言ってくれました」冷めたお茶で喉を潤した由佳は話を続けた。

「それでももし、前払いの店賃を払いきる前に私達が居なくなってしまった場合はどうするのかと聞いたのですが、それはその時と、話をはぐらかされてしまって、それ以上は話が出来なかったんです。私は先々の事を考えて、お店の権利を買うとか、名義を川越藩からおつたさんに変えるとか具体的な話がしたかったんですが」と由佳は話を切った。

おつたは「女将さん、私達親子の為にそこまで考えて貰っていたなんて、なんてお礼を言ったらいいのかわかりません。本当にありがとうございます」と畳に手をついておふきと共に頭を下げた。

その後、つと、由佳の顔を見て、

「でも、私達の事は心配しないで下さい。私達はお店が無くなったら無くなったで名栗に戻り、今までどおりの暮らしを続ければ良いんですから。元々おふきも私もそのつもりで出て来ています。ですから後の事まで女将さんが心配されることはありません」そうだよね、とおふきと顔を見合わせ、二人でうなずきあった。

由佳は確かにおつたの意見を聞かずに勝手に何とかしようとしていた。その事をおつた気づかされ、独りよがりだった事に謝り、それで改めて先の事を話合おうと話した。


「それで、文太の事ですけど」とちょっと蚊帳の外になってしまっていた安田が声を掛けた。

「そうそう、だからまつりも安田さんの店も先行きがはっきりしないまま文太を雇っていいのかが問題なんですよ。私達が居なくなった後、辰五郎さんもお屋敷に戻り、おつたさん達が名栗に帰ったとしたら、せっかく仕事に慣れても結局また奉公先を探す事になってしまう。それなら最初からちゃんとしたお店に奉公するのが良いと思ったんです」と由佳が話を戻した。

「その件ですがね」と辰五郎がいいにくそうに

「女将さんにはぼちぼち相談しようと思っていたんですが」と後ろ頭に手を置き、もじもじしだした。

「どうした辰っさん、何か気持ち悪いよ」と茉莉花に言われ、意を決した様に顔を上げた。

「実は丸山様には相談して了承して貰っているんですが、あっしは山本さんの件が終わって皆さんの先のめどがついたらお屋敷を辞めようと思っておりまして」と話を切った。

「え、そうなの、それでどうすんの」と茉莉花に先を促されたが、またもじもじしだした。

「だから、辰っつあん気持ち悪いって」と又言われ、ええいとばかり顔を上げ、

「それで、それでですね、ゆくゆくはまつりを買い取って、あっしはおつたさんと所帯を持ちたいと思ってるんでさ」と打ち明けた。


暫く沈黙の後、皆「えぇ」と驚きの声を上げた。おつたを見るとおつたも驚いているようだ。

「おっかさんいつの間にそんな事になっていたの」とおふきに言われおつたは

「そんな、おらも今始めて聞いただ」と驚きのあまり在所訛りになって答えた。

辰五郎はおつたに向き直って、

「おつたさん、あっしはこの年まで一人もんで過ごして来ましたが、おつたさんに会って初めて所帯を持ちたいと思ったんです。あっしと所帯を持ってもらえねぇでしょうか」と頭を下げた。

「ひゃー、プロポーズだぁ」と茉莉花は驚きと興奮でニヤニヤしだした。そんな茉莉花を

「しっ」と制した由佳は

「おつたさん、おつたさんはどうなの」と驚きのあまり硬直しているおつたに聞いてみた。

「おっ母さん」とおふきも詰め寄る。

おふきの声に夢から覚めたようにはっとしたおつたは、赤くなりながら、

「おふき、死んだお父っさんが怒らねぇかね」とつぶやいた。

「何言ってんのおっかさん、死んだ人はなんにもしてくれねぇ、おっかさんが幸せになる方がお父っちゃんも喜ぶに決まってるって」

「そうかねぇ、それにしてもこんな婆さんでいいんだろうか」と辰五郎を見た。

「おつたさんは婆さんなんかじゃないよ。お母さんより全然若いんだし、まだまだこれからだよ」と茉莉花に言われ、「そうですよ」と言いながら、茉莉花に若く無いと言われた気がした由佳はちょっとわだかまりを感じたが、

「おつたさんの気持ちが大事です。今まで苦労したんだから幸せになってもいい頃だよ」と背中を押した。

おつたの亭主は名栗で樵の仕事をしていた。おふきには四つ上の兄も居て、父親について樵の手伝いをし、その頃はまあまあの暮らしをしていたらしい。それが、ある日大雨で土砂崩れがあったとき、山を見回りに行った二人は同じく見回りをしていた数人の男衆と共に土砂崩れに巻き込まれ、帰らぬ人となったそうだ。それ以来おつたはおふきと二人炭焼きの手伝いをしたり、わずかな畑を耕したりして細々と暮らしてきた。

おつたはうつむいて、暫く考えていたが、辰五郎の真剣な眼差しを見据えて、

「辰五郎さんこんな年増に一緒になろうといってくれてありがとうございます。よろしくお願いいたします」と頭を下げた。

「お、おつたさん承知してくれるのかい。こんな嬉しい事はねぇや」とおつたの手を取った。

「でも、ひとつだけお願いがあります」

「なんでも言ってくれ、あっしに出来ることならなんなりと叶えてみせらぁ」と言いながら辰五郎は何を言われるか心配そうな顔をした。


「実は、来年亭主と息子の七回忌なんです。それで、所帯を持つのは弔いが終わってからにしたいんです」

「なんだそんな事かい。もちろんだぜ。おつたさんの気の済むようにしたらいい。そうだ、そん時はあっしも一緒に名栗まで詣でて、一緒になる許しを得ようじゃないか。そうしよう」

とほっとした辰五郎は有頂天になってしまったのか一人で計画を立てだした。

「おっ母さん良かったね。辰五郎さんおっ母さんをよろしくお願いします」とおふきに頭を下げられ、辰五郎は

「水臭いこというねぇ、おふきちゃんはさ、ゆくゆくはおいらの娘になるんだ」とこれまた嬉しそうだ。

そんな辰五郎達に水を差すのは申し訳ないが、今問題にしているのは文太の事だ。

「それじゃ、辰五郎さんが万が一の時でもお店を続けてくれるってことでいいんですね」と由佳が仕切りなおした。

「おっと、てめぇの事ばかりになっちまって申し訳ない」と辰五郎は皆に向き直り、

「お聞きのとおり、あっしはおつたさんと今後もまつりを続けて行きます。

ですから今文太を引き取っても、先々身が立つようにしてやれると思います」と宣言した。

「辰五郎さんありがとうございます」と由佳は頭を下げ、

文太に「どうする文太。私としては店の将来が安泰ならこのまままつりで働いてくれると嬉しいんだけど」と聞いてみた。

文太は目に涙を溜めて、

「女将さん、辰五郎さん、皆さん、こんなおいらの為に色々考えてくれてありがとうございます」

と畳に突っ伏してお礼を言った。

ゆっくり頭を上げて皆を見回した文太は、

「本当にこんなおいらが厄介になってもいいのかい後で嫌にならねぇかい」と聞いた。

「何言ってんの文太。自分をそんな風に言っちゃ駄目だよ。文太は大事なまつりの一員なんだからね」と茉莉花は文太の背中を叩いた。

皆茉莉花の言葉に頷きを返す。

「みんなありがとう。本当に恩に着ます。精一杯働かせて貰います」と頭を下げた。

「さぁ、そうと決まれば早めに長屋を引き上げて移って来てね。大家さんにはまつりの方に集金に来るようにしてもらうから。片付けが終わるまでお店は暫く休んでいいよ。手伝いが必要なら言ってね」

と明日以降の話をつけて、今日は皆引き上げる事にした。

大蔵だけは明日の埋葬にも付き合うとの事で文太の長屋に泊まることとなった。


皆で店に戻りながら茉莉花はおふきに

「良かったねおふきちゃん、これで何時でもお嫁にいけるね」と声を掛けた。

それを聞いたおつたが、

「え、おふきにそんな人が居るのかい」と聞いたが、おふきは

「そんな人は居ないよ」と顔の前で手を振り否定した。

茉莉花はなにやらふふんとした顔をして

「いつか出来るかもしれないじゃん」と意味深におふきに言ったが、おふきはちょっとだけ沈んだ顔をして

「そんな日が来ると良いのですけど」とつぶやいた。

「それより、おっかさんこそ」と話が弾んでいる様子の三人を見ながら由佳は辰五郎に

「藩のお許しが出たってことは、もしかしたらですが、辰五郎さんは今後は細作としてご奉公するんですか」と小声でそっと聞いてみた。

辰五郎はちょっとだけ目を見張って、

「女将さんは何でもお見通しですね」と笑い。

「お察しの通り、あっしはそんな仕事も請け負います。もし文太に芽が出そうなら様子を見て話をし、細作としての修行に出しても良いかなとも思っております。まぁこれはあっしの勝手な考えですがね。店の先行きについては、雛屋の一件以来、藩で話し合われて来た事でしてね、楠田様の先々がどうなろうと、拠点を設けようと言う事になりました。ただし今すぐの話じゃございませんで、楠田様にお話が行く前にあっしが早走りしちまった訳です。その点については事情が事情でって事で勘弁していただきたいのですが」と頭を下げた。

「そんな事はかまいません。でもそれで合点が行きました。どうりで先日丸山様にお店の買取についてお話したとき、歯切れが悪かった訳です」

「へえ、丸山様にはあっしが所帯を持ちたいってぇ話と、店の今後の事と、山本様の件の段取りやらで、暫し待って貰うようにお願いしていたもんですから」と鬢を掻いた。

「おつたさん達には藩の仕事の事は話さないの」

「へぇ、あっしも舞い上がっちまって、手順やらすっ飛ばした感じでして、明日にでも丸山様に相談して見ます。それ次第によっては話さねぇかも知れません。女将さんには申し訳無いですが、暫く黙っていてもらえませんでしょうかね」

「わかりました。でも私には経過を教えてください。話せる範囲で良いですから」

「へい、わかりやした」と辰五郎は快く返事をした。

その如才ない様子を見ながら由佳は、先日茉莉花が下屋敷で口走った「お庭番」の言葉に、渋谷が反応したのを見て、辰五郎は中間を装ったお庭番だと確信した。

しかし、今それを問いただしても本当のことは言って貰えないだろう。もしかして、おつたとの事も任務の一部かも知れないと思ったが、心の中ですぐに打ち消して、辰五郎のおつたへの気持ちは本物だと自分に言い聞かせた。






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