第10話
師走に入り、坂を上って吹く潮風がますます冷たく感じる様になった。
先日の誘拐騒ぎは増田の働きかけもあって、少々の取調べはあったものの、雛屋はかどわかしの罪で菊太郎と共に江戸払いとなり店を畳むことになったそうだ。
政次は余罪もあって遠島になり、室井の件での大蔵へのお咎めは特に無かった。
増田の話では、雛屋は時渡りの事をしきりに番屋で話したそうだが誰も取り合ってくれず、
増田も「何の事やら」と白を切ったため、特に追求もされなかったとほっとしていた。
丸山と一緒に辰五郎が出かけてから一回り(一週間)は経った。
そろそろ何らかの連絡があっても良さそうなのだが、時折様子を見に来てくれる下屋敷の増田のところにも何の連絡も無いらしい。
いい加減やきもきした日々を過ごし、かと言って連絡の取りようも無く、いつものように
仕込みを済まし、店を開けたとき、「女将さん、今戻りました」と朝日の中、辰五郎が帰って来た。もちろんおつたも一緒だ。二人の急なお出ましに「おふきちゃん、おふきちゃん」と慌てて呼びかけた。
裏で薪の準備をしていたおふきと茉莉花が何事かと顔を出したが、辰五郎とおつたを認めると
「おっかぁ」と「辰さん」と駆け寄ってきた。
辰五郎によると、夕べは板橋宿に泊まったが、朝早くに宿を出て、一気に高輪まで来たそうだ。
「近くまで来たら気が急いてしまって、辰五郎さんに無理を言って早立ちしてもらったんです」と疲れも見せずおつたが微笑む。
「いやぁ、おつたさんの健脚にはびっくりしましたぜ」と辰五郎も無事戻って来れた事にほっとしたのか、笑顔がこぼれたがその笑顔になんとなく照れが混じったような気がして、由佳はちょっとおやっと思った。
「それよりさ、大変だったんだよ」と茉莉花が辰五郎に先日起こった事件を話した。
おふきも加わり、身振り手振りで事件のあらましを辰五郎とおつたに説明する。
「なんてこった、あっしらが出掛けたその日にそんな事があったなんて、皆さん無事で本当によござんした」と辰五郎が言うと、
「本当に皆さんに助けていただいて、おふきは果報者です」とおつたが涙ぐむ。
「大事な娘さんを危険な目に逢わせてしまって本当に申し訳ありませんでした」と由佳は頭を下げた。
「あの」と表から文太が顔を覗かせた。
「あら文太どうしたの入って来なよ」茉莉花に言われおずおずと入って来た。
「辰さんお帰りなさい」と神妙に挨拶する。
「おう、文太、留守の間世話かけたな。色々大変だったって。ありがとうな」と辰五郎に言われ照れくさそうにぺこんと頭を下げた。
「あんたが文太ちゃんかい、話しは聞いているよ、おふきの母親のおつただぁ。今日からよろしくおねげぇしますね」
とおつたに言われ、ぶっきらぼうに「あぁ」とだけ答えた。
「どうしたの文太、照れてるの」と茉莉花にからかわれたが、
「違ぇやい。それより今日はの配達はあるのかい」
「今のところ配達は無いけど、先ずは朝ごはんを食べて、仕事はそれからだよ」と座らせる。
文太はおつたの方を見ようともせず、黙々と朝ごはんを食べた。
辰五郎は下屋敷に帰参の報告に行くと出て行き、おふきにはおつたを二階に案内し、とりあえず休む様に言った。
積もる話もあるだろう、暫く店はいいよと由佳は声を掛けた。
飯を食べ、お茶をすすっていた文太に「文太、お父さんの具合はどう」と由佳が聞いた。
最近益々調子が悪くなり、寝たきりの様だと名主から聞いていたからだ。
「あぁ、飯もあまり食えねぇし、最近はずっと頭もぼんやりしているんだ」
「お医者には診せたの」と茉莉花も心配顔で聞くが、
「前に診せた時にもう治らねぇって言われたんで、それっきりさ」
「そんな」
「酒の飲みすぎで肝の臓がやられちまったら治らねぇんだと、仕方ねぇ自業自得だ」
と硬い顔で言い放つ文太にそれ以上は何も言えず二人は顔を見合わせた。
午前中のお客はいつもと変わらず、お昼近くなって少し混んだが、大慌てするほどでも無かった。
午後になっておつたが、
「すっかり休ませて貰って、申し訳ねぇ。手伝いをさせてくだせぇ」と二階から降りて来た。
「着いたばかりだからまだ休んでていいよ、今日はそんなに忙しくないから」と言ったが、ゆっくりして居られないと言う。
それならばと、由佳は前々から考えていた新しい商品の開発を手伝ってもらうことにした。
新商品と言っても肉まんもどきなのだが、以前におふきにおつたは饅頭が作れると聞いたので、まずは饅頭の皮を拵えて貰う。
肉まんの中身はとりあえずはシュウマイと同じにして、イカと野菜で作った餡を包み蒸せば出来上がりだ。
おつたは「へぇ、それなら造作ねぇ」と饅頭の皮を捏ね、器用に餡を包んでイカ饅頭を作ってくれた。
ちょっと遅くなったが皆で試食を兼ねてお昼ご飯にイカ饅頭を食べる事にした。
新しい商品におつたとおふきは「美味しい」と喜んだが、茉莉花は
「やっぱり肉の方が美味しいね、肉汁が出る感じが欲しい」とちょっと物足りなさげだ。
「文太どうこれ売れるかな」と由佳が聞くと、
「こりゃお八つにちょうどいいや。お焼きより手が汚れねぇし、売れるよ女将さん」
と太鼓判を押してくれたので、早速明日から売ってみることにした。
値段はお焼きと同じだが、茉莉花が汁気があったほうがいいと言うのでイカを減らした分白菜を多めにし、醤油で味付けした餡を別につくり、それを入れることにした。
二回目の試作品が出来た頃に辰五郎が帰って来たので、試食してもらった。
「これまた旨いですな、この汁がなんとも言えねぇ」と辰五郎にも好評だったのでこのレシピで作ることにする。
おつたが来て三日が過ぎた。
イカ饅頭も好評で、すぐに評判になり、新しいもの好きの江戸の若い娘達が列を成した。
おつたはこんなにも人が来るのかと最初は驚いていたが、毎日せっせと饅頭作りに精を出した。
「今月の集まりは下屋敷だよね、その日はこの前文左衛門さんに貰った着物を着て行くんでしょ」
と茉莉花に言われ、由佳は思い出した。
そうだった。お屋敷に行くにはちゃんとしないといけないだろう。
帯締めやしごきは先日横山が店まで来てくれて、着物に合わせた物をそろえたので問題ない。
頭は近所の髪結いに来てもらわないといけないが、下手なところには頼めないので辰五郎に手配してもらうつもりだ。
「そうだね、若様も来るし、その日はおめかししなきゃね」と言うと、
「めんどくさいなぁ」とぼやくが茉莉花はちょっと嬉しそうだ。
昼の忙しい時間を過ぎた頃、錦屋の若旦那が尋ねて来た。
「先日はありがとうございました、お蔭様で無事開店することが出来ました。ご挨拶が遅くなり申し訳ございません。これはほんの気持ちでございます。どうかお納めください」と取り出したのは簪と櫛だった。
「なんでも近日川越藩の下屋敷においでになるとか、差し出がましいとは思いましたが、亀屋様とも相談いたしまして、こちらを使っていただければと思い選ばせていただきました」
見ると簪も櫛も凝った作りで、値が張りそうな品物だった。
由佳には黒塗りに古典柄の櫛と鼈甲の簪、茉莉花には赤塗りで白い花が描いてある櫛と銀細工の簪だ。
「そんな大した事はしていませんので、こんな高価な物はいただけません」恐縮する由佳に
「実は隣の雛屋の一件を聞きまして、手前どものせいで楠田様には大変ご迷惑をおかけしました。そのお詫びも兼ねての品でございます」
「その件でしたら大変だったのはおふきちゃんと文太ですから」と言うと、
「承知しております。それで、おふきさんにはこちらを、そして小僧さんには簪と言うわけにはいきませんので、些少で大変恐縮ではございますが、こちらをお渡しください」
と箱と袱紗を押して寄こした。
おふきと文太への品は受け取ったが、私達にはと由佳が更に躊躇すると、
「実はこの櫛ですが、茉莉花さんのお名前はマツリカという花のことだと亀屋様から聞きまして、たいそう珍しい花だと言うことで調べました。すると元禄に狩野家の画家が写生したものがある事が判りまして、その絵の模写を手に入れて絵師に描かせたものにございます。ですからこれは是非茉莉花さんに挿していただきとう思います」
錦屋は櫛を手にとって茉莉花に渡した。
「ほんとうだ、ジャスミンの花だよお母さん。写生があったんだね」と嬉しそうだ。
「そこまで気を使っていただいてありがとうございます。それでは遠慮なく頂戴することにいたします」と由佳に言われほっとした錦屋は、根付の評判の話し今後の展開などを楽しそうに話して帰って行った。
材料の買出しと町の様子を見に行っていたおつた母娘と文太が帰って来た。
さっそく、錦屋がたずねてきて、皆にお礼の品を置いていったことを話した。
文太は懐紙の包みを開け、そこに入っていた二分金を見て、
「おいら急に金周りが良くなったみてぇでなんだか怖いや」と喜び、これも預ってくれと由佳に渡した。
おふきは箱をあけ息を呑んだ。そこには茉莉花と同じ様な赤塗りの櫛と銀細工の簪が入っていた。
櫛には石蕗の絵が施されていて、つややかな緑の葉と可憐な黄色い花が描かれていた。これも又、錦屋の気配りだろう。
おふきは押し抱く様に櫛を持ち、
「おらこんなきれいな石蕗を見たのは初めてだぁ。おっ母さん石蕗って綺麗だったんだねぇ」とおつたに見せた。
「ほんに、けんど、本当にこんな立派なものをいただいてもよろしいんでしょうか」と銀細工の簪と櫛を交互に見ながらおつたが不安そうに誰とも無く聞いた。
「大丈夫だって、雛屋が店を畳んだから、雛屋のお客も錦屋に流れて、売上がいいらしいよ。遠慮なく貰っとこうよ」と茉莉花に言われ、
「なんだか、雛屋さんが気の毒です」とおふきが嘆息した。
「仕方ねぇよ、雛屋は欲をかいて墓穴を掘っちまったんだ、自業自得だぜ、江戸払いで済んで御の字だぃ。つくづく欲はかくもんじゃねぇや」と文太が大人びた口調で言ったものだから皆笑い出した。
下屋敷での「時の会」の当日、店は休みだが由佳と茉莉花は朝から忙しい。
まずは辰五郎が連れて来た髪結いに髪を結ってもらい、終わったらおつたに着物を着付けて貰う。
茉莉花は窮屈だからギリギリまで着たくないと言ったが、それではおつたが出掛けられないと由佳に叱られ、仕方なく着付けて貰った。
おつたもおふきもついでに髪を結って貰い、全員の支度が出来たのはもう昼近かった。
表で「ごめん」と声がした。大蔵が来た様だ。
辰五郎は髪結いと入れ替えに下屋敷に出かけて行き、店には女だけだったので、表は芯張り棒をかけてあった。
おふきが戸を開け大蔵が入って来たがいつもと違うおふきを見て驚いた顔をした。
今日のおふきは先日もらった着物をと簪を身につけうっすら化粧もしている。
「いらっしゃい大蔵さん」と茉莉花に言われはっと我に返った大蔵は取り繕うように、
「これは皆さん一段と艶やかで、目の保養にござる」と照れたように微笑んだ。
「なにお世辞言っているの、おふきちゃんしか見てなかったくせに」と茉莉花に言われ、
「そんな事はござらん」と大蔵は慌てて手を振り、おふきは赤くなって俯いてしまった。
「ははーん」と意味ありげなうなずきを返した茉莉花の目が狡猾そうに光った。
「こんにちは」と安田が入って来た。入ってくるなり、
「ひゃー皆さん綺麗だ。特に茉莉花ちゃん、すっごくいいよ。うんいい」としきりに褒めた。
「はいはい、お世辞はそこまで、お昼食べてない人は朝作ったおにぎりだけど良かったら食べて」
と遅いお昼ごはんを軽く取り、安田、大蔵と楠田母娘は下屋敷へ、おつたとおふきは買い物に出掛けた。
下屋敷では辰五郎が出迎えてくれた。
長い廊下を渡って通された部屋には、既に山本が来ていた。
部屋には文左衛門の寮にあるそれより更に豪華なテーブルと椅子が用意されていた。
上座にと大蔵に勧められたが、由佳と茉莉花は新参者だからと末席に座らせてもらった。
「皆さんお久しぶりです」
「山本さんお変わりはありませんか江戸には何時出てこられたのですか」
「夕べですよ、それより楠田さんのところは大変だったようですね」
「もうご存知でしたか、今日は叱られちゃうかしら」と由佳は不安になった。
「遅くなってすみません」と横山が入って来た。
これで全員揃った様だ。
しばらくして、丸山、渋谷を従えた若様が現れた。例のごとく上座に両家来を従えて若様が座り、着物姿の楠田母娘を見て、「ほう」と笑顔を向けた。
「それではこれより時の会を始めさせていただきます。先ずは小山殿の件より」と丸山の挨拶で始まった。今日の丸山は少々緊張ぎみだ。
「皆様ご存知の通り、小山殿は必死の捜索にもかかわらず、骸も発見出来ず、当藩としては再滑りしたものとすることにしました。先月のことです」との言葉に皆うなずく。
小山の件は先月の時の会で既にそう報告されていたからだ。
「その後、大蔵様の仮説を元に話し合いを行い、此度再滑りに関して検証することとあいなりました」
「なんと」と大蔵が丸山に注目した。話が見えない他の者はきょとんとしている。
「若様」と丸山が説明を若様に任せた。
「うむ」
「此度の仮説は文左衛門とも話したが、検証に値すると判断したのじゃ。各々の時滑りした時と再滑りする時とは天候や状況が似ておる。そうであるな大蔵」
「憶測ではございますが、そのようなことと思い至った次第でござます。」
「うむ、再度各々方の時滑り時の状況を見直してみたが、大蔵、横山、安田の三名は再現が難しいと思われる」そう言われて三人はそれぞれの表情をした。
大蔵は悟りきってうなずき、横山は嬉しそうだ。安田は不満混じりの複雑な顔をしている。
「そこで、山本に再現が出来ぬか相談したのだ。山本の場合、天候さえ合致すれば可能ではあるまいかと思ってな。して山本は承知してくれたのじゃ」
「えぇ」驚きと共に皆が山本に注目する。
「でも、若様、山本さんは滑ってきたとき大怪我をしたんですよね、万が一、再滑り出来たとしても元の場所で大怪我してしまうかもしれませんよ」と安田が焦って進言した。
「無論その危険性はある。それを承知で山本は引き受けてくれたのだ」
「はい」と山本は悟ったような顔で若様にうなずき返した。
「もちろん危険は承知です。でもやってみる価値がある、そう判断しました」
「死ぬかも知れないんだよ」と安田が山本に心配そうな顔を向けた。
山本は安田に諭す様に言った。
「今の生活はあんがい気に入っていて、このままでもいいかなって思うときもあるんですが、やっぱり僕は元の時代に戻りたいんです。もし怪我をしても向こうなら医術も進んでいるので助かる確率は高いし、万が一死んだとしても親の事を思うと遺体だけでも帰ってあげたがいいと思ったんです」
皆山本の最後の言葉にしんみりした。
遺体だけでも帰る。確かにそれは最悪の場合のせめてもの親孝行かもしれない。
「でも、元の時代に戻れるかは判らないんだよね」と茉莉花がつぶやくと、皆はっとして若様を見た。
「確かに、それはばかりは賭けだ」と若様は神妙に答え、山本もうなずく。
「万が一再滑りせず何事も起こらなかった時の為にこちら側には山本様をお救いする仕掛けを用意いたします。そのため、先日私と辰五郎が下見をし、段取りをしておきました」と丸山が皆の心配を先取りして報告した。
先日辰五郎が丸山と川越に行ったのはその為だったのかと由佳はひとり納得した。
「年が明けたら仕掛けの制作に取り掛かります。その時は又、辰五郎をお借りしますので、楠田さんには申し訳ありませんがそのつもりでいてください」と丸山が付け加えた。
「承知しました」と由佳が答えたが、
「何で辰さんがわざわざ行くのかな」と茉莉花が小声で由佳に聞いた。
「辰さんて実はお庭番とか」と何気なく行った茉莉花の言葉に、今まで無言で控えていた渋谷がじろりと茉莉花を見た。
渋谷に睨まれて茉莉花が首をすくめそれ以上は何も言わなかった。
どうやら触れてはいけない事らしい。
「仕掛けが出来ましたら、その後天気を見計らい実行に移します。天気次第ですので、皆様には事前にお知らせすることが出来ません。その旨をお伝えしておきます」とさらに丸山が皆を見回しながら伝えた。
と言うことは今日が山本に会える最後かも知れない訳だ。
安田は寂しそうに「じゃぁ今日は思いっきり山本さんと飲もうかな」と言い、大蔵も、
「大いに語りましょうぞ」と言った。
「次に、楠田さんの一件についての話です」名前を呼ばれ由佳と茉莉花はギクッとした。
先日の誘拐騒ぎの件でお叱りを受けるのかもしれない。覚悟はしてきたが緊張する。
「先日の雛屋による煮売り屋まつりの手伝いおふき、文太の誘拐について、増田から一件落着の報告を受けております」
誘拐と聞いて事情を知らない横山が驚いて「どういう事なんです」と聞いたので丸山が事件の内容をかいつまんで話した。
それを聞いた横山は、
「大変な目にあいましたね、誰も怪我しなくて良かった。しかし、なぜ雛屋は時滑りの事を知っていたのでしょうか」と問うた。
「それについては藩の方で調べを進めています」とだけ答え若様のほうを伺った。
「うむ、思ったとおり時滑りは他の藩でも起こっているようじゃ。雛屋もどこかで聞いたのだろう、今回はたまたま相手が悪かったのか良かったのか大事無くてよかったが、今後も起こるやも知れぬ。皆、約定を守って気をつけて暮らすよう」
と若様に言われ、由佳は「ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」と頭を下げた。
その後は各自の近況報告をした。
横山は特に変わった事はなく、安田も先日の事件以外何も無いと報告した。
大蔵は先日の対決の事を侘びたが、すでに浪人室井の件はお咎めなしとなっていた為、
この件は川越藩も終わりにする事となった。
由佳は再度、安田と大蔵に先日の件のお礼をいい、増田に世話になった事を報告した。
店はおふきの母親が来た事、文太の面倒を見ている事を報告したが、文太について、雛屋の一件で時滑りの事を聞いたようでおふきに聞いて来たらしいが、おふきは「さぁ」と誤魔化したらしいことを話し、文太に伝えたが良いか判断をお願いしたいと話した。
大蔵も文太に聞かれたが答えてはいない事を付け加えた。
若様は暫く思案していたが、いずれは話す事になるかもしれないが、いま少し様子を見るようにと言われた。
報告会は終わり、今日は下屋敷で食事が出るというので、支度が出来るまでしばし休憩となった。
支度を待つ間、「楠田どの、庭を案内しよう」と言われたので茉莉花と由佳は若様と庭に出た。
丁寧に刈り込まれた松や岩、池などで構成してある庭は所謂日本庭園だ。
飛び石を歩きながら「店のほうはどうじゃ」と聞かれたの由佳は最近売り出したイカシュウマイと、おつたが来てから始めたイカ饅頭の話しをした。
若様は「それはうまそうじゃな、下屋敷に居る間に賞味したいものじゃ」と屈託無い笑顔を見せた。
「しかし、茉莉花どのは今日は一段と女っぷりが上がっておるの。そうしておると時滑りであることを忘れそうじゃ」と褒めてくれた。
「ありがとうございます。」と茉莉花は神妙にお礼を言った。
「でも着慣れないので、早く帰って脱ぎたいです」と色気の無いことを言った。
若様は「そう言うな、今日は皆とゆっくり話しをしたいと思っておるのだから」と笑った。
「そういえば、ちょっと聞いていいですか」と茉莉花が若様に聞くと共に、由佳のほうをちらりと見たので、
由佳は気を利かせて、「ちょっと失礼します」と離れて行った。
「なんだ、母御に聞かれたく無い話か」
「いえ、そうじゃ無いけど」
「なんじゃ話してみよ」
「時滑りの約定に『一つ、この時代の人間と婚姻をしたり、子を成してはならない』ってあるけど、どうしてですか」
「それは今回の小山の様に突然再滑りした場合、残された者が悲しむからじゃ。それに、本来はこの世に居らぬ者との間に子どもが生まれたら歴史が変わってしまうかもしれぬであろう。ま、憶測でしかないのだがな。生まれてみて育ってみないことにはわからん話だが」
「確かにややこしい事になってしまうかも知れないですね」と茉莉花はがっかりしたようにつぶやいた。
「なんだ、たれぞ好きおうた者でも出来たのか」と若様に聞かれ慌てて、
「違います、私じゃないです」と慌てて否定した。
「ならばなぜそのような事を気にするのじゃ」
「実は、これはまだ私の勝手な思い込みかもしれないけど、おふきちゃんと大蔵さんはお互いに好きなんじゃないかと思ったから、もし二人が上手く行けばいいなって思って」
「ほう、大蔵殿とおふきがの。しかし」若様は言葉をきってまだ固い蕾のがついたばかりの梅の木を見上げた。
しばらく沈黙の後若様はこう言った。
今回の説で言うと、大蔵が元の時代に戻るのは再現が難しく、小山みたいに再滑りすることは無いだろう。
しかし、一度滑って来た人間が他の時代に行ってしまわないという保証は無い。
万が一、もう二度と何処にも行かないと仮定して、もし、二人が結婚して子どもが出来たとしたら、その子どもは普通に育つのだろうか、未来の大蔵家になんら影響を及ぼすのではないのか、全く予測がつかない。
そういった不確かな状態で所帯を持たせるのははばかられる。と言うことだ。
確かに二人の未来には不安定要素ばかりで、
「やっぱり、二人は付き合ったら駄目なんですね」茉莉花はため息をついた。
「そうは言ってはおらん、この先どうなろうと添い遂げる自信と覚悟が必要だと言っておるのだ。やはり、伴侶は好きおうた者が良いであろうからの。大蔵は武士であるが、家は無いゆえ町人との結婚もまあ問題なかろう。要は二人しだいじゃな」と言ってくれたので、茉莉花はぱぁっと顔を輝かせた。
そんな茉莉花を優しい眼差しで見つめながら、
「茉莉花どのは平成の世に将来を誓い合った者がおるのか」と聞いた。
「え、許婚とかですかまさか全然そんな年じゃないし、まだまだですよ。考えた事もない」と答えた。
「そうか、まだまだなのか。してそち達は幾つ位で嫁に行くのじゃ」
「早い人は十九歳とかで結婚する人もいるけど、大体二十五歳から三十歳までの間じゃないかな」との答えに、
「なんと、大年増ではないか、予は勘弁だぞ」と若様は大笑いした。
「今の時代じゃ大年増だけど、平成では普通ですよ。お母さんだって二十九で結婚して三一の時私を生んだから」
「そうか、確かに由佳殿は若くしておられる。平成の者はいつまでも若々しいのだな」
「そうですよ。それより若様は結婚とかしないのですか」
「予か、予は次男ゆえ結婚は自由にはならんのだ、いずれかはどこかの大名に婿に出る事が決まっておる」
「やはり相手は選べないのですか」
「そうじゃな、嫡男であれば数多の大名からの薦めがあろうから、評判や好みで選ぶ事は出来るがの、次男はそうも行かぬのじゃ」
「じゃぁ顔も知らない人で、住んだ事の無い処にお婿に行くかも知れないんですね」
「それが普通じゃ。願わくば、心根の優しい姫で有れば良いと思うておる」
「若様も大変なんですね」
「うむ、そなた達の様に自由に恋が出来るのが羨ましいとも思うぞ」と少し寂しそうな顔をした。
思いがけず若様の本音に触れた茉莉花は何と声を掛けていいか判らず押し黙った。
そんな茉莉花の心中を察したのか、
「そうじゃ、そなたの名前のマツリカと言う花だが」と若様は話題を変えた。
「はい」
「何でも暖かい国の花ゆえ、今はまだ江戸では育てるのが出来ぬらしい。文左衛門がゆうておった」
「そうかもしれません、南国の花なので。平成でも品種改良されているかもしれません」
「品種改良とな。そうすれば寒さに強い花になろうが、今はまだ無理じゃな」と云い、うなずく茉莉花を見て、
「そこで、色々調べてもろうたが、マツリカはモクセイという種類の仲間だという話じゃ。
モクセイで今の世で育つのは白モッコウだと知ってな。それも良い香りがする花らしい」
嬉しそうに話をする若様だが、植物の種類に疎い茉莉花はふーんとしか返事のしようが無い。
「もし、予がどこぞの国に婿に入ったら、予はその白モッコウを植えようと思うのじゃ。
時滑り達と過ごした事や、今この時を懐かしく思うことがあろうでな。その時はその花を見てそなた達を思い出すとしよう」
茉莉花は若様の寂しげながらも爽やかな笑顔に少しドキッとした。それを隠すかのように、
「じゃぁ、もし私達が平成に帰ったらその木を探します。若様が婿に行った国を探して、お城の庭を探してみます」
「おお、そうしてくれるか、それは嬉しいかぎりじゃ。何だか未来に繋がるかと思うと胸が躍るようじゃな」と言い、若様は又梅の木に視線を戻して、「無事帰れると良いな」とつぶやいた。
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