第9話

霜月の晦日前日、その日は朝から雨が降っていた。久しぶりの雨だが、冬も深まって来ていて気温もぐっと下がり、このままだと雪になるかも知れないと言う空模様だ。

「こんな日に遠出は大変だけど、藩の御用じゃ仕方ないですね。気をつけて行ってください」

店先で旅姿の辰五郎に弁当を渡しながらねぎらいの言葉をかける。

「なんの、これしきの雨じゃ苦になりません、急ぎ足で歩けば暑いくらいでさぁ」

この時代の人たちは何しろ健脚だ。今日中に川越までたどり着くと言う。

「おはようございます」同じく旅姿の丸山も到着した。

「おはようございます。丸山様も気をつけてお出かけください」と頭を下げる。

「しばし辰五郎をお借りします。帰りは別になる予定です。辰五郎は名栗に立ち寄るのであったな」

「へい、おふきさんのおっ母さんを迎えに行きます」

「うむ、そうであった。おふき、楽しみだな」といつもの笑顔だ。

「文太、大変だろうが頼むぞ、万が一何かあったらすぐに下屋敷に知らせに行くんだぞ」と辰五郎に言われ、

「がってんだぃ、任せておくれ」と文太は胸を叩いた。

「本当に誰かを寄こさなくて良かったのですか男手があった方が私は安心ですが」という丸山に

「大丈夫ですよ、文太もれっきとした男だし、安田さんも大蔵さんも気にかけてくれていますので」

「そうですか、それでは皆さんくれぐれも気をつけてください」そういうと霧雨の中二人は川越を目指し出掛けていった。


「しかし寒いね~今日って配達あったっけ」と着膨れした茉莉花がお茶をすすりながら聞いた。

「白金の方に二軒あるよ。海風の近くでそんなに遠く無いし、雨が小降りのうちに行ってくれば」

「うーん、寒いなぁ」と行きたくなさそうな茉莉花を思いやってか

「今日は私が行きますよ」とおふきが言ってくれた。

「え、本当、悪いね、じゃぁおふきちゃんにお願いしてもいいかな」ととたんに元気だ。

「茉莉花さんは寒がりだなぁ、まぁ西国育ちじゃ仕方ないや、おふきちゃんおいらと一緒にひとっ走り行って来ようぜ」と文太も諦め顔だ。

「おふきちゃん悪いけどお願いするね。そうだ、今日は寒いし雨だから袴を穿いて行けばそのほうが早く歩けるよ」

「そうですね、じゃあ茉莉花さん貸してくださいな」

「うん、上着も貸してあげる。あったかいよ」

と茉莉花の袴と上着を借りて、足元をこしらえて

「それじゃ行って来ます。すぐに戻りますから」と文太と雨の中出かけて行った。


「おふきちゃん寒くないかぃ」

「大丈夫よ、名栗はもっと寒いところだし、それに袴って足元があったかいね。歩きやすいし、冬の間は私も店で袴にしようかな」

「えー、それじゃ看板娘が居なくなっちまうよ、やっぱ女は着物でしゃなりってしてなきゃ」

「まぁ、ませた口利いて」

ふたりは傘を差しているのも忘れるくらい軽やかに白金を目指していった。


「あれか」と深編笠越しに人の様子を伺っていた侍と思われる長身の男がもう一人の男に聞いた。

「へぇ、傘をさしていますが、いつもの二人連れだと思いやす」

「このまま白金の辺りまで行くようだな」

「そのようです。どの辺りで仕掛けますか」

「今日は都合よく雨だ。そう人通りも多くない、このまま後をつけて人気が切れたあたりで一気に済ませてしまおう。駕籠は用意してあるか」

「へい、この先の松平様のお屋敷の辺りに用意しております」

ふたりはその後なにやら相談して二手方向に分かれて行った。


白金横町にある「海風」の二階ではようやく安田が目を覚ました頃だった。

障子を開け、「ちぇっ、今日は雨か、どおりで寒いと思ったよ」と伸びをしながら通りを眺めた。

傘を差し歩いていた二人に気づき「あれ、文太と茉莉花ちゃんじゃない」と声をかけた。

声をかけられ見上げた二人を見て、

「なんだ、今日はおふきちゃんか、袴なんか穿いているからてっきり茉莉花ちゃんかと思ったよ」

「安田さんおはようございます」

「安田さんおはよう、今日はおふきちゃんだよ、がっかりしたかい」と文太も笑って冷やかす。

気さくな安田と文太はすぐに仲良くなり、軽口を叩くような間柄になっていた。

「何言ってんだよぉ文太は、でも雨の中ご苦労さん、何処まで行くの」

「この先のお宮さんの手前辺りまでです」

「じゃあ、帰りに寄りなよ、お茶でも入れて待っているから。暖まってから帰るといいよ」

「ありがとうございます。それじゃ遠慮なく寄らせてもらいます」

「あぁ、安田さん茶菓子も用意して待っててくんな」

「これ、文太ったら」

二人を見送って、障子を閉めようとしたとき、ふと何かが気になった。

改めてそっと表を見ると、二人から百メートルほど離れた家の影に、深編笠をを被った浪人風の男が隠れるのが見えた。

不審に思った安田はそのまま様子を見たが、男が出てくる気配は無い。

「気のせいか」なんとなく気になったが火をおこすため窓を離れ階下に下りていった。


「危なかった、この辺りに見知った者が居たとは厄介だな。さてどうするか」ひとりごちた男は表通りには戻らず、裏の畑まで来た。

「旦那」ふいに声をかけられ、鯉口を切りながら振り向いたが、「お前か」

「へぇ、どういたしやすかこの辺りではまずぅございます」

「お前も見ておったか」とうなずく。

「手前の高野寺の辺りがよろしいかと思いますがいかがでしょう」侍はしばらく思案したが、

「そうだな、それしかあるまい。駕籠を回しておけ」と指示をし、今来た道を引き返していった


「あー寒い、寒い」勢い良く戸を開けて文太が飛び込んで来た。

「おじゃまします」傘を畳みながらおふきも後に続く。

「お疲れさん、何にも無いけど火のそばに来てあったまりなよ」と安田が椅子を薦めてくれた。

「こんな物しか無いけど」と大福と暖かいお茶を出してくれたので、文太は

「やった大福だ」と早速手を出した。

「お手数をおかけします」とおふきも遠慮がちにお茶をすすった。

しばらく店の話や、今日出かけた丸山達の話をしたのち、

「そろそろ帰らないと心配されるから」とおふきと文太は帰って行った。

「又遊びに寄りなよ」と二人を見送った安田だった。

先ほどの男がちらっと胸を掠めたが、いつもと変わらない町並みと雨の中の仕入れの事に気を取られてに直ぐに忘れてしまった。


「すっかり時間食ってしまったね、おふきちゃん、早く帰らないと雪に変わりそうだよ」

「そうね、でも帰りは下りだから転ばないようにね」そういいながら二人は急ぎ足で来た道を引き返して行った。

この先を曲がれば、後半分という高野寺の辺りに差し掛かった。

高野寺は、江戸在番所として浅草日輪寺に寄留して開創されたお寺だ。元禄十五年(1702年)の災火により焼失したが、翌一六年に復興され、御府内八十八箇所の一番札所と言うこともあって普段は参拝客で賑わっている。

しかし今日は朝からの雨と冷え込みで参拝客はみえなかった。


「今度おっ母さんとここにもお参りに来よう」そう思いながら通り過ぎようとしたとき、ふいに影から侍が出てきた。

見知らぬ侍に腰をかがめて脇を過ぎようとしたとき、

「待て、そのほうら、煮売り屋まつりの者だな」と声をかけられた。

とっさの問いかけに不審に思いながらも、

「そうです。何か御用でしょうか」とおふきは笑顔を向けた。

「ちと、聞きたい事がある、一緒に来てもらおうか」と顎で後ろを示した。

見ると怪しげな町人と駕籠が見えた。何だか嫌な予感がした二人は、

「あいにく今急いで店に戻る途中です。お話でしたらお店で伺いますので、ご足労ですがお店までお越しください」それではとお辞儀して立ち去ろうとしたが、

「同行出来ないと申すなら仕方ない、おい政次」と侍が声をかけたとたん、

政次と呼ばれた怪しげな町人がおふきの手を掴み、強引に駕籠に乗せようとした。

「何するんだぃ、おふきちゃんに手を出すな」と文太が政次の手に噛み付いた。

「いてぇ、何するんだいこの餓鬼はよ」と反対の手で文太を張り倒した。それでも文太は直ぐに起き上がり、果敢に政に食らい付こうとした。

「おい、早くしろ人が来る」そう侍にせかされて政次は文太の鳩尾に拳骨をくれた。ぐったり倒れこんだ文太を見て、おふきは

「文太、誰か、助けて」と助けを呼ぼうとしたが同じく鳩尾にこぶしを当てられ、意識が遠のいてしまった。

「旦那、どうしますこの餓鬼は」と噛まれた手をさすりながら政次と呼ばれた男が文太を足で小突いた。

「仕方あるまい、ここに置いても行けぬ。一緒に駕籠に乗せて運んでしまおう」

足で小突かれ意識を戻した文太だったが、二人の会話を聞き、意識が戻ったことを気づかれないように目を瞑ったままそっと首にかけていたお守りを引き千切って落とした。


「おい駕籠屋、早く運んでくれ」と言われ木陰に隠れていた駕籠かきの二人が駕籠の前後についたが、

「あの~これって拐わかしじゃぁ、面倒はごめんですぜい」とおずおずと気後れした様子を見せた。

「お前達はあれこれ考えなくてもいいんだよ、言われたとおりに運びやがれ」と政次にどやされ、慌てて担ぎ上げた。


「二人とも遅いね」と暇な店先で茉莉花が外を眺めながら呟いた。

「そうだね、きっと安田さんの所に寄って、お茶でもしてるんじゃないかなまあ、今日は暇だからゆっくり帰ってきても大丈夫だよ。お昼までには帰ってくるでしょう」

「ごめん」

「あ、大蔵さん。いらっしゃい」

「どうされたんですか、今日は寺子屋はもうおしまいですか」とお茶を出しながら聞くと、

「今日はこの後雪になりそうですし、子ども達に風邪をひかせてもいけないので、昼前で早終いにし、薪割りの手伝いでもしようと思い来てみました」

「それは、わざわざありがとうございます。でも流石にこの天気で暇ですし、今日のところは薪も足りています。それより、大蔵さんお昼はまだですよね今日はお菜が沢山あまりそうだからお昼を食べてってください。うどんに天ぷらを乗せると美味しいですよ」

「それはかたじけないが、遠慮なくいただきます」と言いながらさりげなく店を見回した。

「おふきどのと文太は出かけているのですか」とこれまたさりげなく聞く。

「はい、白金辺りまで配達に行って貰っています」

「それにしては帰りが遅いって話をしていたんですよ、安田さんの所で油でも売ってるんじゃないかって」と茉莉花が言った。

「安田さんも仕入れに行く前に立ち寄ってくれないかしら、一緒にお昼ご飯に出来るのに」との由佳の提案に、

「それならば、私が迎えがてら安田さんも連れて来ましょう」と大蔵が請け負ってくれた。


安田は店の掃除を終え、そろそろ仕入れに行こうか、お昼を食べようか思案しているところだった。

「ごめん、おられるか」と表で大蔵の声がした。

「あれ、大蔵さん今日は早いですね」とにこやかに挨拶したが、店を覗いた大蔵は一瞬にして険しい顔になり、

「文太とおふきどのは来なかったか」と聞いてきた。

「ええ、寄ってお茶をしていきましたが、もう一刻ほど前に帰りましたよ」と答えると、大蔵は畳みかかけた傘を放り出して駆け出した。

何事か判らず、うろたえた安田だったが、とりあえず大蔵を追う。

「ど、どうしたんですか一体」

大蔵は走りながら、「二人はまだ店に戻っておらず、楠田どのに安田どのと一緒に昼餉を誘われたので拙者が迎えにきたのです。途中すれ違うはずもなく、まさかとは思うが」と説明した。

高野寺の辺りの分かれ道まで来たとき、大蔵は足元のぬかるみを凝視した。

雨にぬかるんでいたが、数人の足跡が残っていた。

「何人かが此処に居たようだが、ただの参拝客か」と思案したが万が一を考え、

「安田さん、この辺りをくまなく調べてみてください」と指示をした。

「わかりました」と事態を把握した安田も大蔵と反対側を見てみる。


「あっ、大蔵さん、これ」とぬかるみの中から紐がついた汚れた小袋を見つけた。

「これ確か文太がつけていたお守りです。おっ母さんに貰ったと言っていました」

「やはり、そうか、間違いない、どうやら二人はかどわかされた様だ」と大蔵は断言した。

「そんな、一体だれが」安田は怒りながら周りを見回したが、はっと気がついた。

「まさか、あの時の侍か」と思い立った。

「何か見たのか」

「二人の後をつけているように見えた侍を見たのです。気のせいかと思ったんだけど、俺って馬鹿だな」と頭を抱える。

「侍か、最初からまつりの者だと知っていて後をつけたのだろう。目的は一体何か。時滑りに関する事だとしたら厄介だな」

周りを見渡しても人はまばらで、どっちに連れて行かれたかも判らない。

いつしか雨はみぞれに変わっていた。

とりあえず二人はまつりに戻ることにした。

大蔵からの報告と考えを聞いた由佳と茉莉花は顔面蒼白になり、

由佳が「もしかしたらおふきちゃんは茉莉花と間違われて攫われたのかも知れない」と言うと茉莉花は泣き出してしまった。

自分がおふきちゃんに代わって貰ったせいで、おふきちゃんを危険な目に合わせてしまった、おつたさんに申し訳ない、と。


「とりあえず安田さんは下屋敷に連絡してください。丸山様は居られぬが変わりの誰かが来てくれるでしょう」と由佳は願った。

「判った」と安田は飛び出して行った。


「しかし、一体誰がこんな事をしたのでしょう。時滑りの事を知りたいからでしょうか」

「まだそうとは決まっていません。他に目的があるのかも知れませんし」

「文太のお父さんにも知らせないと、病気で寝ているのに心配かけてしまうね」と茉莉花に言われ、

「それならばそれがしが伝えてまいります。その前に名主にも声をかけておきますので」

「私達はどうすればいいでしょうか」

「とりあえず安田さんを待って、お屋敷の方の指示に従いましょう。それまでは心配でしょうが此処でお待ちください」

「わかりました。何も出来ないのはもどかしいですが、仕方ありません」と由佳は大蔵の言葉に頷いた。


安田は直ぐに下屋敷の人間を連れて帰って来た。増田と名乗る武士と山下と言う中間の二人が来てくれた。

挨拶もそこそこに現状の説明をする。

「ともあれ相手の目的が判りかねますので、藩としても下手に動けません。思い当たる大名家にはそれとなく聞いてみることも出来ますが、様子を探るには時間がかかりすぎます。まずは、地元の者に頼んで、近隣の捜索をお願いしましょう」と決めた。

中間の山下に指示を出し、番屋まで言付けて貰う。


大蔵が名主を伴って帰ってきた。

「楠田さん、なんだか、大変な事になってしまいましたね」

「名主さん、申し訳ありません、文太まで巻き込まれてしまって、なんと言ってお詫びすればいいやら。それで文太のお父さんはどうしていますか」

「先ほど見てきたのですが、うつらうつらしていましてね、意識もはっきりしたりしなかったりの様子で、当然此処まで歩いては来れませんので、私が代わりに来た次第で」

「そうですか」そっちはそっちで心配だが、今は文太とおふきの事が優先だ。

山下が戻って来て、土地の岡っ引きと火消しの者達が捜索に出てくれたことを告げた。何かあればまつりに報告してくれるそうだ。

「それでは私達も捜索に加わりましょう。手分けして探して、日が暮れる前に一旦店に集まり報告することにします」と増田が指示を出した。

「楠田さんはそれまで此処でお待ちください」

「いえ、私達も探すのを手伝わせてください」と茉莉花が増田に詰め寄ったが、

「女子はこういうときはおとなしく待つものです。それに大勢の人間が手伝ってくれていますので、出来れば炊き出しをして待っていてください」

「お嬢さん、お武家様の言うとおりです。私も年寄りで足手まといになるので、此処で炊き出しの手伝いをしますから、ね」

と名主に言われ茉莉花はしぶしぶうなずいた。

霙は何時しか牡丹雪混じりになり、空も暗くなって来た中、増田達は駆け出して行った。


文太は駕籠に入れられてもしばらくはじっとしていた。ここで下手に騒いでもかえって危険だと思い、駕籠に揺られながら何処に向かおうとしているのか探る事にした。どうやら今は坂道を登っているようだ。

痛む鳩尾をさすり、骨は折れていないようだと安心したが、まだ気がついていないおふきが気にかかる。

何とかして、駕籠の行き先を知らせる手立てはないだろうかと考えたが、おふきの持つ巾着に集金した小銭しか思いつかない。

小銭だと落としても誰かが拾ってしまって手がかりにはならないし、落としたときに音がすれば気づかれてしまう。

思案していると、おふきの袂辺りから鳥の羽が出ている事に気がついた。そっと引っ張ってみる。

白い中に黒とも茶とも言える柄が入った羽が縫い目の間から出てきた。縫い目を探るともっと出てきそうだ。

「こりゃ、茉莉花さんの上着から出ているのか、茉莉花さんの上着は鳥の羽を使っているのか」と流石は長崎帰りだと感心しながらも、駕籠のすだれの裾をそっと開き、羽を一枚落とした。

直ぐに見えなくなったが、羽は霙混じりの雨に打たれ、舞うことも無く道端に落ちたようだ。

文太は気づかれないように注意し時々羽を落としながら祈った。

「頼むから誰かこれに気がついてくれよな」


半刻ほど駕籠に揺られただろうか、途中橋を渡るような足音がした。川を渡ったのだろう。

ここはどの辺りだろうと文太が思った頃駕籠が止まった。

木の戸を叩く音がし、しばらくして戸が開き、その後門の閂が外される音と、軋みと共に門が開く音がした。

「こりゃなかなか大きなお屋敷だぜ」と文太は思ったが今はじっとしているしかない。

「よし、ここで下ろせ」と言われ駕籠が下ろされた。


「室井様ご苦労様にございます」菊太郎が出てきた。

「旦那様ももう直ぐ来られますので、娘を奥までお連れください」

「随分立派な屋敷だな」と室井は屋敷を見上げて行った。

「はい、こちらはさるお寺の持ち物ですが、旦那様に仲介される方の身分を想定して、それに見合った場所と思い借り受けました」と菊太郎は自慢げに説明した。

「なるほど、抜かりが無いな」と室井は頷き、籠のすだれを上げた。

「あ、室井様、小僧も一緒ではないですか、それに二人ともぐったりしていて、いったいどうしたんですか」菊太郎は思いがけず室井と政次を見た。

「抵抗したものでちょっとばっかし眠ってもらいやした。何、直ぐに気がつきまさぁ」と政次が説明する。

「そうですか」と気を取り直した菊太郎は籠屋に二人を奥まで運んでくれるように頼んだ。

「えぇ、あっしらの仕事は此処までですぜ、それ以上なら別料金を頂まさぁ」籠屋は足元を見るように菊太郎に交渉した。

「勘違いしないでいただきたい、ちょっとした手違いがあったようですが、これは拐あかしではありませんから。もちろん御代はきちんとお支払いいたしますよ」そういうと政次と二人で、文太を籠からだし、先に歩き出した。

籠屋は顔を見合わせたが、ここは言うとおりにしたほうが良さそうだと、二人がかりでおふきを奥まで運んだ。

料金を支払う時になって菊太郎が不意に、

「二人を乗せて運べるなんて大層な力持ちでいらっしゃいますが、お二人の何処の籠屋さんですか」と微笑みながら聞いた。

褒められた籠屋は、

「俺達は高輪辺りを流している金弥と剛吉で、二人で金剛籠だぜ」と芝居がかって答えた。

「おお、それは強そうなお名前で、どうりでお二人とも立派なお体です」そうおだてられ、

「おう、俺達は力自慢だからよ、今後も贔屓にしてくんな」と調子に乗った。

「是非そうさせていただきます。それはそうと、お二人とも今日の事はよそ様に他言しないでくださいまし、商いに関わる事ですので、他に漏れると大損ですからね」と口調は丁寧で優しいが有無も言わさぬ様な冷たい目で念を押した。

調子にのって愛想を振りまいていた金弥と剛吉だったが、菊太郎の様子と室井の顔を交互に見てただならぬ気配を感じたのか、

「じゃああっしらはこの辺で」と空の籠を担いでそそくさと出て行った。


 屋敷から暫く離れた辺りで、金弥が剛吉に問いかけた。

「おい、剛吉よ、見たかい、あのお店者の目を」

「ああ、あいつは抜け目のない奴だぜ、侍の方も只者じゃねぇ」

「あいつらあの娘と小僧をどうするつもりなんだろうか」

「大方、吉原か品川に売り飛ばそうって魂胆じゃねぇか」

「なんだって、拐わかしじゃねぇって言っていたじゃねぇか、どうすんだい、もし岡っ引きにでも知れたら俺たちだってただじゃ済まされねぇ。こいつは早い所番屋に知らせたほうが良くねぇか」

「ばかやろう、そんな事したらそれこそ手が後ろに回っちまう。それに本当に拐わかしかどうかわからねぇ、とりあえずこの事は二人の秘密にしておこうぜ」

「本当に大丈夫だろうね」金弥は不安そうに後ろを振り返ったが、雪交じりの夕闇は見通しが悪く、さっきの屋敷も闇に紛れてしまっていた。


その頃、別の籠が屋敷に着き、門前で籠を降りたのは雛屋の主人だった。

おとないを入れると菊太郎が顔を出した。

「これは旦那様、寒いなかご苦労様にございます」と傘を差し出した。

「先方はんはもうお見えでっか」

「はいそれが、仲介された方は急な御用でお帰りになりまして」と菊太郎は嘘をついた。

「なんやて、ほなら今日は無駄足やないか、こない寒い日にわざわざ来たっちゅうに」と雛屋は菊太郎に詰め寄った。

「でも、旦那様、娘さんは奥の部屋でお待ちでございます」と慌てて付け加えた。

「なんや、それを先に言いぃな、ほならお会いしましょ」と玄関を上がった。

「旦那様、それで仲介料の方ですが、お屋敷まで届ける様にとお供の方を残していかれましたので、お渡ししたいのですが」と雛屋の草履をそろえながら手をついて告げた。

「ああ、そやな。ところで、仲介された方はどなたですの、怪しいお人じゃ無いやろな」と振り返って聞いた。

「旦那様それは先方様より口止めされておりまして、昔の奉公先でお世話になった方とだけしかお答えできません。でも間違いの無い方でございます」と菊太郎は笑顔を見せた。

「ふん」と雛屋はちょっと怪訝そうな顔をしたが、

「政次さん、こちらへ」と菊太郎が外に声を掛けると、いかにも小者風の男が「ごめんなすって」と入ってきたを見て、「ははぁん」と思った。

 きっと仲介者は奉行所の同心に違いない、町回りの同心は岡っ引きと言われる手下以外に、政次とやらの様な得体の知れない小者を抱えていて町の情報を集めたりしていると聞いている。

しかしながら給金は奉行所から出る三十俵二人扶持で、探索などに掛かる費用は自腹だそうだ。

そこで、持ち回りの商家から袖の下を貰ったりして虎口をしのいでいるらしい。

菊太郎は以前に深川の方のお店に勤めていたと聞いているので、そのときに知り合ったのだろう。

同心であればこのような屋敷を借りることも造作ないだろうし、話があると呼び出しても疑われることも無く来て貰えるだろう。又、急な用事と言うのも、身分を明かしたくないというのも頷ける。


雛屋は江戸で人を雇い入れるときに全員の素性を全て調べた。

菊太郎は以前の店で内儀と密通したとの事で暇を出されている。

なるほど見た目は良く、店でも若い客に人気だ。押し出しも強く優しげな目の奥には野望も秘めている、そんな人間は嫌いでは無かった。

雛屋はいずれは大番頭になり替わる人物だと踏んでいる。此度の事が上手くいけば出世も考えてやっていいだろう。

雛屋はそこまで考えついて、仲介を頼んだ菊太郎の如才なさに感心した。

「政次さんとやら、そなたさんの旦那様にあんじょう伝えておくれなされ」と自らの手で袱紗を渡した。

菊太郎からお供の者になりきるように言われていた政次は

「へぇ、確かにお預かりいたしやした」と恭しく袱紗を受け取り、

「それでは失礼いたしやす」と頭を下げて出て行った。

「ほな案内しておくれ」と自分の考えに気を良くした雛屋が菊太郎を急かした。


「すっかり雪になったよ、おふきちゃん達大丈夫かな」茉莉花は心配そうに何度も表に出てはため息をついた。

「親分さん達が探してくれているから大丈夫、きっと見つかるよ」そんな根拠は何処にも無いが、今はそう自分にも言い聞かせるしかないと由佳は口にした。

「そうですよ、お嬢さんきっと大丈夫ですから」と名主も慰めてくれた。


「お邪魔しますよ」

「これは親分さん、ご苦労様でございます。こちらが楠田さんです。楠田さん、この界隈で十手を預かってらっしゃる銀次親分ですよ」と名主が紹介してくれた。

「この度はありがとうございます。楠田です」と挨拶すると、

「ありゃ、あんた達は確か、先だって船着場で子どもを助けなさったお方じゃないですか」と驚いた。

「そうです、そうです、それで今回いなくなったのがその時の子どもとこの店の手伝いの娘でして」と文太を助けた後のいきさつを名主が説明してくれた。

「そうだったんですかい、今若いものにも手伝わせて八方探しておりますので、おっつけこちらに報告に来るとおもいやす」

「お手数をおかけします」と頭を下げ、お茶を勧めた。


「ごめんなすって」と若い下っぴきと思われる男が二人入ってきた。銀次の顔と由佳の顔を交互に見て、申し訳なさそうに、

「あっしは品川のほうまで行ってきたんですが、この天気なもんで、表に出ている者も少なく、で何かを見たって奴は居ませんでして」

「あっしの方は中目黒村まで行ったんですが同じ様な按配で」と報告に来た。

「そうけぇ、ご苦労だったな。すまねぇが一休みしたら又行ってくんな」と銀次はすぐにでも二人を行かせるつもりのようだったが、由佳は搜索には体力がいると思い、

「どうぞ、こんな物しかありませんが食べてください」と天ぷらうどんを勧めた。

「へい、それじゃ遠慮なくいただきます」と二人は椅子に座り熱々のうどんをすすった。

そのうち増田と大蔵も帰って来た。お互いの結果を報告しあったがいずれも芳しくない。


今後の捜索方針を考えなければと思案しているとき、相変わらず中と外をうろうろしていた茉莉花が、

「ねぇ、お母さんこれ見て」と何かを手につまんで入って来た。

「何ただの羽じゃない。それがどうしたの」

「だってこの羽、表にあったんだよ、変じゃない」と見せた。

「どっかから飛んで来たんじゃない別に変じゃないよ」と言ったが茉莉花は

「こんな天気の日に飛んで来ないよ。鳥も飛んでないよ。これきっとダウンの羽だよ」と言う。

「えぇ、まさか」

「もしかしたら誰かの足についてきたのかも」と皆が座っているところにしゃがみこんで、

「履物の裏を見せてください」と草履や草鞋を奪うようにして見て回った。

「あった」と銀次の下っぴきの一人の草鞋から羽をつまんで、

「ほらこれ、きっとそうだよ」

「どういうことですかぃ」と困惑顔のみんなにとりあえず興奮している茉莉花の代わりに由佳が説明する。

茉莉花と由佳の上着は長崎で求めた南蛮製の鳥の羽を綿の変わりに入れた上着であること。

今日はおふきが茉莉花の上着を借りて着ていったのだが、たまに縫い目やほころびから羽が出ることがあること。

「だから、それに気づいた二人が目印の変わりに落としたかもしれないじゃん。だから羽を捜せば二人の居所がわかるかも知れないって事だよ」と茉莉花は言う。

「なるほど。それはありえるかも知れませんね」と説明を聞いた増田も同意する。

「おい、おめぇ中目黒村って言っていたな」

「へぇ祐天寺手前まで行ってきやした」

「藁にもすがりたい思いだ。羽を捜しながらもう一度行ってみましょう、雪に埋もれてしまったら困難ですから」と大蔵の声で皆駆け出して行った。


茉莉花は急いで二階に上がり、由佳の上着を手に取ると、

「私も行ってくる」と駆け出した。

「足手まといになるからやめなさい」

「そうですよ、お嬢さんまで危険な目にあうかも知れません」と由佳と名主二人掛かりでと止めようとしたが、「待ってるだけなんて無理」と二人を振り切って、あっという間に飛び出して行った。


皆で道幅いっぱいに広がり、高野寺から中目黒方面に目を凝らしながらくまなく見て歩いた。

しばらく行くと、「親分、ありましたぜ」と下っぴきが声をあげた。

駆け寄って見てみると確かにさっきの羽と同じ様だ。

「よし、松おめぇはこの辺りで聞き込みをして来い」と下っぴきに指示をした。

程なく戻ってきた下っぴきは

「娘と子どもは見ていないが、侍と男を従えた駕籠が目黒川の方に向かったそうです」と聞き込んできた来た。

「きっとそれにちげぇねぇ。目黒川に向かってよく探すんだ」と皆で横一列になって探した。すると橋の手前までに数枚の羽を見つけることが出来た。

「こっちに向かったのは間違い無い。しかし何処まで連れて行かれたかだが」

そう大蔵が思案したとき、下っぴきが、駕籠かきを伴ってやってきた。

二人は懐が暖かくなったのと、後味が悪かったのを払拭するために、塒に帰る前に一杯やって温まろうということで、白金の酒屋で飲んでいた。

そこに居酒屋の表に籠があるのを不振に思って飛び込んできた下っぴきに問いただされて、せっかくの酔いも醒めたように大きい体を小さくして所在なさげに立っていた。

「親分、どうやらこいつ等が娘と子どもを乗せたらしく、連れてきやした。ほらさっさと説明しねぇか」と小突かれて、

「いや、拐わかしじゃねぇって言われたんですがね」と説明した。

「お前ぇ等それでのうのうと飲んでいやがったのか」と銀次親分にどやされ、駕籠かきは

「へぇ、すんません」と首をすくめた。

「それじゃぁ、屋敷まで案内してもらおうか、万が一の時はお前等もただじゃ済まされないぜ」

と脅され駕籠かきは慌てて先頭に立ち案内した。


「こちらのお屋敷です、へぃ」と駕籠屋に案内されて一行は門の前に立った。

軒下に例の羽が落ちていた。それを拾いながら

「間違いないようだな」と大蔵がうなずく。

「ここは誰の屋敷でぇ」と銀次親分が小声で駕籠屋をねめつけたが、駕籠屋は案内されただけで分からないと言った。

裏手に回って様子を見てきた下っぴきが

「裏から入れる場所があります」と報告すると

「ここは二手に分かれて入りやしょう」と銀次の提案で、段取りを話し合っているとき、

「あー、やっと追いついた」と茉莉花が現れた。

「ありゃ、なんでお嬢さんまで来ちまったんだ。お嬢さんの出る幕はねぇよ」と銀次に怖い顔で詰め寄られたが、

「だって心配だったんだもん、じっとなんてしてられないよ」と負けじと睨む。

「まあまあ、来てしまったものは仕様が無い。茉莉花どの、邪魔にならぬ様に私の後方に控えて下さい」と大蔵が助け舟を出し、

「全く、なんて跳ねっ返りだ」と親分は愚痴ったがそれ以上は何も言わなかった。

二手に別れ、屋敷に入り込む。茉莉花は大蔵と一緒に裏木戸に回った。


文太とおふきは奥の座敷に連れて行かれた。いつの間にか辺りは暗くなったようだ。

部屋には行灯も無く、外の光も余り入らない為部屋の様子は分からないが、他に誰かが居る様子は無い。

文太は耳を澄まし、そばに誰も居ないことを確認して体を起こした。傍らにはおふきがぐったり横たわっている。

「おふきちゃん、おふきちゃん、おきてくんなよ」と揺すったり頬を軽く叩いたりして起こそうとした。

やっとこ目を覚まし、

「ここはどこ、私達確か、拐わかされてしまったの」と慌てるおふきに、文太がこれまで判った事を説明した。

「雛屋って確か文左衛門さんのお知り合いの錦屋さんの商売敵じゃなかった」

「そうなのかいとにかく、拐わかしでは無いって言っていたけど油断しちゃだめだぜ」

「わかった。それにしても文太あんた偉いね、良く気を失わなかったよ。あんたが居れば心強いよ」とおふきに言われ文太は照れて頭を掻いた。


廊下を誰かがやってきて障子を開けた。

「これはこれは、今日はわざわざ遠くまで、えろうすみませんでした」と愛想の良い顔で雛屋が入って来た。

「一体おいら達に何の用だぃ、こんな真似してただじゃ済まされねぇぞ」と文太が食って掛かったが、

「何を怒ってはるのやら、ちょっとお聞きしたい事があるだけですねん。それに用があるのはお嬢さんだけですから小僧さんはちょっと黙っといておくれ」と流した、その時、菊太郎が室井を部屋に招き入れ、室井は静かに部屋の隅に座った。

雛屋は一瞬ぎょっとし、菊太郎に訝しげな視線を投げたが、菊太郎は落ち着き払ったままだったので、気を取り直し、話しをし始めた。

「私は雛屋と申しまして、芝で小間物屋を商っております。上方からの下り物を取り扱ってましてね、そりゃあ評判も良く、商いは順調でしたのや。そやけど、近々隣に同じような小間物屋が開店したのですわ。いえね、それ自体は悪い事ではありません、難儀な事ですが、商売とはそういう事もありますさかい。あかんのは、その店の主が開店時の挨拶で、近隣の店や仕入れの問屋に持って行った挨拶の品なんですわ」

と懐から手ぬぐいに包んだ物を見せた。それは茉莉花と由佳が提案し作り方を教えた根付だった。あの時作ったものに千代紙を貼って、更に漆で艶を出し、とても素敵に出来上がっていた。


「あんさん、これ知ってはりますやろ」と聞かれおふきは首を縦に振る。

「これと同じ物を開店の振る舞いで買うてもろうたお客に配りはるらしいのですわ」雛屋は根付を手に取り、

「わてはこれを見たとき、こりゃああかん、こんな粋な物だされたらお客さんは皆取られてしまう。うちの店も何や手を打たなあかん。とあれこれ考えましたんや。そう思案しとった時になこの根付はあんた等が教えはったと小耳に挟みまして、あんたらの事ちょっと調べさせて貰いましたのや」と抜け目のない目でおふきを見た。

「なんでもあんたらは手妻の様に溺れた子どもを生き返らせたって聞きましたんやけど」

「あの、それは」と言い掛けたおふきを抑えて、菊太郎が、

「旦那様、先日お話しました、浜で命を助けられた子どものことですが、その小僧さんがそのときの子どもだそうです」と口を出した。

「おお、そうでしたか、なんや小僧さんも一緒かいなと思いましたがそう言った訳でしたんか」と文太を見てにやりとした。

「な、なんでぇそれがどうしったって言うんだい」と文太の問いに、

「私はねぇ、菊太郎からの報告を聞いて、思い当たったんですねん。これを教えはったお人はもしかしたら時渡りかも知れへんと」根付を持ち上げて二人をじろりと見た。

時渡りときいておふきは息を呑んだ。以前茉莉花達のような者達を時滑りとも時渡りとも言うと聞いていたからだ。

「あんさん、時渡りでっしゃろ」と雛屋に決め付けられ、おふきは

「違います。私は時滑りではありません」と思わず言ってしまった。

それを聞いた雛屋は

「そうですか、そちらはん達は時滑りゆうてますのんか」とにやにやした。

「なんでぇ、さっきから時渡りとか時滑りとか何とか、何だかしらねぇが、まつりの店の人は長崎帰りで川越藩にかかわりがある人たちなんだぜ、こんな事したら藩がだまっちゃいねぇよ」と文太が食って掛かったが

「そうそれですねん、医者でも武士でも無いもの達に長崎帰りだからと言ってお大名家がかかわるのはちとおかしおまへんか。それに店で売っている食べ物も変わってますやろ、あんさんを助けた時も奇妙な方法やったそうやないか」

「そんなこたぁ知らねぇよ。長崎で異人に教わったと聞いたぜ」

「そうですか、そういう事ならそれでよろしいでっしゃろ。あんたらが時滑りなのは黙ってますさかい。その代わりと言ってはなんですが、わてにもなんや知恵を授けて欲しい思いますのや」

「それなら店に来て聞けばいいじゃ無いですか、わざわざこんな事して」

「そうだよ、それにさっきからきいてりゃ、あんた勘違いしているぜ、長崎帰りなのは女将さんと茉莉花さんで、このおふきちゃんは長崎帰りじゃねぇよ。あんたら人違いしたんじゃねぇのかい」と文太がまくし立てた。

それを聞いた雛屋は驚いて、

「えぇ、あんさんは店の娘と違いますの菊太郎どういうことですの」と慌てた。

言われて菊太郎は慌てて行灯に火をともした。そしておふきの顔を見るなり「あっ」と声を上げた。

「あんたは店の手伝いの娘じゃないか、室井さんどういうことですか」と今度は菊太郎が室井に詰め寄った。

「拙者は政次が示した娘を連れて来ただけだ」と室井は穿き捨てた。

「政次さん、政次さん」と菊太郎は障子を開け庭に向かって叫んだ。

「へぇ、なんでしょ」と政次がもみ手をしながら出てきた。

「あんた娘を間違っていますよ、私がお願いしたのはこの娘ではありません」

「えぇ、そんな馬鹿な、いつもそのカルサンを穿いて、その上っ張りを着て二人連れで出歩いているじゃねぇか」と指差しながら叫んだ。

「私は店で働かせてもらっているものです。今日は天気が悪かったから袴と上着を借りたんです」とおふきに言われ、

「しまったぁ、俺ぁてっきりこの娘だと。傘もさしていたんで間違えたか」と政次は頭を抱えた。

「政次さんとやら、あんさんはなぜ今此処におるねんな、あんさんは仲介料を届けにいかれたんと違いますのん、菊太郎、どういうことです、このお人達は誰ですの」と帰ったはずの政次が現れて混乱した雛屋は菊太郎に捲し立てた。

「旦那様、申し訳ありません、仲介者の方が間違えたのだと思います」とこの期に及んでも嘘を吐き通そうとした。

「菊太郎、ほんまに仲介者の紹介ですのんか、無理やり連れて来たんじゃないでしょうな、それにさっきの問いに答えていませんよ、このお人達は誰ですの」と疑いの目で声を荒げた。

「ちっ、こうなったら洗いざらい吐いちまいなよ菊太郎さんよ」と政次が座敷に上がり片膝をつき腕を捲り上げた。

「政次さん、もとはと言えばあなたが娘を間違えたのが元です」と落ち着き払った菊太郎は政次を制し、「こうなったら旦那様に申し上げます。仲介者はこのお二人で、仲介料はお二人に払っていただきました。お二人に娘を連れて来てもらったのですが、人違いだったようです」と頭を下げた。

「そんな人違いで済む事ですの、まさか政次さんとやら、無理やり連れてきたんじゃ無いでしょうな」と雛屋は更に慌てた。

「ちょいと抵抗したんで眠って貰いましたがね、なぁに、心配には及びませんや、娘は岡場所にでも売り飛ばして、小僧は簀巻きにして品川の海にでも流せば済みまさぁ」

「あんさん、それじゃ人殺しやないか」とさすがの雛屋も慄いた。

「おまえら何言ってるんだ、このままじゃ済まされねぇぞ」と文太が政次に掴みかかろうとしたが、政次に振り払われ、床の間で頭を打ち、「いってぇ」とつぶやいたきり文太は意識が遠のいてしまった。

「大丈夫、文太」おふきは文太に擦り寄り、

「乱暴な事はしないでください」と政次を睨み返した。

政次は「ふん」と鼻で笑うと、懐から匕首をだした。

「おい、お前ら静かにしてねぇか、うるせぇとこの場で始末するぜ」と匕首を翳しながら二人を脅した。

行灯の光でぬめぬめと光る匕首を見せ付けながら、

「どうします旦那さん、いっそのこと二人ともここで始末しますかい」と物騒な事を言い出した。

「そんな私の目の前で人殺しなんか辞めてぇな。寝覚めが悪いですがな」と雛屋は冗談を言っているようには見えない政次の顔を見ながら、なんとか恐怖を押し殺し冗談めかして言った。

「だってねぇこのまま返したんじゃ俺達も旦那さんも手が後ろに回っちまうぜ、それよりいっそのこと始末してしまったほうが手っ取り早いってもんだ、俺達はその脚で江戸を離れるつもりだし、あんた達の事は金輪際関わりなしって事でどうだい」

そういわれて雛屋も思案した。確かにこのまま二人を返して番屋に駆け込まれたら困るの雛屋だ。

雛屋は困惑して菊太郎を見た。菊太郎はあくまでも落ち着き払っている。

こんな状況でも落ち着いている菊太郎を見て、雛屋は背筋が寒くなった。どうやら菊太郎に一杯食わされた様だ。

「菊太郎、お前は最初からそのつもりやったんかいな」と震える声で問いただすと、菊太郎は慌てた様な口ぶりで、

「滅相もございません旦那様、私は旦那様の為を思いまして娘を連れてきて貰っただけです。方法については少々荒っぽいことになっても仕方ないとは言いましたが、二人を始末するなど恐ろしい事はこれっぽちも考えておりませんでした。しかし、このままですと政次さんの言う通り少々まずい事になりそうです。旦那様とお店の事を思えば、政次さんの申し出も致し方ないかと存じます」と嘯いた。

実際、菊太郎は娘と旦那様が話をした後の事は考えて無かった。

あくまでも商談として話すだけで、取引の始まりにすぎないと思っていた。

なのにまさか人違いが起こるとは、政次達を雇った事も、籠から出すときによく顔を見なかった菊太郎の失敗だった。

(いや、今更悔やんでも仕方ない。ここは一つ政次の提案に乗った方が良いのでは、それとも他に何かあるだろうか、このままでは番頭はおろか店を馘になるかもしれない。そうなったら政次達に払った二十両がまったくの無駄になってしまう)

菊太郎は旦那様に頭を下げながら大急ぎで考えをまとめようとしていた。


「それはそうと、先ほど言っていた時渡りとはなんだ」と不意に室井が口を開いた。

「それは」と雛屋は躊躇したが、ここまで来れば仕方ないと思い、掻い摘んで説明した。

「なるほど、それで合点がいった。あの親子の手妻の様な人助けはそういうことだったのか。そうと知ったからには益々このまま返したのではまずいな。人違いとは言え、重要な人物に手を出そうとしたからには、それ相当のお咎めがあるだろう。藩から捻じ込まれれば奉行所もほおって置けないだろうしな。良くて財産没収の上江戸払い、悪けりゃ遠島も考えられる。いや、口封じのために秘密裏に命を取られるかもしれんな」そう室井が言うと雛屋は益々怖くなった様で、

「そんな、菊太郎、それもこれもお前のせいですがな、どうしてくれるんや」と怒鳴った。

「ですからねぇ旦那さん、このままあっし等に任せてくださいな。それしか手立ては無ぇと思いますぜ」と政次に言われ、雛屋は菊太郎を振り返った。

菊太郎はわずかに頷き、

「旦那様、旦那様はもうお引取りになったほうがよろしいかと、後はお任せください」と促した。

雛屋もそれしか方法がないと思い、

「そ、そうやな、この後のことについては私は一切関係あらしません。後はあんじょう頼むさかい、くれぐれもお店に迷惑のかからんようにしてや」と言って座敷を出て行った。

それを見送り振り返った菊太郎はさっきまでとは違って、能面の様な冷たい顔をしておふきと文太を見た。

「さて、そういう訳で、このまま帰す訳には行かなくなったんでね、二人には悪いが成仏してくださいよ、恨むなら二人が働いている店の親子に言うんだな」と冷たく言い放った。

やっと意識がはっきりしてきた文太は、痛む頭をさすりながら、体を起こし、

「何勝手な事を言ってやがるんだ、女将さんと茉莉花さんは関係ねぇ、何だか良く分からねぇが二人を使って金儲けしようって思ったおめぇらが一等悪いんじゃねぇか、それを人違いだからっておいら達を殺そうと思うなんて、お天道様が許さねぇよ」

「お天道様ねぇ、生憎、もう夜でお天道様も見ちゃいねぇよ、あきらめな」そう言って政次が匕首で文太の頬をひたひたと叩いた。

「なぁ、菊太郎さんよ、娘は生かしといていいんだよな。後でゆっくり味見して、それから品川にでも売り払っちまえばいいだろ」と政次は嫌らしい目でおふきをじろじろ見た。

「政次さん、欲をかいてはいけませんな。何処で足がつくか分かりませんから女郎宿に売るのはおやめなさい。ただし、ちゃんと後始末してくれるのでしたら好きにしてもかまいませんがね」

「へへ、そう来なくっちゃ、じゃぁ、ゆっくり楽しんだ後でちゃんと始末しまさぁ。その前に餓鬼はさっさと始末しておかねぇとな、餓鬼はうるさくてかなわねぇ」

そういって、文太の胸倉を掴んだとき、「ちょっと待て」と室井が政次を止めた。そして外を窺うように耳をそばだてて、おもむろに長差しを手に立ち上がり、勢い良く障子を開け放つと表に飛び出し、すぐさま抜刀した。


廊下で様子を伺って、文太の危機を知り、今にも飛び込もうと思っていた大蔵も障子が開けられるとともに飛び下がり、腰を落として柄に手をかけた。

縁側の下で小物と様子を伺っていた茉莉花はおふきが居ることを確認し、飛び出して行きそうになったが、

「今は動いちゃなんねぇ」と小物に頭を抑えられた。

大蔵は静かに抜刀しながら、

「二人を放しなさい、そして大人しく縛につけ」と視線は室井から離さずに政次に向かって叫んだ。

「ちっ、助っ人がきやがったか、こうなったらやけだ、室井の旦那、頼みます。こっちはあっしが」と言うとおふきの首に匕首を突きつけたまま縁側を降りてきた。

「おふきちゃん」と文太が政次に飛び掛ろうとしたが、菊太郎に捕まってしまった。

「ちきしょう、はなしやがれ」と暴れたが、

「静かにしてな」とみぞおちを打たれ、ぐったりしてしまった。

「おふきちゃん、文太」と今にも飛び出しそうな茉莉花を小者が押さえつけ、

「今出て行ったら大蔵さんの邪魔になりやす、辛抱しておくんなせい」と諭された。


大蔵と室井は向き合ったまま沈黙していた。お互い相手の出方を探っているようだ。

「そのほうの流派を聞いておこう」と室井が先に口を開いた。

「心形刀流、大蔵忠三郎、そこもとは」

「神道無念流、室井龍太郎。そのほうなかなの使い手だな、修羅場をくぐったか」

室井の問いに大蔵は無言で答えた。

修羅場と言えば修羅場だが、今は説明する気も無い。

いつの間にか粉雪になって、二人の肩にうっすら積もって来た。

「そのほうが来ぬならこちらから参る」そういうと室井はゆっくり八双に構えた。

「私はできることなら戦いたくないのですが」そう大蔵は落ち着いた声で室井の目を見たが、

「笑止、そのほう臆したか、武士の風上にも置けぬ。どうせ形ばかりの畳剣法であろう、我が刀の露にしてくれるわ」

室井は血に飢えた獣の様な目で大蔵を見据えた。

「やむを得ません」と大蔵も正眼の構えを取った。

二手に分かれた増田達も雛屋を捕まえて、駆けつけたが、二人の対決に息を飲み見守るしかない。


最初に動いたのは室井だった。八双から上段に移しながら気合と共に踏み込み、長身を生かした鋭い袈裟斬りを下ろす。

大蔵はすんでの所でそれを受け止め、押したかと思うとふわりと引き、室井の刀を巻き取りながら右に抜けると抜きざまに室井の左腕を払った。

「おのれ」と室井はすぐさま下段から斬り上げてきたが、左腕を切られているため、片手にならざるを得ない。

大蔵は正眼のままそれを受け止め、一瞬のうちに刀を返し、そのまま胴を払った。

室井は驚きに目を見張りながらどさり、と倒れこんだ。暫く痙攣していたが、間もなく動かなくなった。

「室井の旦那」室井が倒された事に動揺した一瞬の隙に、背後に迫っていた銀次親分の十手が政次の後頭部をしたたかに打ち、政次は力なく匕首を振り回したが、足からくねくねと倒れこんだ。

増田が咄嗟におふきを抱きとめ、庭の隅に避難した。

「ちきしょう、ここまでか」と菊太郎は文太を投げ出し、逃げ出そうとしたが、銀次親分の手下にあっという間に縛り上げられた。


茉莉花は初めて見た斬り合いに膝がガクガクと震えたが、気を取り直して文太に駆け寄った。

「文太、文太、しっかりして」と頬をぺたぺたと叩き、文太を起こした。

「あぁ茉莉花さん、おふきちゃんは」

「大丈夫だよ、悪い奴らも捕まったし、もう大丈夫だよ」

「良かった」

「文太」とおふきも駆け寄り、

「立てる、どっか怪我していない」と茉莉花は文太の体を触って怪我が無いか確かめた。

「おいらは平気だい」


銀次親分たちは雛屋と菊太郎、政次を縛り上げ連れ出そうとしていた。

「私は関係ありませんがな、全部この菊太郎がやった事ですねん」と雛屋はしきりに訴えていたが、

「うるせい、言い訳は番屋で聞くから大人しくしやがれ」と強引に引っ立てられて行った。


「良くここがわかったね、もしかして羽を見つけてくれたのかい」と文太に聞かれ、

「そう、文太が落としてくれたんだね、おかげでこの場所にたどり着くことができたんだよ」と茉莉花が説明した。

「文太とやらお手柄だったぞ」と増田にも言われ、

「へへっ」と頭を掻いた。

「しかし、先生、すげぇ腕前だったよ、おいら見直しちまった」

「本当、駄目かと思った」と口々に文太と茉莉花に褒められ、大蔵は困ったが

「大蔵様、本当にありがとうございました」とおふきから丁寧に礼を言われ、

「運が良かっただけです、お二人に怪我が無くて良かった」とやっと安堵の表情を浮かべた。


「さぁ、もう帰らないと由佳さんが心配しているし、雪も大分積もってきたからさ」と安田に言われ皆は祐天寺の屋敷を後にした。


先に戻った中間の山下の報告で、すでに店には無事に救出された連絡が入っていた。

店を暖かくして迎えた由佳は改めて大蔵達に礼をいい、用意していた食事と酒を振舞い、

これから取り調べをするという銀次親分と下っぴきのために番屋には差し入れをした。


「安田さんにはお店を休ませてしまったね。ごめんなさい」と謝る由佳に、

「たまにはいいよ、それに今日はこんな天気だから開けたとしても大して忙しくはならなかっただろうし、ここで茉莉花ちゃんのお酌で飲むものいいもんだよぉ」と杯を空け茉莉花に差し出したが、

「一番働いたのは大蔵さんだから安田さんは手酌で飲んで」とあしらわれ、そんなぁと情けない声を出す安田に一同大笑いした。

文太を名主に送ってもらい、そろそろお開きにしようかと言うとき、おふきが増田に

「気になることがあります」と呼び止めた。

おふきの話では雛屋は「時渡り」と言っていたが、時滑りの事を知っているようだと。

増田は「やはりそうでしたか、この件は若様にご報告しておきます。場合によってはおふき殿に呼び出しがあるかもしれませんので、その時はよろしくお願いいたします」と言って帰っていった。


夜のうちに雪はやみ、次の日は朝から快晴だった。

いつもの時間に文太もやって来ていつもどおりの一日が始まろうとしていた。

「みんな夕べはお疲れ様でした、今日はお天気もいいし、忙しくなると思うから気分も新たに頑張ってくださいね」と由佳も声を掛け気を引き締めた。

「おふきちゃん、これ修繕してくんねぇか」と文太がちぎれたお守りを差し出した。

「すっかり汚れちゃったね、大事なものなんでしょ洗って紐も新しくしてあげるよ」

「うん、死んだおっ母がくれたんだ。中にはお不動さんのお札が入ってるんだぜ。困った時はお不動様に頼むようにって言われたんだ。だからこの間もおいら咄嗟にこいつにお願いしたんだ」

「そうだったの、おっかさんとお不動様のおかげで、助けてもらったね」

と押し抱く様に拝み、中のおふだを取り出した。木のお札はすっかり薄くなっているが不動明王の文字がかろうじて読めた。裏には黄梅院とある。

「あら、お不動様だと言うから目黒かと思ったら違うのね」とおふきに言われ、

「そうなのけ、おいらもてっきり目黒のお不動様の事だと思ってたよ」とお札を受け取り、

裏を見てみた。最近は大分字を覚えた文太とおふきだが霞んでよく見えない。

「茉莉花、これ読んでくれよ」と茉莉花に渡そうとしたとき、文太の手が滑って土間に落としてしまった。

「おっと」と慌てて拾い上げると、お札は二枚に別れ、そこから一分金が出てきた。

「お札の中に金が入ってたよ」と驚く文太にお札を見せてもらった茉莉花は、二枚の板を細工して一分金が隠せるようになっているのを確かめると、

「きっとおっ母さんがお金に困った時用に隠しておいたんだね。黄梅院って銭洗い不動だから、きっと文太がお金に困らない様に願掛けしてあるんだよ」と話した。

「おっかあ」おっ母さんの事を思い出したのか、暫くお守りと一分金を見ていた文太だったが、

「女将さん、これ預っておくれ、おいらこんなの首にぶら下げていたらオチオチお使いもできねぇから」と由佳に一分金を渡し、お札をお守り袋の中に戻しおふきに渡した。

「判った。確かに預かったから、必要になった時は言ってね」と由佳は一分金を預った。



























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