第8話

秋も深くなり、師走に向けてなんとなく店も気持ちも慌ただしくなり、それでもなんとか平穏無事な日々を過ごしていたある日の朝、安田が酉の市に行こうと誘いに来た。

今日は目黒の大鳥神社で酉の市が開かれると言う。酉の市に行って、ついでに横山のお店まで足を伸ばし、冷やかしに行くと言う。

午後からでも充分間に合うし、酉の市で熊手を買い、商売繁盛を祈願するというのだ。安田は去年買った熊手を奉納する為に持って来ていた。

おつたの件もあるし、縁起物だからと熊手を求めに行くことにした。

おふきも誘ったが、店番すると言って遠慮したので、茉莉花だけ連れて行くことにした。

最近は準備さえしておけば、おふき一人でも店を取り回すことが出来るようになり、頼もしい限りだ。

あれからすぐにおつたに手紙を書き送ったが、おつたは江戸に来ると言う返事を早飛脚を使い直ぐに寄越した。

おつたが来るのは師走に入ってからになるが、その前にお店の工事も入るし、これから益々頑張らなくてはならない。


 ぶらぶら歩いて半刻ほどで着いた。最近はどこに行くのもほとんどが徒歩なので、このくらいなら由佳達も難なく歩くことが出来るようになっていた。

茉莉花も意外と近かったね、と前までは絶対に言わなかったであろう事を言っているくらいだ。

神社は大盛況だった。三の酉まである年は火事が多いと聞くが、今年は二の酉までらしい、それでも多くの人が参拝に来ていた。

以前、府中にある大国玉神社の酉の市に行った事を思い出したのか、

「今の方が盛大だね、きっと今の人の方が信心深いんだね」と茉莉花も感想を漏らした。

確かにそうかもしれない、いつから日本人は信心を失くしたんだろう、そう思いながら混み合いながら手水を済ませ、お参りした。

 さて、どこで熊手を買おうとキョロキョロしたが、安田は去年買った店にして、大きくしていくのは通例だからとすっかり江戸人の様な説明をし、その店を目指すというので、ついて行くことにした。

どうせどこで買っても同じだからと由佳もそこで買うことにする。

サイズも色々あったが、最初の年だからと小さい物にした。

安田は去年より大きいのを一応値切って買う。値切ってもご祝儀として元の値段を払うのが粋なんだとこれまたすっかり江戸人だ。

「さぁさぁ、それでは安田様の海風が益々繁盛することを願いまして、皆々様のお手を拝借いたします。それでは、よぉー」シャンシャンシャンと三三七拍子の盛大な締めをそれぞれ受けて大鳥神社を後にした。

 ここから横山の店まですぐらしいので、甘酒を飲んで休憩したあと目黒不動を目指す。

「あー恥ずかしかった。かなり芝居がかっていたね」と茉莉花は笑いが止まらないようだった。

由佳も周りの客までも一緒になって手拍子するとは思わなかったので、かなり恥ずかしかったが、商売人にとって景気づけは大事なことだから、周りにお礼を言いながら頭を下げた。

「いい経験になったね。なかなか立派な女将さんでしたよ」と安田は笑った。


「ごめん」と店に入って来た客に「いらっしゃいまし」とおふきが出迎える。

「あら、大蔵様」席を勧めながら、

「あいにく女将さんと茉莉花さんは酉の市に出掛けてらして留守ですよ」と説明した。

「いや何、先日食べた品を売り出したと聞いたもので、様子を見に来たのだ」と大蔵は席に着きながら気恥かしそうに言った。

「イカシュウマイですね。ご用意できますよ。食べて行かれますか」

「良いのか、まだ中で食べるようにはしておらぬだろうに」

「大蔵様なら良いと思いますよ。少々お待ちください。直ぐにご用意出来ますので」とおふきはいそいそと準備を始めた。

大蔵は周りを見回しながら、

「どういう風に改装する予定になっておるのだ」と聞いた。

「ここは元々うどんやさんだったので殆ど手を入れずに入ったんです。でもお客様に若い娘さんが多いので、机を小ぶりな物に変えて、二人がけを増やすそうです」

「そうかそれは名案ですね」

お待たせしましたとシュウマイの皿を持って来たおふきに大蔵は聞いてみた。

「先日の会でそなたも聞いておっただろうが、もしかしたら楠田様も帰ることがあるかも知れぬ。そうなったらこの店はどうなるのだ」

「はい、女将さんもそれを心配してくださって、この店は藩がご用意してくださった店なのですが、開店にかかった費用を工面して藩から買い取る準備をしてくれています。それに実はおっ母さんを呼んでくれて、おっ母さんも承知して、来月来ることになったのでございます。それでもし女将さんたちが突然居なくなってもこの店を続けて行けるように藩にお話してくれるそうです」と説明した。

「そうか楠田様は先のことも考えておられるのだな。そなたも母御が来るのなら安心であろう」

「はい、それで、女将さんも色んな料理を教えてくださっているんです。いつでも私が出来るようにと。でも」

「でもなんだ」

「もし女将さんや茉莉花さんが居なくなったらと思うと私寂しくって。それじゃいけないのは判っているのですが」と涙ぐむ。

「しかしその方が彼らにとっては幸せなことであろうからの。そなたも笑って見送ってやらねば。彼らが安心して戻れる様に精進せねばの」と困った大蔵はへどもどしながら諭した。どうも女の涙には弱い。

「はい、大蔵様のおっしゃるとおりです。せいぜい精進いたします」と笑顔で答えたおふきに大蔵は安心したようにシュウマイに箸を伸ばした。


 横山の店は絹織物を扱う店で、反物や帯、袱紗や半衿などを扱っている。

今日は先日文左衛門からいただいた着物に合う、半衿と帯締めを見立ててもらうつもりだ。

店は若い娘で繁盛していた。さほど広くないが、半衿を薄い枠にはめて見やすい様に吊るしてあったり、着物と小物一式をセットでディスプレイしてあったり、江戸にはちょっとない飾り付けも繁盛の理由の様だ。

由佳達と言えば、相変わらずの軽袗姿で、こういった小物におよそ用があるようには見えないものだから、店にいた客に怪訝そうな顔をされてしまった。

しかも、横山が由佳たちに気づき、

「これは楠田さん、ようこそお越しくださいました。申し訳ありませんがしばしお待ちください」と声をかけたものだから先に来ていた娘に睨まれる羽目になってしまった。

結局横山は着物を見ないと良い品を選べないと言うので、後日何点か持って店に来てくれるという。それで着物の色柄を伝えて、三人は早々に店を出た。

「あー怖かった。睨まれちゃったよ」と言う茉莉花に、

「横山さんは歌舞伎役者並みに人気があるからねぇ」と笑って安田が言う。

「横山さんみたいな感じが江戸ではモテるんだね~私は全然好みじゃないけど」と茉莉花言ったので、

「そうだよ、あんな色白より俺の方が良いって」と安田が軽口を叩いた。

「いや、それも違うけど」と茉莉花が返すと、

「なんだよ~」と相変わらずの軽さだ。

 帰りは安田の提案で、川越藩の下屋敷の場所を確認して帰る事にした。次の時の会の時は安田が迎えに来てくれる事になっていたが、何かあった時のため場所を知っていた方が良い。

一応場所を確認して右に海を眺めながらぶらぶら帰る。

由佳は久しぶりにゆったりした気分になった。

「大木戸の先を左に行けば伊皿子坂です」と説明を受け、仕入れをして帰ると言う安田に礼を言って木戸前で別れた。

「結構歩いたね、流石に足が痛いわ」と茉莉花と話しながら大木戸を過ぎ曲がろうとしたとき、

「大変だ、子供が海に落ちたぞ」と騒ぐ声がした。みると船着場に人が集まりだして、漁師だろうか、数人が海に飛び込んだ。

「もう冷たいのに、大丈夫かな」と茉莉花も気になるようなので、傍まで行ってみる。

「いたぞ、誰か医者を呼べ」「火を炊け」と騒然となっている。

引き上げられた子供をみて「文太」と茉莉花が叫んで駆け寄って行った。由佳も慌てて後を追う。

どれくらい沈んでいたのか、文太は血の気の無い顔をしていた。

「あんた知り合いか」と漁師らしい男に聞かれ、

「近所の子どもですが、住んでいる場所までは知りません」と由佳が答えると。

「そうかい、直ぐに引き上げたんだがな、この冷たさだ、心の蔵が止まっていやがる。今医者を呼びに行かせたが駄目かも知れねえ」と言われた。

それを聞いた茉莉花は、

「お母さんどうしよう文太死んじゃう」と青くなっている。

由佳は咄嗟に「心肺蘇生してみよう。茉莉花、気道確保」と指示を出した。

「わかった」と茉莉花は下駄を脱いで文太の首の後ろにあてって顎を持ち上げた。

由佳は着物の前を開き、(確か子供は指三本だっけ)と思い出しながら痩せた文太の胸に手をあて、肋骨の中に押し入れるように心臓マッサージを始めた。

そして数えながら、「茉莉花、五でマウストゥーマウス」と指示をした。

茉莉花は躊躇せず、ちゃんと鼻をつまみ、顎を上げて息を吹きかける。

「一、二、三」と五まで心臓マッサージをし、マウストゥーマウスを数回繰り返した。

もううダメかと思った時、文太が息を吹き返した。

水を飲んだのだろうゲホゲホとむせていたが、みるみる血の気を取り戻していく、これで一安心だ。その頃ようやく医者が到着した。

医者はちょっとだけ文太を診たが

「水を吐いたのならもう大丈夫でしょう。風邪ひかぬようにだけしなさい」と言ってあっさり帰って行った。

ほっとしながら医者を見送った二人に、

「あんたら大したもんだな。今のは何をしたんだい」とさっきの漁師らしい男が声をかけた。

咄嗟に動いてしまったが、この時代には心臓マッサージは無かったのかと由佳は不安になった。

男は、

「胸を押して水を吐かせるのはわかるが、あんたのは違ったよな。どこで習ったんだぃ」と言われ、由佳はしまったと思ったが、

「長崎で知り合いのバテレンに習ったんです。胸を押すと肋骨が折れる場合があるから、肋骨の下に手を入れて心の臓を押すんですよ」となんとかごまかしながら説明した。

「へぇ長崎帰りかい、どおりで変わった格好していると思ったぜ、しかしこっちも助かったよ、子どもが死ぬと寝覚めが悪いしよ、助けたおいらも報われるってもんだい」と納得してくれた。

誰かが、熾してくれた火にあたらせてから文太を送ってくれると言うので、

「元気になったらお店においでね」とだけ声をかけ、呆然としている文太を残して二人は急いでその場を後にした。

「やばいやばい、この時代は心臓マッサージって無かったのかな」

「お母さん、マウストゥーマウスってまで言っていたしね」

「いやぁ失敗したよ。でもほっとけなかったしさ」

「うん、助かって良かったよ」

「茉莉花も良くマウストゥーマウスできたね。えらいよ」と言うと、

「ほら小学生の時にさ、子供消防団に入っていた時に習ったんだよ、学校でも一回やったから覚えていたんだ。本物は初めてだったけど夢中だったから」

「そっか、今回は誤魔化せて良かったけど気をつけないとね」と小声で話ながら店まで急いで帰った。


そんな二人をじっと見ている男がいた。編笠を被った着流し姿の浪人のような風体だ。

二人はそんなこととは知らず、伊皿子坂を上がって行った。


 お酉様の次の日、店は朝から大忙しだった。どうやら昨日文太を助けた事が噂になり、お客が押し寄せたらしい。

辰五郎が聞いて来たところによると、

「長崎帰りのめずらしい食べ物」が

「長崎帰りのありがたい食べ物」に変わり、

「長崎帰りの長寿の縁起物」になったようだ。

繁盛するのはありがたいが、間違った評判はかえって後々面倒になる。

「これを食べると無病息災だって」と聞く客には、他の客にも聞こえるように、

「長崎帰りはあってますが、縁起物でも長寿の食べ物でもありません」と付け加えなければならない。

「なんでぇ、違うのかぃ並んで損した」と怒る客も居て、いつもは薪などくべたり、中を担当してもらっている辰五郎に表で何度も、

「縁起物ではありません、珍しいだけです」と声を張り上げてもらう始末だ。

それでも珍しい物好きな江戸っ子は大勢居る様で、なかなか列が切れない。


先週から売り出したイカシュウマイはあっという間に売り切れになり、お焼きも種が尽きるまで焼いた。

材料が無くなった時点で店じまいするしか無いが、それでは並んでくれたお客に申し訳が立たないので、明日で良い人には明日お届けする事を約束して注文書を書いて貰い帰って貰った。

ようやく客が切れたのはもう夕方になろうかと言う時間だった。

通常は夕方の客を見込んで、仕込みをするのだが、材料は尽きてしまったし、朝から働き詰めだったので、「本日は売り切れのため早仕舞いします」と張り紙をして店を閉めることにした。

いつもは残り物を食べるのだが、忙しすぎて夕飯の準備をする気にもなれず、夕飯には少し早いが、皆で外食しようと言うことになった。

そうと決まればと、皆で片付けをしていたとき、「ごめんください」と表で声がした。

「すみません、今日はもうおしまいです」と茉莉花が断りに出たら、町名主と文太が立っていた。

「文太、あんたもう大丈夫なの風邪引かなかった」と茉莉花に言われ、情けない顔してうなずいた。

「これ、ちゃんとお礼を言わんか、このお方たちが通りかからなかったら、おめぇはあのまま心の臓が止まってお陀仏だったって話じゃないか」と町名主が頭を小突いた。

文太は消え入りそうな声で、「ありがとうございました」と頭を下げた。

「文太は何であんな所に居たの」と茉莉花に聞かれたが、俯いたままだ。

立ち話もなんですからと由佳が席を進め、おふきにお茶を入れてもらい名主の話を聞いた所によると、文太はよく父親と喧嘩して家を飛び出しては、行くあてもなく海辺をふらついたり、漁師の獲物を盗んだり、店先の物を盗んだりして腹を満たし、父親が飲んだくれて寝入った頃長屋に戻っていたらしい。

 昨日もそんな感じで、海辺に来て漁師の様子を見ていたらしいが、あまりにも腹が減りすぎて、艀から落ちてしまったというのだ。

名主は「私どもも、こいつの父親には酒を止めるように口酸っぱく言っているのですが、どうにもいけません。最近は誰も金を貸さないので、文太が盗みをしちゃぁ酒に変えて来る有様のようでして」と説明した。

「そうだったんですか、それは親として許せないですね、何とか立ち直ってくれればいいんですが」と由佳が言うと名主は大きなため息をつき、

「病の方はもう手遅れだと医者も言っています。どうやら肝の臓がやられちまっているようで、最近は歩くこともままならねぇんです」と言う。

文太は俯きながらふてくされたように、

「おいらもあん時死ねば良かったんだ。海に落ちた時、もうどうでもいいやと思ったんだ」と不貞腐れたようにつぶやいた。

その時、「ばか」と突然茉莉花が大声で叱った。

「文太の馬鹿、せっかくの命なのに、無駄にしちゃダメなんだよ。あんたのお母さんがあの世で泣くよ」とまくし立てた。

「だって、おいらなんて死んだ方がいんだ。死ねばおっ母さんにだって会えるし、腹も減らねぇ」と茉莉花の声に驚きながら、文太は涙を浮かべ反論した。

「死んだ方がいい人間なんて居ないの。それに寿命を全うしないで死ねば天国に行けないで、地獄に落ちるんだから。あんたのお母さんはきっと天国にいるから、だから、だから、とにかくしっかりしなきゃダメだんだよ」と茉莉花も最後は泣きながらだ。

文太はたまらずおいおい泣き出した。茉莉花も泣いている。

そんな二人を見て名主は貰い泣きしながら、

「そんな訳で今日はお礼に伺いました。今後とも何かとご迷惑をおかけするかもしれませんが、どうか見守ってやってください。私どもも文太の先の事が立つように考えて行きますので」と頭をさげる。

おふきも手ぬぐいを茉莉花に渡し、文太に「お腹すいていないかい」と余りもののシュウマイを包んで渡した。

そんな様子を見ながら由佳は考えていたが、「そうだ」と思い立った。

その声がちょっと大きかったのか、泣いていた二人も名主もきょとんとした顔を向けた。

「名主さん、文太をしばらく店に通わせるのはどうでしょうかお給金は出せませんが、ご飯なら食べさせられます」と提案した。

「何をおっしゃいますやら、そんなご迷惑はかけられません」と慌てて手を振る名主に

「当然ただではありません。もちろん働いてもらいます」と思いついた事を説明した。

今日は思いのほかお客が多くて、材料がなくなってしまったので早仕舞いするのだが、明日届けるという注文を沢山貰っている。

遠いところは辰五郎が担当するつもりで、近場は茉莉花かおふきに行って貰うつもりだが、

二人では道に明るくない。そこで文太に案内して貰えば辰五郎の負担も減るし、茉莉花達も道を覚えられる。

何より早くにお客様に届けることが出来る。と説明した。

それを聞いた辰五郎が「そりゃいい、今日みたいに注文が入るのがいつもって訳じゃねぇが、明日は特に手伝ってもらいてぇや」と助言した。

「そうなんです。毎日注文が入るわけではないのですが、それ以外にもお使いなども頼めれば私どもは助かるんですよ」と言うと名主は、文太の顔を見て、

「おまえ、そう言ってくださっているが、どうするのかい」と聞いた。文太は目に涙を貯めながら、「こんなおいらでもいいのかい、役にたつのかい」と聞いてきた。

由佳は、「もちろんだよ、ここらの道を知ってるでしょう近道とか教えてくださいな。できるだけ早くにお客様に届けたいからね」

「あぁ、おいらかっぱらって逃げるのに近道とか結構知ってるんだぜ」と得意顔で言って、名主に「これ調子に乗るんじゃない」と叱られた。

「文太でお役に立ちますかどうか」と名主は不安そうだが、

「先ずはやってみましょう。それじゃ決まりね。お給金は出ないよ、でもご飯は出せる。人はさ、腹が減っちゃ何にも出来ないし、悪いことばっかり考えるからね。明日は朝五ツに店に来てね」と文太と約束した。


辰五郎は二人を見送りながら、

「おかみさんも大概お人好しですね。ただでさえ人が増えて掛かりが増えるってのにあんな子まで面倒みるってんだから」と苦笑交じりで言ったので、

「辰五郎さんだってほっとけなかったでしょ。茉莉花もほだされちゃったしね。でもね、私はお人好しで言ったんじゃないよ、文太は私たちが助けた子だから案外宣伝になるかも知れないと思ったんだよね。だから一石二鳥って訳」と由佳はペロッと舌をだして答えた。

「こりゃ驚いた、案外策士でしたか」と大げさに驚いて見せたがどうせ辰五郎の事だからとっくにお見通しなんだろうと由佳は思った。

「しかし大丈夫ですかね、丸山様に相談もなく決めちゃって」

「叱られちゃうかな」

「いや、怒られやしねぇでしょうが、色々知られちゃならねぇ事もありますんでねぇ」

「その点は気をつけます。いつまでもって訳でも無いし」そう言いながら、そういつまでもここに居られる訳ではないんだと由佳は改めて思った。


 次の日はいつもより二時間も早く起きて仕込みにかかった。

茉莉花とおふきは何度も表に目をやりながら文太が来るのを待った。

約束の時間の少し前、表に文太らしき子どもの影が映ったのを茉莉花は見逃さなかった。

さっと戸を開け、突然あいた戸に驚いた顔をして立ち竦んでいる文太に向かって、

「おはよ、時間どおりで偉いね。早く入って、手を洗って、朝ごはんは食べた」と急かす。

「おはよう、おかみさんもおはよう」ともごもごと挨拶した文太は茉莉花に促されるがままに手を洗い椅子に座らされた。

「ご飯食べてないでしょ」と茉莉花に聞かれ「おいら腹減って無いから」と遠慮するが

おふきが白飯と味噌汁とお菜を乗せたお盆をサッと用意し、

「今日は沢山歩くし、お昼も何時になるかわかんねぇから、しっかり食べてしっかり案内して」と有無を言わさぬ表情で諭す。

「わ、わっかった」と文太はしぶしぶ箸をとったが、お腹が空いていたのだろう、あっという間に平らげた。

二人の剣幕におどおどしながらも文太の表情は昨日までと打って変わって目に力が入っている。

それを確認してほっとした由佳は辰五郎と茉莉花と文太に分かれて貰って配達の段取りを説明した。

茉莉花と文太は先ずは、主に白金の辺りに行って貰う。五件ほどなので午前中には一旦戻って来れるだろう。帰りに安田の店に寄って、文太を紹介するように茉莉花に頼んだ。

辰五郎には目黒の方をお願いして、配達に行く一行を見送った。


 茉莉花は文太の案内で先ずは遠い辺りから行くことにした。道すがら文太がおずおずと切り出した。

「あの、お嬢さん、長崎帰りって聞いたけど長崎ってどんな所なんだい」

「お嬢さんはやめてよ、茉莉花でいいよ」

「じゃ、茉莉花さん、おいらに長崎の話を聞かせてくれよ」

そう言われて茉莉花は困った。長崎は旅行で何度か行ったけど、それは平成の話で、江戸時代の長崎は知らないからだ。

しかし好奇心に目を輝かせる文太をがっかりさせるのは可愛そうに思えたので、当たり障りの無い話をすることにした。

「長崎はね、坂が多いんだよ、でも海がすぐだから景色も良くて、九十九島って島が沢山ある所なんかはね、船で回ると凄く綺麗なんだよ」とか

「出島には異人が居て、唐人も沢山居るんだよ。だから街の飾りも唐人風の提灯や飾りがあって、祭もやるんだ」

など覚えている事を差し障りの無い程度に話した。それでも文太は

「いいなー、おいらは江戸から出たことが無いからさ、いっぺんでいいから行ってみたいや」と羨ましそうに言う。

「文太だって大人になれば行けるかもしれないじゃない、長崎は無理でも伊勢や上方に行く機会があるかも知れないよ」

「そんなの無理だよ、どうせおいらは手習いもやって無いし、奉公先も決まらないし。第一おっ父の面倒も見ないといけないし、せいぜい日雇いで食い繋ぐいくしかできねぇ、そんなんじゃいつまでたっても銭は貯まらねぇよ」

「そう言えば大蔵さんってお武家さんの手習い所に行っていたんでしょ、又行けばいいじゃない。大蔵さん気にしていたよ」

「手習い所に行く金がねぇよ。それにおいら、かっぱらいばっかりやってたから皆に嫌われちまってるし」としょんぼりする。

それを聞いた茉莉花は、

「もう盗みはしちゃだめだよ、約束出来る」と立ち止まって文太を見下ろした。

「うん、おいら茉莉花さんや女将さんに助けて貰った命でやり直す事に決めたんだ。だからもう絶対盗みや悪さはしねぇ。そう名主さんとも約束したんだ」と決心した顔で訴えた。

「本当」と茉莉花は文太の顔をじっと見つめた。

「本当だよ、信じて貰えないかも知れないけど、おいら頑張るって決めたんだ」文太は目を逸らさずに訴える。

茉莉花はふっと笑って、

「信じるよ。じゃあ今度私が字を教えてあげる。暇な時間にしか出来ないけどね」

「本当かい、茉莉花さんは手習いも出来るんだ、すげぇや」と驚く。

「論語は出来ないよ、嫌いだし」と眉間に皺を寄せて言うと文太も

「おいらも論語は嫌いだ」と吐きそうな顔をした。

二人は顔を見合わせて大笑いしながら朝の白金を歩いて行った。


 日本橋のはずれ、魚河岸に近く、安くて新鮮な魚を出すと人気の煮売り屋はいつも仕事帰りの男たちで混雑していた。

そんな店の小上がりでうろんな二人が銚子を傾けていた。

連れ合いと言うには不釣合いの浪人と町人の二人連れだったが混雑した店では特に目立つわけでもなかった。

「ちぇっ、もう酒がねぇや」と政次がつぶやく。

「飲みすぎではないか」と静かに飲んでいた浪人風の男が政次を窘めた。

「だってねぇ室井の旦那、酒でも飲まねぇとやってられませんぜ、ゆんべも負けちまったしよ、どっかに金になる話は転がってませんかねぇ」と政次はぼやく。

さっきから同じ話ばかりで少々うんざりしていた室井は鼻で笑うと杯を傾けた。

浪人風の男は室井といい、町人の男は政次と言った。二人が出会ったのは堵場で、負けが込んでいた室井にその時勝ち越していた政次が札を回したのが縁だ。


 室井は西国の出身で藩が改易の憂き目に逢い浪人生活を送っていた。江戸に出てくれば仕事にありつけるかと思い下って来たが、そうそう仕事にはありつけず、用心棒をしながら虎口凌いでかれこれ二年になる。

政次は喧嘩の末相手に怪我をさせたため、人足寄場に入っていたが、最近出てきたと言う。

もとより定職につかず堵場に出入りし、元締めの使い走りをしながら小遣いを貰っているような生活で所謂ごろつきだ。

そんな二人はたまに会うと酒を飲んでは世間話をしたり、情報交換をしていた。

今日は室井が久しぶりに用心棒の仕事で懐が暖かかったので政次を誘ってこの店に来た。


「もう一本だけだぞ、それで今日は仕舞いだ」と言うと室井は酒を注文した。

「すいません旦那」と政次は後ろ頭に手をやりひねた笑いをこぼした。

「そういえば、先日、高輪辺りで長崎帰りと言う親子が海に落ちて死に掛けた子どもを助けたのを見た」と何気なく室井は話した。

「へぇ、そいつら親子は医者ですかい」政治は特に興味なさそうに相槌をうった。

「いや、煮売り屋の親子だそうだ、最近高輪辺りで商売を始めたそうだ。それより、近くで見ていた訳ではないが、二人掛かりで見たこと無いような方法で子どもの息を吹き返していたのが気になってな」

「へぇ、長崎で異人にでも教わった方法なんですかね、医者でもないのに人助けが出来るってのは重宝でさぁ。まてよ、そいつを覚えて医者の真似事でもすればちったぁ金になりますかね旦那」

「無理だろう、ほかの事は出来んのだから。それにそうしょっちゅう溺れる者に出くわす訳でもない」

「はは、それもそうですね、つまんねぇ事を言いやした」と政次は新しく来た銚子を室井に差し出した。

「何でもその親子の店は長崎の珍しい食い物を売っているそうだ。そっちを真似て商売にしたほうが儲かるかもしれんぞ」

「煮売り屋ですかい、今更性にあいませんや、それよりその親子は長崎から持ち帰った珍しいお宝でも持ってませんかね、そいつを盗んで売っぱらった方が手っ取り早いってもんですぜ」と言った政次は不穏な目つきをした。

「おいおい、物騒な事を考えるなよ、そんな事して今度捕まったら寄場送りでは済まんぞ、良くて遠島、悪けりゃ獄門だ」と室井は窘める。

「わかってまさぁ。でもね旦那、危ない橋でも渡らなきゃ大金は手に出来ませんぜ、旦那だって何時までも用心棒の仕事にあるつけるか分かりませんぜ」と政次は鋭い目で室井を見た。

「ふん」と室井は静かに杯を傾け「とは言ってもな」とひとりごちた。

勿論室井もこのままではゆくゆくは立ち行かなくなるであろう事を承知していた。今更仕官は叶うはずも無いが、剣の腕には自信がある。出来ればどこぞの道場で剣術指南役か、あわよくば道場主になることが出来たら本望だ。

しかし、浪人の身分ではそんなつても無く、用心棒を務めるのが関の山だ。

せめて口入れ屋から時折貰う仕事ではなく、どこぞの大店の専属の用心棒にでもなれれば暮らしは楽になるのだが。

そんな事を思いながら室井は政次の気持ちも分からぬでは無いが、物騒な事を言い出した政次をもてあましてしまった。

政次は室井に相手にされなかったのが不満だったのか、「ちぇ」と言うとそれから暫く無言で残った酒をちびちび飲んでいた。


無言で酒を飲む二人に「あのー、ちょいとよろしいですか」と小上がりの衝立の向こうから声がした。

衝立をずらしてにじり寄って来たのは二十四、五の手代風の男だった。

「先ほどのお二人の話が聞こえまして、ちょっとお伺いしたい事がありましてお声を掛けさせてもらいました」と手をついて頭を下げた。

「なんでぇ、人の話を盗み聞きするたぁ、事の次第によっちゃただでは置かねぇぜ」政次は物騒な話をしていた手前、片膝を立て凄んだ。

「いぇいぇ、盗み聞きではございません、たまたま聞こえただけで、滅相もございません」男はさらに頭を低くすると上目遣いに小声で、

「先ほど、長崎帰りの親子の話をされていましたが、そのことを詳しくお聞かせ願えないものかと思いまして」と抜け目の無い目を二人に向けて来た。


室井は「親子の何が知りたいのだ、拙者も偶々通りがかっただけで詳しくは知らんぞ」と言ったが、

「何でもよろしいのです。お武家様が気がついた事をお教えいただければ、もしかしたら私が探している親子かも知れませんので、お話をお聞かせ願えましたらお礼をさせていただきます」

そういうと男は店の小女に「ちょいと、こちらに酒二本とつまみを見繕って持ってきておくれ」と酒と肴の追加を頼んだ。

小女が酒と肴を置いて行ったのを見計らって男は二人に酒を注ぎ、

「申し送れましたが、私、日本橋にある雛屋と言う小間物屋の二番番頭で、菊太郎と申します」と頭を下げた。

「雛屋っていやぁ最近女子の間で流行っている店じゃねぇか、確か旦那は上方出身と聞いたぜ。何でも値段の割には豪奢な小物が売りだってな。その若さで二番番頭なんて、お前さんてぇしたもんだ」と政次が二番番頭と聞いて値踏みするように菊太郎を見た。

「よく知っているな」と室井は驚いたが、何でも政次の行きつけの飲み屋の女将がそんな事を言っていたのだと言った。政次も女将の事は憎からず想っていたので今度金が入ったら小物の一つでも買ってやろうかなんて思っていたらしい。

顔に似合わず照れながら話す政次に手代は、

「恐れ入ります。手前どもの店をお知り置き、誠にありがとうございます。よろしければ、これをその女将さんにお渡しください」と懐から紙入れを取り出し気前よく政次に渡した。

「えぇ、いいのかい」と政次は驚いたが、「へぇ、確かに豪華な作りだ」と金糸を混ぜて織られた紙入れをまじまじと見た。

そんな政次を他所に、「それで、聞きたい事とはなんだ」と室井は菊太郎を促した。

菊太郎は膝を寄せて「はい、ご存知の通り、手前どもの店は旦那様と大番頭さんが上方の出身でして、私を始め手代以下は江戸雇いなのですが、上方より仕入れる小物が受けておかげさまで、繁盛しております。しかし最近隣に新しい小間物屋が出来まして、近頃客足が伸び悩んでおります」

「そんな事は商売をしていれば良くあることだろう。それとその親子と何の係わりがあるのだ」

「はい、実はその新しい小間物屋は錦屋と言うのですが、そこで出した引き物の根付が人気を呼び、意匠も変わっていて粋だと言う事で、それを知った手前どもも人を使い手に入れたのですが、確かにその根付は今までに無い新しいものでございました」

「ふーんそれで」と政次は紙入れを懐に仕舞ってやっと手代の話を聞く気になったようだ。

「それで色々調べました所、錦屋は雛屋に対抗するためにその長崎帰りの親子の知恵を借りたのだと言うことが分かったのです」

「なるほどな、それで雛屋の客が錦屋に流れたわけだ」

「はい、それを知った旦那様は大層ご立腹で、手前どもの店もその親子の知恵を借りて、店を盛り上げたいと思っていらっしゃるのです。」

「それで、あんたにその親子の事を調べるように頼んだって訳かい」と紙入れを貰って気前を良くした政次が聞いた。

「いえ、実は親子を調べているのは私の独断でして」と言葉を濁した。

「わかった、あんたはその親子から知恵を貰って、あわよくば出世しようって魂胆だな」と政次が魂胆を見抜いたとばかり息巻いた。

「はい、実はその通りでございます。今の大番番頭さんは上方から旦那様と一緒に来た方で、もうお年もかなり召していらっしゃいます。このごろは疲れも溜まっていらっしゃる様で、そろそろ上方に帰りたいなんて言葉も吐かれるようになって気弱になっていらっしゃいます。

出来ましたらこの辺りで交代して差し上げたいのですが、何しろ私は若輩者でして、旦那様も大番頭さんもまだまだと思っていらっしゃいます。ですから私はここで一つ手柄を立てて、実力を示してお二人に認めて貰いたいと思っているのです」

「ふん、お前の魂胆は分かった。しかし親子を探し出してもおいそれと知恵を授けてくれるかどうかは分からんぞ、それにそれが大当たりするかどうかもな」

「はい、おっしゃる通りです。ですが、先ずは話を聞いてみたいと思っております。話しているうちに何か商品について使える事が出てくるかもしれません。そう思って親子の話を集めて回っているのです」

「なるほどな。しかし黙って付いて来るだろうか」と室井は思案した。

「そこです。親子は高輪で煮売り屋をしているそうですが、おおっぴらに話を聞きに行くのははばかられます。出来ましたら別の場所で密かに会うことが出来ないものかと思いまして」

「そこまでわかっているのなら、その店に手紙でも出して呼び出せばいいんじゃぁねんかい」

「ふん、それこそ怪しくて来ないだろう。町方に相談されて待ち合わせ場所でお縄になるのが落ちだ」と室井はおかしそうに政次を見て杯を傾けた。

「それもそうですね旦那、で菊太郎さんはどうしたいんだ」

「そこでお二人に相談なのですが、その助けられた子どもはその後、煮売り屋の小僧になって、娘と良く注文を届けに行っています。そこで、娘が使いに出た所でお二人に連れて来ていただきたいのです。なに、小僧には飴玉でも渡して時間を潰す様に言えば良いでしょう。」

菊次郎は室井と政次の顔を交互に見ながら二人の反応を窺った。

「おい、そりゃぁ拐あかしじゃねぇのか」と政次は小声ながら凄みのある声で菊太郎に詰め寄った。

「いえ、理由を話して連れて来てくだされば良いのです。決して拐あかしでは無く、合意の上で」

「もし拒まれたらどうする」室井も杯を置き、腕組みして聞いた。

「出来れば穏便に済ませたいのですが、万が一騒がれでもしたら厄介ですので、その時は脅してでも」と後の判断は二人に任せる意を含んで言葉を切った。

「そんな危ない仕事はご免こうむりたいぜ、万が一お縄になった日にゃ、それこそ遠島だ」と政次はこの話はおしまいだとばかりに手をひらひらと振ってそっぽを向いた。

「同感だな」室井は銚子の残りを確かめて杯に継ぎ足した。

「勿論お二人には謝礼をさせていただきます。十両ではいかがでしょうか」と菊太郎は食い下がった。

「十両」政次は金額に一瞬喜色を見せたが、思い直したように「いや、駄目だ駄目だ、危なすぎるぜ」と室井の銚子を取り上げて傾けたが、

「ちぇ、もう空だぜ」と音を立て銚子を台に置いた。

「それでは、お二人に十両づつ、二十両ではいかがでしょうか」となおも菊太郎は提案する。


二十両と言えば菊太郎でも大金だ。しかしそうまでしても菊太郎はあの親子に会う必要があると思っていた。

目の前の二人には言っていないが、万が一菊太郎の考えが正しければ、二十両は安いものになる。


なぜ菊太郎があの親子に執着するのかと言えば、数日前の雛屋の主と大番頭の会話にあった。

二人の会話をたまたま聞いた菊太郎は、あの親子が「時渡り」では無いかと言っていたのを耳に挟んだ。

最初は何の事か分からなかったが、偶々知り合った津藩の中間に何気なく聞いてみると、

「おぉ、聞いたことがあるぜ」と教えてくれた。


中間の話によれば、「時渡り」とは今の時代では無い違う時代から来た人間の事で、上方では時折その噂が出回るそうだ。

しかし、いつも噂の域を出ず、単なる妖怪の類い位に思われているようだ。

「そんな人間が居るわきゃねぇよ、本当にいるんならお目にかかりてぇや、でよ、先の事を聞いて一発当ててぇもんだぜ」と中間は笑っていた。

菊太郎も適当に相槌を打って笑ったが、内心はどきどきしていた。


主は上方や京に本店を持つ雛屋の分家で上方店の次男坊だ、京の本店は宮廷にも出入りが許されている老舗だと言うことで、宮廷の事にも詳しいのが自慢だ。

また、そんな店の血筋の者なので、普通の者が知らない様な事も良く知っている。

大番頭は江戸店開店の為に上方店から使わされた者で、時折京の本店にも行くことがあったと、これまた自慢気に話していた。


そんな二人が言っていたのなら「時渡り」は本当に居るのではないかと菊太郎は思ったのだ。

とりあえずは会って話が聞きたい。そう思い店で買い物をしたこともあるが、店にいる女将は特に変わった感じはしなかった。

でも娘を見たとき、菊太郎は違和感を覚えた。

着ている物はちょっと変わった袴くらいにしか見えないが、娘の身のこなしや時折唄っている歌などが菊太郎が知っているどの娘とも違うのだ。

長崎帰りと言われればそうかも知れないが、菊太郎は主と番頭の話と自分の勘を信じることにした。

そして、あの母娘が本当に「時渡り」であれば、誰も思いつかないような意匠を教えてもらい、大もうけできるのは間違いなしだ。


でも、このことを目の前の二人に言うつもりは無い。万が一あの母娘が金になると知ってしまえば、もっと高く買って貰える所に話を持ち込むだろう。

そうなってしまっては菊太郎の未来も無くなってしまう。


「いかがでしょうか」菊太郎は懇願する様に二人を窺った。

「ふむ、十両ではちと安いな」いままで腕組みして考え事をしていた室井が薄目を開けてつぶやいた。

「そろそろ江戸にも飽きた頃と思っていた。もう少し色を付けてもらえれば江戸を出る路銀になろう」と言った。

「え、旦那江戸を出るつもりですかい?それで何処へ」と政次は初めて聞いた室井の考えに驚いた。

「特にあては無い、だがこのまま江戸に居ても大して生活は変わらんだろうからな、まぁ気の向くままだ」と笑って酒を飲み干した。

「そうか、旦那は江戸を離れるんだ。俺もたまには江戸の外を見たいもんだ、旦那、俺も付いて行っちゃ駄目ですかい」と政次は室井に頼んでみた。室井はどうせ本気じゃないだろうと思い、

「ふん、好きにしろ」とだけ答えた。

「よし、そうと決まれば一人十両じゃとうてい足りねぇ、どうする菊太郎さんや」

「それではこれではいかがでしょう、私からお二人に二十両お支払いします、そして、この事を旦那様に私から話し、旦那様から仲介料を頂くのです。

旦那様もあの母娘には会いたいと思っていらっしゃいます。私が上手く話しを通しますので」

「それで旦那さんからはいくらもらえるんだい」と政次は金に眩んだか、目を輝かせた。

「そうですね、ちゃんとした方からの仲介と言うことにしますので、あまり安くても疑われます」とちょっと思案した菊次郎だったが、

「五十両位がいい線でしょう。お二人に二十五両づつ、私の支払いとあわせて三十五両づつ、それでいかがでしょう」と商人の目をして顔を上げた。

「三十五両か悪くない」

「そしたら、俺も堵場に溜まった借金を返して大腕振って江戸を出て行けらぁ」

「決まりと言うことでよろしいですね」と菊太郎は念を押した。

室井と政次は無言で頷き、杯を飲み干した。

「ところで、菊太郎さんよ、その娘は用が済んだらそのまま返すのかい、それは後々面倒になるんじゃねぇのか」

「そうですね、旦那様との話し次第でしょうが、もし娘が騒いだりしたら厄介です」

「その娘の見た目はどうだい、売れそうかい」

「そうですね、どちらかと言えば狸顔ですが、まぁ吉原は無理でも品川辺りならそれ相当の値段で引き取ってくれるでしょう」

「へぇそうかい、じゃぁいざとなりゃ俺がつてを頼って売り飛ばして路銀の足しにするか」と政次はさらに儲けようと算段した。

菊太郎はそんな政次を冷ややかに見て何かを言おうとしたがやめた。もし娘が居なくなったとしても、元々この世に居なかったはずの娘だ。どうなろうと知ったことではない。

また、万が一政次が捕まったとしてもただ仲介を頼んだだけの自分には大したお咎めもないだろうと踏んでいる。

何処に行こうかとしきりに室井に話しかける政次を見ながら、小女を呼んで酒を追加した

「それでは細かい事を決めなければなりません、が、その前に」と三人の杯に酒を満たした。

「三人の計画の為に乾杯と行きましょう」と杯をかざした。

そしてその日は店が看板になるまで三人の入念な打ち合わせが続けられた。















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