第7話

開店当日、お昼前に既にお客が並んでいた。特に宣伝したつもりは無かったが、

長崎帰りの親子の店と言うことと、大工の福松が試食のお焼き(お好み焼きなのだが)を宣伝してくれたのか注文もほとんどがお焼きだった。

イカを炒めて、葱と白菜と紅しょうがを加えた種を両面焼く。仕上げは味付け醤油を塗って、花かつおを散らせば出来上がりだ。いたって簡単なのだがこの時代の人には珍しいのだろう。

午前中仕込んだ種はあっと言う間に無くなってしまった。

開店の顔見世価格ということで、通常十文を八文にしたのも良かったらしい。

他にも「大根とイカの煮物」、「お芋の天ぷら」、「蓮根の天ぷら」を用意したがこちらもそこそこの売れ行きだった。

「忙しすぎるよ」と云いながらも茉莉花は意外にもテキパキと働き、客商売は初めてのおふきもぎこちない笑顔で頑張ってくれた。

お昼を食べる暇も無く焼き続け、やっと一息ついた時は昼二時を回っていた。

これからまた夕飯の時間に合わせて仕込みをしなければならない。

きっとこの忙しさは開店の時だけで、流行り廃りもあっという間の江戸のことだからと思いながらも、皆嬉しい悲鳴を上げていた。

安田と大蔵も来てくれた。大蔵は寺子屋の子ども達に振舞うからとお焼きを五枚、安田も店の突き出しにするからとお焼きを五枚と天ぷらを買ってくれた。きっと心配で来てくれたのだろうが、あまりの繁盛に驚いていた。

やっと店じまいの時間になり、残った煮物で簡単に夕食にした。食べながら反省会だ。

茉莉花は今日安田が来たとき、買った一枚をその場で齧りながら、茉莉花に小声で「やっぱりマヨネーズ欲しいね」と言っていたそうだ。

それをを聞いた由佳は「マヨネーズかぁ、材料と大体の作り方はわかるけど分量が分からないなぁ。それに卵は高いからね、単価に影響しちゃうよ。でも、私もマヨネーズ食べたいから落ち着いたら研究してみるね」と約束した。

当然食べた事の無いおふきと辰五郎はどんな物か説明を聞いて、

「ここにいるといろんな珍しいものが食べれそうで楽しみですね」と顔を見合わせてほころんだ。

「そういえば、あの子来なかったな」と茉莉花が思い出した様につぶやいた。

「だれの事」

「ほら、昨日言っていた文太って子だよ」

「そう、用事でもあったんじゃない」と由佳はさほど興味が無さそうに言った。

辰五郎も福松に聞いたのだろう

「なんでも、手癖が悪い餓鬼だって事ですぜ、お嬢さんが気にするこたぁありませんよ。それより、顔を出したら出したで気をつけなきゃいけませんよ」と言った。

「でもさ、なんか気になるんだよね。野良犬みたいな目をしててさ」

「江戸には野良犬みたいな餓鬼は沢山いますぜ、いちいち気にしていたらキリがありませんや」と辰五郎に言われたが、茉莉花は納得行かない顔をしている。

辰五郎の言うとおり、実際問題自分達のことで精一杯だ。

「さあ、まだやる事あるし、速いところ色々済ませてお風呂行こう」と由佳は皆を急かし、売上の確認と明日の段取りを話し合い、交代で湯屋に行くことに。

文左衛門の寮は内湯だったので、初めて湯屋に来たときは戸惑ったが、由佳も茉莉花もすぐに慣れ、

疲れを取ることが出来るようになった。

未だに暗いのだけは何とかならないかと思ったりもするが、仕方ない話だ。

明日の為にしっかり英気を養っておこうと由佳は湯船で手足を伸ばした。


二日目以降もまずまずの売上だった。

開店記念の値引期間が終わっても口コミで列が出来る日もあった。

おふきの提案で店前に床机を出して、その場で食べる事が出来るようにしたら若い娘を中心に更に売上が伸びた。

辰五郎が中でも食べていける様にし、雨の日でも対応できるようにしようと言うので、

次の「時の会」の日を休みにし、大工の福松と相談することにした。

最初は不安しか無かったが、このごろは少しずつ自信も出て来て、皆忙しい日々を過ごしていた。

そんなある日、お昼ごはんを食べ終えて一休みしている時、大蔵が尋ねて来た。

先日子ども達に買っていったお焼きが好評で、それを聞いた寺子屋を開かせてもらっているお寺の住職から法要の振る舞いに出したいので、イカ等の海産物を入れずに精進料理として作って貰えないだろうか、と頼まれ、その相談に来たのだった。

椎茸や油揚げを変わりに入れて作れば良いので、それ自体は問題ないのだが、法要の振る舞いなので百枚と数が多い。それを昼までに用意しないといけないので、その日は午前中を休みにしないと無理だ。

又、冷めると美味しくないので、暖かいものを提供できるように工夫してもらう事をお願いして由佳は引き受けることにした。

帰る大蔵を見送るため茉莉花と表に出ようとしたときに、店を覗いていた子どもを見つけた。

「あ、文太」と茉莉花が声をかけると、悪い事を咎められた様な顔を一瞬したが、

「な、なんでぃ、繁盛してるって聞いて来たけど、客なんていやしねぇ」と憎まれ口を叩いた。

茉莉花はむっとしながらも、

「開店した日に来るかと思ったのに、もう安売りの期間は終わっちゃったよ。でもせっかく来てくれたからおまけしてあげるよ、食べてく?」と聞いた。

「お、おいら昼を食ったばっかりで腹減ってないから、又今度にすらぁ」と立ち去ろうとしたので、茉莉花が「ちょっと待ちなよ」と腕を掴んだ。文太はどこか痛むのかちょっと顔をしかめたが、はっとした茉莉花が手を離した隙に逃げ出してしまった。

どうしたのと声を掛けた由佳に、「お母さん、文太殴られた痕があった」と不安そうな顔を向けた。

店の中で様子を伺っていた大蔵が出てきて、

「茉莉花殿は文太をご存知でしたか、あの子は以前私の寺子屋に来ていたのですが、月謝が払えず辞めて行ったのです」

「父親と二人暮らしと聞きましたが」と由佳が聞くと

「はい、父親は腕のいい飾り職人だったようですが、文太の母親が亡くなってからは酒の量が増え、今じゃあまり仕事をしてないと聞いております」

「お父さんに殴られたのかな」

「それは判らぬが、文太はあれでいてなかなか賢い子で、出来れば面倒を見てやりたいと思ったのですが、ままならずでして」と大蔵はため息混じりに言った。

「ま、もし見かけたらそれとなく様子を見ておいてください。私も気になりますので。では今日はこれにて失礼仕りまする。時の会でお会いしましょう」と帰っていった。

「本当はお腹空いていたかも知れないね」と茉莉花はまだ文太の事が気になるようだった。


「時の会」の日、久しぶりに朝寝坊して、昼に福松が打ち合わせに来るまでゆっくりすることにした。

おふきは近所まで買い物に出掛けて居なく、辰五郎は丸山に呼ばれたので下屋敷まで出掛けている。

久しぶりに母娘二人で過ごすことになった。

「こっちにきてもう一ヶ月半位経ったね。皆どうしてるかなぁ、今頃クリスマス前で盛り上がってるかなぁ」と茉莉花が頬杖をついたままつぶやいた。

「そうだね、でも私達が居なくなって楠田家はそれどころじゃ無いだろうね」

「ねぇ、このまま帰れなかったらどうなるの?死んだ事になるの?」

「確か行方不明になって七年戻らなかったら死亡届が出せるんだよ。それまでに無事に戻れるといいけどね」と由佳もため息を吐く。

「でもさぁ、もし戻ってもこんな話、誰も信用してくれないよね、説明も面倒くさそう」

「そうだね、そもそも同じ時代や場所に戻れるのかな。全然違ってもかえって困るし、そんなんだったら理解者がいるここに居たほうが良いのかも」

「戻るんだったら同じところでしょ。それとも再滑りでさらに過去とか。そなのありえないんだけど」と茉莉花は卓に突っ伏した。

「いや現実ありえない事が起きてる訳だし、何が起きても不思議じゃないよ。誰も判らない事だよ」と由佳は説明しながらなんだか怖くなってしまった。

この話を続けても不毛に思ったのか、茉莉花は

「なんかさ、この時代に居た証拠とか残せるといいよね」

「そうね、そしたら戻った時に説明しやすいかもね、どうすればいいかな」

「うーんでもぉ、歴史は変えられないんでしょ鎖国したままには出来ないよね」と笑う。

「若様はさ、ちょっとは変えられるって言ってたけどね。鎖国したままは無理だろうね、それこそ、もし大幅に変わったら茉莉花が好きな幕末は来ないよ」

「あ、そっか、それは困るな。徳川の将軍もこれ以上覚えられないし、そもそも変え方も判らないや、ま、いいや考えるの面倒くさくなった。映画とかでもタイムスリップ物苦手なんだよね、混乱するから」と笑った。

能天気なのか、思慮深いのか我が娘ながら判断に困ると思った由佳だが、彼女は彼女なりに考えてるいるようだ。

何かこの時代に残せる証拠を考えようと相談してこの話はおしまいにした。

福松が来て、打ち合わせを済まし、おふきも戻って来たので「時の会」に持っていく差し入れを作ることにした。

この日の為に時折卵を売りに来る百姓に鶏肉をお願いしてあったので、野菜を多めにした、餃子とシュウマイを作ることにした。

差し入れの準備も終わり、辰五郎が帰ってくれば出掛けられるのに、なかなか帰って来ない。

そろそろ時間なので、戸締りをしてみんなで出掛ける事にした。本当は由佳と茉莉花だけが時の会のメンバーなのだが、おふきは事情を知っているし、丸山とも面識があるので、かまわないだろうと由佳は勝手に判断した。


 安田の店には由佳達が最初の到着だったが直ぐに皆集まった。

辰五郎も丸山と一緒に顔をだした。由佳は丸山におふきを一人に出来なかったので連れてきたことを詫びたが、丸山は特に気にしていないようだった。

「皆さんお揃いですね。それでは今月の時の会を始めます」と丸山が皆を見回しながら言った。

「いや、まだ小山どのが見えぬようだが」と大蔵が手を上げた。丸山は、

「その件ですが、拙者の方から先に皆様にお話します。小山どのは本日は出席されません。いや、出席出来ぬと申したほうがよろしいでしょう」と言った。

いつもは陽気な丸山の真剣な顔と物言いに皆顔を見合わせた。

「どういうことですか小山どのに何かあったであろうか」大蔵はじめ皆心配顔になる。

「先日の楠田どのの顔合わせの際に出席を予定しておられた小山どのが、来られなかった事はご存知の方もいらっしゃいますが、実は小山どのは近所の者に釣りに行くと言って出掛けたまま、行方がわからなくなったのです」皆頷きながら話の続きを待った。

「どうやらあの日軽い地震があった様で、その時分川に落られた事が分かり、それを見ていた通りすがりの者がすぐに番屋に知らせ、番屋の方でも船まで出して捜索してくれたようです。しかし骸もあがらずじまいでした」

安田が、じゃあとばかり「海に流されたとか、そもそも落ちたと思ったのが間違いだったとかではないのですか」と皆の心の内を代弁した。

「藩の方もそう思い調べましたが、見ていたものは数人おり、海に出るまでにはまだ間がある場所で、当日は対した流れでもなく、それはないだろうとのことでした」

「と言うことは」

「さよう、小山どのは再滑りされたと思われる。若様もそう判断されました」


皆あっけに取られた。再滑りする場合もあると各々説明を受けていたが、本当にあることなのだ。

「じゃあ、小山さんは元の時代に戻ったのですか?」思わず茉莉花が聞いたが、丸山は頭を振り、

「それは判りません。万が一この時代より過去に行った場合は何らかの方法で知らせることも出来るやも知れぬが、元の時代であれば知り様はない故」と言った。

そうだった。若様もそう言っていたと由佳は思い出した。

「それで皆様に、大事な物は肌身離さず身に付け、いつ何時再滑りしても良い様に過ごすように、と若様からの事付けです」

小山の安否はわからずじまいだが、きっと元の時代に戻ったんだろうと納得するしかない。そう信じたい。皆口には出さないがそう心の中で思った。

重たい空気になってしまった場を和ますように丸山は笑顔で、「さて」と手を叩いた。

「それでは改めて皆様の近況を報告してもらいます。その前に、横山どの、こちらが楠田由佳どのと、娘御の茉莉花どのです」と紹介してくれた。

「はじめまして、横山です。先日はお会いできず失礼いたしました。小間物屋をやっていますので、半衿などご利用の時はお声かけください」と挨拶してくれた。

「楠田です。よろしくお願いいたします。煮売屋を始めました」と由佳は返し、茉莉花はペコッと頭を下げた。

安田の説明の通り、色白で物腰が柔らかい。歌舞伎役者の様と人気があるのも判ると由佳は思った。

「それでは、まずは横山どのより報告をお願いします」

と各々の近況を報告する。横山は八王子まで買い付けに行った事、大蔵と安田は相変わらずの日々であること、そして由佳は店の事について報告をした。

丸山は細かく聞き直したりしながら書き付けている。

「皆様ともつつがなくお過ごしの様ですね。特に楠田どのはお店も順調の様で安心いたしました。しかし年の瀬も迫りますと何かと物騒になります。くれぐれも戸締りに気をつけてください。

それと、何かあったら直ぐにお知らせくだされ、若様も楠田どのお二人の事は気になさっておいでですので」

「はい、お気遣いありがとうございます。でも辰五郎さんも居てくれますので安心です」

と由佳の言葉を聞いた丸山は、笑顔で頷き返した。

「それでは市政について何か不便であったり、思いつくことがあればお教えください」と促した。

初めて参加した由佳達に安田が説明してくれた。本来「時の会」の目的は時滑り達が感じた今の時代の不便なところや、不便な制度について調査し、元の時代の制度などと比較し、実現出来る事は取り入れて行き、少しでも藩の約に立つことを探るのだと言う。

よって、何でもいいので意見があれば言って欲しいそうだ。

横山は八王子まで徒歩で行って来たので疲れた話をし、遠方に行くのに辻馬車が有ればいいのにと訴えていた。車は無理でも馬車なら今の時代でも作れるだろう。

しかし甲州街道などを馬を使って往来出来るのは武士に限られているのでそれは難しいが、川越藩の中では出来るだろうと丸山が説明した。

安田は横山の意見に便乗して人力車の説明をしていた。

大蔵は特に無いと言ったが、先程から何やら思案顔をしている。

「他にありませんか」と丸山が言った時、「あのー、私も話していいですか」と茉莉花が手を挙げた。

驚いた由佳は小声で「何についてなの」と先に聞いて出来ればトンチンカンな話をしない様にしようとしたが、丸山が、

「是非お話ください。お若い方の意見は大事です」と嬉しそうに促すので、茉莉花を制する事が出来なかった。

丸山に勧められ茉莉花は「えっと先ずは質問なんですが、この時代に養護施設はあるのですか」

「ようご施設とは」と丸山に逆に聞かれ、「えーっと、親の無い子どもや、事情があって親と暮らせない子どもを預かる場所です」と説明した。

茉莉花が言いたのは「児童養護施設」だろう。

丸山は、火事や天災の後は寺や町内会で一時的に集めて預かる場合はあるが、永続的では無い。ひと月もしないうちに奉公に出されたり、小さい子どもは養子先を見つけて里子に出すのだそうだ。希に個人がお金を出して引き取り兄弟の様に育てる場合もあるが、それは本当に奇特な人で、なかなか出来ることでは無い。

幕府としても孤児は見つけ次第、番屋や奉行所で預かったりするが、親がいる場合はその限りで無い事を説明してくれた。

茉莉花は親がちゃんと育てられない場合はどうなるのかと聞いたが、丸山は「あまりにも目に余る場合は名主と町役人が相談して引き離し里子に出す場合があるが、それぞれの事情もあろうし、なかなか手出し出来る問題では無いですね。茉莉花殿の時代にはどのような制度になっているのですか」

と聞かれたので、茉莉花に変わって由佳が説明した。

平成の世では親が不在の子どもは十八歳になるまでは「児童養護施設」で過ごすことが出来る。

もちろん最長十二年間の義務教育も受けることが出来る事。

ただ十八歳になると施設を出なければいけないので、自分で生活して行くことになるが、その後多くの子ども達が苦労しているらしい事。

また、親が育てられない場合も預ける事が出来、親が安定した生活を送れるようになった時引き取りに行くことが出来るが、それにも一部問題があり、親が子どもを折檻したので、引き離したのに、子供を親元に戻したとたん又折檻し、死に至る場合もある事。

平成では何とか子どもの虐待死をなくすように役所も警察も頑張っているが、やはり家庭内でのことなので躾との区別がしづらく、難航している。

アメリカでは躾で叩いても直ぐに警察が介入して逮捕されるくらい敏感になっている事を余談として話した。

丸山はずっとメモを取っていたが、「ふーっ」とため息をついて

「なかなか難しい問題ですね。しかし我が藩では子どもは宝だと考えています。今伺った話は是非今後の参考にさせていただきます」

「じゃあ今はどうすることも出来ないんですね」と茉莉花が聞く。どうやら文太の事を思っての意見の様だ。

「そうですね、藩中ならば直ぐに調査して全体の様子を把握し対処することも可能ですが、ここは江戸ですのでままなりません」

「そうですか」と気落ちしたようだ。

「茉莉花どのには誰か気になる子どもがいるのですか」と丸山が優しい目で覗き込んだ。

「いえ、別にちょっと気になったからこの時代はどうなっているのかなと思っただけです」と茉莉花はぶっきらぼうに言い訳したが、

「そうですか、お優しい事です」と言われ茉莉花は

「質問は以上です。ありがとうございました」と恥ずかしそうにして話を終わらせた。


「では、他には何かありませんか、大蔵どのは先ほどより何やら思案しておいでですが、何かございますか」

「あ、いや、ちと確認したきことがござって」

「何でしょう、些細な事でもお話くだされ」

「しからば」と大蔵は居住まいを正し、

「楠田どの、ちと伺いことがあるのだが」と由佳は大蔵に声をかけられた。

「何でしょう」

「確認したいのだが、楠田どのはこちらに来た時の事を覚えておいでか」と聞いて来た。

怪訝に思った由佳だったが、聞かれたままに、

「はい、あの時は突然濃い霧が出て来て、晴れたかと思ったらもう時滑りしたあとでした」と話した。

「起こったのは霧だけであったか」と言われ、そういえば地震があったと茉莉花が付け加えた。

「なるほど」と又大蔵は思案する。

「それが何か」と聞くと、大蔵はしばらく目を瞑り、考えをまとめているようだった。そして、

「実は以前聞いた所によると、小山どのはこちらに来るときも、地震があって、その時に川に落ちてしまったそうだ、あわてて水面に出たと思ったら時滑りした後だったと言っておられた」

「え、それじゃ今回居なくなった時と来た時は同じ条件だったってこと」と茉莉花が言う。

「まだ確信はないのだが、何か関連しているのでは無いだろうかと思ったのだが」

「て事はさ、俺の場合、波乗りしている時に近くに雷が落ちて海に投げ出されれば元の時代に戻れるって事だ。でもそれはタイミングを計るのが難しいし危険じゃん」と安田は最後には残念そうに言った。

安田は台風接近で波が高くなって来たお台場のあたりで、当時流行り始めのウィンドサーフィンをしているときに「時滑り」したそうだ。

「もし、その仮説が正しいとしたら、私はもう戻れないですなぁ、まぁ私は戻れなくてもいいんですがね」と横山は呑気な声で言った。

横山は昭和十七年四月に川越の工場の近くで空襲に逢い、崩れ落ちた倉庫の下敷きになったそうだ。

横山のいた時代は第二次世界大戦が開戦してすぐの頃で。来た当初はお国の為に戦えないと嘆いていたそうだが、その後、山本や安田の話を聞き、日本が大敗したことを知ると、もしあの時、「時滑り」しなかったら戦争で死んでいたかも知れない、第二の人生を貰ったんだと思い直し、その事を感謝しつつ、この時代を満喫しているらしい。

「確かにこの説を信じたとしたら、拙者ももう戻れぬであろう。それも人生と思っているが、家族や一緒に戦った友の事を思うと申し訳ない」と大蔵も続ける。

大蔵は、慶応四年三月、新選組を甲陽鎮撫隊と改称した近藤勇の元、新規募集の隊士に志願し、甲州へ進軍した。

しかし、甲州勝沼の戦いで敗れ、鎮撫隊の残党は上野原村まで退却後、各自勝手に江戸まで撤退した。

大蔵は友人と二人で山を超え川越街道を目指し、逃げていたが、成木峠あたりで残党刈りに逢い、鉄砲で狙われ、もはやこれまでと思ったそうだ。

顔に衝撃を感じ、当たったと思った瞬間気を失ったらしい。そして気がついた時はこちらに来ていたということだ。

「横山どのと大蔵どのはかなり特異な条件の元こちらに来られたのでしたな。大蔵どのは発見された時は顔中血だらけで、村の者達は大層驚いたそうです」と丸山が笑う。

「いやぁ面目もござらん。こめかみを玉がかすったもので」と大蔵は頭に手をやる。

「横山どのも百姓の納屋から真っ白になって出てこられ、幽霊騒ぎになったのでしたな」

「色白なのは元々ですが、あの時は埃まみれで、全身打ち身で痛くて、まっすぐ歩けなかったのでフラフラしていましたからね。最初に遭った農夫は腰を抜かしていました」それを聞いて皆大笑いだ。

山本はロッククライミング中、近くに落雷があり、その時に岩から落ちたと言っていたし、

皆生きるか死ぬかの瀬戸際で「時滑り」して来たらしい。

由佳たち母娘はそんな大変な目に遭わなくて良かったと心の中で思った。

「なるほど、大蔵どのの推測は早速若様にお知らせしましょう。もしかしたら時滑り解明の糸口になるかも知れません」

「よろしくお願いいたします」と大蔵をはじめ、皆頭を下げた。

「では以上で報告会は終いにします。来月の時の会は暮れですので十五日に下屋敷にて行いますので皆様そのつもりで」

「ではこのあとは楠田どのの歓迎の宴としますか」と丸山の一言に「待ってました」と安田が元気な声を上げ、台所へ支度をしに行った。

それまでそっと隅にいたおふきと辰五郎も手伝いに立ち、由佳と茉莉花も手伝って、用意してきた焼売を蒸したり餃子を焼いたりした。

安田も刺身を用意したり、鍋を用意したりしたので、なかなか豪華な料理が並んだ。

大蔵も餃子の焼ける匂いに「これまた美味そうな匂いでござる」と顔をほころばせた。

安田は「餃子が懐かしい」と喜びパクついた。しばし料理の話や江戸での生活の話に花が咲いた。


しばらくして表でおとないを入れる声がした。

安田が出て「どちら様でしょう、あいにく今日は貸し切りでして」と説明した。

「あい、すみません、こちらに楠田様がいらっしゃっていると聞いておりまして」と名前が出たので茉莉花が覗いてみると、なんと文左衛門の顔が見えた。

「文左衛門さん」と茉莉花が声をあげ駆け寄る。

「おおぉ、茉莉花様お元気そうでなによりです」と文左衛門は茉莉花の両手を持って嬉しそうに振った。

「これはこれは、安田さんこの方は楠田どのや大蔵どのが飯能で世話になった大河原文左衛門どので、若様の相談役でもある方です。」と丸山に言われ安田は慌てて通し、席を作った。

大蔵も横山も文左衛門に世話になった事があるので、久しぶりに会う恩人に酒を勧めたり、近況を話したり嬉しそうだ。

安田は下屋敷の近くで発見されたとのことなので文左衛門の事は知らなかったので、丸山に説明をされていた。

由佳と茉莉花も「その節は大変お世話になりました」と挨拶すると

「いぇいぇ由佳様もお元気そうで、お店の方も上手く行っていらっしゃると聞いておりますよ」

「おかげざまで何とかやっています。おふきさんも良く頑張ってくれていますし。本当に助かっています」と報告した。

おふきも挨拶に来て、

「お久しぶりでございます。村の方は変わりないでしょうか」と聞いた。

おふきの母親のおつたは川越藩の外れの名栗村に一人で住んでいる。江戸時代の暮らしに不慣れな由佳達の為と、許嫁に振られたおふきの為を思って江戸に同行させてくれたのだった。

「そうそう、手紙を預かって来ていますよ。村長が書いて寄こしました」と懐から手紙を渡した。

そういえば江戸に来て二週間以上経っている。そろそろおふきの今後の事も話さなければいけないと由佳は思った。

「それで文左衛門さんはいつ江戸に出てきたんですか、いつまでいるんですかお店にも来てくださいよ」と茉莉花から質問攻めにされて、

「ほほほほ、今日着いたのですよ、しばらくは浜松町の知り合いの所に泊まります」と説明して、由佳の顔を見て、

「実は今回江戸に参ったのは楠田様にお願いがあったからなのです。明日お店の方へ伺いたいのですがよろしいでしょうか」と聞いて来た。

「えぇもちろんですよ、是非いらしてください。場所はわかりますか」

「わかります。何時がよろしいですかな午前中は下屋敷の方へご挨拶に行く予定にしておりますが」

「そうですね、昼どきすぎれば夕方までは忙しくないのでその頃に。下屋敷の帰りにでもお寄りください」

「分かりました。それでは明日お伺いいたしますので、お話はその時に」と決まり、

丸山にも「それでは丸山様、明日改めてご挨拶に伺いますので、本日はこれにて失礼いたします」と挨拶をして文左衛門はもう帰るという。

横山も目黒までは距離があるので文左衛門を送りがてら帰ると言うので、お開きにすることになった。

大蔵と丸山を先に返し、由佳達は片付けを手伝ってから帰る事にした。

「ねぇ、茉莉花ちゃんはやっぱり元の時代に帰りたいと思う」片付けをしながら安田が茉莉花に聞いて来た。

「もちろん、そりゃテストや勉強は大変だけど友達もいるし、やっぱりこの時代は不便だしね。テレビも視たいしライブにも行きたいし」

「そうだよね~俺も就職活動とか大変な時代だと思っていたけど、楽しいことも一杯あったしなぁ。でも意外と今の生活も悪くないけど」

「でもずっとって訳には行かないですよ。ここにいたら安田さん結婚も出来ないですよ」

「確かに彼女欲しいなぁ~そうだ、ねぇ茉莉花ちゃん俺と付き合わない」

「遠慮しときます」

「え~なんでぇ」

「軽いから。それにおじさんだし」

「マジで俺って女子高生から見たらもうオジさんなんだ。ショックだなぁ~」

なんか久しぶりに聞いた若い子同士の会話だ。江戸時代では聞けない口調に由佳は懐かしくなってしまった。

付き合うのは問題だが良い話し相手になってくれるといいと由佳は思った。


 次の日昼の忙しい時間が過ぎて昼食の後しばし休息の時間をとっていたとき、約束通り文左衛門がやってきた。が見知らぬ人を連れている。

文左衛門と同じように裕福な若旦那という感じだが、文左衛門の息子より少し若いようだ。

「楠田さん、こちらは芝で錦屋という小間物屋を商いをしている友人の息子で亮二さんとおっしゃる方です」

「はじめまして、よろしくお願いいたします」と紹介され、若者は丁寧に頭を下げた。

「初めまして楠田です。これは娘の茉莉花です」

「早速ですが、楠田さんにお願いというのが、この亮二さんの事でして」と文左衛門は仔細を説明した。

 川越出身で文左衛門の幼馴染が芝で小間物屋をしているが、この度暖簾分けをして、次男坊の亮二にも店を持たせる事になった。

予てより所有していた場所に店を構えるのだが、来年早々に開店しようと準備していた矢先に

隣に小間物屋が出来てしまった。よくある話ではあるが、隣の小間物屋は雛屋といい、上方の流行が売りと来ている。

今更場所替えも出来ず、このままでは開店しても商いが上手く行くと思えない。

そこで、錦屋の大旦那から文左衛門に知恵を貸してくれないかと依頼があったそうだ。

文左衛門の店で売り出した「蛮来薬茶」の売れ行きが好評で、それにあやかりたいと言われたが、文左衛門が実は楠田母娘の提案だった事を話したら是非紹介して欲しいと言われ断りきれず今回尋ねる事になったそうだ。


「というわけで、小間物屋は若い娘がお客に多いものですから、茉莉花さんの知恵をお借りできないかと思いまして、厚かましくも参上した次第でございます」

「何でも楠田様お二人は長崎帰りとか、それならば珍しい品もご存知かと思いまして。どうぞお力をお貸しください」亮二と文左衛門に頭を下げられた。

「そういう事ならお力になりたいのですが、果たして役に立つかどうか」と由佳は困惑した。

「何でも良いのです。何か目玉になるような物が有れば。厚かましいようで申し訳ないのですが、出来れば今から用意しても開店までに間に合うような物をお願いしたいのですが、いかがでしょうか」

そう言われても開店までひと月ちょっとしかないと言う。それはなかなか難しい注文だ。由佳が思案していると、

「ところで、小間物屋って何を売っているんですか」と茉莉花が聞いて来た。

亮二は自分の店で扱う商品の説明をした。主に櫛や簪、紙入れ、化粧品らしい。若い娘が好きそうな商品だ。

「ふーん、やっぱり若い子は可愛い物とか、綺麗な物が好きだからね~。サンプルとかあるんですか」

「は、さんぷるとは」

「ああ、見本の事です。茉莉花、外来語じゃ判らないよ」と慌てて訂正する。

「ごめんごめん。つい」

「こちらです。いくつかお持ちしたのですが」と商品を見せてくれた。

いかにもこの時代で流行った感じのデザインだ。悪くないが、どれも皆持っていそうだ。

「うーん、大体他の店と変わらない感じだよね。おふきちゃんどう思う」

おふきにも声を掛け見てもらう。

「どれも粋で素敵です。さすが江戸って感じですよ。川越では手に入りません」

「そうなんだ、それで雛屋の商品はどんな感じなんですか」

「それはこちらです」と亮二が見せてくれた品はどちらかと言うと派手な感じがする物だった。

「流石は上方ですね。豪華です。でも値段はどれもそんなに高くなく、町娘でも手に入れられる位なのですよ」と文左衛門が悔しそうに補足した。

「同じような値段ですと派手な方に目が行きます。かと言って同じような物を売るわけには行きません。上方と江戸の違いを出さないと負けだと思うのです」と亮二ため息をついた。

「そうですね。同じような物では芸がありませんね」

「じゃぁさ、なんかお店のテーマを決めれば良いんじゃない」と茉莉花がまた外来語混じりで話す。

「テーマとは店の意匠と言いますか、傾向と言いますか」由佳も慌てて付け加えたが、外来語を上手く訳せない。

「なるほど店の意匠ですか、確かに錦屋にはこれと言って店の意匠になるものが有りません。それを決めてそれにあった品を集めれば他の店と区別できますね」と亮二は思案顔になる。

「あの、文左衛門さん、錦ってどういう意味ですか」と又茉莉花が聞く。今更だが錦屋の意味を聞きたいという。

錦とは色んな色や金を使って織った物を始め、豪華に才色された物を言う。

「本来は金ピカかぁ。でもこれらはそうでも無いね」

「そうですね、錦屋だからと言って派手な物ばかりを扱っているわけでは有りません。むしろ私の好みからして割と地味な物が多いかも知れませんね」と亮二が説明した。

「うーん、まずはテーマのデザインだね」茉莉花は外来語が止まらない。

しばらく考えて「可愛い物をテーマにするならウサギとか猫とかだけど、ありふれているよね」

「確かに、よくあるのはウサギ、猫、鶴、千鳥などでしょうか、植物なら梅や桜などは多いですね」と文左衛門が答えた。

「じゃあ星は」

「星ですか」

「そう、これ」と茉莉花が書いて見せた。

「ああ、五芒星ですね。陰陽道が使う神紋ですね。それはちょっと恐れ多いですね」と亮二は難色を示した。

「線だけだとそうだけど、塗りつぶせば可愛くなりますよ」と茉莉花が塗って見せた。

「線を付ければ流れ星、大小の星と点を使えばもっと可愛くなると思うけど」と書いて見せた。

「紺地に白抜きにすればシンプルだし、色を付ければ華やかになるかもね」と由佳もつい外来語を使ってしまったが、亮二はイメージできた様子で、

「なるほど、紺地に白抜きは粋になりそうです。櫛には彫りで少しだけ大小の星を入れて、紙入れさりげなく色付きの星を散りばめても良いですな」と乗り気になった。

「しかし今からすべての商品は間に合いませんがどうしましょうか」と文左衛門が商人らしい助言をする。

「最初は全部じゃ無くて良いんじゃないですか?一商品だけでも間に合えば。間に合わせる事が出来る物はありますか」

「そうですね、やはり今からだと手ぬぐいでさえ間に合いませんね」と亮二は残念そうにため息をついた。

「じゃあさ何か作ればいいじゃん。ストラップとかさ」

「あ、根付の事です」と由佳は通訳する。

「根付だと数を作るのはもっと大変です。今からだと十個位しか用意出来ません」と文左衛門が答えた。

そうか、と茉莉花は残念そうに頷いた。

「そういえば、開店のときお披露目として買ってくれたお客様に何かおまけを渡すのですか」と由佳が聞いてみた。以前読んだ本に江戸時代でも開店祝いの粗品を渡すことが書いてあった事を思い出したのだ。

「ええ、一応引き札をお渡しする予定です」

「引き札って」と茉莉花は判らない。

「歌舞伎役者とか美人絵とともにお店の名前を入れた刷物です」と亮二が説明した。

「なるほど、もう用意してあるんですか」と由佳が聞くと、

「いえ、何の絵柄にしようかまだ迷っておりまして、刷物はひと月も有れば用意できますので、まだ注文も出していません」と亮二が答えた。


茉莉花はしばらく考えて、「そうだ」と言っておふきに何かを頼んでいた。

おふきが戻って来て、千代紙と半紙を茉莉花に渡した。

「ねぇ、お母さん、あれ覚えてる、小学校の時にさ学校に泊まる企画があった時に、星型の飾りを皆にプレゼントしたじゃない?」

「ああ、覚えてるよ、あの時は沢山作ったよね」

「その作り方覚えてる?」

「覚えてるよ、そっか、それだと直ぐに沢山作れるね」

そう言って由佳は半紙を一寸幅位に細長く切って、のりで繋げながら五角形になるように折りたたんだ。

最後の一巻きに千代紙を同じように細く切って、貼り付け、五角形の各辺を均等に中心に向かって押して行くとするとちょっと膨らんだ星型になった。

「これこれ、これならあっという間に百個とか作れるでしょ」

「そうだね、しかし良く思い出したね」と茉莉花を褒めた。

由佳は丁寧に形をつけて、亮二に渡した。

「最後を折りたたむ前に紐を付ければ紙で出来た根付になります、強度が欲しければ表面に何か塗れば良いと思います。これを紙入れや巾着につけて、帯の間から垂らす様にすればどうでしょうか」と説明した。

「おぉ、これは可愛らしい。これなら今からでも沢山作れます。これを引き札の変わりに渡してつけて貰えば店の宣伝をしながら歩いてもらえるわけですな」と文左衛門はそろばんを出して、原価の計算を始めた。

亮二はしげしげと丸目の星を見つめている。

「どうでしょうか」と心配になって由佳と茉莉花は亮二の顔を覗き込んだ。

亮二は大きなため息をついて、

「よくぞこんな物を思いつかれました。流石長崎帰りの方です。仰せのとおり、これから私は星を意匠にして行こうと思います。お二人の考えをそのまま使ってもよろしいでしょうか」

「もちろんです。お教えしたのはほんの取っ掛りに過ぎません。これから先は亮二さんが膨らましてください」

「誠に有難うございます。このご恩は忘れません」と頭を下げた。

「そんな大した事じゃないって、こっちも楽しかったし。また煮詰まったら聞きに来ればいいじゃん」と茉莉花は気軽に言ったが、

「有難うございます。でもそうならない様に頑張りますので」と言われたのでそりゃそうだ、と笑ってしまった。


「流石楠田様です。私もこれで肩の荷が降りました。これはお礼の品と言っては何ですが、家内から届ける様に言われましてお持ちしました」

と風呂敷を広げた。風呂敷には着物と帯が包まれていた。

「来月は師走で下屋敷に行かれますでしょう、正月の晴れ着も兼ねて、冬の柄の着物が必要だと家内が気を利かせまして、ご迷惑でなければ是非着ていただきたいと思います」

「迷惑だななんてそんな、でもこんなに高価なものをそう何度もいただくわけには行きません」と由佳が言うと、

「なに、実は蛮来薬茶がかなり売れて儲かりまして、息子も家内も何かお礼をしないと気がすまないと申しまして。是非ともお収め願いたい。そうでないと私は帰ってから家内に叱られてしまいますゆえ」と肩をすくめたので、皆笑ってしまった。

「おふきさんも来てください。おふきさんの分もありますよ」

呼ばれたおふきは驚いて、

「滅相もございません、私は下屋敷には行きませんし、そんな上等の着物をいただけるような事は何もしていません」

「そう言うと思いました。でも家内が言うには、おふきさんが着ないと茉莉花さんは着てくれないだろうと言うのです。ですからおふきさんにも是非とも受け取って貰わなければなりません」とわざと威張って言う。その姿が可笑しくて、茉莉花はまたも笑いながら

「そうそう、おふきちゃんも一緒じゃなきゃ嫌だよ。それに私たちはおふきちゃんにとっても感謝しているんだから」

「そうよ、おふきちゃんに助けて貰っているからこそ店も続けられているんだから」と由佳も加勢する。

「皆さんありがとうございます」とふきは目頭を押さえ、頭を下げた。


「それでは文左衛門さん、お言葉に甘えさせていただいて、ありがたく頂戴いたします。実を言うと下屋敷に行くのに何を着て行くか考えなくてはいけないと思っていたところでしたから、助かりました」

「流石、文左衛門さんの奥さんだね」

「そう言っていただけると家内も喜びます。さぁさ手にとって見てくださいな、きっと又お似合いですよ」

そう言われて三人は板の間で広げ始めた。娘二人は亮二にどっちがいいか聞いたりしている。そんな二人の様子を見ながら、

「ところで文左衛門さん、今度は私からご相談があるのですが」と由佳が切り出した。

「なんでしょう」

「実はおふきちゃんの事なのですが、お店も開店してそろそろひと月になります。お蔭様で客足もよく、先日辰五郎さんと話して、お店の中でも食べて行けるように改装することにしました。間もなく大工も入ってくれます。それでこれから先の事を相談したいと思いまして」

「商売繁盛で結構ですな、そういえば渡した手紙にはなんて書いてあったのでしょうか、やはり戻って欲しいとでも書いてあったのですか」

「それが、手紙は見せて貰ったのですが、長兵衛さんの字が達筆過ぎてよく判らないのです。申し訳ありませんが、読んで頂けませんでしょうか」

「おふきちゃん、お母さんからの手紙、文左衛門さんに読んでもらおう」と、着物と帯を決めて嬉しそうに当てていたおふきに声をかけた。

「はい、文左衛門さん申し訳ありませんがお願いいたします」とおふきは直ぐに懐より手紙を出した。

文左衛門は「どれ拝見しましょうかね」と手紙を読み説明してくれた。

「おつたさんは皆さんの様子はいかがかと聞いておられます。それと正月は帰って来るのか、もし帰って来るなら雪が積もる前にしたほうが良いが、無理して帰って来なくてもいいとも書いてありました」

それを聞いたおふきは涙した。

手紙の内容を聞いて少しほっとした由佳は、おふきに遠慮がちに声を掛けた。

「おふきちゃん、出来ればでいいんだけどね、私はこのままおふきちゃんに手伝ってもらいたいんだよね。だいぶ軌道にも載ったと思うし、それで、もし可能ならおつたさんにも出て来てもらって手伝ってもらえると助かるんだけど、どうかな」

「え、おっかさんを呼んでいいんですか」

「ええ、そうしてもらえると本当に助かるのよ、でもおふきちゃんとお母さんの気持ちも聞かないといけないからと思って、おふきちゃんはどうかな」

「私はここでずっとお店の手伝いを続けたいです。そう出来たら嬉しいと思っていました。でもおっ母さんは聞いて見ないとわかりません」

「そうだね、じゃあ私がおふきさんに手紙を書くよ」

「はい、お願いします」とおふきは頭を下げた。

「でも、おふきちゃんのお母さんが江戸に来たく無いって言ったらおふきちゃんは名栗に帰るの?」と茉莉花は心配顔で聞いた。

それを聞いたおふきは、

「私はおっ母さんが来なくてもここに居たいんです。おっ母さんは私が説得します」と言い切った。

茉莉花はうれしそうに、「良かった、きっとおつたさんもきっと来てくれるよ。そんな気がする」と手を叩いて喜んだ。

「でも、おつたさんがもし江戸に出ても良いって言ってくれたらだけど、江戸まで一人で来れるかな、心配だよね」とまだ決まってもいなことを心配しだした。

「それならあっしが江戸までお連れしましょう」と今まで仕込みの準備作業をしながら話しを聞いていた辰五郎が口を開いた。

「え、そんな辰五郎さんにご迷惑をかける訳には行きません」

「いえね、近いうち丸山様が川越へ帰られる時に同行しないかと言われておりまして、女将さんにお話しないといけない所だったのですよ。昨日その話が出て、今日辺りご相談しようかと思ってましたんで、出かけるのは来週位になるそうなんですが、それでも良ければ帰りに足を伸ばしておふきちゃんのおっ母さんをこちらまでお連れしますよ」

「そうですか、それじゃ、もしおつたさんが来てくれることになったらお願いします」と由佳は頭を下げた。

「おつたさんが来てくれると良いですね。そして益々お店が繁盛するよう祈っておりますよ。それではそろそろ私たちはお暇しましょう」と文左衛門は腰を上げた。

「有難うございます。文左衛門さんもお元気でお過ごしください」

「楠田様ありがとうございました。お店が落ち着きましたら又ご挨拶に参りますので」

「亮二さんも頑張ってくださいね」

「根付出来たら見せてね」

文左衛門と亮二は何度も頭を下げながら帰って行った。

由佳は二人を見送った後、早速おつたに手紙を書き、辰五郎に頼んで飛脚に届けて貰った。

辰五郎に加え、おつたが住むとなったらなかなか賑やかになる、しかし今まで以上に売上を伸ばさないといけない。そろそろ新しいメニューを考えようと決心した。









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