第6話
出発の日、朝靄はあったが、好天気になりそうな日だった。
おつた、長兵衛、与助夫妻に見送られ朝六ツ頃(6時過ぎ)に寮を出発した。
ここから飯能までは文左衛門の足で二刻(四時間)ぐらいだそうだが、慣れない由佳たちがいるので、昼過ぎに着けば上々らしい。
しばらくは山あいの道を行くが、途中から開けた田園地帯が広がる。
半刻(一時間)ほど歩いた辺から茉莉花の口数が減って、いかにも疲れた様子だが黙々と歩いている。
途中茶店に寄った時は流石に「あー疲れた」と言ったが、「おふきちゃん大丈夫」と気遣いを見せた。
「飯能までは行った事があるので大丈夫です。茉莉花さんこそ大丈夫ですか」
「今はまだ大丈夫だけど明日も歩けるか不安だよ」と情けない声を出している。
無理もないと由佳は思った。平成では普段はこんなに歩くのは遠足位だ。
「ねぇ、お母さん四時間歩く距離って車でどの位」と聞かれたので、
「道が空いていれば三十分位かな」と由佳は答えた。
文左衛門は「なんでも未来では鉄の乗り物でどこに行くにもあっという間に着いてしまうそうですね」と興味津々だ。
「そうですね、飛行機で空を飛べば、長崎や琉球まで一刻か一刻半もあれば着いてしまいますね」と説明した。
道中は周りに人がいない時は未来の話をしながら歩いた。
由佳は日本では九州の他、江戸時代で言う、琉球、蝦夷や佐渡、四国も行ったことが有り、車以外の乗り物のことも話した。
おふきは鉄の乗り物が空を飛ぶなんて恐ろしいですと言う。
それでも、日光東照宮や伊勢神宮や、出雲大社にまで行った事があると言うと大層羨ましがった。
この時代はどこに行くにも基本徒歩なので、遠くまで旅行に行くのは夢のまた夢だと言う。
文左衛門は商人らしく、物資の運搬には大層便利だろうと、これまた羨望のため息を吐いた。
「ねぇねぇ、店の名前って何にするの」と茉莉花が由佳に聞いた。
「まだ決めてなかったね、何がいいかな。茉莉花が決めていいよ」
「江戸風じゃないとダメだよね」
「そうね、覚えやすくないとね。いくら長崎帰りだからって英語にしてもね、あまり突飛じゃないのにしてね」
「うーん難しいなぁ、おふきちゃん何か良い案無い」とおふきを振り返った。
「そう言われても江戸には色んな名前のお店があるでしょうから何が良いか見当もつきません」
「文左衛門さん、何か良い名前無いですか?」
「そうですね、お店は郷里の名前をつけるのが多いですが、有名な地名をつける場合もございます。ですから、伊勢屋、稲荷に犬の糞と言うくらい伊勢屋は多いですよ」
「郷里の名前だと小金井、お母さんの鍋島とかかな、なんかピンと来ないなぁ、苗字も味気ないし」
「一応お二人は川越藩の藩士の家族と言うことになっております。なので郷里は川越と言うことになろうかと思われます故、小金井や西国の名前では辻褄が合いません。長崎でしたらお役目で住んでいた場所、と言うことで大丈夫でしょう。でもせっかくですから可愛らしい名前にされたらいがかでしょうか」と助言してくれた。
「食べ物屋だから動物じゃないほうがいいな。いいじゃん、まりかで」と由佳も助言してみたが、
「やだよ、まりかは、じゃぁ、おふき」
「そんな、おらの名前なんて滅相も無い」とあわてておふきが手と頭を振って断った。
その後も色んな案が出たがなかなか決まらないので、江戸に着くまでに考える事にした。
そうしているうちに何とか昼前に飯能の文左衛門の店に着いた。
店の前は人が行列を作っている。
何事かと思って眺めていると、文左衛門に気がついた小僧がやってきて、
「大旦那様お帰りなさいまし。皆様お待ちです」と案内してくれた。
「どうしたんだいこの行列は」と文左衛門が聞くと、
「へえ、先日売り出した蛮来薬茶が大層人気になって、てんてこ舞いでございます」という。
どうやら番頭が持ち帰った案を元に若旦那が薬茶を売り出したようだ。
名前も「蛮来薬茶」と呼びやすくさりげないが舶来品のような響きにした事も作用して人気商品になったようだ。
母屋へ入り、座敷に通され待っていると、女中らしき人がお茶を運んでくれた。
「蛮来薬茶でございます」と言われ出されたお茶を飲んでみた。
少し、薬湯の様な匂いと苦味があるが口当たりは悪くない。
店に寄って話をしてきた文左衛門が若い男と入って来た。
「お初にお目にかかります。手前が息子の輔太郎でございます」と挨拶された。
お茶を飲んだ様子を見て、
「その節は大変お世話になりました、お味はいかがでしたでしょうか」と聞かれた。
由佳が、ちょっと薬臭いが飲みやすいと答えると、薬臭さはわざと残したのだという。
その方が薬茶らしいからという事だ。それを聞いて由佳は納得した。
成分は主に体を温める薬草を入れたらしい。
袋も見せてもらったが、飲み方とうがいの仕方も書いてあり、その他、出がらしは再度煮立たせて手や足をすすぐ水に使い、糠袋に入れ体を洗うのに使うようにとまで書いてあった。
さすがは江戸時代の人だ無駄がないと由佳は感心した。
そんな効果もあってかあっという間に人気商品になったらしい。
特に宿屋では率先してうがいを実施してくれて、予防を兼ねる様にして貰っていると言う。
若旦那の説明に文左衛門は満足した様子で、
「こんなに人気になるとは思いませんでした。これも楠田様のおかげで御座います」と頭を下げた。
「いいえ、とんでもないです。完成させたのは文左衛門さんと息子さんですから」と由佳が言うと、
「いえいえご謙遜なさらずに、今後も私どもは常に薬茶を作って行こうと思っております。そこで大変厚かましいのですが、他に良い案があればお聞かせください」といたずらっぽい顔で聞いてきた。流石商人だ。
それではと、もうあるかも知れないがと前置きをして、熊笹を入れればお通じが良くなるそうなので肌に良いから婦人向けであるとか、夏場は麦茶を主体にし、薄荷や紫蘇などのスッキリする物と塩分を混ぜれば暑気あたりに効くなど、由佳は思いついた事を言ってみた。
後、薬茶では無いが、唐辛子と生姜など、体を温める薬草と丁子や柚などいい匂いがするものを袋に詰め、お風呂に入れて沸かせば寝るときに足が冷たく無いことや、強い焼酎につけて薬酒にするなども提案してみた。
輔太郎は興味深く聞き、早速研究してみると言って嬉しそうに店に戻って行った。
程なくして昼餉の準備が出来ましたとの声と共に、文左衛門の女房が料理と一緒に挨拶に来た。
「家内のお栄で御座います」と文左衛門に紹介され、由佳は着物のお礼を述べた。
お栄は「今回は女の方と聞き、私も何かお手伝い出来ればと思いましたもので、差し出がましいとは思いましたが、ご用意させていただきました」と如才無い笑顔で答えた。
流石大店の内儀と言った感じだ。
「まぁまぁ、こちらが茉莉花様でございますか、やはりお顔立ちが違いますねぇ、顎が細いこと」と茉莉花に会えた事を嬉しそうに話かけている。
「さあさあ、お話はこれくらいにして、昼餉を食べませんと丸山様がお迎えに来られますので」と促され、由佳達は心づくしのお膳を頂いた。
昼餉を食べ終えた頃、丸山が迎えに来た。
由佳達は改めて文左衛門やお栄にお礼を言った。
お栄は最後まで茉莉花の手を握り、
「お母様を支えてしっかり暮らしてくださいまし」と涙ながらに見送ってくれた。
若い娘が時滑りしたことに心を痛めているのだろうと由佳は思った。
「又お会いする日があると思いますが、今日はひとまずここで失礼いたします。どうぞ道中お気をつけて」
「文左衛門さん、本当に色々お世話になりました。このご恩は忘れません」
「いえ、私も楽しい時を過ごさせて貰いました。これはわずかではありますが、路銀の足しにしてください」と巾着を渡された。
「そんな、頂けません」と辞退したが、「荷物になるほどでは有りませんし、あるに越したことは無いのですから」と押し付けるように渡され、
「本当に何から何までありがとうございます」と有難く頂くことにした。
二人は小さくなるまで手を振り見送ってくれた。本当にお世話になった。彼が居なかったらこの時代で二人は生きていけなかっただろう。そう思うと由佳は胸が熱くなった。
川越までも二刻(四時間)あまり歩くことになるそうだ。
「飯能までの道中はいかがでしたか。川越までは夕刻になるまでに着きたいので少々急ぎます。きつくなったらおっしゃってください」と気遣ってくれた。
道中丸山は江戸で見つけた家の話をしてくれた。
場所は海の近くで、坂の途中だが割と新しく、以前はうどん屋さんだったらしく、一階は店舗で土間と、小上がりがあるのと、階段下に三畳の部屋があり、二階に六畳が二間で、小さいが裏庭もあるらしい。
特に手直しはしていないが、不便なところがあれば言って欲しいと言ってくれた。
「丸山様、お手数をおかけしました。繁盛するよう頑張りますので、どうぞよろしくお願いいたします」と由佳はお礼を言った。
「何、意外と楽しいものですよ。江戸にお住まいの皆様の住居はすべて私が探したのですが、我ながら才があるのではと思っております」と笑った。確かにお侍にするより商人の方が向くかも知れない笑顔だ。
「それと若様から言いつかりまして、鉄板を作らせました。先日頂いたあの品を作るとかで、これには説明に苦労しました。出来上がりが少々不安です」と困惑顔で説明した。由佳が、
「それはありがたいです。鉄鍋ほどの厚みが必要だったのですが、どうでしょうか」と言うと、
「はい、渋谷から助言を貰い、その様に致しました。それならば大丈夫でしょう」とちょっとホッとしたような笑顔で言った。
流石渋谷さんだ、先日のお好み焼きの時、ちゃんと見ていた様だ。
丸山は、それから、と一瞬言いよどんだが、
「あと、もう一つ。これも若様と渋谷の配慮で、実は、下屋敷から中間を一人一緒に住まわせる事になっております」と言った。驚く由佳の顔を見て、慌てて、
「もし楠田様が一緒に住むのが嫌だとおっしゃるなら近くの長屋に住まわせるか、下屋敷から通わせる事も出来ますが、やはり用心の為に住まいを同じくしたが良いだろうとの仰せです」と付け加えた。
丸山は気の毒そうな顔をしている。
由佳はしばらく考えて、
「そうですね、治安が良いと言っても、やはり女ばかりでは不安も有ります。若様のご配慮、有り難く、お受けいたします」と言うと、
「そうですか、それは良かった。既に店の掃除等で先に行っておるはずです。あ、名前は辰五郎と言いまして、歳の頃は三十五、六でして、下男替わりに使って頂いて構いませんので」と
ほっとした顔でまた笑顔になった。
「茉莉花、おふきちゃんそれで良いよね」と由佳が振り返りながら聞くと、
「えー知らない人と住むの」と茉莉花はちょっと難色を示したが、
おふきに「男の人の方が薪割りとか上手だし、重たい物持って貰えますよ」と言われ、
「そっか、お願いしちゃえばいいか、いいよ、お母さん、じゃぁその人の部屋は一階だね」
とあっさり納得した。由佳は目でおふきにありがとうと伝えた。
丸山はさらに安心したのか、時々お屋敷の用事で辰五郎を借りる事があるかも知れないという事と、江戸に詳しいので、お使いとかお供に重宝で、江戸の町を案内してもらえるだろう、など話した。
町屋も多く、景色に変化があったからだろうか、飯能から川越までは意外と早く感じた。
丸山に江戸の家の話や、町の様子などを聞きながらだったので、なおさらかも知れない。
川越は大層栄えていた。店も多く、人も多く出ていた。
予定通りの時間に丸山が手配してくれていた宿に着いた。
驚いたことに、入り口でうがいをさせられ、すすぎの水も最初のお茶も境屋の蛮来薬茶だった。
ここでも文左衛門の店の商品が使われているということだ。本当に流行っていると由佳も嬉しくなった。
丸山はここへは泊まらずに屋敷の方に泊まり、明朝迎えに来るそうだが、夕食前に風呂に入るように勧められた。丸山が荷物を見ているので、その間に三人で風呂に行くようにと言うのだ。
「若様からの仰せで、持ち物には十分気を付けられるようにとの事です。ですから私の事は気になさらずにゆっくり疲れを癒してください。それに、明日は板橋まで行きます。一気に高輪まで行きたいところですが、おなごの足ではきつい故ゆっくり参ることにいたします。川越から船で行くことも出来ますが、今の時期船便も込み合っておりますため、見物がてら徒歩でまいります。ゆっくりと言っても、今日よりは長い道中になりますので」と丸山が言うと、「うぇっ」と茉莉花がつい本音を漏らし、その様子を見て、おふきがくすくす笑い出したので皆つられて笑い出した。
丸山の言葉に遠慮なく三人はお風呂に入ることにした。
三人が丸山の言葉に甘えて、ゆっくり風呂に浸かって部屋に戻ると、丸山の他に青年が居た。
小柄だが筋肉で均整の取れた体つきをしている。
丸山が「こちらは山本殿で川越に住む時滑りのお一人です」と小声で説明した。由佳はやはりそうかと思った。
「初めまして山本智幸です」「楠田です」とお互い挨拶を交わす。
山本は人懐っこい笑顔で、
「いやー誰も川越に残ってくれないんですよね。皆江戸に行ってしまって、残念です」と残念そうに言った。
山本はロック・クライミングが趣味で、時滑りした日もクライミング中だったそうだ。
急な天候の崩れに見舞われ、雷まで鳴り出したので中断し戻ろうとした時、岩から転落したらしい。
怪我をして動けない所を村人に発見され、文左衛門の店の薬草園にある方の作業場に運ばれ、手当を受けた。
その後、持ち前の身の軽さを生かし、川越の材木商で働いていて、既に二年ほど経っているらしい。
「最初は小山さんも川越に住んで居たのですが、江戸に行かれてしまって、話し相手が減って寂しいんですよ。でもこの時代に来たらやっぱり江戸に行ってみたいですよね。俺も江戸に出ようかな丸山さんなんか仕事ありますかね」と聞く。
「仕事はあると思いますが、岩も山も有りませんよ」と丸山に言われ、「じゃダメだ」と笑う。
山本は今でもロック・クライミングを趣味にしているらしく、最近は聖人岩という岩がお気に入りらしい。
丸山が言うには、月に一度「時の会」と称して時滑りの人間が集まって報告会をしているらしい。
山本は普段は川越のお屋敷近くで渋谷と会って話をするだけらしいが、暮れの「時の会」は全員が集まるらしい。
毎年場所は違うが、去年あたりから江戸に住む人数が多いので、下屋敷で行われるだろうという事だ。
「そりゃ楽しみだ。それじゃ再来月会えますね。では気をつけて行ってください」と丸山と帰って行った。
二人が帰った後、茉莉花が「さっきの山本さん、なんか格好良い人だったね」と言ったものだから、おふきにああいうのが好みなのかとからかわれていた。
それから二人の好みの話に花が咲き、体は疲れているだろうに口の方はまだまだ元気で、まるで修学旅行の様な夜だった。
次の日、朝食を済ませた頃、約束どおり丸山が迎えに来てくれた。
今日はお屋敷まで行き、若様にご挨拶をしてから板橋まで向かう。
「本日はお屋敷での若様への謁見のため、そのように心掛けてくださいますようお願い申します」と丸山に釘を刺された。
特に茉莉花が心配だ。ちゃんと土下座しないといけないだろうし、粗相の無い様にできるだろうかと由佳は心配した。
おふきは丸山に「私は表で待っています」と訴えたが、「いえ、ふき殿も一緒にとの仰せです」と言われ青くなった。そりゃそうだろう。藩主のお屋敷に入るなんて普通の町人には僭越すぎる事態だ。
茉莉花は能天気に「大丈夫だよおふきちゃん、若様はああ見えても優しい人だから」と励ましたが、そういう問題じゃないと思うと由佳は思った。しかし説明する時間もなく、お屋敷についてしまった。
丸山がおとないを入れると、出てきた若侍に三人が通されたのは、まさに時代劇に出てくるような大広間だった。
三人が居心地悪い思いをしながら待っていると、数人の家来と共に若様が現れた。
おふきが頭を畳にこすりつけたので、由佳も茉莉花も倣って同じように頭を下げた。
「顔を上げられい」と年配の家来に言われ、少し頭を上げ、若様を直視しないように心掛けたが、茉莉花はすっと顔を上げた。とたん、
「これ、その方頭が高い」と年配の家来に叱られたが、
「まあ良い。彼らは時滑りゆえ、堅いことを申すな」と若様が家来を叱ったが、家来は茉莉花を睨んだままで、由佳は冷や汗をかいた。
若様はいつも文左衛門の寮で見るのとは打って変わって煌びやかな着物を着ていた。正にお殿様だ。
「こたび、江戸での準備が整いまして、本日出立する運びとなりました」と丸山が報告する。
「うむ、丸山、苦労であった。江戸までの道中も気をつけてまいれ」
「はは、畏まりまして御座いまする」と頭を下げた。
「さ、楠田殿、若様にご挨拶を」と丸山に言われ、
「このたびはお心遣い誠にありがとうございました」と由佳はなれない言葉ではあるが、丁寧に挨拶をした。若様は頷くと、
「慣れぬ生活で不便もあろうが、気を付けて暮らすが良い」とこれまたいつもと違い、若様風に言った。
「重ね重ねありがとう存じます」と平伏して由佳が返すと、
「そう固くならずとも良い、まずは頭を上げられい」言ったので由佳がそっと顔を見ると、若様はいつもの笑顔だった。
「して江戸での店の名前はなんとしたのじゃ」と聞かれたので、まだ決まっておらず、江戸に着くまでに決めるつもりだと言うと、しばし思案した若様が、
「ならば、『まつり』はどうかの茉莉花の名前はマツリカの花と聞いておる、それを取って『まつり』とすれば江戸でも通用するであろう」と提案してくれた。
由佳が茉莉花の顔を見ると、茉莉花も頷いて返したので、若様の提案をありがたく頂戴する事にした。
若様は満足そうに笑顔で頷き、先ほど茉莉花を睨んだ年寄りの家来に身元保証の書付を貰って謁見は終了した。
屋敷を出たとたん茉莉花は大きく、「はぁー」とため息をついた。やはり緊張したのだろう。おふきに至ってはまだ青い顔をしている。
「いやー参った、今日の若様はさ、正に、時代劇の主人公みたいだったから笑いそうになってさ、堪えるのに苦労したわ」と言うではないか、呆れた奴というか、度胸があると言うか、由佳は思い出さなくて良かったと胸をなでおろした。
「まつりかぁ」と茉莉花がつぶやいたので
「嫌だった、でもあの場では嫌っては言えないから受けたけど」と由佳が聞くと
「ううん、嫌じゃないよ、何だか今のこの状況が祭りみたいな出来事だな~って思っただけ」
確かに非日常的な日々は祭りみたいな物かも知れない。いつか祭りの後の寂しさを味わえる日が来ればいいのだがと由佳は微笑んだ。
川越から板橋までは川越街道を通った。欅並木が続く。今は葉が落ちてしまっているが、新緑の頃はさぞ気持ちいい街道だろうと由佳は想像した。
お屋敷で緊張してしまったおふきも徐々にほぐれ、茉莉花の軽口にも付き合うようになったので由佳は安心した。
「ねぇねぇおふきちゃん、江戸に行ったらやりたい事とかある?」
「おらは、江戸はあんまり知らないのですが、芝居とか歌舞伎とかが盛んみたいで、出来れば役者絵が欲しいです」とうっとりとした顔で言った。
「歌舞伎ねぇ、私も歌舞伎は見たことがないなぁ、あまり興味が沸かないし」と茉莉花が言うと、
「ほう、楠田殿のところにも歌舞伎はあるのですか」と丸山が聞いてきた。由佳は、
「ありますよ、でも相撲も歌舞伎も伝統芸能って事で格式も見料も高くて、行く機会は無かったですね」と説明した。
「他にも沢山観るものがあるしねぇ、私はライブがいいし、アイドルのコンサートの方がいいよ」止茉莉花が言うと、丸山もおふきも、それは何ですかと更に興味深々で聞いてきた。
説明を聞いた丸山は、
「見た目の良い若者が数人で歌ったり踊ったり、それぞれ楽器をやったりというのは面白そうです。そういう興行は江戸でも流行るかも知れませんし、かなりの儲けが出そうですね」
などと真剣に考えている。やはり武士より商いの方が好きみたいだと由佳は笑った。
途中お昼を食べたり、茶店で休憩したりしながら何とか上板橋宿まで来た。
もうすぐ大木戸と言う辺で、大きな木の下で数人が拝んでいるのが見える。
丸山が「あれはこの辺で有名な縁切り榎です」と説明してくれた。
縁切り榎はいつの頃からか、嫁入りや婿入りする人が木の下を通ると不幸な事が起こるが、
悪縁を切りたい人は幹を撫で、木の皮を煎じて飲めば霊験あらたかであると言われているらしい。
茉莉花が小声で、「おふきちゃん、心機一転だね、きっと古い縁を切れば新しい縁につながるよ」とささやき、二人で触りに行った。
「何かあったのですか」と丸山に聞かれたが、由佳は「さぁ?」とごまかした。
しばらくして二人はスッキリした顔で戻ってきた。
大木戸を通り、事実上ここからが江戸だ。何となく感慨深い。
茉莉花もおふきも心なしか興奮しているように見える。
今日はこの辺で宿を求め、明日は中山道を行き、江戸の町中に入ると説明を受けた。
流石に二日目となると由佳も茉莉花も疲れがたまり、その日は早くに就寝した。
翌日、江戸時代の旅人にならって七ツ(朝四時)発ちした一行は、上板橋宿から高輪まで、二刻あまりをゆっくり歩いた。巣鴨、神田、日本橋を通る行程と説明を受けた。一行は途中、神田明神にお参りをして、江戸での生活の無事を祈る。
丸山が「あれが、千代田のお城です」と教えてくれた。江戸城である。
おふきは感慨深そうだったが、茉莉花は「あれ、なんか思ったより低いね」と言う。
「どれが天守閣ですか」と由佳が聞くと、天守閣は明暦の大火で消失したまま再建されていないと教えてくれた。明暦がいつだかは由佳には判らないと言うと、今から約百五十年ほど前だと教えてくれた。
おふきが「振袖火事ですよね」と言ったのでそれなら知っている由佳は思った。
確か、曰くつきの振袖を供養して燃やそうとしたが、振袖が空を舞い、それが元で出火したと言われている話だと由佳が説明した。本当に振袖が原因かは判らないが、確か怪談の一つだったと思うとも付け加えた。
茉莉花は怪談と聞いて、「怪談話好き」と喜んだ。おふきは恐ろしそうに腕を抱いているがお構いなしだ。
原因は何にしろ、江戸は一旦火事になるとあっという間に広範囲に燃え広がり、その度街は復興してきた。
これから行く高輪も文化の大火で四年ほど前に被害に遭ったらしい。そのため町は割と新しい家が多いそうだと丸山が説明した。
今回の店舗兼住居もそのときに立て直されたものらしい。ラッキーと言えばラッキーだが、焼け出されたりしたり、火事が元でこんな所で死んだりしたら浮かばれない。
怖がるおふきに怪談話をする能天気な茉莉花を見て由佳はため息をついた。
川越もなかなか大きな町だと思ったが、江戸は、特に日本橋辺りはさらに活気があった。
当然と言えば当然なのだが、人も荷車も右往左往と行き交い、うかうかしていると「なにぼやぼやしてんだぃ」と怒鳴られてしまう。
丸山一行はなるだけ邪魔にならないように足早に先を急いだ。
本当は日本橋もゆっくり見ながら歩きたかったが、茉莉花もおふきも人の多さにうんざりしている様子だったし、そもそも見物に来た訳でもない。慣れた頃にゆっくり見物に来ればいいと思い先を急ぐことにした。
日本橋を過ぎ、芝に入る頃にやっと三人は息がつけた様な気がした。
この先は高輪まで海沿いを歩く。ただ町家が多く立ち並んでいるので、所どころしか海は見えない。それでも深秋の海風がときおり吹き心地よいと由佳は思った。
やっと周りを見る余裕も出来て、街ゆく人を観察していた茉莉花は、「お母さん、お母さん」と興奮した声を押し殺し、袖を引っ張る。
「どうしたの」と茉莉花がそっと指差す方をみると、どうやら茉莉花の興奮の元は同心と岡っ引きの様だ。
黄八丈と言ったか、黄色い着物に羽織を来ている同心と尻はしょりをしているのが岡っ引きの様だ。
やっぱり本物は違うねと囁きあう。同心はこの辺りも巡回しているのだろうかと丸山に聞くと、車町の大木戸までは来るという。
しかし奉行所や八丁堀からは遠いので、普段は木戸役人や番屋の人間が町の治安にあたっていると教えてくれた。
昼前に高輪に着いた。
「あの先が先ほど話した大木戸で、そこから先に行くと品川になります」と説明し、右の坂を示す。
「この坂の先が伊皿子坂で、店はその途中です。さぁ、あとほんの少しですよ」と励ました。
茉莉花は「結構な坂だね」と言いつつ、はやる気持ちが有るのか、足取りが軽くなった様に歩き出した。
「こちらです」と一件の店の前に案内された。
周りも同じような建物で隣は瀬戸物屋、反対隣は下駄屋だ。向かいは一膳飯屋だろうか閉まっているので判らない。その他にも小さいが色んな店がありそうな一角だった。
坂を振り返ると確かに海が見える。
丸山が、「誰かいるか」と声を掛けると「へーい」と声がして男が出てきた。きっと辰五郎だと由佳は思った。
「これは丸山様、ご苦労様で御座います」
「辰五郎、こちらが楠田さんとそのご息女の茉莉花殿。そして彼らの手伝いをしてもらうおふき殿だ」
「お待ちしておりました楠田様、辰五郎に御座います。ささ、どうぞお入りください」
案内されて入った店は手前右に四人がけの机が二つ、右奥に二畳ほどの板の間があり、左は厨房になっているようだ。
こぢんまりとしているが、綺麗に履き清められ、掃除が行き届いていた。辰五郎が準備してくれたのだろう。
板の間の奥は階段下にあたる三畳と裏戸があり、そこから庭に出ることが出来る。
庭は思ったより広く、薪を入れる小屋と雪隠がついていた。塀囲いがしてあり、裏木戸からも出入り出来る様だ。
二階の二部屋はいずれも六畳で通りに面した部屋には腰までの窓があった。
小さい箪笥が一竿と火鉢、押し入れには布団も用意してあった。
一通り家の中を見て回って、荷物を置いて階下に戻った由佳たちに
「皆様お腹は空いてらっしゃいませんか」とお茶を入れてくれながら辰五郎が聞く。
「そうだな、何かあるか」と丸山が聞くと、辰五郎は稲荷寿司を山盛り出してくれた。
丸山がこれはどうしたのかと聞くと、隣町で先ほど買って来たそうだ。
茉莉花は稲荷寿司が大好きなので「美味しい」と言いながら五つほど食べた。
遠慮する辰五郎を座らせて、
「掃除や火起こしなど準備をしてくれたんですね、ありがとうございます」と由佳が言うと、
「とんでもない、男手ですので行き届きませんで」と照れた様に茶をすすった。
丸山が住み込みを承知してもらったと伝えると辰五郎は、
「かしこまりました。楠田様どうぞよろしくお願いいたします。精一杯務めさせていただきます」と硬くなって頭を下げた。
そんな様子を見て由佳は、
「辰五郎さん、一緒に住むのに条件があります」と付け加えた。
思わぬ由佳の条件という言葉に緊張した辰五郎は
「はい、何で御座いましょう」と畏まって椅子の上で膝を揃えた。
由佳はひとつ咳払いをすると、
「一緒にお店を手伝ってもらうのに、その言葉使いでは困ります。奉公人ではなく共同経営者だと思っています。だからお互い砕けた口調にしましょうよ」と言った。
確かに町中にはそぐわないと丸山も頷く。
躊躇する辰五郎を説き伏せて、由佳の事は女将さん、茉莉花の事はお嬢さん、おふきちゃん、辰五郎の事は辰さんと呼び合うことに決め、できるだけ町人の言葉で生活していくこととした。
早速茉莉花が「辰さんの部屋は一階の三畳ね」と言うと、
「へい、そしたら後で布団を取ってきまさぁ」と返し、先ずは上々と皆で笑いあった。
茉莉花は美味しい稲荷寿司を用意してくれた辰五郎を気に入った様だ。
この時代の店の営業は簡単だ。特に煮売り屋のような店は町名主に挨拶し、道具と材料さえ揃ってしまえばもう開店できる。
稲荷寿司を食べた後、丸山に連れられて町名主のところへ挨拶に行かされた由佳と茉莉花とおふきだったが、すでに話は済んでいるようで、顔見せを兼ねた形式上の事だった。
そもそも楠田親子は武家の出となっていて、川越藩のお墨付きもあるため、町名主は文句のつけようも無い。逆に無類な輩に因縁などつけられないように常に気を使わなければならないため、本音を言えば厄介者を抱えたのかも知れない。
そんな町名主の本心には気がつかない由佳と茉莉花はその後、番屋へも顔をだし、少しだけ近所を見て回ったりして、新しい生活に期待を寄せた。
夜は由佳たちの歓迎会を兼ねて、他の時滑りとの顔合わせをするので迎えに来ると言い残した丸山は一旦屋敷に戻った。
それまで四人で厨房に入り、足りない物や当初のメニューの打ち合わせと、ご近所への引越しの挨拶の品を考えたりした。鉄板は明日届くといわれ、それ以外の鍋釜は辰五郎が用意していてくれた。
それでも時間がありそうなので、辰五郎に言われ三人は風呂に行くことにした。
「今度の家はお風呂付いてないんだよね」と茉莉花は不服そうだったがこの時代、内湯がある方が珍しいらしく、大名か大店位にならないと内湯を持っていないそうだ。
三人は初めての湯屋に戸惑いながらも足を伸ばし旅の疲れを癒した。
丸山が迎えに来て、茉莉花と由佳が向かった先は時滑りの一員である安田という若者が経営している居酒屋「海風」だった。
表に「本日貸切り」の張り紙がある戸を開け丸山に続いて店に入ると、
「いらっしゃい」と元気な声と共に二十代半ばと思われる若者が奥から出て来た。
「楠田さんですね、待ってたよ」と椅子を勧めてくれながら、
「俺は安田章です。由佳さんに茉莉花ちゃんだっけ、よろしくね」
「よろしくお願いします」と挨拶を交わしたが、なんともまぁ能天気そうな雰囲気の若者だろうと由佳と茉莉花は思った。
「他の方はまだですか」の丸山の問に、「大蔵さんにはお使いを頼んだのでもう直ぐ戻ります。小山さんはまだです」と答えた。
「そうですか、横山どのは今日は商いで江戸を離れていると言っていたそうなので欠席です」
「そうなんですか、へぇ~」と言いながら厨房と店を行ったり来たりしながら準備をする。
「あの、何か手伝いましょうか」と声をかけたが、今日はお客さんだから座ってて、とこれまた能天気に言われたので仕方なく由佳は腰を下ろした。
「今戻りました」と着流しに刀を差した侍が入って来た。
「大蔵さんお帰り、あった?」と安田が厨房から声を掛けると、
「ちょうど良いのがありました」と徳利を渡した。
「楠田さん、こちらは大蔵さんと申されまして、時滑りの方で御座います」と丸山が紹介してくれた。
「大蔵と申します。どうぞお見知りおきを」と安田とは対照的で丁寧な挨拶をされて茉莉花も由佳も何だかおかしくなった。
「小山さん遅いね」と安田がぼやいた時、「失礼します。こちらに丸山様はおいでですか」と表で訪いを入れる者がいた。
丸山が出ていき何やら話していたが、しばらくして戻ってきて、「本日小山殿は欠席の様です」と告げた。
「なんだ、小山さん来ないのか、ま、来月会えるからいいけどね」と安田は大して気にも止めずに
「じゃあ今日はこれで全員だね。皆揃ったって事だから丸山さん始めようか」と安田に催促され、
「それでは、本日は楠田さんの江戸入りと、皆様との顔合わせと言うことで、ささやかでは御座いますがこのような席を設けさせていただきました。皆様、今後共よろしくお願い申しあげます」と丸山が挨拶すると、「丸山さん固いよ」と言いながら安田がお酒を注いで回った。
「茉莉花ちゃんて十七歳だっけ、この時代じゃ十七歳と言えばすっかり大人だけど、一応梅酒を用意したからさ、梅酒なら飲めるでしょ」
と先ほど大蔵が買って来た徳利を差し出した。「わざわざありがとうございます」と由佳がお大蔵に礼を言うと、「いや何、造作もござらん」と寡黙な感じで返された。
「乾杯しよ、乾杯」と安田の音頭で乾杯し、お互いの自己紹介をした。
安田は勝と言い、平成元年、1988年生まれの25歳で、こちらに来て一年だという。
大蔵は名前を忠三郎と言い、嘉永元年生まれの28歳で、こちらに来て既に8年経っているらしい。
今日は来れなかった残りの二人については丸山が簡単に説明してくれた。
商いのため来れなかった横山は小間物屋を営んでいて年は32歳、昭和から来て四年になる。
小山は魚屋に勤める29歳で同じく昭和から来て三年だそうだ。
「今日は残念ですが、次回の『時の会』ではお会い出来ます。横山どのは茉莉花さんのような若い娘御の品を扱っているので話が合うと思いますよ」と丸山が言った。
「横山さんのお店って繁盛してるんだよ」と安田が言った。
「そうなんですか、凄いですね」と由佳が言うと、
「横山さんが人気なんだよ。色白でなよってした感じの人でさ、月代も剃ってすっかり江戸人になってってさ、歌舞伎役者みたいだとファンがいっぱいいるらしいよ」と安田が言うので、
「へー、じゃあ江戸に来て良かったんだね」と茉莉花が言った。
由佳も昭和生まれだと男はしっかりしないといけないと言う時代だったから、「あんがいそうかも知れない」と思った。
大蔵が嘉永元年生まれと聞いて、茉莉花は何やら計算してた。
そして、はっとしたかと思うと目を輝かせて、
「あの、大蔵さん、こっちに来たときの年号って何年だったのですか」と聞いた。
大蔵は突然の質問に驚きながらも、
「それがしがこちらにまいったのは慶応四年の春でした」と答えると
「おぉやっぱり」と感嘆の声を挙げた。
茉莉花は大蔵ににじり寄り、
「慶応四年と言えば大政奉還の後、戊辰戦争があって幕末真っ只中ですよね。大蔵さんはその時どっち側だったのですか」と興奮しながら質問した。大蔵はその剣幕にたじろぎながらも、上野で隊士を募集されたのでそれに志願し、幕府側として勝沼の戦いの最中に時滑りしたことを話してくれた。
「それって甲陽鎮撫隊の事かな、甲陽鎮撫隊と言えば新選組の近藤勇が隊長じゃ無かったっけ近藤さんとか会った事ありますか」
「甲陽鎮撫隊と言ったかは知らぬが、近藤殿は出陣の折り皆の前で演説をされ、拙者は遠目ではあったが拝することが出来申した」と答えた。茉莉花は益々にじり寄り、
「じゃあ土方さんは、その時斎藤一もいたと思うんだけど」と質問は止まらない。
大蔵は苦笑しながらもしばらく茉莉花の質問に付き合ったが、ふと、
「茉莉花殿は新選組やその時の江戸に詳しいご様子だが、その後近藤様や新選組の方々はどうなさったのかご存知か」と逆に質問された。
茉莉花は言いにくそうにその後の近藤を始め、新選組の面々のその後を話した。大蔵は近藤が斬首にあった事を知り、
「武士としてではなくただの罪人としての最後であったか」と沈痛な面持ちで嘆息した。
茉莉花と大蔵の幕末の話はつきそうに無い。
そんな二人の会話を聞いていたら、丸山が徳利を差し出して、
「それで、開店は何時ごろ出来そうですか」と聞いてきた。
「お陰様で、ほとんど準備は辰五郎さんがやって置いてくれたので、鉄板が届き次第開店できそうです。それにしても、この時代は開店まですぐなんですね。驚きました」
「食べ物屋や小間物屋であれば特に届けは必要ないですからね。古着屋や両替商はそうはいきませんが。藩の方でも助成しますので、必要な物があれば遠慮なく言ってください」
と胸を叩いて言った。
「そんな、開店に必要なものも揃えて頂いたのに、これ以上ご迷惑をおかけできません。それに、今まで掛かった費用もいずれお返しいたしますので、しばらくはお貸しいただくと言う事でよろしくお願いいたします」と由佳は頭をさげた。
「そんな事は気にしないで良いのですよ。店の開店については藩でも思惑があることですから。楠田様はお店を軌道に乗せることを第一の目標にしてください」と言われ、
「藩の思惑とは」と由佳は聞いたが、丸山は「おっと、もう酒がありませんね」と徳利を持って席を立った。なんとなくはぐらかされた気がしたが、お役目上言えないこともあるのだろうと追及することはやめにした。
安田も大蔵も茉莉花と笑いながら話をしている様子を見て。由佳は不安な気持ちが又一つ、薄く剥がれた様な気がした。
次の日、鉄板が届けられ、辰五郎が手配してくれた大工の福松が設置をしてくれた。
その他に、使いやすい様に棚などを拵えてくれたり、建付を見てくれたりした。
ご近所への挨拶も済ませ、試作を作って皆で試食してみることにした。
辰五郎と福松は初めて食べるお好み焼きに「こりゃうめぇ」と舌鼓を打ち、「これなら流行りますぜぇ」と太鼓判を押してくれた。
茉莉花は店に居ても特に手伝う事がなさそうなので、表の掃き掃除をすることにした。
この日の茉莉花の格好は、お竹が作ってくれたダウンジャケットを改造した上っ張りと、裁着け袴だ。髪は「若武者風だよ」とポニーテールの様に垂らしていた。
鼻歌交じりで、表を掃いていると、隣の下駄屋の軒下からこちらを伺っている視線を感じた。
「ん?」と振り返ると、うす汚い格好をした子どもが慌てて視線を逸らした。
「なんか用?」と聞くと、「なんでぇ、女か」と言い捨てた。
むっとした茉莉花は「それで、なんか用なの」と向き直った。
「別に用なんかねぇよ、ここに新しい店が出来るって聞いたから様子を見に来たんでぇ」と偉そうに言ったので、むっとした茉莉花だったが、
「あら、そう、明日には開店するんだよ。長崎で流行りのお焼きを売るから買いに来てね。しばらくは開店記念で一枚八文です」と営業用の笑みを浮かべ説明した。
「長崎の食いもんだって。へん、そんなもん食えるかってぇの」と男の子は悪態を吐いた。
「何よ食べてもいないのにそんなもんって、食べたら美味しくってびっくりするから」
「へぇそんなに言うんならまぁ来てやってもいいがよ、但し旨くなかったらお代は払わねぇぜ」
「そんなのは駄目だよ。ちゃんと払ってからじゃないよ渡さないよ」とそんな押し問答をしていると、ちょど福松が出てきて、「お嬢さんどうしたんですかい」と声を掛けた。
茉莉花は「あ、福松さん、あの子がお店に興味を持ったみたいで、宣伝していたところだよ」と振り返ると、男の子はあっという間に坂を駆け上って行ってしまった。
「あいつぁ文太じゃねぇか」と後ろ姿で判断した福松は、
「あいつはこの坂の上の金兵衛長屋に住んでいる文太って悪たれで、店先から商品を盗んでは他で売って銭にしたり、店の物を壊すなんてざらで、この辺では鼻つまみ者でっせ。悪いことは言わねぇ、あいつに関わるとろくなことにならねぇ。お嬢さんも気を付けてくだせぇよ」と教えてくれた。
「そう、気をつけます。でも親はどうしてるの、親はいるんでしょ」と茉莉花は何故か気になって聞いてみた。
「詳しくは知りませんがね、おっ父と二人暮らしって聞きやした。でもお嬢さん同情なんかいりませんぜ、そんな餓鬼はいくらでもいまさぁ。それでもみんな真っ当に生きているんだ。片親だからって盗みや悪さをしていいって法はありゃしねぇ」と福松に言われ、
「本当そうだよね。もし他のお客に迷惑かけるようならとっちめてやるから」と茉莉花は文太が駆け去った坂を見上げた。
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