第3話
「コケコッコー、コケッコケッ、ケーコッ」
(何そのアラーム、誰のだよ、せっかくのキャンプなのにアラームで起きるのは勿体無い。)
「え、アラーム」と由佳は布団を跳ね上げ、
「夕べは確か、変な話をして、夢だったのかな」と周りを見たが、畳の部屋に床の間。夕べ寝た部屋だった。隣を見ると茉莉花が寝ている。外はもう明るくなっていた。
「ね、茉莉花起きて」
「えーもうちょっと、今何時」と布団の中で返事をしたが起きようとしない。
時計を見て「今六時だけど、そんな事言っていられないよ。大変な事になってるじゃん私達」と布団を揺する。
「えーなんだっけ、あ、そうだ」と茉莉花も飛び起きた。周りを見渡し、
「やっぱり夢じゃなかったんだね」と肩を落とした。
「だね、とりあえず起きようよ」と布団を畳みながら言った。
「えー、でもまだ六時でしょ、早くない?」と言いながら茉莉花が襖を開けると、
「あ、おはようございます」と、ふきが朝ごはんの準備をしていた。
由佳は、やっぱり昔の人は早起きだと思いながら、
「おはようございます」と挨拶をした。
「お布団はそのままでいいですよ、外にすすぎ桶を用意してありますだ。顔を洗ったら朝餉を召し上がってくだせぇ」と言ってくれた。
縁側から外に出てみると、踏み石のところに水を張った桶と手ぬぐいが用意してあった。
とりあえず二人は顔を洗って、手も洗って背伸びをしてみた。
なんだか清々しい朝だ。昨日は気がつかなかったが、紅葉も鮮やかに色づいている。庭には山茶花もちらほら咲いていて風情がある。手付かずの自然がそこにあって、由佳は改めて時代が違う事を感じた。
部屋に戻ると文左衛門も席についていた。
「おはようございます」
「夕べは良くねむれましたかな」とにこやかに聞かれ、
「おかげさまで」と答えながら、明けられている障子から外を見た。
おふきがお椀を並べ終えたのを見て、
「さあさ、こんなものしかありませんが朝餉にしましょう」と言われ、ダイニングテーブルについた。
お味噌汁に、麦飯に煮干と佃煮とお新香だ。
茉莉花の好物ばかりなので、茉莉花は「いただきまーす」と早速食べている。
「いやいや、夕べもそうでしたが、お口にあって何よりです」
「茉莉花はお肉をほとんど食べないので、普段から日本食ばかりなのですよ」
「そうでしたか、あなた方は異人の様に肉を沢山食べているものばかりと思っていましたが、そうでない方もいらっしゃるのですねぇ」
「私達の時代ではこう言った食事を日本食と言って、魚や豆腐や野菜を沢山食べるほうが健康的と外国でも流行っているんですよ」と説明した。
「なるほど、健康的ですか、それでは異人も食べるのですか、豆腐などを」と文左衛門は驚いた顔で聞いた。
「納豆や寿司を食べる外人もいるよね、お母さん」
「ほうほう、面白いですな、我が国の食べ物が異国で流行るとは」と感心した、
「あれ、ふきさんは」と茉莉花が気がついて聞いた。
「おふきさんですが、今日は若様がお見えになるので、お竹がその準備で忙しいものですから、手伝を買ってくれましてね、別に済ませるそうです」
「へー、そうなんだ。で、その若様って誰」
「若様は川越藩の若様でいらっしゃいますよ」
「川越藩。へーここって川越藩なんだ」と茉莉花はたいして興味がなさそうに返事をした。
「さようでございます」と文左衛門はそんな茉莉花ににこにこしながら答えた。
茉莉花と違って、驚いた由佳は、
「若様ってお殿様ですか」と聞き直した。
「いえ、お殿様の弟君であらせられます」と文左衛門の答えに、由佳は少し安心した。
「で、なんで、そんな偉い人が来るの」と茉莉花もちょっと興味が湧いた様に聞いた。
文左衛門は二人の顔を見て、
「それはお二人に会いに来られるのですよ。それに、若様はこう言った事がとてもお好きでいらっしゃるもので」と話した。
「この食卓も若様が時滑りの方々のためにあつらえてくださったのです。皆様は正座が苦手のご様子なので」と付け加えた。
確かに由佳達も普段はテーブルの生活をしていて正直、正座は苦手だ。
なんだか物分りのよさそうな若様でありがたいと思った。
しかし、タイム・スリップと言う言葉が一般的に使われたのは少なくとも昭和に入ってからだと思うので、昭和以降の人間がこの時代に滑って来たということだろうか。
由佳は他の人間についても後で聞いてみようと思った。
食事を終えた茉莉花と由佳は周辺を少し散歩することにした。
「あまり遠くには行かれませんように」言われたので、昨日来たはずの道を少しだけ戻る方向に進んでみた。
改めて見回すと確かに周りには文明を感じるようなものは一切なかった。
テレビで、見る時代劇の風景のそのままだ。
いやそれ以上に素朴な風景だった。
でもところどころ紅葉していて綺麗だ。何しろ空気が澄んでいる。そう由佳が感心していると、
「どこ見ても山と畑と田んぼしかないからつまんないね」と茉莉花は言う。
ちらほら作業をしている村人を見かけるが、遠くで会釈をしてはそそくさと去っていく。
慣れているのか、かかわらないようにしているのだろうかと由佳は思った。
寮に戻るとふきが掃除をしていた。昨日と違う着物を着ている。
「ふきさん、着替えたの」と聞くと、
「へぇ、お竹さんが貸してくださって」と嬉しそうだ。
「ねぇねぇ、この時代の女の子ってさ、十六歳くらいからお嫁に行く人も多いんでしょ。ふきさんももうすぐお嫁に行くとかなの」と茉莉花は興味津々で聞いた。
「あの、ふきさんじゃなくて、おふきって呼んでください、茉莉花様」
「えーそっちこそ茉莉花様はやめてよ、茉莉花でいいよ」と茉莉花に言われたふきは、
「そんな、大事なお客様を呼び捨てなんかできねぇ」と顔の前で慌てて手を振る。
「じゃあ、茉莉花さん、私は一つ年上だからおふきちゃんって呼ぶね。それでいいでしょ」と茉莉花に押し切られ、おふきは仕方なくといった風で、「へぇ」と応じた。
「で、どうなの、もう相手とか居るの」と茉莉花は話を戻す。
「いやだ、そんな決まった相手とかでなくて」と真っ赤になったふきはもじもじしだした。
「へぇいるんだ、約束してるの?どこの人?」と茉莉花はさらに突っ込んで聞いた。
「約束って言うか、そうなったらいいなと思うけどまだどうなるか、たまにしかあわねぇし」とふきはタジタジだが茉莉花はお構いなしに、
「へぇ、じゃあ、遠距離恋愛だ」と言った。
「へ、遠距離恋愛」と意味がわからなかったのかおふきは聞き直した。
「あっと、仕事とかで遠くに住んでる人と手紙のやり取りとかして、年に一回くらいしか会えないとかの事なんだけど」と説明する。
「いぇ、佐吉さんは下名栗の人ですがお互い仕事もあって忙しいので、祭りやら行事の時くらいにしか会えないのです」
「へぇ佐吉さんって言うんだその人、あ、もうすぐお祭りあるんでしょ、その時は会うの?」とまるで誘導尋問の様だ。それを聞いたおふきは、
「いえ、お祭りで会えるかどうか、それに今年は行けるかどうかはわかんねぇです」と俯いた。
「え、行けないって何で」と聞いた茉莉花におふきは言いにくそうに、
「ここでのお勤めが始まったもんで」と申し訳なさそうに言った。
「そんな、気にすること無いよ、女中さんで来たわけじゃないって文左衛門さんも言っていたし、いつだか知らないけど、私もお祭り行きたいし、一緒に行こうよ」と茉莉花はおふきの手を取った。
おふきは顔をあげ、「ほんなら、おら案内します」と顔をほころばせた。
茉莉花は嬉しそうなおふきにほっとして、「うん、佐吉さん紹介してね」と笑顔を見せた。
「そんなぁはずかしい」、「いいじゃんいいじゃん」などと二人はきゃぁきゃぁ笑い出した。
何時の時代もこの年頃の娘ははにぎやかだ。
「もう仲良くなられたようですね」と文左衛門が縁側に来てはしゃぐ二人に目を細めて見ていた。
「すみません騒がしくて」と由佳が言うと、
「いえいえ、同じ年頃の娘が寄ればどこもあんなものです。そのほうが、娘同士聞きやすい事もあるでしょう」と頷いた。
「あの、それではおふきさんは茉莉花のために此処に呼んでくださったのですか」と由佳は思い当たった。
「さようです。男や年寄りではわからないこともありますもので」と文左衛門は由佳に笑いかけた。
「お気遣いありがとうございます」と由佳は文左衛門の気遣いに心から感謝した。
お竹がお茶を入れてくれたので縁側でしばらくぼぉっとしていたら、遠くから馬の蹄の音がした。なぜ馬と分かったかというと、テレビで聞いたままの音だったからだ。
馬で登場と言えばやはり例の若様だろう。茉莉花と二人、音のするほうを見ていると、茶色の馬が二頭こちらへやってくる。
文左衛門は落ち着いた様子だったが、おふきは茉莉花にお辞儀をすると、慌てて台所に引っ込んでしまった。
話し相手を無くした茉莉花だが、若様の馬での登場に怪訝そうな顔をしている。
なんとなく物々しい感じがするからだろうか、と由佳は思った。
とりあえず上がってテーブルに着き、若様の到着を待つことにした。
あっと言う間に二頭の馬は文左衛門の家の前までやってきた。
二人の侍は颯爽と馬から下りて、下男の与助に手綱を預け、こちらにやってくる。
文左衛門は出迎えるために部屋を出て行った。
間もなく、足音も高々と若様を先頭に部屋に入ってきた。入ってくるなり、
「この方らが今回の時滑り達か」と楠田親子を見回した。
やっぱり殿様だから偉そうだと由佳は思った。
無遠慮に二人を見ながら、テーブルの椅子に座った。もちろん席はお誕生日席だった。
「左様に御座います。こちらが母御の楠田由佳様、娘の茉莉花様で御座います」
「楠田様、こちらは、川越藩第三代藩主松平直温様の弟君で、矩典様であらせられます。そしてこちらはご家来の渋谷昴ノ介様で御座います」と文左衛門が紹介してくれた。
松平と聞いて、目を輝かせた茉莉花と由佳はとりあえず席を立って、
「はじめまして。楠田と申します」とぎこちなく挨拶をした。
若様と聞いていたので、もっと派手な着物を着ているのかと思ったが、実際は割りとシンプルだ。
黒っぽい着物と細身の黒の袴に、青味がかった羽織を着ていた。家来にいたっては全身こげ茶だ。
馬に乗って来たとの事だったが、松平、若様、馬と一瞬でイメージしたのは白馬、白っぽい着物、金織の袴で、当然「暴れん坊将軍」だ。
由佳は頭の中でオープニング曲が流れ、思わず笑いそうになった。
しかしここで笑うのは流石に場違いなので、堪えなければいけない。
そんな事を考えたら変に緊張してしまった。
家来は鋭い目でこちらを見ているし、腰にさしているのは本物の刀だろうから、無礼打ちにされてはたまらないと由佳は気を引き締めた。
隣を見ると茉莉花も震えている。あれは絶対笑いを堪えているに違いないと由佳は思った。
後で聞いた文左衛門の話では、天正十八年、豊臣秀吉の北条征伐の折、川越城が開城され、徳川の時代になってからも、武蔵国の中央に位置し、軍事的に重要な場所であったことで、川越は幕閣重臣が配置された場所であり、歴代藩主は武蔵野開発による新田開発、舟運の開設を行い、将軍様の覚えもめでたく、現在は家康の次男、結城秀康の子孫である、越前松平家が藩主を勤め松平家として三代目と言うことらしい。
平成の世では川越は小江戸と言われ観光地になっているくらいの知識しか由佳達は持っていなかったが由緒有る藩だと言う事らしい。
「そう硬くならずとも良い。そなた達が居た世は武士などとうに居らぬようになっておることも知っておるし、予も此処では気兼ねせず過ごしておるのだから。のう、文左衛門」
「はい、おおせのとおりで御座います。楠田様どうぞおかけください」
(そうは言っても松平って偉いんじゃん)と茉莉花が目で訴えていたが立ったままはかえって失礼と思い二人は着席した。
「では早速、これを見てもらおう、渋谷これへ」と家来に何やら取り出させた。
それは巻物になっていて広げると年表になっていた。
「これは予がこの地に伝わる古い文献などを元にし、さらに聞き取った話から、未来の出来事を大まかにかまとめ記したものじゃ」
見ると達筆な字で下部に年号と出来事、上部に西暦が書いてあった。
「あ、西暦だこれなら大体の時代が分かる」と茉莉花は思わず声を上げた。
「そうであろう、時滑りの者達から聞き取って、おおよその年別にまとめてみたのじゃ」と若様も満足そうだ。
「して、そのほうらはどの辺りの時代から来たのじゃ」と聞かれ、年表を見たが、最後の年は1998年で、平成10年になっている。
「私達は2013年、平成25年から来ました」
年表を見た由佳は改めて不思議な感覚に襲われた。本当にタイム・スリップしたんだと。
「おお、そうか、それではそなた達が一番未来から来たことになるの」と若様は嬉しそうだ。
渋谷と呼ばれた武士は後で纏めるのだろうか、メモを取っている。
若様は今まで出会った時滑り達のことを話してくれた。今まで何人の人間が来たかは正確にはわからないらしいが、川越藩が把握し若様が出会っただけでも十一名ほどいるらしい。
そのうち、現在もこの時代にいるものは五名、死亡したのもが三名、消息が分からなくなったものが二名、さらに時滑りしたと思われるものが一名いるらしい。
亡くなった人の死亡原因は病気のようだ。
又、この時代にいまだ五名も住んでいるのが驚きだったが、さらに時滑りしたと思われる人の話はもっと驚きだった。
その再滑りをしたという人は、内田という若者で、この文左衛門の寮に住み、この時代の事を学んで貰っている最中だったが、ある朝忽然と居なくなったらしい。
大事にしていた時計が枕元に残されていて、身につけていた寝巻きは無く、着替えた様子も無いのと、もともと落ち着いておっとりした性格だったらしく、突然逃走するような人物では無かったことから、、再度時滑りしたものと判断したらしい。
又、消息が不明のものについても再滑りをしたのではないかと判断するしかないそうだ。
再滑りと聞いて、由佳は思わず口を挟んだ、
「それは元の時代に戻ったのでしょうか」と聞いたが、若様はゆっくり頭を振って、
「そうだと良いのだが、わしらには知る術が無いものゆえ」と気の毒そうな顔をした。
又戻れるのか、戻れるときが何時なのかは分からないらしい。
「そのほうが腕にして居るのは時計であろう、それは電池とやらで動くのか」と不意に聞かれた。
これはソーラーと言って、お日様の光を電気に変えて動くのだと説明したら、
「それは重宝じゃ。大事にされよ。肌身離さずにな。離すと又滑ったときに置いて行く事になるゆえな」と希望はあるのだと気を使ってくれたようだ。
もう、戻れないのかも知れない。そう思い茉莉花を見るとさすがに目に涙を溜めている。
(やっぱりお父さんや友達に会いたいよね。突然別れてしまうなんて。)由佳はそっと肩に手を乗せて慰めようとした。
茉莉花は涙をこらえながら、搾り出すような声で「折角取ったライブのチケットが」と唸った。
この期に及んで心配なのはライブなのかとあきれたが、今聞いたのは彼女なりの強がりだと、そう由佳は思うことにした。
若様は文左衛門に指示をし、奥の部屋から葛篭を持ってこさせた。
その中には時計やメガネ、ボールペン、鉛筆などの筆記用具、靴に鞄や携帯まで入っていた。
「これらはすべて時滑り達が置いて行ったり、落として行ったもので御座います。使い方が分からぬものもありますが、この時計は電池が無くなったので不要と言うことで預かりました」
確かにこの時代では電気が必要なものは使えないだろうし、下手に使っていては不審がられる。
由佳は自分の鞄の中身を確認した。
茉莉花と由佳のスマートフォン、タオルハンカチ、ボールペン、ライター、飴くらいしか入っていない。
文左衛門も若様もスマートフォンが大分お気に召したようだが、決して落とさぬことと念を押され返してくれた。バッテリーが無くなるから電源を切って持っておくことにした。
「それでは、夕べ少しお話しましたが、楠田様の今後のお話をさせていただきたいと思います」
川越藩では今までの経験からか、時滑り達と次のような取り決めをしていて、それを守って欲しいといわれた。
一つ、時滑りであることを口外してはならない。
一つ、未来のことについては指定した者以外には話してはならない。
一つ、この時代の事を覚えるまで許可無く村を出てはならない。
一つ、皆伝ののちも藩が指定する範囲の場所にしか住んではならず、藩の管理下で生活すること。
一つ、藩の呼び出しには必ず応じ、協力をすること。
一つ、この時代の人間と婚姻し子を成してはならない。
一つ、この時代で生きていく為仕事を見つけること。
「これらはすべてあなた方をお守りするために若様がお考えになられたものです。どうかお聞き入れくださって守っていただきとう存じます」と文左衛門は頭を下げた。
「もし守れなかった場合はどうなるのですか」と聞いてみたら、家来の渋谷の目が鋭い光を放った。文左衛門は困惑顔で、
「どうか御身の為にも」とだけ言う。
(そっか、斬られるんだ、死亡者も本当に病気か分からない。)そう思った由佳は、
「分かりました。先ずはこの時代の勉強をして、その後身の振り方を考えます」と答えた。
「左様で御座います。それまではこの寮にてお過ごしくださいます様お願いいたします」文左衛門はほっとした顔でうなずいた。
しかし、時滑りであることを口外しないにしても、言葉使いや生活習慣があまりにも違いすぎる。
皆と同じようには到底出来ないのではないか、又この時代でも住民票のような制度があり、出所がはっきりしないと仕事にも就けないのではと由佳は聞いたが、、そこは藩のほうでぬかりなく用意してくれる事になっているそうだ。
今回の二人の設定は、藩のお役目で、長崎にて生活していた一家だったが、主が長崎で死亡したため、帰藩するまでの間、南蛮人の家で手伝いをして生計を立てていた母娘。
という事だそうだ。南蛮人の家に出入りしていたのであれば、思わず外来語や英語が出ても安心だと、由佳は思い、若様の聡明さに感心した。
又、ここを出た後の住む場所は川越か江戸の藩の下屋敷の近くに用意してもらえるらしいが、きっと四六時中監視が付くのだろう。
今後についておおよその打ち合わせが終わったころ、
「時滑りについて、川越藩で把握しているとおっしゃっていましたが、他の藩にも時滑りがいるのでしょうか」と由佳は質問した。
その質問に若様は、
「それについてだが、わしは当然他の藩にも現れていて、未来を知り、利用している藩もあると思っておる」
「それでは未来は変えられるということでしょうか」由佳は気になっている事を聞いてみた。
それについて若様は、歴史の大きな流れには逆らえないが、かといって全く変えられない訳では無く、未来を知ることで民を守ることが出来、究極の選択をしなければならない時の判断材料に出来ると信じていると語ってくれた。
やはり上に立つ人間は違うとまたもや由佳は感心して聞いた。
「じゃあ実際に役にたった事とかあるのですか」と茉莉花は臆せずに聞いてくる。
渋谷にちょっと睨まれたが知らん顔だ
「うむ、過去に天明の大飢饉と言うのがおきたのじゃが、知っておるか。その時どうやら天災が起きることを知っていた方が居られて、難を逃れ出世されたのじゃ」
「浅間山が噴火したときのことですね。確か松平定信候が備蓄米を放出して民を救ったとか。資料に残っています」
「そうじゃ、その時、定信候のところには先見の者がおると噂されたのじゃ。そうでなければ領民全てを救えるほどの備蓄米の準備や買い付けはすぐには出来まい。前もって知り、準備しておったと思うほうが妥当じゃ」
しかし予言をする人間は稀にいると思うし、夢や占いで先読みを生業にしているものいる。
平成の世にもいるのだから、人間の感覚が研ぎ澄まされている江戸時代ならもっと沢山居て、当たる確率も高いのではないのだろうか、そんな疑問に
「確かにそうじゃ、しかし高名な占い師をもっても正確な時期までは分かるまい。わしは時滑りを調べだして、定信候の辺りにもそう言った人物が現れたのではないかと思ったのじゃ」
「ねぇ、お母さん、その松平定信って人は何者」
「ほら、松浦静山の話に時々出てくるじゃない、ちょっとわがままな頭の良い殿様」
「あぁ、今って松浦静山とかいるの」
「ほう、そなた達は松浦候を知っているのか、いかにも静山候も定信候も今この世に居られるぞ」と教えてくれた。
「はい、実は私の先祖は松浦党の子孫で私は平戸の近くの出身なのです」
「平戸城も行った事あります」と茉莉花がいう。
「なるほどな、それならば話が早い。その静山候はどうにも食えない御仁でな、わしが思うに、時滑りを保護し、いろんな事を画策しておられるのが静山候ではないかとも思っておる」
「して定信候は静山候とも親しい故、一枚噛んでおるに違いないと思っているのじゃ」
確かに一理あると由佳は思った。
松浦静山は変わり者だったと本で読んだ事があったが、時滑りとかは特に喜んで受け入れた口だろう。
その他にも時滑りの助言を利用したと当てはめれば合点が行く話があると若様は言う。
しかし、平成の世でタイムスリップして帰って来たという話は映画やドラマの中でしか知らない。
本当にちゃんと同じ時代に戻ったのか、それとも隠蔽されているのか、こればかりは想像の域を出ない。由佳はそんな事を取り止めと無く考えてしまった。
「さて、そこでそのほうらに頼みたいのだが、先ずはこの年表を埋めて貰いたい。知っておる事柄だけで良いぞ」
そう言われて改めて年表を見る。
「ねぇ、お母さん、この年表結構歯抜けだね、幕末辺りが少ないよ」と茉莉花が指摘した。
「おお、そなたは歴史が得意であるか。近年来た輩はあまり歴史が得意では無かったようでな、そなたの知識の方が役に立ちそうじゃ」
「いえ、この子は幕末のみが得意でして、それも新撰組の辺りだけであまり全体は把握しておりません」
「えーそんな事無いよ、坂本竜馬の生年月日とか没年とかも分かるよ」と不服そうだ。
「新撰組に土佐の坂本とな、どうやら未来人はそのあたりの話が好きな様じゃな」
「勉強していても幕末は楽しいですから」と茉莉花はニコニコして答えたが、
「これ、徳川の世が終わることは我等にとって楽しきことでは無いわ、慎むが良い」と渋谷に釘をさされた。
「まあよい、予はそう言った事も承知で聞いて居るのだから。彼等に言っても仕方のないことじゃ」とたしなめられ「ははっ」と渋谷は居住まいを正した。
確かに徳川の世が終わったら大名とか藩とか無くなって、武士は多くが路頭に迷うことになるから笑い事ではない。
渋谷は茉莉花の態度が気に入らないのか、筆を持ったまま硬い顔をしている。
「ところで若様、本日は何刻までこちらでお過ごしになられますか」と文左衛門が聞いた。
「うむ、遠駆けと言ってまいったので夕刻までには帰るつもりだ」
「では、後ほど昼餉のご用意をさせていただきます」
「お、そうじゃ、昼餉なら山菜うどんが良い」
「かしこまりました。それでは失礼してその旨を伝えてまいります」文左衛門は慇懃に返事をし、席を立った。
(この若様は山菜うどんがすきなのだろうか、ずいぶん庶民的だ)と由佳はほほえましく思った。
文左衛門が出て行った後、茉莉花を促しながら年表の穴埋め作業をした。と言っても本当に新撰組に纏わる幕末辺りばかりで、あまり役に立ちそうに無いが、若様は興味深げに聞いてくれた。
由佳は小説を読むときは、江戸時代を題材にしたものをよく読むが、歴史的に有名な出来事は詳しくないと伝えたら、その辺りは文左衛門が好きな分野と言うことなので追々文左衛門と話をすることにした。
若様が特に興味を示したのが天変地異の話で、由佳は2011年の東日本大震災の話から、1995年の阪神淡路大震災、大正十二年の関東大震災と覚えている限りの地震と、2020年に決定した二度目の東京オリンピックの話をした。
その間若様は時折質問はするが、おおむね黙って話しを聞き、渋谷が筆を走らせていた。
2011年の福島原発の話をした辺りでは若様は、
「いたましい事よの。便利な電気の元が海と空を汚しおった」と嘆息した。
「のう渋谷、以前にもそのような空と海が汚れた話を聞いたが、いかがじゃ」
「御意、それは高度成長といわれる好景気の時に起きたと聞き及んでおります」と答えた。
「そうであった、しかし今の話によると其れの比ではないのであろう」と由佳に向き直った。
「はい、放射能は目に見えず、匂いも無く、知らぬうちに体を蝕んで、特に、子どもに影響が出てしまいます」
「ううむ、して東京オリンピックとやらまでにそれは収束するのであろうか」
「わかりません、でもそれを機に研究が進めば良いと思っています。遅れている東北の復興も終わる様にと思っています」
「そちの時代の政治家達はいかがじゃ、気概のある輩は居るのか」
「どうでしょうか、派閥ばかりで庶民の暮らしまで本当に考えてくれているかは疑問です」
「ふむ、何時の時代もそうよのう」と若様は思案顔になる。
「失礼いたします」文左衛門が戻ってきた。
「お話は進みましたでしょうか」
「うむ、面白い話が聞けたぞ」
「それはよう御座いました。後ほど私にもお聞かせください」
「そなたも居れば良かったのじゃ」
「申し訳ございません、村長が尋ねて来ておりまして、山狩りの話などの報告を受けておりましたもので」
「山狩りですか」と由佳は驚いて聞いた。
「はい、昨日楠田様ががこちらにいらした辺りを調べてさせておりました。同じように滑って来た方が居ないか、落とされたものは無いかなど調べるためで御座います」
「それでどうだったのですか」
「はい、他の方はいらっしゃらないようです。ただ、これが落ちていたそうです。見覚えが御座いますか」
良かった、純ちゃん達は巻き込まれなかったようだと由佳は安心した。
見せられたのは軍手だった。旦那に渡され、ジーンズの後ろのポケットに入れておいたのをすっかり忘れていた。
「お父さんが渡してくれた軍手だ」
「そうだね、どうしているかな、心配しているかな」
行方不明になって大騒ぎになっているだろう。それこそ山狩りとかして、お金がかかったりしていないだろうかと由佳は不安になった。
しんみりしてしまった二人を気遣ってくれたのか、文左衛門が、
「若様、きりがよろしいようで御座いましたら、昼餉にいたしたいと思いますがいかがでしょうか」と提案した。
「うむ、そうじゃの、ここらで休息といたすか」
「かしこまりました、では」文左衛門は手を叩いた。
ちょっと平成の世に思いを馳せていた由佳は、その音ではっと茉莉花と見合わせた。またまた時代劇の一幕を見た様だ。本当に手を叩いて女中さんを呼ぶのだと思った。
文左衛門の合図により、お竹とおふきが昼餉を運んで来た。リクエストどおりの山菜うどんらしい。
部屋に入る前に、手を着いて深くお辞儀をしているおふきはとても緊張しているようだ。やはり藩主の弟と言うのは緊張に値するのだろう。
「そなたは新しい女中か」不意に若様に声をかけられ、おふきは頭が上げられずに震えている。
「そのものはふきと申しまして、楠田様に最初に会いましたもので、ここにて茉莉花様のお相手をするように手伝いを願ったので御座います。女中の仕事は不要と申したのですが、根が在のもので仕事をせぬと落ち着かぬと申しますゆえ本日はたけを手伝っております」と文左衛門が説明した。
「さようか、ふきとやら、ご苦労であった」と言われおふきは、
「滅相もございません」と震えた声で答えさらに平低した。
これが普通の態度なのだろうなと由佳は茉莉花を除き見るが、「へー」という顔をして我関せずだ。
後で、郷に入ったら郷に従わないとと話し合わなければと由佳は思った。
若様は山菜うどんが大層お好きのようで、あっと言う間に平らげて満足気だ。
食べる前に渋谷が毒見をすると言って懇願し、交換したどんぶりを、渋谷が急いで食べ、それを見計らって食べていた。若様も大変だ。
食事をしながらも若様は茉莉花に色んな質問をしていた。
歳に始まり、その髪形は普通なのか、とか学校はどんなところなのかとかだ。
茉莉花は下手な言葉使いをすると渋谷に睨まれるので、言葉少なめに答えていたが、若様と同じ歳と分かるとちょっと親近感が出たようだ。
食後に若様と文左衛門とで話があるということで由佳と茉莉花は、家の回りを散歩することにした。
庭には若様と渋谷が乗ってきた馬が繋がれていた。
触りたいと言う茉莉花を制止し、おふきの顔を見に台所へ行ってみることにした。
台所の横の板の間では与助夫婦とおふきがお昼を取っていた。
「おうどんご馳走様でした、とても美味しかったです。おふきさんもお手伝いご苦労様でしたね」と声をかけたがおふきはまだ心此処にあらずの様子だ。
「若様はここにいらっしゃるといつも蕎麦やうどんをお召し上がりになります。よほど麺がお好きなのかと旦那様に聞いたことがあったんですがね、旦那様の話しでは、普段はお毒見役が何人もいて、暖かいものを食べれないからだろうと聞きましてね、お殿様と言うのも難儀なことだと思います」とお竹さんは着物の袖で目を押さえた。
「それに、たけが作る飯は美味いとおっしゃって、こんな下々の私どもにまで言葉をおかけくださる若様は本当にお優しい方で御座いますよ」お竹の言葉におふきもうんうんとうなずいている。
「おふきちゃん大丈夫」と茉莉花が声をかけると、おふきはすっかり夢見る顔で、
「あんな綺麗な男の人をはじめてみたんだぁ。おらにお言葉をくれたなんて、夢のようだ」と答えた。
すっかりほだされたようだ。そんなおふきに茉莉花は興味無いのかふーんとだけ言っていた。
午後からも若様からの質問に答えた。
若様は勉強家らしく、病院のこと、学校のこと、銀行や鉄道のことなど、街づくりに関する事柄を良く知っていた。
又、茉莉花に英語ができるかどうかを尋ねられた。今は鎖国政策の時代で、海外に開かれている唯一の場所は出島で、そこでの貿易はオランダ語で行われているが、昭和から来た山本と言う時滑りから、未来では一般的には十二歳から英語を勉強する事を聞いていたそうだ。
山本はかなり英語が出来るらしい。
由佳は世界の公用語が英語であり、平成ではもっと幼い頃から英語を習得しようとしていることを告げた。
若様はうんうんと頷き、山本という人物に密かに英語の手習い書を作らせていることを教えてくれた。いずれ役に立つ日が来ると予測しての事らしい。
若様は、平成の世のシステムを江戸時代で生かすにはどうすれば可能なのかを基準に考えているようだった。
十五時を過ぎた辺りで、
「ひとまず、年表はこの辺りで仕舞じゃ。そのほうらから、他に聞きたいことはあるか」と尋ねられ、
「あの、不勉強で申し訳ありませんが、松平家といえば家康公のお血筋のお家ですよね」と由佳は遠慮がちに聞いてみた。
「はい、松平家にはお血筋とそうでない家が御座いますが、ここに居られます矩典様は紛れも無く大公様のお血筋の方で御座います」と答えたのは文左衛門だった。
「ま、そうじゃな、祖父は本来なら姫路藩を継ぐはずじゃったが、幼少のため、国替えさせられ、この地に来たのじゃ。その後、代々この前橋、川越を治めておる。ま、そのほうが江戸にも近いし良い事もあるがな」
この辺りの歴史は全然分からないがお家騒動とか色々あったのだろうか、姫路藩といえばかなりの大名だったはず。それより位が低くなってしまったのだろうか、と由佳は考えたが、茉莉花はミーハー根性が出たのか、嬉しそうだ。徳川家康の子孫と聞いて、とたんに尊敬のまなざしで若様を見ている。
「そういえば、時滑りの者達は松平と聞けば、必ず吉宗候を思い出すようだがそれは何故じゃ」と若様に突然聞かれ由佳は何と説明しようかと困った。
「それは吉宗様を題材にしたテレビの芝居が人気だったからだと思います」と当たり障りの無い様に説明した。
「なるほど、それほど人気があったというわけか」
「はい」と首肯しながら、頭の中でテーマ曲が流れた由佳は(いかん、いかん……)と心で自分を叱咤した。
若様と渋谷は日が落ちる前に屋敷の方に帰るとの事で七つ(十六時前)には帰っていった。
時間が取れたら又来るとの事だ。それまでこの時代の事を文左衛門に教わるように念を押していった。
見送りながら茉莉花は
「渋谷って人なんか怖いね、目が逝っちゃっているよ」とつぶやいたが、本物の武士ってあんなもんじゃないかなと由佳は思った。
振り返れば空が夕焼けになりつつある。
この時間帯の空はいつも心細くなるのだが今日は特に胸に染みると思った。
二人は不安と期待が入り混じった複雑な気持ちで、茜色に染まる空をしばらく眺めていた。
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