第2話

おふきは走っていた。

こんなに早く走るのは幾つの時以来だろうと思うくらい一生懸命に走っていた。

早く誰かに知らせなければ。跳ねるように下り道を走っていく。

彼等の事は村長から聞いた事はあった。でも他人事の様に思っていた。

まさか自分が遭遇するとは思っていなかった。

それも亡くなったお父っちゃんといつも一緒に山菜取りに行っていた場所で。

今日は大した収穫が無かった。おかげで荷物も軽く早く走れる。

そんな事を取り留めなく考えながら走っていたら、やっと村はずれにある伍平の家が見えてきた。

家の前で薪を片つけていた伍平がふきに気がつき、何事かと驚いたようにこっちを見ているのが見えた。

「あわわわ、ご、伍平さんたいへんだよぉ」転がるように着いたおふきは、息が切れて言葉になっていない。

「おふきちゃん一体どうしたんだい、おい、おみね、水を一杯くんでくんない」

伍平の女房のおみねがあわてて、水を持って来てくれた。

「さ、さ、飲んで落ち着いてはなしてくんない」

水を飲み干してやっと一息つけたふきは「伍平さん、あたし、見たんだよ、あの人達を」

「あの人達って、もしかして」

「そう、そのもしかしてだよ。来たんだよ」

「どこで見たんだい、なん人だった、年のころは」

「そんなにいっぺんに聞かないでおくれよ、奥沢の近くだよ。女二人で母子のようだった」

「おなごかい、こりゃ大変だ。こうしちゃ居られない。おい、おみね、お前はお寺に行って例の人が来たと伝えてくれ、おいらは人を集めてくる」とおみねに指示をした伍平は、

「悪いがおふきちゃんはここで待っててくれろ、又話を聞くかもしんねい」とおふきに頼んだ。

「わかった」と伍平に伝えることが出来たおふきはほっとした顔でうなずいた。

伍平とおみねはあわてて家を飛び出していった。

おみねの案内で、すぐに正覚寺の和尚様がやって来た。和尚様もなにやら慌てているようだが、

「おふき、おまえが見つけたらしいの。驚いただろう」とやさしく声をかけてくれた。

まもなく伍平は村の男衆を数人連れて戻ってきた。

「あ、和尚様、ご苦労様でございます」

「うむ、もう間もなく日が暮れる。むやみに歩き回られて沢に落ちたりしたらやっかいですので早くに見つけて差し上げなさい」

「へい」と男達が神妙な顔で頷く。

「それと、誰か大河原さんに知らせてくれましたかね、確か今は寮にお泊りのはずですが」

「へい、一人、寮の方に知らせに行かせましたで、おっつけこちらに来られると思います」

「そうか、それでは皆気をつけて探しておくれ。くれぐれも脅かさないように。それと、おふき、確か女子二人で、親子の様だと言っていたそうですね」

「はい、年のころは分かりませんし、筒っぽを穿いていたのですが、確かにおなごでした」

「そうか、それでは男衆ばかりでは先方も不安に思うやも知れないの。おふきご苦労だが、案内がてら一緒に入ってはくれないかの」

「えっ」おふきはちょっと怖い気がしてすぐに返事が出来なかったが、和尚様の頼みとあれば聞かないわけにはいかない。「わかりました」と硬い声で返事をした。

「それでは皆頼んだぞ」和尚様の声に送られて、一行はおふきを先頭に少々急ぎ足で、奥沢までの道を登り始めた。


「ねぇ、やっぱり迷ったんじゃない」

「うーん、逆側に降りちゃったのかなぁ」

「お父さんに電話してみようよ、携帯出して」

「あ、圏外だよ」

「マジか、これだから田舎は嫌なんだよ、ちょっと山越えただけで圏外ってありえないよ、ねぇどうする」

「とりあえず、あっちに道があるみたいだからちょっと行ってみようか、民家があればさすがに電波通じるでしょ」と由佳は先ほどの女の人が駆けて行った方を指差した。

「えー、あの斜面登るの」と面倒くさそうに茉莉花が難色を示したが、

「仕方ないでしょ、ここに居ても日が暮れるだけだよ」と由佳に言われ、「わかったよぉ」としぶしぶ斜面に向かった。

軍手をつけて、枯れ草の斜面を何とか登り、道に出た。

「こんな舗装してない道だったっけ、やっぱ逆に降りて奥に来たってことかな」

「じゃあ逆に行ったほうが元の場所に戻れるってことかな」

「そうかも知れない。けど登りだよ」

「えー無理。じゃあここを降りていったら何があるの」

「反対側だとしたら採石場じゃなかったかな。トラックが通ったのを見たことがあるよ」

「採石場なら電波通じるかな」

「かもね」

「じゃ、いこう、登るよりましだわ」と二人は下る道を選ぶ事にした。

川沿いの道は、舗装はされていないけれど、割と歩きやすい道だった。しかし、周りの景色はやはり見覚えがあるような気がすると由佳は思った。

「ねぇ、この川ってキャンプ場に行く途中の川に似てないかな」と由佳は茉莉花に聞いて見たが、

「えー田舎の川なんてどこも同じようにしか見えないよ」と関心がないようだ。

都会生まれで都会育ちの彼女に聞いたのが間違いだった。九州の田舎育ちの由佳は、日の傾き方向や川の流れである程度方角が分かる。

そう思い周りを注意しながら歩けば歩くほど、どんどん不安になってきた。

「あ、誰か来るよ」見ると、女の人を先頭に数人がこちらに向かってくるのが見えた。

「やっぱり、イベントなんじゃないかな、みんなコスプレしてるよ」

見ると確かに、全員昔の百姓の様な格好だ。

といっても二人共テレビでしか見たことが無いので確かでは無い。

「あの女の人さっきの人じゃない、とりあえずあの人達に聞けば?」と茉莉花に促され、由佳は近づいて来た一団に恐る恐る声を掛けた。

「あの、すみません、このあたりの人ですか」と、一団が近づく前に声をかけた。彼らは立ち止まり、こちらを伺うように見合わせていたが、先ほどの女の人が出てきて、

「そうです。みんなこの先の村に住んでいるものです」とぎこちない笑顔で返事をしてくれた。

「あれだ、うんまちがいねぇあれだ」

「案外早く見つかったな」

「うんだ、苦労せずいかった」

「早くけぇって飯でも食うべよ」とひそひそ声がする。

由佳は地元の人間だと聞き、

「じゃあ、ここを降りて行けば街があって、携帯の電波が入りますか、それか、電話を貸して貰いたいのですが」と聞いてみた。

すると、「でんぱ」「でんわ」と顔を見合わせながら又ひそひそ話をしだした。

なんだかおかしいと思いながらも、

「あの、この先は人が住んでいるんですよね」と更に聞いて見ると、ちょっと年配の男の人が、

「でんぱたならこの先に降りた辺りからありますだ、あまりたいした物ではねぇですが」と答えた。

「あぁ田畑ね、あるある、おらのところにも少しな」

「うんだ、少しばかりな」と皆口々に言い出した。

それを聞いた茉莉花は、

「繋がるってお母さん、じゃあ、そこまで行こう」と喜んだ。

「そうですか、ありがとうございました」とお礼を言って、先を急ごうとした由佳達に又さっきの女の人が声をかけて来た。

「あの、もうすぐ暗くなるし、ここらは獣も出るので、良ければ村まで案内します」と言ってくれた。

確かに日が大分傾いて辺りは暗くなって来た。このあたりは木々が深いので暗くなるのも早い。

「それじゃあお願いします、ご親切にありがとうございます」と由佳は申し出を受け、その女の人と歩き出した。

すると後からゾロゾロ男の人達も付いて来る。

皆、山に向かっていたのでは無かったんだろうか、と由佳は不審に思ったが、なにやらヒソヒソ話をし、ジロジロ見られているような気がしたので、ちょっと怖かったが黙っていることにした。

沈黙しながら歩くのが辛くなったのか、茉莉花が女の人に話しかけた。

「あの、今日は何かイベントでもあったんですか」

「え、弁当ですか」

「いや、お祭りとかあったのかと思って」

「あぁ、お祭りは今度ありますよ、鎮守様のお祭りです」

「へー珍獣祭り、だからコスプレなのか」

何だか噛み合っていない気がした由佳は、

「茉莉花、珍獣じゃなくて、鎮守だよ、神社のお祭」

「あ、あはは、そっか、でも神主ってそもそもコスプレみたいだよね」

「いやあれはコスプレじゃなくて装束だよ」

「そんな事わかってるよぉ。でも巫女の装束も今やコスプレで売っているんだから、あまり大差ないよ」と笑った。

女の人は二人のやり取りを怪訝そうに聞いて、

「あのう、お名前は茉莉花さんって言うのですか、おいくつですか」と聞いてきた。茉莉花は

「そう、茉莉花です。十七歳、あなたは」

「わたしはふきって言います。今年十六になりました」

「へー一個下、大人っぽいから私より年上だと思った」

確かにちょっと緊張したような顔をしているせいか横顔はかなり大人っぽく見えた。

「ねぇ、ふきってどんな字書くの、食べるフキかな」と聞かれ、

「かなです。意味はふきのとうのフキではなくて、ツワブキの方です」と答えた。

由佳が「石蕗って黄色い綺麗な花が咲くよね」と言うと、ちょっとはにかんだ笑顔を見せた。

そんな顔は確かに茉莉花と同年代だと由佳は思った。

「どっちも美味しいけどね」と山菜好きの茉莉花が言う。

そんな茉莉花にふきはちょっとだけ緊張がほぐれたのか、

「もう着きますよ」と道の先を示した。

見ると数人の人が集まっていた。

「あ、お坊さんの格好をした人がいる。あれは本物かな」と茉莉花が罰当たりな発言をした。

それを聞いて、「もちろん本物の和尚様ですよ。右の山にあるお寺のご住職様です」とふきが笑顔で答えた。

「だよね、坊主頭だし」と茉莉花のそんな軽口にふきは「ふふっ」と笑った。

由佳は暗くなって来た景色を眺め、右の山の中腹には確かにお寺が見えている事を確認して少しほっとした。

その住職が、「おぅおぅ、ようこそおいでになりました」とにこやかに楠田親子に声をかけ、

「皆もご苦労でしたな。早く見つかってなによりでした」とふき達にも声を掛けた。

「いえ、何もしてねぇ、全部おふきのおかげです。なぁ」「うんだぁ」

と男達もほっとした顔で報告していた。

由佳は話の途中とは思ったが、

「あの、お話し中すみません、和尚さん、電話をお借りしたいのですが」と申し出た。

住職は思い出した様に、

「おぉ、これは失礼しました。いまちょっと人を待っているのですわ、あいすみませんが、もうしばらくお待ちくだされ」と言い、またほかの人との話に戻った。

由佳は仕方が無いので、茉莉花の側に寄り、スマホを取り出してみた。

やはり、ここもまだ圏外の様だ、こうなったら電話を借りるしか手段が無さそうだね、と茉莉花と相談し、和尚さんの用事が終わるのを待つことにした。


しばらくすると、

「どうも、遅くなりまして申し訳ございません」と中年の男の人が二人やって来た。

一人は羽織を着ていて、他の人より高そうに見える着物だ。

「ねぇ、お母さん、皆コスプレっていうより、ここの人達はチョンマゲが基本なんじゃないのかな」と茉莉花がこっそり耳打ちした。

「まさかぁ」そうは言ったが由佳も住民達が皆着物なのが気になっていた。

「だってさ、今来た人、月代がピカピカだよ」

「えーカツラでしょう」

「だよね、もしかして村おこしなのかなぁ、それにしても気合入ってるね」と感心したように言う。

とにかくこの人達が住職が待っていた人なのか、住職と小声で話しをしているので、済んだら電話を借りて皆に連絡を取りたいと思った。

辺りは大分暗くなってしまった。皆心配しているだろうし、お腹も空いてきたと由佳は気が急いていた。

「どうもご住職、ご苦労様でございます。それで、いかがな感じでしょうか」

「さっき、着かれたばかりでな、私もまだ話しはしておりません。詳しいことは、文左衛門さんがいらしてからと思いましてな」とう言うと住職は、「これ、おふき、こっちへ」とおふきを呼んだ。

文左衛門に発見したのはおふきで、ここまで案内をしてきたのもおふきだと説明し、

「あの二人の様子を詳しく話してくだされ、道すがら話しをしたのであろう」と促した。

「へぇ、娘の名前はまりかで十七と言っておりました。お母さんと呼んでましたんで、親子だと思いますが、母親の名前は聞いていません」

「ほう親子ですか」

「へぇ、話の半分くらいは何を言っているのか分からなかったですが、仲は良さそうでした。おらが分かるのはそれくらいです」とおふきは短い時間で分かった事を説明した。

「なるほど、ご苦労でしたな。それでは詳しいことは本人達から聞くとしましょう」と文左衛門はおふきを労い、

「それでは、今回はおなごでしかも二人ですから、お寺に泊め置くのがよろしいでしょうか」と住職に尋ねた。

「それが、今、寺には修行僧がおりますゆえ、若い女子を置くのは憚られます」と済まなそうに言った。それを聞いて文左衛門は、

「そうですか、それではいつものように私の寮のほうでお預かりすることにしましょう。しかし」と文左衛門は思案顔になった。

「何か問題でも」と住職に聞かれ、

「いえ、問題ではありませんが、娘を預かるのは初めてで、少し不安でしてな」と正直に話した。

住職はしばし考えた後、手を叩き、「そうじゃ」と思いついた。

「文左衛門さん、それならば、おふきに一緒に行ってもらうのはいかがでしょうか。おふきならば同じ年頃なので何かと役に立つと思います」

「おお、それならば私も安心です。どうでしょうおふきさん、彼らと一緒にしばらく寮に住んでもらえませんか」と文左衛門も住職の提案に喜び、おふきを振り返った。

二人に見つめられおふきは困ってしまった。

「はぁ、でもおっ母さんが何て言うか、家にはお父っつあんも居ないし、それに」と言葉を濁した。

「それになんだね」と住職に問われ、おふきは言いにくそうに、

「おら、何だか怖くて」と蚊が鳴くような声で言った。

それを聞いた住職は、

「は、は、は、なんも怖いことはありませんよ、同じ人間なのですから」と笑いながら言った。

それでもおふきの心配事が分かったのか、

「これ、長兵衛さん、お前さん、おふきの母親に話をして、ここへ来てもらいなさい」と頼んだ。

「へぇ、わかりました」長兵衛はすぐにおふきの母親の家へ行き、母親のおつたを連れて戻って来た。

住職はおふきの母親のおつたに今回の来訪者が女二人であること、おふきに話し相手になって貰い、暫く文左衛門の寮で生活を共にして欲しいと説明した。

おつたは、「けんど、この子につとまりますでしょうか。なんの才もねぇのですが」とやはり心配のようだ。

「なんの、日常の事を教えて差し上げればいいのですよ。難しく考えることは無い」と諭した。

「へぇ、けんど、これから暮れも近づいて、家も人手が足りん様になりますもんで」と不安を漏らした。すると察した長兵衛が、

「そのあたりは昔っから皆心得てっから大丈夫だ。それに、これから和尚様が皆に話しをしてくださる。それにそんなに長いことでもねぇべ。おふきが手伝ってくれれば皆が助かるってもんだ」と村長らしい口調で助言した。

二人に説得され、おふき親子は仕方なくではあったが「それではおねげぇします」と頭をさげた。

文左衛門は安心した顔で「こちらこそお願いしますよ。では早速まいりましょうか」と長兵衛を促した。

「それではおふき、頼んだぞ、文左衛門さんもよしなに。どれ、拙僧は皆にこれからの事を話して聞かせなければ成らぬので、これにて」と合掌して待っていた村人達のほうへ向かった。

どうやら話が終わったようだ。

遅れて来た中年の男が近づいてきて、

「はじめまして、私は大河原文左衛門と申します。こちらが村長の長兵衛さんです。おふきはもうご存知ですね」と挨拶した。

紹介された由佳と茉莉花は「あ、こんにちは」と軽く会釈をした。

「道に迷われたのでしょう。これから私の家にご案内いたしますので、どうぞこちらへ」と歩き出そうとした。

「え、でも和尚さんに電話をお借りするつもりだったのですが」と由佳は慌てて文左衛門に声を掛けた。

「あいにく、和尚様はこの後、寄り合いがありますもので、私どもにお任せになったのございます」

みると、住職は集まっていた人達を促して寺に戻るようだ。

「あの和尚さん」と由佳が声をかけると、住職は振り向き、

「拙僧は、この後この者達と話がありまして、そちらの文左衛門さんにすべてお任せいたしましたので、どうぞご安心ください。それでは失礼いたします」

とにこやかに合掌して行ってしまった。

残された顔ぶれをみて、「ねぇどうなってんの」と茉莉花に聞かれたが、

「お母さんも分からないよ、でもこの人達について行かないと電話は借りれないって事らしい」と説明した。

「まじで、お寺すぐそこじゃん、ちょこっと電話借りれれば済むのに、もうお腹空いたんだけど」と不満を漏らした。

それを聞いて文左衛門が、

「そうそう、お腹も空かれた事でしょう。我が家にお越しいただければ、ささやかではございますが、夕餉の支度もしてございます。ささ、こちらへ、そう遠くは御座いませんので」と促した。

そう言われ、仕方なく二人はお寺をあきらめて、文左衛門の後を着いて行くことにした。

「そろそろ暗くなってまいりましたな」と長兵衛が提灯を付けた。それを見た茉莉花は

「まじで、本物の提灯、凝ってるぅ」と急に元気になった。

提灯は見たことがあるが、蝋燭で灯す提灯はなかなかない。

小道具にまで気を使っていると、茉莉花は嬉しそうだ。


間もなくと言うか、そう遠く無いといった割りにはかなり歩いた所で文左衛門の家に着いた。

茉莉花は「もう、田舎の人の近くはマジで信用出来ない」とむくれている。

家は古民家風のつくりで、板張りも柱も黒光りしていて華美では無いが豪華な感じがした。

「ささ、中へどうぞ、なんのお構いもできませんが」と文左衛門は敷居をまたいだ。

「お帰りなさいませ旦那様」と玄関でお爺さんが迎えてくれた。

「これは下男の与助です。夫婦のお竹と此処に寝泊りして仕えております」

「下男、文左衛門さんってお金持ち」と由佳と茉莉花は顔を見合わせた。

由佳が「お邪魔します」と頭を下げると、与助はあわてて

「ようこそお越しくださいました」と平低した。

廊下を案内しながら与助が、

「旦那様、夕餉の支度が出来ておりやす。すぐにお運びしてもよろしいでしょうか」と文左衛門に聞いた。

「そうしておくれ、そうそう、長兵衛さんとおふきさんの分も用意して、五人前にしておくれ」と指示をした。

「文左衛門さん、私は急ぎ寺へ戻りますので、ここで失礼します」と長兵衛は辞退しようとしたが、

「いや、食べて行かれた方がよろしいですよ、お寺ではろくな物が出ませんから。急ぐなら握り飯でもこさえてもらってください」と文左衛門に言われ、

「へぇ、それではお言葉に甘えまして」と与助と一緒に奥に消えていった。

由佳達は、板の間で、大きなダイニングテーブルがある部屋に通された。椅子は六脚。

床の間を背に一脚、いわゆるお誕生日席があるが、それを避け、二人は障子側に案内され、反対側に文左衛門が座った。

「おふきさんはこちらに座ってください」と言われ、彼女はぎこちなく文左衛門の隣の椅子に座った。

「今、お茶をお持ちしますのでお待ちください。お食事もすぐにご用意いたします」と文左衛門はニコニコしながら言う。

「あの、その前に電話をお借りしたいのですが」と言い掛けたら、

「失礼いたします」ときっとさっきの与助さんの奥さんのお竹という人なのだろうか、おばあさんがお茶を持って来てくれた。

「先ずはお茶でもお召し上がりください。少し冷えましたでしょう」と文左衛門に言われ、由佳は浮かせかけた腰を下ろした。

「これがさきほどの与助の女房のお竹です」と紹介され、お竹は板の間に手を突いて、

「ようこそおこしくださいました」と挨拶した。

「長兵衛さんはもう帰られたかい」との文左衛門の問いに、

「へぇ、急いでかっこんでお帰りになりました。明日又お出でになるそうです」と答えた。

「そうですか、それでは、こちらにも膳をお持ちしておくれ」と言われ、「へぇ」と出て行こうとしたお竹に、「おらも手伝います」とふきが声をかけた。

「おふきさんは女中じゃないのですから座っていてください」と言う文左衛門に

「でもおら落ち着かなくて」とうつむいてもじもじしだした。その様子をみて文左衛門はおふきの気持ちを察したのか、

「そうですか、ではお願いしますよ」とお竹の手伝いをする事を許した。

美味しいお茶だった。「あー美味しい」と茉莉花は満足気だ。

由佳は一息ついたあたりで、

「御馳走様でした、それで、電話をお借りしたいのですが」と文左衛門に願った。

文左衛門は、茶碗を置き、神妙な顔で由佳を見つめていたが、意を決した様に言った。

「実は、電話なるものはございません」

しばらく由佳は言葉の意味が理解できなかった。

「え、今何て言ったんだろう、電話無いって言ったような」と頭の中で考えがぐるぐると回って、次の言葉が出なかった。

「マジで、どんだけ田舎なの」と隣を見ると茉莉花が呆れた顔をして、言っていた。

茉莉花の言葉で、気を取り直した由佳は、文左衛門に

「電話が不通になっているということですか」と聞いた。

文左衛門は一口お茶をすすって、

「確かにこの辺りは田舎ですが、町に出ても電話はありません。この時代は電話なるものはおろか、電気というものも御座いません」とゆっくり、二人に諭すように言った。

「え、この時代って、どういうことですか」話が見えず立ち上がった二人に、

「どうか落ち着いてください、そして驚かないで私の話を聞いてください」

と制し、襟をひと撫でして、

「今は、文化十年、十一代将軍、徳川家斉様の時代で御座います」と言った。


二人は言っている意味が全然分からないし、どうリアクションすれば良いか分からずしばらく呆然としていたが、突然茉莉花が立ち上がり、テーブルの下や、鴨居などをキョロキョロ見ている。

「どうしたの」

「テレビだよ、きっと、ドッキリなんじゃない」とカメラを探そうとした。

「えーそんなぁ、私達一般人だよ」と言いながらも由佳も一緒に周りを見回してみた。

見上げると電気だと思っていた灯りは吊り行灯の様だという事に気がついた。

すると文左衛門が、「は、は、は、は、何人かの方は必ず同じような反応をされますなぁ。それほどてれびと言うものが流行っておるらしい」と笑った。

唖然とする二人の視線を感じ、「これは失礼しました」と咳払いをして続けた。

「てれびという仕掛けではありませんよお嬢さん、なにせ電気と言うものもないので御座いますから」

「何人かの人って、それに電気を知ってるじゃないですか、テレビも電話も」

何を言っているんだこの人はという顔をして二人は顔を見合わせた。

「順を追ってお話します。でもその前にお食事にいたしましょう」と二人に椅子を勧めた。

その時、ちょうどおふきとお竹がお盆に乗せた料理を運んで来た。

「急なことで何も御座いませんが、お召し上がりください」と文左衛門が言う。

料理はご飯に里芋の煮物、青菜のお浸し、蕗の佃煮にお麩が入ったお吸い物。

茉莉花の好物ばかりだ。「美味しそう」と早くも料理に気を取られたのか茉莉花は箸を取り、

「いただきまーす」と早速里芋の煮物に手を出そうとした。

「ちょっと待って」と由佳はとっさに制した。今の状況が飲み込めない上に、知らない人の家でご飯を食べるのが怖いからだ。

「え、なんで、美味しそうだよ」

「いや、ちょっと待ってよ」まさか毒が入ったりしてないよねとは由佳は言えなかったのだが、

「ほほほ、ご心配なさらずに、毒など入っておりませんから。なんなら私のお菜と交換いたしましょう」と由佳が思ったことを察したのか文左衛門が先回りして言った。

「そうそう、おふきさん、あなたもここで召し上がりなさい、そうすればこの方達も安心するでしょうから」と勧めた。

「でも、そんなめっそうもねぇ」とおふきは遠慮したが、

「さぁさ、遠慮しないで、この方達の居たところは、女も男も同じ高さで膳を囲み、身分の隔たりがない時代なのですから、お竹用意しておくれ」と座らせた。

とりあえず、おふきの食事が揃うまで、茉莉花に箸を下ろさせ待つように由佳は目で合図をした。

文左衛門は手際よく、

「では、皆のお菜を交換し合って、そうそう、これでよし。ささ、安心して召し上がれ」と手際よく交換した。何だがずいぶん慣れているようだと思いながら、ここは腹をくくって食べるしかないと、由佳は「では、いただきます」と手を出した。

「いただきまーす。うん、美味しいよ、お母さん」と、やはり若いのか空腹には勝てないのか、ただの能天気なのか、茉莉花はいつもより食欲旺盛に平らげていった。


食後のお茶を飲みながら、

「おふきさんには二階に部屋を用意させましたので、お竹に案内してもらってください。明日からは忙しくなるでしょうから、今日はもう休んでください」と文左衛門に言われ、おふきは素直にうなずき、「へえ、それでは失礼します」と下がって行った。

「それでは、改めまして、私は大河原文左衛門と申しまして、飯能で薬種の小売商いをしているものです」と文左衛門は一口お茶を啜って話し始めた。

大河原文左衛門は飯能の薬種屋の主で、この家は元々山で薬草を取ったり、村人が持ち込んだ薬草を選別したりするために使用していた作業場だった。

最近、この辺りでは余り薬草が取れず、別の場所に薬草園を作った為あまり使用されなくなっていたのを、隠居はしていないが、店は跡取りの息子に任せて自由な時間を持てた文左衛門が避暑兼、趣味の隠れ家として、ここを寮と呼び、年に数回訪れている場所ということだった。

下男夫婦は元々飯能の店で働いていたが、年を取ったので、ここに住み、避暑に訪れる文左衛門の身の回りの世話や、家の手入れをしているらしい。

この家の大まかな間取りと近隣の家の話などを聞き、安心して欲しいと言われた。

そして、ここからが肝心なのだが、今は、由佳達が言うところの江戸時代で、それは紛れも無い事実だと言う事だ。

由佳はにわかには信じられないと思ったが、文左衛門が嘘を言っているようには見えなかった。

話は更に続いた。

いつの頃からか分からないが、この村には時々珍妙な格好をした人が来ては、意味の分からないことを話したり、時には人助けしたり、村人に知恵を授けたりする事が昔からあったらしい。

どうやらそれが、違う時代から来ている事が分かり、彼等を「時滑り」と呼び、最近では村をあげて、迎えているそうだ。

そうしないと、時には悪いことをしたり、まれに気がふれてしまう者が居たりして、困るからだ。

「時滑り」と言うのは以前来た人間が教えてくれたのだそうだが、たぶん「タイム・スリップ」を直訳したのだろうと由佳は推測した。

不思議なことに、未来からは来るが過去からは来たことがないそうだ。

まだまだ分からない事が多くあるが、村人達は出来るだけ手を貸して保護しているらしい。

文左衛門も最初は信じられなかったが、数年前に初めて未来から来た人物に会って以来、先頭に立って、寮に住まわせたりして世話をしているそうだ。

「この先に雲取山と言う山があって、竹取姫の伝説がございます。村人の中には竹取姫の祟りだという者もおりますが、それなら尚更放って置いては障りがあると説き伏せ、密かに皆様をお守りするようにしているのです」と笑って付け加えた。

「密かにですか」

「えぇ、さすがにあなた達の話は世間には言えぬ事の方が多いですからな、まぁ、話してもそうそう信じては貰えないでしょうが」

「祟りって失礼な。私達は普通の人間なんだけど」と茉莉花が腕を組んで抗議した。

「えぇ、勿論でございますよ。ただ、おられた元の時代にもよりますが、今とは考え方も言葉もかなり違っております。ましてやこんな田舎では、奇妙に思えることは大抵祟りと思ってしまうものなのです」と笑った。

確かに今が江戸時代で、まだ十一代将軍の時代だとしたらこの先、ペリーが来て、幕末があって、戦争があって、由佳達がいた平成の時代までには暗い歴史もある。

しかし、それを話したとしても誰も信じてくれないだろう。そう思案していると、

「それで、そちら様はなんとお呼びすればよいでしょうか」と文左衛門に言われて、きちんと名乗ってない事に気がついた。

由佳と茉莉花は自己紹介し、住んでいた場所は東京の郊外で、今日はキャンプに来たこと。

霧が出たと思ったら急に周りが変わった事などを交互に説明した。

キャンプについては説明するのに苦労したが、やっと理解した文左衛門は未来の人は、わざわざ野宿や山小屋に泊まったりするのにお金を払うのかと驚かれた。

文左衛門は地図を見せてくれた。この辺りと周辺の地名はあまり変わっておらず、県と藩の違いがあっても大体の町の名前は一緒だった。ただ、道は全然違うようだ。

「十一代将軍ってことだけど、茉莉花、この時代って分かる。老中は田沼意次だっけ?」

「勿論、将軍の名前はわかるよオットセイ将軍だね、田沼は確か家治の時代の老中だよ。でも大体が西暦で覚えてるからなぁ、今、西暦何年なんだろう、それが分かればもう少し思い出せるんだけど」と答えた。

「そっか、じゃあ今は松平定信が老中の時代かなぁ」と由佳も記憶を辿った。

そんな二人の会話を聞いていた文左衛門は満足気な顔で、

「そのあたりの詳しい資料をお持ちの方が明日お見えになります。あなた方が見つかってすぐに使いを出しましたから。ですから又その時に色々お話をお聞かせください。ですが、今日はもう遅くなりました。そろそろおしまいにして休みましょう」と言った。

「わかりました。でも、ひとつだけ、私達はこれからどうすれば良いのでしょうか」

「それにつきましても、明日ご相談いたしましょう。しかし、今までも、しばらくはここにとどまり、この時代の事を知っていただくようお願いしております」

本当はもっと聞きたいことが沢山あったが、茉莉花はもう眠そうなので由佳は文左衛門の提案を受け入れることにした。

「それでは隣に布団を用意してありますので、今日はもうお休みください」

「ありがとうございます。お世話になります」

「なに、私もあなた方の話を聞くのをとても楽しみにしているのです。ですからお気になさらずに我が家だと思ってゆっくりしてください」そういって文左衛門は部屋を出て行った。

隣の襖を開けると、布団が二組用意してあった。寝心地がよさそうだ。本当に気を使ってくれているのが分かる。しかし、やっぱり灯りは行灯だ。

「お布団の中にかい巻きが入れてある」と茉莉花は喜び、

「ねぇ、このまま寝てもいいよね」と上着だけ脱いで布団に入った。

「なんだかさぁ、良く分からなかったけど、あたし達ってタイムスリップしたって事だよね」と茉莉花が言う。

「そうみたいだね、信じられないけど」

「まじで信じられないよね、目が覚めたら元に戻ってるんじゃない。夢だったりとか」

「だといいね」本当に夢だったらいいのにと由佳は思った。

「それとさぁ、竹取姫ってかぐや姫の事だよね」

「そうだよ」

「あの人って宇宙人じゃなかったっけ」と聞かれ、そこは今問題にしなくてもと由佳は思ったが、

「さぁ、いろんな説があるから。でも宇宙人も未来人もこの時代の人にとっては大差ないんじゃないのかな」と答えた。

「そうかも知んない、ま、いいや。じゃ、お休み」と茉莉花は布団をかぶった。

このときばかりは能天気な娘が羨ましい、と思いつつ由佳が時計を見るとまだ二十二時だ。

行灯を消すと、明り取りの障子窓から入る月明かりが意外と明るい。

本当だったら今頃、バーベキューも食べ終わり、焚き火を囲みながら缶チューハイか焼酎のお湯割りで一杯やってはずだったのに。そう思いながら由佳は天井を見上げてため息をついた。




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