第1話
東京オリンピックの誘致も決まり、国中が浮かれ出した2013年の秋。
東京郊外に住む楠田家では、キャンプに出掛ける準備で由佳が忙しくしている。
車で二時間ほどの近郊で自然を満喫できるお気に入りのキャンプ場に友人家族と一緒に一泊する予定だ。
「茉莉花、支度できた、忘れ物ない」と聞いても、いまどきの女子高生は、「うーん」と生返事だ。
「もう佐野さん来るよ。あったかい格好してね。夜は結構冷えるから」
「わかってるよ」
本当だか怪しいが、あまり言うと途端に機嫌が悪くなるので、由佳は構わず自分の支度の確認をすることにした。
高校生になっても親とキャンプに一緒に行けるのはまだましと、イライラする気持ちをちょっと押さえ込んで指差し確認する。
「財布、携帯、充電器、着替え……おっと、いけない、時計を忘れるところだった」と最近買ったソーラーでちょっとお洒落の自分にとっては贅沢品と思える位の時計を腕につけた。
「携帯があるから時計なんて必要ないよ」と茉莉花は言うが、由佳は、世代のせいか時計が無いと落ち着かない。
「佐野さん来たよ」と夫の亮一に声を掛けられ由佳が表に出ると、予定時刻ぴったりに、キャンプの機材を満載にした佐野家の車が到着していた。
「由佳さんおはようございます」とお互いの娘が保育園時代から仲良しの純子がにこやかに挨拶してきた。
彼女の娘二人は車の中から「おはようございます」と挨拶する。
「おはよう」と返しながら、お行儀が良くて羨ましいと由佳は思った。
「博ちゃんおはよう。いい天気になったね、今年はこれが最後のキャンプだけどよろしく」
男同士も朝の挨拶を交わし、今日の大まかな予定を話し合っていた。
「そろそろ声を掛けないと」、と由佳が思った時、茉莉花がスマートフォンを見ながら荷物を持って出てきた。
「茉莉花おはよう」と純子に声をかけられても「おはよ……」と上の空で返事をしている。
気のいい純子は「茉莉花、中間テストどうだった」と話題を振ってくれた。
由佳は内心茉莉花の態度にイラつきながらも、
「相変わらず英語がね……」と茉莉花の代わりに返事をした。
英語が苦手な茉莉花は「日本は鎖国したままだったら良かったんだよ、てかさ、これから鎖国してもいいのに」といつもの口癖を吐き捨てた。
「はいはい、じゃ出発するよ、本当に忘れ物ない、まあ、あっても一泊だからたいしたことないけどね」と最後の確認をし、佐野家四人と楠田家三人、車二台で出発だ。
買出しをするため大手スーパーに立ち寄り、バーベキューの材料と、肉をほとんど食べない茉莉花のために魚を買い求めた。
「お酒足りるかな」と呑む気満々の亮一は博とつまみになりそうなお菓子を相談してカゴに入れている。
茉莉花も、「ササミなら少し食べる、梅紫蘇巻にして。後ソーセージね」と自分が食べたい物をリクエストしていた。
到着してすぐに食べる各自の好みの軽食と、大体全員の嗜好に合わせた内容の買い物を済ませ再出発だ。
「今年は台風が多かったから紅葉はもう終わったかな」と亮一が聞く。
確かにもうだいぶ山に近づいたのに紅葉している様子が見られない。
「もうちょっと奥に行ったらあるんじゃないかな。青梅は気温が違うからさ」
「そうだね。しかし、やっぱり三連休だから道が混んでるね」
青梅街道はいつも混んでいる。それでも成木街道に入るあたりから車は減り、松ノ木トンネルのあたりからは民家も減り、コンビニも無くなり、自然がいっぱいだ。
松ノ木トンネルを過ぎたら、ちらほら紅葉している木が見えた。赤く色づいているカエデや黄色の蔦が青く澄んだ空に映えてとても気持ちがいい。
予定通りの時間にキャンプ場に到着し、機材や毛布を下ろし、バンガローに運び入れ、先ずは軽食を食べる。
「由佳さん、やっぱり山はいいですよね」
「うん、私達の家も東京郊外だけど、ここまでくると全然空気違うよね」
そんな話をしていたら、「ねぇ、ここって東京都だっけ」と純子の下の娘、中学一年の絵美が聞いてきた。
「いやここは埼玉県だよ。でも何市だっけ」
「飯能市じゃない」
「青梅の先だよね、途中通ったし」
高校二年の茉莉花と佐野家の長女で高校一年の美佐が中学生相手にお姉さんぶって言う。
「いずれにしろ田舎だよ。でも電波は届くからまぁいっか」
茉莉花は保育園の頃からこのキャンプ場に来ているのに、いまだにどこにあるのかは興味が無いようだ。高校生になった今は、大事なのは携帯の電波が届くかどうからしい。
軽食を食べ終わる頃、「由佳さん、バーベキュー始めるまで結構時間あるから、紅葉でも探しに散歩しませんか」と純子に提案された。
「そうだね、あっちの今は使っていないテントエリアの方に行ってみようか」
「春に来たときに行った小川の方ですね」
「そうそう、夏なら足を浸すのにちょうどいい感じだけど、今日は流石に水が冷たいかな。でも紅葉があるかもね」と小川の横を登って行くことにした。
「子ども達も行こうよ」
「焚き火する薪を拾っても良いしさ」と誘ってみる。
「あたし行く」と中学生の絵美は元気だ。
「美佐は?」
「うん行く」ちょっとおとなしいが従順な美佐も同意したが、
「えー、ちょっと登るし、面倒臭いよ」と茉莉花は難色を示した。
面倒臭いと言うだろうと予測していた由佳は、
「でも紅葉や枯れ草はいい被写体になるよ。せっかくだから、スマホのカメラで写真撮れば」と提案してみた。
最近スマートフォンで写真を撮ることにちょっとだけ得意になっている茉莉花は「そうか、じゃ行こうかな」と乗ってくれた。
最近の若者は携帯のカメラで写真を撮ることが結構上手だ。
茉莉花も例外なく、スマートフォンの扱いにはかなり慣れていて、なかなか良い写真を撮る。
「じゃあ食べ終わったらちょっと行ってくるね」と夫に声をかける。
見るともうビールを開けている。
「俺達は、飲みながらゆっくり準備しているよ」と二人ともすでに腰を据えている様だ。
「薪拾うなら軍手持っていった方がいいよ」と亮一は軍手を二個投げた。
「早く行こう」絵美にせかされたので、各自小さい鞄だけを持って歩き出した。
キャンプ場の同じ敷地内にあるテントサイトだが、狭い坂道を上る。
荷物を運ぶのには不便な場所にあるせいか、使われなくなって大分経つようだ。
でも手入れはしてあるので、春は若草が美しかった。秋に来るのははじめてかも知れない。
もともと、このキャンプ場は針葉樹が多く、紅葉と言っても陽だまりにある蔦や低木くらいしか無い。
それでも、すっかり秋の模様になっていた。
「ねぇねぇ、見て」と茉莉花がスマートフォンを見せる。木漏れ日に黄色い低木が写っていた。
「お、いいね、もう撮ったの。なかなか上手いよね」と由佳は本気でそう思う。
「へへっ、まあね」得意気な茉莉花は、
「あっちにちょっとだけ赤い葉っぱが見えるから行ってくる」と楽しくなってきたようだ。
「純ちゃん、もうちょっと奥に行ってみるね」と楠田親子は小川の横を歩き出した。しかし道というほどの場所ではないので、足場を確認しながらゆっくり登る。
「靴を濡らさないでよ、気をつけて」と茉莉花に声をかけ、後続を振り返ると、絵美がしゃがんで何かに気をとられているようだ。
「由佳さん先に行ってください。後から行きますから」
「いや、そんなに奥までは行かないよ、この先はもっと登るみたいだし、あの赤い木が見えるその辺までだから」
「わかりました」と純子は手を振って合図した。
先を行った茉莉花はカエデか紅葉かの木に大分近づいていた。
「お母さん遅いよ、先に行くからね」
「まってよ、足場が悪いからゆっくり行かないと危ないよ」
「平気、平気」と茉莉花は跳ねるように登って行く。
やっぱり若い子の足取りは軽いと思いながら、なんとか由佳が追いついた時にはすでに何枚か写真を撮っていた。
「ねぇどう」と木漏れ日に光る紅葉の写真を見せてくれた。
「なかなかいいね」と褒めると、
「何の木かな、もっと近づいて撮りたい」とまた跳ねる様に歩き出す。
「カエデじゃないかな、それより、私はそんなに早く行けないから」
「年だね」などと軽口を叩きながら木に近づくと、突然空が曇ってきた。
雲が太陽を隠したのかなと思って見上げると、どうやら霧が出てきたようだ。
「由佳さん、霧が出てきましたよー」と下から純子の声がする。
「こっちも出ているよー、危ないから無理して来ないでー」と叫ぶ。
「わかりましたー、由佳さん達もしばらく待ってから動いてくださいねー」と気遣ってくれた。
「わかったー、霧が晴れたらすぐ降りるねー」と返事をし、
「ねぇ茉莉花、霧が出てきたからあまり動かないで」と茉莉花に忠告した。
「わかった、小川に落ちたら冷たいしね」と茉莉花も急な天候の変化に不安になったのか素直に応じた。
「ねぇ、お母さん、霧の中の紅葉、綺麗だけど何だか不気味だよ、ほら」とスマートフォンを見せる。
「本当だ、なんか凄みがあるね。めったに無い写真じゃない、でも霧が晴れたらすぐに降りるからね。携帯失くさないでよ」
「うんそうだね、写真撮りすぎたからバッテリーも減っちゃった。お母さん鞄に入れといて」と言われたので、由佳はスマートフォンを預かり鞄に仕舞い込んだ。
とりあえず足元が見えないほどではないので、座れそうな場所を探して腰を下ろす。
「ねぇ、どんくらいで晴れるかなぁ」
「そうねぇ、今日は雨が降るって言ってなかったからすぐ晴れるよ」
「山の天気は変わりやすいからね」
「そうそう、女心と秋の空って言うしね」
「何それ」
「え、知らないの」
「知らない」
「文系なのに、いや、結構常識の範囲だよ」
「ことわざは苦手なの」
「和歌とかは得意だけどね」
「いやぁ、そうでも無いよ、この間の古典の点数は悪かったし」
「日本史は良かったのにね」
「まあね、江戸時代じゃない割には良かった」
「幕末だけが好きだもんね」
「でもさ江戸時代はあんまりやらないって先生言ってた。つまらないなぁ」
そう、文系に進む予定の茉莉花は幕末だけ、特に新撰組が大好きなちょっとだけ歴女だ。
二人がそんなくだらない話をしながら座っていると、グラッと揺れた気がした。
地震なのかと由佳は身構えたが続く様子は無い。
眩暈を起こしたのだろうかと思っていたら、
「いま揺れたよね」と茉莉花に聞かれ、由佳は眩暈では無かったと安心した。
しかし、こんな場所で地震はもっと嫌だと思った。
「ちょっとだけしか揺れなかったね、でも嫌だなーせっかくのキャンプなのに。こんな場所で大地震にあったら洒落にならないよ」と茉莉花も同じ事を思ったようだ。
由佳も本当に大きな地震が来たらどうしようと不安になった。
しばらくして霧が晴れて来たので二人は急いで降りることにした。
地震はもう大丈夫なのだろうか、今のうちに降りないと又霧が出るかも知れない。そう思い歩き出したが、「ねぇあの木無いよ」茉莉花が振り向いて指すほうを見た。
言われて由佳も振り返った見たが本当にさっきまであった木が無い。
おかしいと思いつつも来た通りに小川の横をゆっくり降りだす。登るより、降りるほうが大変だ。
「あれ、純ちゃん達は」
「もう降りたんじゃない」
「そうだね、でもテントサイトまでこんなに遠かったっけ」
「確かに、でも登るより降りるほうが気を使うから遠くに感じるのかもよ」
そう言いながらしばらく降りるとちょっと広い草地に出た。
「お母さん、ここがテントサイトだよね、でもなんか違うけど」
確かに様子が変だ。
そのとき、突然右の斜面から人影が出てきた。女の人だ。
目が会うと「あっ」と言ったきり口を開けている。
「あーびっくりした」と言うと、「あわわわ」と変なうめきをあげながら小川の横を駆け出して、あっという間に、向こう側の斜面を登り、その先にあるらしい道を逃げる様に駆けていった。
由佳があっけに取られていると茉莉花がつぶやいた。
「あの人変な格好。着物にガゴを背負ってたよ」
そういわれれば、確かに変だったまるで茶摘みの時にテレビで見るような格好だった。
「この辺でお茶とか作ってるのかな」と由佳が言うと、
「お茶作るときってわざわざあんな格好するの」と茉莉花が聞いた。
「うーん、茶摘みの格好みたいだったけど、イベントの時位しか今はしないかもね。何かのイベントがあったのかな」
「田舎のミスコンとかかもよ、ぷぷっ」と茉莉花は笑ったが、こんな山奥でミスコンは無いだろうと由佳は思った。
本当に何かおかしい、あの斜面の先の道はキャンプ場に入る道と同じように感じたが気のせいだろうか。
気がつくと日が大分傾いている。時計を見るともう十六時だ。
「早く戻ろう、バーベキューの準備を手伝わなくちゃ」
しかし、テントサイトのすぐ下がバンガローサイトのはずなのにバンガローが無い。
バンガローどころか、事務所棟も車も無い。
「お母さん、ここどこ、真っ直ぐ降りてきたよね」
「小川の横を降りたからキャンプ場に降りてきたはずだよ、ほら、もう一本の小川があって、ぶつかった所の手前に事務所棟があったはず」
「無いね」
「無い」
どういうことなのだろう、周りの景色はおおむねキャンプ場があった場所と同じ感じなのに、まるで違ってみえる。
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