第42話 解き放たれた怪物
ギチッ。
(李宗民、認めようじゃないか・・・お前を!)
戸倉一心の心を縛っている鎖が鳴る。
ギチッ。
(ようやく解放できる!四十年間、抑え込んできた俺の欲望・・・。全力で闘うことのできる相手にようやく巡り合えたのだ!)
ギチッ。
心に巣食う悪魔が、今か今かと唸りを上げる。
鎖は引き千切れんばかりに張りつめ、異様な金属音を響かせる。
ギチッ。
(本当にいいのだな・・・李宗民!)
戸倉一心は李宗民を見る。
そして。
カチン!
と、言う金属音が弾ける様な音がしたかと思うと。
戸倉一心と李宗民の空間に、白い煙がブワッと舞い上がった。
その瞬間。
李宗民の体が空中に飛んでいた。
「・・・・・?!」
(な・・・なんだネ?!)
李宗民は自分の体が空中に浮いていることに驚愕した。
そして、左腕に激痛を感じた。
自分の左腕をすばやく見る。
「ナ、ナ、ナンダ?!これハ?!」
李宗民は、自分の左腕が折れているのを見た。
左腕が、手首と肘の部分で折れていて内出血を起こしている。
(何が起こったのダ?!)
李宗民は背中から地面に崩れ落ちる。
いきなりの出来事で、思考回路が正常に反応しない。
(勝っていた筈ダ!さっきまでは!)
李宗民の表情が歪む。
そして。
白い煙の中から、戸倉一心がズバッ!と飛び出て来たかと思うと。
空中で膝を抱えて、ギュルギュルンと二回転する。
落下時に、両足をまっすぐに伸ばし。
そのまま、李宗民の腹部に飛び降りる。
ドゴオオォーーーン!
「が・・・ハーーーーッ!」
李宗民の口からは、赤い血が霧状に噴き出る。
体は腹部を中心に九の字に曲がり、ブルブルと痙攣している。
戸倉一心は、両足で李宗民の腹部に乗ったまま、両腕を胸の前で組んでいる。
「ガルルルッ・・・」
その両眼は白目を剥き、人間としての自我を保っていないようである。口を大きく開け、異様な唸り声を上げている。
(な~な~なんだ?!何が起こったのだ~?)
香川浩介は、目を細めて戸倉一心の変貌ぶりに驚いた。
今まで、戸倉一心の暴走モードや拳を握った姿は見たことがあったのだが、今回の様な姿は一度も見たことがなかったからだ。
(こいつは~ヤバイぞ~)
香川は、背筋に冷たい汗を感じ取った。
人間の領域を遙かに超えた殺気が、戸倉一心の体中から発せられている。
「ウオオォォーーーツッ!」
戸倉一心は叫び声を上げると、李宗民の腹部から地面に飛び降りる。
そして。
サッカーボールを蹴る様に、李宗民の横腹を蹴り上げる。
ドゴオオォォーーーン!
「グハーーーーッ!」
李宗民は、体を九の字に曲げたまま、地面を八メートル程滑る。
地面を滑っている李宗民。
(なんなのだ?こいつハ?人間じゃないゾ・・)
李宗民は、初めて恐怖と言うものを感じた。
「グアアァァーーーッ!」
戸倉一心は、地面を滑っている李宗民に追いつくと、さらに腹部を蹴り上げる。
ドゴオォーーーン!
「ウ・・グッ・・・!」
李宗民は口内から大量の血を吐き出す。
体を九の字にしたまま、横回転して地面をまた滑る。
(人間じゃない!コイツは・・・悪魔ダ・・・!)
李宗民は腹部を両腕で押さえながら、戸倉一心を見た。
凄い勢いで追いかけてくる。
両眼は白目を剥き正気を失い、口を大きく上げて唸り声上げている。
その姿は人間ではない。
悪魔。
そう、悪魔である。
李宗民の体が地面にゆっくり止まろうとする。
その瞬間。
目の前には、戸倉一心の足が迫っていた。
蹴り足が、李宗民の腹部を襲う。
ドゴオオォォーーーン!
「ガ・・・ガハッ!」
李宗民は叫び声を上げて、地面を滑る。
その時には、すでに両腕の骨が骨折しているのがわかった。
度重なる腹部への攻撃を、両腕で守ったからであろう。
李宗民の体は、九の字に曲がったまま、香川浩介のいる方向へ滑り込む。
「おいおい~!」
香川浩介は、驚愕した。
足下でうずくまる李宗民をチラリと見る。
口からは血を吐き、両腕は骨折しており、肋骨や内臓も損傷しているようである。
戦闘不能状態。
完全なる敗北。
誰が見ても、明らかである。
「戸倉さん~!ストップだ~!」
香川浩介は大声を出して両手を振る。
しかし。
戸倉一心は止まらない。
両眼は白目を剥き、理性を失っているようである。
(チッ~!戸倉さんは正気を保っていないぞ~。どうする~?)
香川は、戸倉一心が野獣の如くこちらに向かって来るのを感じた。
その勢いは尋常ではない。
地面を蹴り上げたかと思うと飛び上がり。
香川浩介に向かって飛び蹴りを放ってくる。
「くっそ~!」
(動くもの全てが敵なのか~?!)
香川は、その蹴りを紙一重で横に避ける。
蹴り足の速さが尋常でなないのか、香川浩介の左耳が裂ける。
赤い血が飛び散り、地面にしたたり落ちた。
ドガゴオォーーーン!
戸倉一心の蹴り足は、香川浩介が背にしていた屋上の出入口扉にぶち当たり、そのまま扉ごと奥の階段へと消えて行く。
ドンガラガッシャン!
人間と出入口扉が、階段を落ちていく物音が響く。
「くっそ~!なんなのだ~あれは~?」
香川浩介は、倒れている李宗民の両脇に両手を滑り込ませると、力一杯引っ張った。
「俺が~やるしかねぇのか~?くそっ!」
(あれは~もう人間じゃねぇ~!殺されるぞ~!)
香川は、全力で李宗民の体を引っ張って屋上の中央場所まで運ぶ。
「グ・・・グッ・・・」
李宗民の呻き声が上がる。
「おい~!大丈夫か~!?」
香川は李宗民を地面に寝かせてしゃがみ込んだ。
「あれはなんなんダ・・・?本当に人間カ・・・?」
李宗民が頭部を起こして香川を見る。
「俺にも~わからねぇ~!あんな姿~初めて見たからな~」
香川浩介は屋上の出入り口を見る。
扉がなくなり、黒い空間がぽっかりと口を開けているようだ。
だが。
その屋上の出入り口から、気味の悪い空気が漂って来ているのを、香川浩介と李宗民は感じていた。
その黒い空間から。
にゅっと。
大きな掌が出て来る。
次に頭部が。
両眼は白目を剥き、口を大きく開けて唸り声を上げている。
銀色の長い髪は後頭部で束ねてあったのだが、それも解けてしまい、バサバサに乱れて広がっている。
まさしく、銀髪の獅子である。
「グルルッ・・・」
戸倉一心の唸り声が、屋上に響き渡る。
香川浩介は、スクッと立ち上がった。
「どうする気ダ・・・?」
李宗民が香川に尋ねる。
「やるしかねぇ~。このままじゃ俺達二人共~殺されるぜ~」
香川浩介は戸倉一心のいる方向に体を向けた。
(くそっ~!勝てる気がしねぇ~。だが~あの人を止めるには~やるしかねぇ~)
香川はゴクリと唾を飲む。
背中には気持ちの悪い冷や汗が流れ出ている。
「そうだナ・・・。ただ単に・・・やられるわけにはイカナイネ」
李宗民はボロボロの体を動かすと、ゆっくりと立ち上がった。
「お、お前~・・・」
香川浩介は、李宗民を驚きの表情で見た。
心身ともにボロボロのはずである。
口と鼻からは血を流し、両腕は骨折。肋骨や内臓も損傷しているにもかかわらず、立ち上がってきたのである。
その精神力たるや、さすがは「中華の至宝」・「レッドドラゴン」と呼ばれるだけのことはある。
「な、なぜ~・・・立ち上がる~?」
香川は李宗民を見た。
「あの男を・・・このままにしておいたら・・・俺の仲間や家族の命が・・・あぶないネ・・・。だから・・・ここで、仕留めるネ・・・」
李宗民は、骨折している両腕を顔の前に出して構える。
「さすがは~レッドドラゴン~。男前じゃねぇ~か~」
香川浩介はニチャリと長い舌を出した。
「フッ・・・。こんな状況じゃ・・・笑えませんヨ」
李宗民はニコリと笑うと、戸倉一心の姿を見た。
戸倉一心は、ゆっくりと屋上の出入り口を乗り越えると、空を見上げた。
そして。
ゆっくりと頭部を下ろしてくる。
その視界に。
二つの動く物体を見付けたようである
唸り声を上げる。
その瞬間。
地面を蹴った。
砂ぼこりがブワッと上がり。
戸倉一心の全身が躍動する。
野生の獅子が全力で走る様に、香川浩介と李宗民に狙いを定めて突進してくる。
「来るぞぉ~!」
「来るネ!」
香川浩介と李宗民が同時に叫ぶ。
戸倉一心は、体を斜めに傾けると、そのまま二人の目の前に近付く。
香川は、その位置を確認すると、すばやく右拳を放つ。
「・・・・・?!」
だが。
その攻撃は空を切った。
戸倉一心は、全速力で突進したにも関わらず、二人の前でピタリと急停止したのである。
そして、その攻撃を避けて、タイミングをずらした。
次の瞬間。
戸倉一心の体がスローモーションの如く動く。
ドパアァーーーン!
「がは・・あっ・・・!」
香川浩介の体が九の字に曲がる。
両足は地面から三十センチ程浮いている。
なんという衝撃であろうか。
戸倉一心の右拳が、香川の腹部を襲ったのである。
「あ・・・がぁ・・・」
(くそっ~!内臓を持っていかれそうだ~・・・)
香川浩介は、崩れ落ちそうになる体をなんとか堪えて、両手を伸ばして戸倉一心の右腕に掴みかかる。
「トエリヤアァーーーッ!」
李宗民は大声を上げると、腰を落として、必殺の右前蹴りを放った。
戸倉一心は、香川の両手から右腕を力で引き抜くと、その反動でぐるんと回転して、裏拳を李宗民の顔面に当てる。
バチイィィーーーン!
「あ・・・グハッ・・・!」
李宗民の頭部が後方に跳ね、体全体が後方宙返りの様に空中で回転したかと思うと、そのまま地面に背中からもんどり打つ。
戸倉一心の動きは止まらない。
李宗民の顔面に裏拳を当てた後。
下半身を跳ね上げると、左足を上空に向けて放った。
バキイィィーーーッ!
「う・・・ぐっ・・・!」
香川の顔面に膝蹴りが突き刺さる。
鼻が折れ曲がり、鮮血がほとばしる。
(勝てるわけがない~・・・)
香川は全身をブルブルと震わせると、膝から地面に倒れ込む。
(戸倉さんに~自我はねぇ~・・・殺される~・・・くそっ!)
すでに地面に倒れている李宗民を見るが、戦闘不能状態である。
「くそっ~・・・」
香川は、両手で自分の腹部を押さえて地面を見た。
黒い影が自分の上空に映り込む。
戸倉一心だ。
(終わったな~・・・)
香川浩介は、両眼をゆっくりと瞑る。
(だが~・・・この人に殺られるなら~本望だ~・・・)
香川はニヤリと笑う。
・・・。
・・・・。
・・・・・。
(ん~?!)
香川浩介は、瞑っていた両眼をゆっくりと開ける。
(どうした~?・・・なぜ~攻撃してこない~?)
香川は、恐る恐る首を上空に上げて、戸倉一心を見上げる。
「・・・・・?!」
香川浩介は、両眼を大きく見開いた。
そこには、確かに戸倉一心がいた。
しかし。
様子がおかしい。
両手で腹部を押さえて、唸っているのだ。
「グウオウゥ・・・!」
息を大きく吸ったかと思うと、体全体を大きく波打たせる。
「ど、どうしたというのだ~?!」
香川は、地面を数歩後退すると、戸倉一心の状態をまじまじと眺めた。
「アグオアァ・・・!」
戸倉一心は頭部を上空に向けると、ピタリと動きを止めた。全身をブルブルと震わせる。
「な、な、なんなのだ~一体~?!」
香川は、すばやく李宗民が倒れている方向に移動する。
「ま、まさか・・・?!」
李宗民が小さい声で話す。
「いったい~どうしたと言うのだ~?!」
香川は不思議そうな表情をして、戸倉一心を凝視する。
「俺の・・・前蹴りが・・・今頃になって効いてきたのダ・・・」
李宗民が深呼吸をして言葉を放つ。
「な、何~?!」
香川浩介は驚きの声を上げた。
だが。
そうなのである!
李宗民が、最初の頃に放ったみぞおちへの前蹴りの効果が、今頃になって現れたのである。普通の人間なら、その前蹴りを喰らった瞬間に効果が現れて、意識を失うか、正気の沙汰ではいられない筈なのだが、戸倉一心の人間離れした肉体は、その効果さえも遅らせたのである。
「グオォウゥ・・・」
戸倉一心の内臓は悲鳴を上げていた。
李宗民の前蹴りの衝撃は、内臓全体に波紋の様に響き渡り、大きな回転と言う捩れを生んでいた。みぞおちから伝わる振動は、胃・脾臓・肝臓・胆嚢・膵臓・大腸・小腸・虫垂など、全ての内臓器官に歪みを与えていたのである。
「オグオオォォーーーー!」
戸倉は、一際大きな声を上げると。
上半身を地面に倒す様に前に傾けた。
そして。
胃液を大量に吐き出したのである。
「どうする~?!今の内に~逃げるか~?!」
香川は李宗民に尋ねる。
「駄目ダ・・・この男をこのままにしておくと・・・俺の仲間や家族が・・・殺される・・・」
李宗民は地面に倒れたまま、静かに言う。
「俺に~倒せって言うのか~?!」
(くそっ~!チャンスなのはわかっているが~また目覚めたらどうするのだ~!)
香川浩介は、下唇を噛んで叫ぶ。
(倒すしかないのか~?戸倉さんを~?!)
香川はゴクリと鼻腔から流れ出て来る赤い血を飲み込む。
「ま、待て・・・。何か様子がおかしいゾ・・・?」
李宗民は、戸倉一心を凝視しながら言った。
香川も慌てて戸倉一心を見る。
胃液を全て吐き出した戸倉一心。
背中で大きく息をする。
「ごほっ・・・!ごほっ・・・!」
大きな咳をしたかと思うと。
上半身をゆっくりと起き上がらせる。
そして。
香川浩介と李宗民の方向に顔を向けた。
「あ~!」
香川は声を上げる。
戸倉一心の両眼は光を宿しており、先程までの恐ろしい殺気が嘘の様に消えている。
「うごっ・・・!これは・・・どうしたことですか?」
戸倉一心は腹部を両手で押さえながら、地面に尻から座り込んだ。
意識を取り戻した瞬間、とてつもない腹部の痛みが襲っていたのである。
「と~戸倉さん!正気に戻ったのですか~?!」
香川は、ふらつく足取りで戸倉の前に行くと、両肩に手を置いて揺さぶった。
「香川君・・・痛いですよ・・・」
戸倉はニコリと笑みを返す。
香川は、安心して気が抜けたのか、その場でストンと座り込む。
「負けたネ・・・」
(世の中には・・・まだまだ自分より強い人間がいるネ・・・)
李宗民は、持ち上げていた頭部を地面に下ろすと、大きな溜め息を吐いて、空を眺めた。
屋上の地面から見上げる空は、とてつもなく広かった。
(自分も・・・まだまだ未熟だったと言うことだネ・・・)
李宗民は両眼を閉じると、フフフと笑った。
負けたのに、悔しさは無かった。
いや。
あれほどの力の差を見せ付けられたら、笑うしかないのだ。
そして。
李宗民は思った。
俺はまだまだ強くなれる、と。
香川浩介は、戸倉一心の身に起こった、先程の一部始終を事細かに説明する。
「なるほど・・・そうですか」
(ついに・・・私の心に巣喰う悪魔が解放されたのですね・・・)
戸倉一心は両拳を強く握った。
四十年間、自分の意志で縛り付けていた悪魔を解放できた喜び。
だが、それとは反面に、その悪魔を制御できなかった自分自身に怒りを覚えていた。
(しかし・・・なんということですか・・・)
(初めて自分の本当の力を解放したのに・・・自我を保てなかったとは・・・)
今回はたまたま、李宗民の攻撃が功を無し、なんとか正気を取り戻すことができたが、できなければどうなっていたのだろうか。
ギチッ。
心に巣食う悪魔を縛り付けている鎖が鳴る。
ギチッ。
この悪魔を制御することができるのか?
ギチッ。
いや、制御しなくてはなるまい。
自我を失ったままの本当の力など、自分自身の本当の力ではないからだ。
ギチッ。
次こそは、自我を保ってみせよう。
戸倉一心は心に誓った。
「さぁ、行きましょうか」
戸倉一心は、ゆっくりと立ち上がると、屋上の出入り口に向かって歩き出した。香川浩介も、その後に付いて行く。
屋上の地面には、戸倉一心がかけていた金色のメガネが、眩しい太陽の光を浴びて、キラキラと輝いていた。
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