第40話  心に巣喰う悪魔

一人は、李宗民リ・ジョンミン

またの名を、「中華ちゅうか至宝しほう」「蹴撃しゅうげきあかオオカミ」と言う。

身長・百八十六センチ。

体重・九十キロ。

齢・二十五歳。

もう一人は、戸倉一心とくらいっしん

またの名を、「暴力ぼうりょく絶対者ぜったいしゃ」「ゴッドハンド戸倉」と言う。

身長百七十六センチ。

体重百キロ。

齢、四十歳。

どちらも、人間の常識を超えた化け物であることは間違いない。

その化け物同士が、今からこの場所で死闘を繰り広げるのである。

(最高だ~!こんな闘いを見るチャンスなんて~滅多にないぞ~)

香川浩介は、長い舌をチロリと出した。

内臓へのダメージがまだあるのか、吐き気が数分ごとに襲ってきている。

李宗民は、すでに体を半身にして腰を落とし、左足を前に出して構えている。

戸倉一心は、両腕を顔の横に持っていくと、じりじりと腰を落とした。

屋上には、生ぬるい風が吹いていたが、二人の熱気がそれすらも感じさせない。

「ホオォーーーッ!」

李宗民は、怪鳥の如く雄叫びを上げると、摺り足で前に出る。

その速さは、人間の業を超えていた。

戸倉は、両腕を交差した。

バシイィィーーーン!

李宗民の前蹴りが両腕にぶち当たる。

「くっ・・・!」

戸倉は、あまりの激痛に声を漏らした。

それはそうであろう。

李宗民の前蹴りは、普通の前蹴りとは違うのである。

足の指で拳を作り放つ、異形の前蹴りなのだ。

その破壊力や打撃力は通常の前蹴りの数倍で、一般の人間が安易に防ごうものなら、骨を折られても不思議ではないのである。

(これは、強烈ですね・・・)

戸倉は両腕の痛みを逃す様に、腕を大きく振った。

李宗民の動きは止まらない。

「ホアァーーーッ!」

左右の蹴りを容赦なく打ち込んでいく。

バチイィィーーーン!

ビタアァァーーーン!

戸倉は、その蹴りを左右の掌で防御すると、後方に飛んだ。

「逃がさないネ!」

李宗民は、同じ様に前方に摺り足で進むと、怒涛の如く蹴りを放つ。

左右の足がムチの様にしなり、縦横無尽に戸倉の体を襲う。

バチイィーーーン!

ビシイィーーーッ!

李宗民の体が左右に揺れながら、戸倉の体を包み込み様に動く。

「こいつ~化け物かぁ~?!」

香川浩介は、身を乗り出して李宗民の動きに驚愕した。

微塵の無駄もない攻撃スタイル。

さすがは、「中国の至宝」と恐れられている怪物である。

(こんな男が~まだ世の中にいたのか~?!だが~西牙丈一郎とは~また種類が違うぞ~)

香川浩介は、頭の中で西牙丈一郎と闘った日のことを思い出していた。

李宗民と西牙丈一郎。

あきらかに、種類が違う。

何が違うのか?

根本的に違うのは、闘い方であろう。

武術を基本に、自己流で練り上げた格闘術を使用しているのが李宗民ならば、西牙丈一郎は人を壊すこと・殺すことを基本とした殺人術を使用していることではなかろうか。

そして。

香川浩介が感じた、一番違う所は。

その禍々しさである。

いや、危なさではなかろうか。

李宗民の強さは、西牙丈一郎にも十分引けを取らないであろう。

だが。

西牙丈一郎の様な禍々しさが一切感じられないのだ。

どんな手を使っても相手を壊す・潰す・殺すと言う様な信念は、体全体から感じられるのだが、その心底にある部分に置いては、西牙丈一郎の方が数倍危険であり、禍々しいモノを感じずにはいられないのだ。

(強さは~李宗民も西牙丈一郎も互角か~)

香川浩介は、首を横に振った。

(いや~西牙は俺と闘った時~本気ではなかったはず~)

香川は、両拳をぎりりっと力強く握った。

(俺は~あいつに負けたことで~さらに強くなれることを知ったのだ~)

香川は唇の端を噛んだ。

ギリギリ・・・。

と、異様な音が屋上に鳴り響いた。

「・・・?」

李宗民は、左右の足蹴りを数十発程放ちながら、異様な音を感じ取った。

ギリギリ・・・。

(この音はなんだネ?)

李宗民は、両腕で亀の様に自分の体を防御している戸倉一心を見た。

ギリギリ・・・。

(この男から鳴り響いているノカ?)

李宗民は戸倉を凝視する。

ギリギリッ・・・。

「いきなり・・・暴走モードですか~戸倉さん!」

香川は腕を組みながら興奮して叫ぶ。

ギリギリ・・・。

あまりにも異様な音。

それは、戸倉一心の歯軋りの音であった。

この歯軋りが出たと言うことは、戸倉一心が暴走モードに突入したことになる。

戸倉一心の暴走モードとは、エンドルフィンと言う脳内麻薬を自分自身でコントロールして、体内に分泌させる行為なのである。

エンドルフィンとは、脳内で機能する神経伝達物質であり、モルヒネ同様の作用を示すことができる。基本的には、ランナーズハイや性行為などの時に多く分泌され、鎮痛剤の役割も担っている。

そして。

戸倉一心の凄い所は、その状態を自分自身のコントロールで、自由自在に引き出すことができる所にあるのだ。

「おどれ、何を調子に乗っとるんじゃい?」

いかつい関西弁が、戸倉一心の口から吐き出される。

「何・・・?」

李宗民は、戸倉一心の異様な姿に目を見張った。

両眼は大きく見開き、眉間には縦に皺が数本出ている。眉は大きく吊り上り、顔色は少し高揚している。

そして。

戸倉は、右手の掌を大きく振り下ろした。

ぶおぉーーーっ!

李宗民は大きく体を動かすと、後方に飛んだ。

(なんという剛腕ダ!あんなのを喰らったら、それで終わりだネ!)

李宗民は地面に両足を着けると、すばやく構えた。

「ぶっ殺したるさかいのぉー」

戸倉は両腕を顔の横に持ってくると、じりじりと李宗民に近付く。

その威圧力は半端ではない。

(なんダ?コイツは!いきなり表情と雰囲気が豹変したゾ)

李宗民は摺足で前に進むと、戸倉の体に向かって左右の蹴りを放つ。

だが。

戸倉は右手の掌でその蹴り足を捕まえた。

「・・・・・?!」

李宗民は、戸倉一心の掌を見る。

大きな掌だ。

大人の掌の二倍はあるだろうか。

そして。

ぐいっと引き込むと。

左腕を大きく振った。

「・・・・・?!」

李宗民は、その引き込まれる力に驚愕した。

両腕ですばやく頭部をガードする。

ばちいぃーーーん!

戸倉一心の左手の掌底が、李宗民の顔面を襲った。

両腕でガードしていた為に直撃は免れたが、後方に四メートル程吹き飛んだ。

「グッ・・・!」

李宗民は両腕を広げて、前を見る。

視界には、戸倉一心の姿がない。

「チッ!」

慌てて、空中に飛ぶ。

その瞬間には、戸倉の左手が空を切っている。

李宗民が空中に飛び上がっていなければ、横腹に怪物的掌底を喰らって、もんどり打っていたかもしれないのだ。

「ホオォーーーーーッ!」

李宗民は空中で一回転すると、戸倉の髪を掴んだ。

左右で。

手ではない。

指でもない。

いや、指は指でも足の指でだ。

なんという足の指の力。

そのまま、自分の体を引き付ける。

その揚力を使って、空中で渾身の右拳を放つ。

ゴキキイィーーーツ!

戸倉の左頬に李宗民の右拳が減り込んだ。

「おどれ・・・?!」

戸倉は両手で李宗民の両足を掴もうとしたが、その時には李宗民の体は後方に跳ねていた。

戸倉の体が三メートル程後方に追いやられる。

唇の左端からは、真っ赤な血がしたたり落ちていく。

「やってくれるのぉ・・・、おどれは」

戸倉一心は、左手で唇の拭うと両眼を大きく見開いた。

李宗民はすばやく半身になって構える。

「本番はこれからだネ」

李宗民は、素足のまま摺り足で前進すると、体をぐるんと回転させた。

「ぬ・・・?!」

戸倉はその動きを両眼でしっかりと追う。

同じ様に体を回転させて、腕を振る。

李宗民の蹴りと、戸倉一心の掌底が交差する。

バシイィーーーン!

大きな爆音が響き、眩しい程の光が放たれる。

(こいつは~まさしく~怪物同士の闘いだ~!)

香川浩介は、太い腕を胸の前で組みながら、長い舌をチロリと出した。二人の熱い闘いを見て興奮しているのである。

李宗民は、体を回転させながら戸倉の周りをグルッと回りながら、左右の裏拳を放つ。

バシイィーーーッ!

バチイィーーーン!

その速さは、尋常ではない。

いや、その速さこそ、李宗民を「中華の至宝」と言わしめるに相応しい誉め言葉ではなかろうか。

ビシィィィーーーッ!

バチイィィーーーッ!

戸倉一心の体を囲う様に、李宗民は自分の体を回転させる。

ビシィィーーーッ!

パアァァーーーン!

李宗民の容赦のない左右の裏拳が、散弾銃の如く浴びせられる。

「チッ!」

戸倉も左右の掌底で反撃するが、すでに遅し。

攻撃をした時には、その場所にはすでに李宗民はおらず、戸倉の背後辺りに移動して、左右の裏拳を放っているのだ。

(怪物だ~あいつも~まさしく怪物~!あのスピードは~西牙丈一郎以上だぞ~)

香川浩介は、闘いたくてウズウズしている。

バシイィィーーーン!

バチイィィーーーン!

李宗民の動きは、さらに速さを増していく。

一瞬。

李宗民の動きが止まった。

どごおぉーーーん!

李宗民と戸倉一心の空間に、爆音が響いたかと思うと。

「ガハッ・・・!」

李宗民の体が宙に浮く。

(な?なんだ?この衝撃ハ?!)

李宗民は慌てて、自分の腹部を確認する。

そこには、戸倉一心の大きな左拳があり、李宗民の腹部に深々と埋まっている。

(拳だと?掌底ではないのカ?!)

李宗民は衝撃を最小限に抑える為に、後方に飛ぶ。

だが。

戸倉一心は、その隙を見逃さない。

ぎちぎちっと、大きな右拳を握ると、李宗民に向かって放った。

「クッ・・・!」

李宗民は両腕を交差して、その攻撃を防御する。

大きな衝撃音と共に李宗民の体は吹き飛び、屋上の隅のフェンスに背中からもんどり打つ。

(なんと言う衝撃ダ・・・)

李宗民は、大きな丸太で力一杯殴られた様な衝撃を受けた。

(ば・・・化け物カ?!)

体が崩れ落ち、地面に両足が着こうとする。

「・・・?!」

李宗民の細い両眼が大きく見開いた。

なんと。

目の前に、戸倉一心が立っているからだ。

そして。

李宗民の両足が屋上の地面に着く寸前に。

戸倉の左拳が李宗民の横腹に突き刺さる。

その速度と威力は凄まじく、屋上の空気が震える程だ。

どごおおぉぉーーーん!

「ガハッ・・・!」

李宗民の体が宙に浮き、屋上のフェンスに絡まる様にぶち当たる。

バキバキバキバキッ!

フェンスが軋み、大きく形を変える。

「ひゃっはっはっ~!戸倉さんが~拳を握ったぜぇ~!」

香川浩介は叫んだ。

弟子の香川でさえ、戸倉一心が拳を握る姿など滅多にお目にかかれないのである。

それも、今回は利き手の右拳を握っているのだ。左拳を握ることでさえ珍しいのに、利き手の右拳を握っているのである。

だが。

これは違う意味。

戸倉一心は、李宗民の強さを認めたことになる。

李宗民を倒すには、自分の右拳を握らなければいけない程の相手だと、評価していることにもなりうるのだ。

「戸倉さんの~暴力が~堪能できるぜ~!」

香川は両眼を輝かせて戸倉一心を見る。

「おどれ、ぶち殺したるわ!」

戸倉は李宗民を見上げる。

フェンスに体ごと減り込んでいる李宗民。

戸倉は、右拳をぎちぎちっと力強く握った。

そして。

発射!

戸倉一心の右拳が火を吹く。

どぐおぉぉーーーん!

「グホ・・ッ・・・!」

李宗民は腹部に信じられない程の衝撃を感じる。

体は空中に浮き、ぐちゃぐちゃに破壊されたフェンスにバウンドすると、そのまま空中に再度舞い上がる。

さらに、戸倉の左拳が火を吹く。

めきめきめきいぃーーーっ!

「ガハ・・・ッ・・!」

(クッ!肋骨をやったカ?!)

空中に浮いている李宗民の横腹に、戸倉の左拳が突き刺さる。

李宗民の体が横に九の字に曲がり、横にあるフェンスにぶち当たる。フェンスは大きな衝撃を受け、形を変える。

戸倉の攻撃はそれでも止まない。

ずずっと動くと。

右拳をぎちぎちっと握る。

李宗民の体が、フェンスから零れ落ちる様に地面に倒れ込む。

その瞬間。

李宗民は顔を上げた。

細い両眼は大きく見開き血走っている。

両頬は大きく膨らみ、顔は紅潮している。

そして。

「ブブウゥーーーッ!」

李宗民は口内から赤い鮮血を霧状に吹き出した。

「何・・・?!」

戸倉一心は、顔面に赤い血を吹き付けられて、一瞬目の前が真っ暗になる。

李宗民は地面に両足を着けると。

戸倉一心に近付き、力一杯の左拳を地面から走らせた。

ガチイィィーーーン!

戸倉の顎に李宗民の左拳がぶち当たる。

「グッ・・・!?」

戸倉の体が震え、宙に五センチ程浮く。

金縁の眼鏡は空中を飛び、屋上の地面に音を立てて転がり落ちる。

李宗民は体を半回転させると、後ろ回し蹴りを飛ばす。

空中に浮いた戸倉は、両腕でその攻撃を防御するが。

その衝撃を全部逃がすことはできない。

ドゴオォーーーン!

戸倉は両腕に痛みを感じながら、地面に滑る様に降り立った。

「おどれ・・・」

戸倉一心は李宗民を見る。

顔面に吹き付けられた赤い血を両手で拭き取り、視界を鮮明にする。

「あんた・・・まさしく怪物ネ」

李宗民も戸倉一心を見る。

腹部に痛みがあったが、今はそんなことを言っている場合ではない。

屋上に生ぬるい風が吹き付ける。

二人の怪物は、その場から動かない。

構えているわけでもなく、ただ、お互いを睨んでいるのだ。


(おどれ、最高じゃ・・・。おどれなら、俺の心に巣食う悪魔を解放できるやもしれぬ・・・)

戸倉一心は、小さく息を吐いた。

ギチッ。

心を縛り付けている鎖が異様な音を鳴らす。

その鎖は、戸倉の心を何重にも縛り付けていた。

ギチッ。

何時からだろうか?

心に巣食う悪魔を鎖で縛ったのは?

戸倉は一瞬目を瞑った。

ギチッ。

生まれた時からではなかったであろうか?

自分で自分の強さが怖くなり、心に巣食う悪魔を何重もの鎖で、自ら縛り付けたのだ。

ギチッ。

心に巣食う悪魔を解放することは?

それは、自分自身の本当の力を吐き出すこと。

だが、それは到底叶わないことなのだ。

ギチッ。

なぜなら、本気でやれば相手は簡単に死に息絶える。

俺が本気で闘える日は来るのか?

俺を本気にさせてくれる人間は現れるのか?

戸倉一心の人生四十年間は、そんな模索の日々だったのだ。

ギチッ。

本気で闘いたい。

自分自身を全て解放したい。

ギチッ。

その様な相手を探して、今まで生きてきたのだ。

だが、出会えなかった。

俺の心に巣食う悪魔を解放して、対等に闘える人間には、今だかつて出会えていないのである。

(李宗民、おどれは・・・俺の悪魔を解放させてくれるのか?!)

戸倉一心は、両眼をカッと見開いた。

心を縛り付けている何重もの鎖が、今にもはち切れんばかりに、ギチッギチッと音をたてている。

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