第39話  足拳

1階のフロアに降り立った男には、微塵の隙もない。

身長・百八十六センチ。

体重・九十キロ。

年齢は、二十代中頃であろうか。

服装は、ブルース・リーが映画で着用していた様な黒色のカンフー服を、綺麗に着こなしている。

顔の輪郭は細長くて、目も細い。

鼻筋は綺麗に整っていて、唇はやや厚みがある。

髪は、左右を短く刈り上げてはいるが、中央部分は長く後方へと流れ、後頭部の襟髪は三つ編みに編まれていた。

そう。

その男こそ、李宗民リ・ジョンミンである。

中国裏社会組織「赤龍」の三代目リーダーであり、「中華の至宝」「蹴撃の紅き狼」と言わしめる程の伝説の男なのだ。

「これは・・・どういうことデスカ?」

李宗民が静かな声で問いかける。

一階の飲食店内を軽く見渡して、状況を一瞬で判断した様だ。

そして。

刺青の男の無残な姿を見た瞬間。

李宗民は動いていた。

すすっと、両足を床に滑らせると。

そのまま、体を斜めに傾けて右拳を直角に走らせる。

「なんだ~?お前は~?」

香川浩介は、刺青の男から離れて立ち上がると、李宗民に向かって正面を向いた。

その瞬間。

李宗民の縦拳が、香川浩介の腹部に減り込んだ。

ドゴオォォーーーーーン!

「あが・・・あぐっ・・・」

香川浩介の体が九の字に曲がったかと思うと、体ごと吹き飛んだ。

その勢いは凄まじく、飲食店の入口扉を突き破って、体ごと外に吹き飛んでいく。

李宗民は、ゆっくりと刺青の男の下に寄ると、何やら声をかけている。

「大丈夫カ?」

李宗民は、刺青の男の無残な両腕を見た。

そして、下唇を噛んだ。

「スミマセン・・・李兄・・・」

刺青の男は泣きながら答えた。

「もう、しゃべるナ・・・。あとは、俺がやるネ」

李宗民は、腰を抜かしている赤龍のメンバー二人に、刺青の男を裏口から運ぶように指示を出した。負傷している残りのメンバー三人も、同じ様にフラフラと裏口から逃げる様に出て行く。

李宗民はゆっくりと立ち上がった。

「お前達・・・死んだネ」

李宗民の細い目は大きく見開き、怒りで全身がワナワナと震えている。

その目線の先には、戸倉一心がいた。

「殺すぞ~お前~」

飲食店の外から、香川浩介の大声が聞こえる。

店から吹き飛ばされて道路に倒れたにも関わらず、自力で立ち上がり歩を進めているのだ。

普通の人間なら内臓破裂で即死か、のたうち回って失神しているのが通常であろう。

だが、香川浩介も普通の人間ではないのである。

そのまま、飲食店の入り口まで来ると、柱に右手を掛けて店内に入る。

李宗民は、両眼を大きく見開いたまま、両足に履いていた靴をその場で脱いだ。

素足である。

香川浩介が一歩前に進む。

李宗民は、すすっと前に摺り足で進むと。

右足の前蹴りを放った。

香川浩介はすばやく両腕でガードする。

だが。

李宗民の前蹴りは、その両腕の隙間を押し広げて、香川浩介の腹部に突き刺さった。

ズバアアァァーーーン!

「がはあぁ~!」

香川は大声を放つと、また飲食店の外に吹き飛ばされて、道路の真ん中にもんどり打つ。

「ば、馬鹿な~!!」

(今のは~普通の前蹴りじゃねぇ~)

香川はフラリと立ち上がると、飲食店の入り口を睨んだ。

二・三歩進んだ所で、香川浩介の腹部に異常が起きた。

いきなり胃腸がぎゅりっと捩れたかと思うと、吐き気が一気に襲ってきたのである。あまりの強烈な衝撃に内臓が悲鳴を上げたのであろう。

「おぐえっ~おげえぇ~!!」

香川は、その場で胃液を吐き出した。

(なんという衝撃~こいつ~化け物か~)

香川浩介は、李宗民の前蹴りが普通ではないことを瞬時に悟っていた。

それは、戸倉一心もである。

普通の前蹴りとは、指の付け根部分を相手の体に押し当てることを言うのだが、李宗民の前蹴りは完全にそれとは掛け離れていた。

李宗民の前蹴りは、足の指を内側にぎゅっと丸め込み、掌で拳を作る様にして、放つ異形の前蹴りなのである。

足で拳を作る。

「足拳」

まさしく、そうである。

李宗民は、足で拳を作れるのである。

腕で攻撃するよりも、足で攻撃する方が断然に威力があるのは承知の通りであるが、その攻撃が拳の如く強度があればどうなるのか?

威力や破壊力は、普通の足技の数倍。

どんな防御であろうと、それを突き破り破壊して、相手を死に至らしめることは容易であろう。

「この野郎~殺してやる~!」

香川は、口から胃液を垂らしながら、じりじりと歩を進める。その足取りは重く、全身が痺れた様に震えている。

しかし、香川浩介は前進する。

そして、歩をゆっくり進めて飲食店の入り口まで来ると、両手を顔の前に出して構える。顔色は蒼白で、とても闘えそうにない程である。

「ぶち殺してやるぜ~この野郎~」

香川浩介が、威勢よくそう言い放った時。

戸倉一心が、香川の左肩に手を置いた。

「李宗民さんは、私の相手ですよ」

戸倉一心は、入り口付近のテーブルに腰掛けていたらしく、立ち上がって香川浩介の横に並んだ。

「しかし~」

香川が隣にいる戸倉一心を見る。

「もう一度言いますよ。李宗民さんは私の相手ですよ」

戸倉一心は、香川浩介を見て言った。

口調は敬語で優しいのだが、有無を言わせぬ迫力がある。

金縁メガネの奥で光る両眼はギラギラと輝いており、香川浩介は全身に冷たい悪寒を感じた。

「あ・・・はい・・・」

香川は、自分の口から勝手に言葉が出ていることを感じた。

圧倒的な威圧力。

香川浩介の本能が、それを瞬時に悟ったのである。

「お前達は、二人共ここで死ぬネ。俺の家族に手を出した奴らは生きては返さないゾ」

李宗民は、戸倉一心を睨む。

その頃には、ビルの入り口付近には、「赤龍」のメンバーらしき人間が数十人程集まっていた。全員が殺気立ち、手には刃物を持っている。

「それはそれは」

戸倉一心は香川浩介の前に出ると、上着のスーツを脱いだ。黒いシャツの袖をゆっくりと捲り、赤色のネクタイを剥ぎ取った。

李宗民は、入り口付近にいる仲間達を見ると、首を横に振った。

お前達は手を出すなと言う合図である。

「付いて来い」

李宗民はそう言うと、店内の奥にある階段に向かう。その階段は李宗民が一階に降りてきた時に使用したモノで、二階へ向かっている。

戸倉一心と香川浩介も、その後に付いて登って行く。

鉄製の階段は急勾配なのか、両サイドに手すりがあった。

一階から二階へ。

二階の踊り場を超えて。

二階から三階へ。

李宗民は、素足で階段を静かに登って行く。

三階から四階へ。

戸倉一心と香川浩介も、黙って階段を登る。

四階から五階へ。

五階の小さな踊り場に着いた李宗民は、鉄製の古い扉に手を掛けて、力強く押した。

ギギッ。

と、重い音を鳴らして扉が開く。

そこには、その建物の広い屋上が広がっていた。

コンクリートで敷き詰められた広い空間。

縦横の長さは、各三十メートルはあるだろうか。

屋上を取り囲む様に緑色のフェンスが一面に張り巡らされていたが、かなり古いのか茶色く変色していた。屋上の一角には、大きな水槽タンクが備え付けられている。

「ここが、お前達の墓場ダネ」

李宗民はクルリと振り返ると、戸倉と香川を見た。

「いいですね」

ずいっ、と戸倉が前に出る。

(まだ~内臓が疼きやがるぜ~この野郎が~)

香川は、屋上の出入り口扉を背に、腕を組んで二人の男を交互に見た。

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