第37話 男の約束
そして。
西牙丈一郎は、過去の出来事を語り出した。
ゆっくりと。
静かに。
この世に生まれた瞬間に捨てられ。
拾われた人間からの地獄の様な猛特訓。
十二歳にして戦場に捨てられ。
初めての戦場で人を殺したこと。
数百の戦場で戦い抜き。
数千人の人間を殺してきたこと。
仲間や友達などほとんど存在しない世界、なぜなら一秒後には裏切られ、簡単に金で人を売る世界で生きてきたのである。
十年以上もだ。
西牙丈一郎の話が静かに終わる。
建設中の駐車場に、冷たい空気が流れる。
「ば、馬鹿な・・・、有りえぬわ・・・」
郷田梅雲は、首を横に振った。
(そんなこと・・・あるわけがない・・・。十二歳で戦場だと?人を殺しただと?有りえぬぞ・・・)
背筋に冷たい悪寒を感じた。
裏社会で生きてきて十数年、背中に冷たい悪寒を感じたことなど、数回しかないのだ。
「ククク、どうした?驚いたか?」
西牙は首を左右に振った。
ボキボキと、気持ちのいい音が鳴る。
「まぁ、驚くのも無理はない。この平和な日本で生きていれば、俺の話など嘘にしか聞こえぬだろうがな」
西牙はニヤリと笑った。
「有りえぬ・・・そんなことが・・・」
郷田は、まだ西牙の話を現実で受け止め切れていないようである。
「ククク、だからお前達が俺に勝つことは有りえぬのだ。生きてきた世界や覚悟が違うからな!食べたい時に飯を食い!眠りたい時に寝る!金を出せばほとんどの願いが叶えられる!この甘い世界にいるお前達に!俺が倒せると思うのか!」
西牙丈一郎は大声で叫ぶと、歩を前に進めた。
「くっ!」
(だから、裏社会の情報網に引っかからなかったのか?!)
郷田梅雲は気を引き締め、同じ様に前進する。
バチイィーーーン!
郷田の左足に激痛が走る。大きな丸太で叩かれたような衝撃である。
「壊してやるよ、おっさん」
西牙はニヤリと笑うと、蹴り足の右足をすばやく戻す。
「ふん!」
郷田も負けてはいない。
大きく右腕を振りかざす。
西牙丈一郎は、その攻撃よりも速く動くと。
さらに右足を走らせる。
バチイィィーーーン!
「ぐっ・・・!」
郷田は左足の痛みに声を上げた。
(こいつ・・・的確にワシの左足、いや左膝を狙ってやがるわい)
格闘技において、体重差のある相手を倒すにはどうすればいいのか?
基本的には、二通りの倒し方があげられる。
一つ目は、体重差の関係がない関節技である。
人間にはどれだけ鍛えても鍛えられない部分があり、それが関節であり、靭帯であり、神経なのである。関節技を使えば、体重の軽い人間であっても、体重の重い人間を簡単に負かすことができるのである。
二つ目は、弱点を狙った打撃による攻撃だ。
体重の重い人間や大きな体の人間に有効なのが、その体重を支えている足への攻撃である。特に負担の掛かっている膝や足首への攻撃は大きなダメージを与えることができるのだ。さらには、顎への攻撃などもかなり有効である。顎は人体の中では、なかなか鍛えることができない部分であり急所の一つである。そこを攻撃することで相手の脳を揺らして、脳震盪や失神にまで追い込むことが出来るからだ。
郷田は、左足への攻撃を避ける為に右に動く。
「ククク、いいねぇ」
西牙はその動きを察知したかのように、左側に回り左足を放つ。
バチイィーーーン!
今度は、郷田の右足に激痛が走る。
(両膝狙いか?!)
郷田は左拳を力強く握ると、西牙の顔面に向かって飛ばす。
それと同時に。
西牙は、左右の蹴りを交互に飛ばしている。
郷田の左拳が西牙の顔面にぶち当たる。
しかし。
西牙丈一郎は一歩も引かない。
左右の蹴りを、郷田の両膝目掛けてぶち込んでいく。
打撃の衝撃音と空気を切り裂く音が、いたる所で鳴り響く。
「まさしく・・・怪物。恐れ入ったわい」
郷田梅雲は、言葉を発すると西牙を睨む。
顔面は血に塗れ、鼻も曲がっている。両腕も数カ所切れており、両膝は打撲の為か赤く腫れ上がっている。
「ククク、ここまで楽しませてくれるとはうれしいねぇ」
西牙丈一郎は、ニチャリと笑う。
同じく顔面は血に塗れているが、打撃の後遺症はなくかなり綺麗である。どうやら、額が切れているのか、そこからの出血がひどいようである。
西牙の攻撃は終わらない。
左右の下段蹴りを、前進しながら次々に打ち込んでいく。
バチチイイィィーーン!
ドバアアァァーーーン!
「くっ・・・!」
郷田はその下段蹴りを両膝に喰らいながらも、左右の拳を飛ばす。
だが。
西牙丈一郎は、郷田の拳を紙一重で避ける。
その動きは滑らかであり、野生の肉食動物の様である。
次々と打ち込まれる下段蹴り。
バチチイイィィーーン!
ドバアアァァーーーン!
「ぬうっ!」
(やりおるわい・・・。このままでは膝が持たぬわ・・・)
郷田はそれでも引き下がらない。
左右の拳をぶんぶんと振り回す。
二人の間には異様な空間が出来ていた。
誰一人として近付けない空間であり、万が一そこに誰かが入ろうものなら、二人の攻撃を喰らって、ミンチの様に弾き出されるであろう。
郷田は、後方にすばやく飛ぶと。
大きく息を吸った。
空気中の酸素を全て吸うかの如くだ。
すううううつっーーーっ。
郷田梅雲の腹部はボッコリとへこみ、胸の厚みが通常の二倍程に膨れ上がる。
ピタリと動きを止めると。
一気に息を吐いた。
「うおおおおおぉぉぉぉぉっ!」
腹の底から響き渡る様な大声。
その声は、空気中を振動させる。
「チッ!」
西牙丈一郎は鼓膜に強烈な振動を感じて、すばやく両手で両耳を塞いだが、すでに遅かった。
三半規管を大音量で震わされたらしく、聴覚が瞬時に麻痺をする。
その時には、郷田の姿は西牙の目の前にあった。
大きく振り上げた右拳が西牙の頭部を襲う。
両手で両耳を塞いだ直後なので、反応が遅れる。
その右拳を喰らい、西牙の体は横に三メートル吹き飛んだ。
(このおっさん、まだこんな力を残していたのか?!)
西牙は、両手を両耳から離して構える。
まだ、聴覚は失ったままだ。
時間が経てば正常に戻るであろうが、すぐには無理であろう。
郷田梅雲はその隙を逃さない。
聴覚が無いと言うことは、地面を動く音や攻撃を繰り出す音が相手に聞こえないのである。
絶好のチャンスではないか!
「クッ・・・!」
(動きを視覚で追うしかないのか?!)
西牙丈一郎は左右に揺さぶりを掛ける様に動く。
だが。
郷田の動きは、その上をいっていた。
西牙の腰に両手で飛び付くと、後方に周り込んだ。
「うおりやあぁーーーっ!」
下半身に蓄えていた筋力を一気に放出し、上半身を尋常ではない速度で反り返させる。
ズドオオォォーーーン!
ジャーマン・スープレックスだ。
後方から相手の腰に腕を回し、クラッチしたまま後方に反り投げ、ブリッジをしたまま相手のクラッチを離さずそのまま固めてフォールするプロレスの投げ技・固め技である。
「グハッ・・・!」
西牙丈一郎は、瞬時に両手で後頭部を防御したが、打ち付けられた場所が砂利の地面の為か、口から赤い血を吐いた。
頭部へのダメージ及び、首への圧迫である。
「ふん!」
郷田は西牙の腰に両手を回したまま、体を半回転した。
そして。
そのまま。
西牙丈一郎の後方に周り込み。
太い両足を西牙の胴体に絡ませてフックする。
「これで終わりじゃ」
郷田はそう言うと。
太い両腕で、西牙丈一郎の首を絞めた。
裸絞めである。
裸絞めには基本的に二種類あり、気管を絞めるチョークスリーパーと頸動脈を絞めるスリーパーホールドがある。
郷田梅雲が行った締め技は、頸動脈を絞めるスリーパーホールドである。頸動脈に綺麗に決まれば、どんな相手であろうが約七秒程度で意識を断つことができるのだ。
(終わったわい)
郷田は自分の右腕が、西牙の首にがっちりと決まったのを感じた。
残り六秒。
(しかし・・・ここまでワシを手こずらせるとは・・・)
右腕に力を込めて締め上げる。
西牙は顎を引いて、両手を首の内側に滑り込ませるが、郷田の締め付けが強くてビクともしない。
残り五秒。
「あがいても無駄じゃぞ?」
郷田が勝利を確信した言葉を吐く。
残り四秒。
(こんな怪物が現れるのなら、ワシらの時代もそろそろ終わりかもしれぬのー、一心よ)
郷田はギチギチと西牙の首を絞めながら考え込む。
残り三秒。
(だが、それは今日ではないがのー)
郷田梅雲が静かに両眼を瞑る。
その時。
ぐらり、と。
郷田梅雲の巨体が動いた。
「な、何・・・?!」
郷田は瞑っていた両眼を大きく開いた。
体重が百三十五キロもある郷田梅雲の巨体が、砂利の地面から数センチ程浮いているのだ。
「ば、ば、馬鹿な!」
郷田は右腕にさらなる力を込めて西牙丈一郎の頸動脈を絞め付ける。
西牙丈一郎は、両足に力を込めてゆっくりと起き上がる。
頸動脈を絞められて。
百三十五キロもある人間を背中に抱えながら。
そんなことが有りえるのだろうか?
いや、有りえない!
だが。
現実に起こっているのである!
今、この瞬間に!
「有りえぬぞ!その様なこと!」
郷田は、自分の体がゆっくりと持ち上げられることに驚きを隠せない。
(すでに七秒は経っているはずじゃ?なぜ・・・落ちぬ!?)
右腕に力を込めて確認する。
西牙は、顎を引いて上半身を前方に押し上げる。
ゆっくりと。
ゆっくりと。
「・・・・・」
(コイツは・・・もはや人間ではない!)
郷田梅雲はゴクリと唾を飲んだ。
な。
なんと。
西牙丈一郎は、郷田梅雲を背中に抱えながら地面に立ち上がったのである。
まさしく、怪物である。
それも、自分より遥かに体重の重い人間を背中に抱えながら、頸動脈を絞め付けられながら、の動作なのだ。
西牙は、両手で郷田の左手首を掴んだ。
郷田の右腕は西牙の首に巻き付いていて、その右腕を固定する様に左腕が使われている。その左腕の手首を掴みにかかったのだ。
みちっ。
西牙は、両腕に力込める。
「こ、こ、こいつ・・・?!」
郷田は左手首に痛みが走るのを感じた。
みちちっ。
西牙の両腕に、隆々とした血管が浮き出る。
それ程の力である。
みちっちっ。
「ぐぬっ!」
郷田は自分の左手首が、徐々に曲がっていくのを見る。
(だが!この左手を離すことはできぬ!絶対に!離せば・・・お主を倒すチャンスが消えてしまうからのー!)
郷田は西牙の首をさらに絞め付ける。
みちちちっ。
西牙丈一郎の顔が赤く紅潮する。
みちっみちっ。
郷田の左手首が真横に曲がり始める。
その瞬間。
ぼきききいぃっ!
気味の悪い音が空気中に響き渡った。
「ぬぐっーーー!」
郷田は大声で叫ぶ。
自分の左手首が真横にぐんにゃりと曲がっている。
手首にある骨の、舟状骨と月状骨を壊されたようだ。
舟状骨骨折、及び月状骨骨折。
西牙は、郷田が叫んで一瞬力を緩めた隙を狙って、両手を自分の首と郷田の右腕の隙間に滑り込ませる。
「ちっ!しまったわい!」
郷田は舌打ちをすると、右腕に力を込める。
「もう・・・遅いぞ」
西牙丈一郎は紅潮した顔をさらに赤くして、両手をその隙間に捩じ込んでいく。
両手がある程度入ってしまえば、もうこちらのものである。
「ククク、やってくれたじゃねぇか・・・」
西牙は、ニチャリと笑うと大きく息を吸った。
ひゅーひゅー。
そうなのである。
西牙丈一郎もまた、かなり危険な状態だったのである。
それはそうであろう。
人間が、頸動脈を絞められて、いつまでも意識を保っていられるなど有りえないからだ。
西牙は、両手で郷田の右腕を掴んで前方に押す。
そして。
郷田梅雲を背中に背負ったまま、その場でぐるんと前回転した。
ドスウゥーーーン!
郷田の巨体が背中から地面に打ち付けられる。
西牙はその反動力を使って、首に巻き付いている郷田の右腕から逃れていた。
「くっ・・・!」
郷田梅雲は悔しさを滲ませる。
西牙丈一郎は、その場で体を回転させると、倒れている郷田を見下ろす形で向き合った。両足は腰を落として地面に付けているので、仁王立ちになっている西牙の腰に郷田の両足が組み付いている姿勢である。
「俺をここまで追い込むとは・・・最高じゃねぇか」
西牙はそう言うと。
右拳を上空に高々と上げる。
ぎちぎちっ。
右拳から右腕、右肩から右胸筋に力を蓄える。
ぎちぎちっ。
ピタリと動きが止まった。
ボオォツッ!
風音が鳴り響いたと思った瞬間。
ドゴオオォーーーン!
建設中の駐車場を揺るがす様な爆音。
「ぐはああっ・・・!」
郷田梅雲の体が大きく躍動し、波打つ。
西牙丈一郎の右拳が、郷田梅雲の左胸にずぼりと減り込んでいる。
郷田は、西牙の腰に絡めていた両足を解くと、砂利の地面を蹴って後方に飛ぶ。
「ぐ・・・ぐはっ!」
(ぬうっ!第三肋骨と第四肋骨をやられたか?!)
赤い血を霧状に吐き出す。
地面に両足を降ろす。
心臓に少し痛みを感じたが、両手で構える郷田梅雲。
「ククク、俺を止められるのか?」
西牙は両腕を横に広げると、郷田をじっくりと見た。
その姿は、悪魔の如き禍々しくもあり、神の如く神々しい。
ボサボサの茶髪と顔面は赤い血に染まり、人間離れした肉体は熱と汗で蒸気を発している。数百の傷跡は筋肉の躍動をさらに鮮明に浮き上がらせ、見る者を恐怖に貶めるのだ。
「ワシが・・・ぬかったわい。お主を・・・普通の人間と思い、安心し、油断したことが・・・」
郷田は折れた左手首に目をやると、右手で無理矢理に直角に戻した。
めききっ。
郷田は、表情を変えることなく西牙を見る。
(お主が負けられぬ様に・・・ワシもまた、負けられるのだ)
郷田梅雲はゆらりと前進すると。
右拳を放つ。
「いいねぇ」
西牙丈一郎は白い歯を見せると、ニチャリと笑った。
同じ様に前進して、腰を捻って左拳を握る。
ぎちぎちぎちっ。
全身の骨と筋肉と血液が燃え滾る音が聞こえる。
西牙丈一郎は、郷田の右拳を紙一重で避けると、右足を大きく前に踏み込んだ。
砂利の地面に右足が軽く突き刺さる。
固定された右足から、尋常ではない力が足首から脹脛へ。
脹脛に溜め込まれた力が太腿へと伝わる。
腰の捻りが最終段階に辿り着くまでに、下半身に蓄積された力が上半身へ移動する。
そして。
腰の捻りが終着点を迎えた瞬間。
蓄えられた全ての力が、左拳と共に放出されるのである。
余りの速度の為に、音すらも発しない。
気が付けば。
郷田梅雲は、全身を九の字に曲げて後方に吹き飛んでいた。
「おぐ・・・うごっ!」
(な、な、なんだ・・・?何が・・・起こったのじゃい・・・?)
郷田は激痛の走る自分の胸部をすばやく見る。
右胸が拳の形にへこんでいる。
「がはっ・・・!」
口内から赤い血を吹き出す。
(肋骨が折れて・・・右肺に刺さったか・・・)
郷田は両足に力を込めて、砂利の地面を滑る。
白煙が舞い上がり、郷田の動きが止まる。
「ほう、倒れないのか?やるじゃねぇか・・・おっさん」
西牙丈一郎はニチャリと言う。
「負けるわけにはいかんのじゃい・・・」
郷田は肩で息をしながら、西牙を見る。
その目はまだ光を失ってはいない。
「戸倉一心の為か?」
西牙はゆっくりと腰を落とす。
「そうじゃのー・・・。友の為に命を懸ける馬鹿な人間が一人ぐらいいても・・・面白いじゃろうが・・・」
郷田梅雲はニコリと笑う。
西牙丈一郎は腰を落とした状態で止まる。
「馬鹿なおっさんだな、ククク」
西牙は、砂利の地面を蹴る。
「ふんっ!」
(馬鹿かもしれぬ。だが・・・人間とはそう言う生き物じゃぞ・・・小僧)
郷田梅雲は両手で構えた。
西牙の全身が躍動して、郷田の目前に迫る。
左足を大きく踏み込んで、砂利の地面に突き刺す。
固定された左足から、先程と同じ様にエネルギーが伝わっていく。
足の指から足首へ。
足首から脹脛、太腿、腰へ。
腰の捻りが最終段階に辿り着くまでに、下半身に蓄積された力が上半身へ移動する。
そして。
腰の捻りが、そのエネルギーを上半身へと数倍にして放出する。
上半身に送り込まれたエネルギーは、胸部の筋肉を飲み込み、右肩から右腕へ。
右腕から右手首、右拳へ。
西牙丈一郎の動きが一瞬止まる。
次の瞬間。
大きな光が、郷田梅雲の眼の前で弾けた。
(ば、ば、馬鹿な・・・?!)
郷田は両眼を大きく見開いていた。
西牙の攻撃を見極めようと、両眼を凝らしていたのである。
だが。
それでもなを。
西牙丈一郎の攻撃を見切ることは出来なかったのだ。
それ程のスピードとパワーだったのである。
大きな光が弾けた瞬間。
西牙の右拳が唸りを上げて郷田の胸部に向かって放出された。
そのスピードと破壊力は計り知れない。
郷田は両腕で胸部と顔面を防御していたのだが、西牙の右拳がその防御をも弾き飛ばして捩じ込んできたのである。
郷田の胸部中央に西牙の右拳が突き刺さる。
ずどおおぉぉーーーーーん!
郷田梅雲の巨体が大きく宙に舞う。
身長、百九十二センチメートル。
体重、百三十五キログラム。
その様な巨体が宙に大きく舞い、地面に背中から倒れ込んだ。
「がはあっ・・・!」
体を弓なりに曲げて、郷田は呻く。
西牙丈一郎は、右拳をゆっくりと戻すと、倒れている郷田梅雲に近付いて行く。
「がはっ・・・!ぐはっ・・・!」
郷田梅雲は大きく咳き込むと、再度赤い血を吐いた。
(動けぬ・・・。体がもう・・・動かぬわ・・・)
ゴポゴポッ、と口の端から血を流す。
両腕を地面に投げ出し、大の字になる郷田梅雲。
完全なる敗北である。
「殺せい・・・」
郷田が静かに言う。
その表情は清々しく、一片の曇りもない。
日本裏社会で生きてきて数十年、郷田にとって闘うことは自分の為でもあったが、それ以上に重要なことがあった。
それは、友である戸倉一心と共に、この日本裏社会で生きていくことであったのだ。だが、数年前から戸倉一心の様子が少しずつ変わっていったのである。日本裏社会での地位や名誉を捨ててまで、強い相手を求め始めたのだ。
昔から、強い相手を求めてはいたのだが、ここ最近の渇望振りは異常であった。表の世界の人間であろうが、裏の世界の人間であろうが、手当たり次第である。
戸倉一心が、日本裏社会「暴武」部門の頂点でなければ、何も問題はなかったであろう。
だが、戸倉一心はトップに君臨する男なのだ。
その様な男が自分勝手に行動することは、日本裏社会・執行部にとっては許されない行為なのだ。執行部は、遅かれ早かれ戸倉一心を裏社会から除名するか、この世から消そうとするであろう。
そして、除名になると言うことは、裏社会の人間数千人から、命を狙われることと一緒であるのだ。
郷田梅雲は決意を固めた。
友の戸倉一心と闘い勝利し、自分勝手な行動を諌めるか。
戸倉一心が狙っている西牙丈一郎を倒し、戸倉一心の目的を失くすか。
答えはすぐに出た。
西牙丈一郎を倒し、この世から消すことに決めたのだ。
(じゃが・・・出来なかったわい・・・)
(これで、ワシの役目も終わったと言うことじゃな・・・)
郷田は咳き込むと、仁王立ちしている西牙丈一郎を見上げる。
「早く殺せい・・・」
もう一度言う。
「ククク・・・」
西牙は笑った。
「殺さねぇよ。おっさんには、あの約束を守ってもらわないといけないからな」
西牙はそう言うと、ニチャリと笑う。
「・・・本気なのか?」
郷田は、驚きの表情で聞き返す。
「ククク、本気に決まっているだろうが・・・」
西牙丈一郎は踵を返すと、郷田に背中を向けて歩き出した。
「ふふふ・・・」
郷田は頭部を持ち上げて、西牙の背中を見る。
西牙は、いきなりピタリと歩みを止めた。
顔を少し横に向けて、地面に倒れている郷田を見る。
「他人の為に命を懸けるとは、馬鹿なおっさんだな・・・。だが、そんな人間・・・俺は嫌いじゃないぜ」
西牙丈一郎はそう言うと、ニヤリと口角を上げた。
そして、再度歩みを進めると。
建設中の駐車場から姿を消した。
郷田は頭部を地面に降ろすと、大きな口を開けて笑った。
「がははは!負けたわい・・・」
(よかろう!丈一郎、男同士の約束・・・命を懸けて守ろうぞ!)
郷田梅雲は、砂利の地面に寝転がったまま両眼を瞑った。
そして。
その表情は、なぜか満面の笑顔であった。
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