第32話  中華の至宝

李宗民。

読み名は、リ・ジョンミン。

日本に在住している中国裏社会・最大組織「赤龍せきりゅう」の三代目リーダーであり、その暴力は中国裏社会の中でも三本の指に入る強さで、「中華ちゅうか至宝しほう」・「蹴撃しゅうげきあかオオカミ」と呼ばれている。

身長・百八十六センチ。

体重・九十キロ。

齢・二十五歳。

顔の輪郭は細長くて、目も細い。

鼻筋は綺麗に整っていて、唇はやや厚みがある。

髪は、左右を短く刈り上げてはいるが、中央部分は長く後方へと流れ、後頭部の襟髪は三つ編みに編まれている。

李宗民の名を轟かせたのは、その怪物的な強さであろう。

数年前までは、日本に在住している中国裏社会組織「赤龍」は、一番小さな組織であった。だが、それをこの数年で中国裏社会の最大組織までに押し上げたのである。

その武勇伝は数知れず。

一人で、敵対する中国裏社会グループ「青丹」に殴り込み、三十数人を半殺しにして壊滅させた「青丹壊滅事件」。

「赤龍」の仲間を半殺しにしたギャング集団四十人を、一人で叩きのめして服従させた「ギャング服従伝説」。

ナイトクラブで遭遇した日本のプロボクサー五人を、ボコボコにした武勇伝など、上げればキリがない。

それ程の強さを誇っている怪物なのである。


「李宗民だと・・・?」

清水五郎は足腰がガクガクと震えるのを感じた。

さすがに、その名前は裏社会にいる人間にとっては知らない方がおかしい程である。

李宗民は、マイケル・フォーと郷田梅雲が闘っていた場所辺りまで来ると、立ち止まった。

稲葉剛側と清水五郎側の、ちょうど中間地点である。

「清水さん、今日の所はこれで引き上げてくだサイ」

李宗民は細い目で清水五郎を見る。

「・・・・・」

清水五郎はゴクリと唾を飲んだ

まだ、右手はスーツの中に入っており、拳銃のグリップを握っている。

「稲葉さんもデス」

李宗民は、今度は稲葉剛を細い目で見た。

倉庫内は異様な雰囲気に包まれている。

「な、なぜ、お前に指図されなければいけないのだ?」

清水五郎が声を震わせて言葉を吐いた。

「あなた達が戦争をすると、私達が困るからデス。あなた達が戦争することで、その隙を狙って本土からたくさんの中国組織が乗り込んで来るのデス。それは私達にとっても痛手しかありまセン」

李宗民は自分の理論を説いた。

日本における暴力団組織最大派閥の稲葉会と清水組が戦争を起こせば、とんでもない事態になることは当然である。

お互いがお互いを潰し合う中で、組織全体の弱体化が進み、そこに中国本土からの裏社会組織が金と利権を求めて介入してくることは、誰が考えても当たり前のことである。

そうなると、中国裏社会組織「赤龍」はかなりのダメージを受けることになるのである。新しくやってくる他組織との戦争で、せっかく手にした利権や地位を失うかもしれないのだ。

それはさすがに避けなくてはいけない。

李宗民は、その為に動いたのだ。

「清水さん、ここは私の顔を立てて引いてくだサイ」

李宗民はもう一度、清水五郎を見た。

「それを断ったらどうする?」

清水五郎はスーツの中に入れた右手を動かした。

五秒。

十秒。

少しの沈黙が、倉庫内を蹂躙する。

「拒否するのであれば・・・私がここにいる全員を殺すだけデス」

李宗民は細い目をさらに細くして笑った。

全員を殺すだと?

倉庫内にいる人間全員が唖然とした。

人数にして四十人弱はいるであろう。

清水組の組員が二十人程。

さらに、日本裏社会「暴武」部門のルーキー達が二十人もいるのである。

そして。

日本裏社会「暴武」部門の頂点である男が二人。

「ゴッドハンド戸倉」「暴力の絶対者」こと、戸倉一心。

「クラッシャー郷田」「破壊の帝王」こと、郷田梅雲。

これだけの人間を相手に、簡単に全員を殺すと言えるものであろうか?

いや、常識の判断では無理であろう。

余程の自信があるのか?

それとも、世間知らずなのか?

どちらかであろう。

倉庫内は静まり返ったままである。

その時。

「お前は、俺達を舐めているのか?」

日本裏社会「暴武」部門のルーキーが、二人動いた。

李宗民に向かって歩を進める。

「全員を殺すだと?それは俺達の組織を馬鹿にしているってことだな?」

一人のルーキーはそう言うと。

上半身を大きく揺らして、李宗民の目の前に出た。

その瞬間。

バツツッッ―――!

大きな衝撃音が倉庫内に響き渡った。

李宗民は一歩も動いていない。

だが。

言葉を発したルーキーの体が、宙で回転していた。

下顎は斜めに傾き、両眼は白目を剥いて意識を失っている。

空中で三回転程したその体は、鈍い音をたてて地面にもんどり打った。

ずしゃつ!

ピクリとも動かない。

「・・・・・」

誰もがその光景に呆然とした。

何が起こったのかさえわからないからだ。

「チッ!」

もう一人のルーキーは、地面に倒れた仲間を見て、瞬時に体を動かした。

李宗民はユラリと動くと。

腰を落として。

ススッと摺り足で前に進む。

右拳を真正面に直角に突き出した。

ドゴオォォォン!

呻き声をあげる間もなく、そのルーキーは体を九の字に曲げて後方に飛ばされる。

四メートル程であろうか。

「あ・・・ぐふっ・・・」

そして。

そのまま腹部を両手で押さえると、苦痛の表情を浮かべて前のめりに地面に倒れた。

全身が痙攣を起こしている。

肋骨の二・三本は持って行かれた様である。

李宗民は右拳をゆっくりズボンの中に入れると、落としていた腰を上げた。

ここにいる誰もが、李宗民の闘いを初めて目の当たりにした。

そして、感じたのだ。

こいつは、とんでもない怪物だと。

日本裏社会「暴武」部門のルーキー達は、決して弱いわけではない。

いや、むしろ表の世界にいれば、有名な格闘家やアウトロー集団のリーダーになっていてもおかしくない程の強者ばかりなのだ。

だが。

だが、李宗民が強過ぎた。

あまりにもレベルが違い過ぎたのかもしれない。

「ほう・・・」

(噂だけは聞いていたが、実力は本物みたいじゃのー)

郷田梅雲は、李宗民の怪物的強さに感嘆の声を上げた。

「・・・・・」

(まさか、この若さでこれ程の逸材とは・・・恐れ入りますね)

戸倉一心は、李宗民を見た。

清水五郎と清水組の組員達は微動だにしない。

いや、恐ろしくて動けないのだ。

「さて、どうしますカ?」

李宗民はニコリと笑顔で言う。

ここにいる全員を殺すと言った言葉は嘘ではなかったのだ。

それ程の自信と実力を兼ね揃えているからこそ言えた言葉なのである。

「さすがに、下の者をやられて、簡単には引き下がれんじゃろーが」

郷田梅雲は大きな体を揺らして前に出た。

右手でボサボサの黒い髪を掻く。

「あなたが有名な郷田さんですネ。噂はよく耳にしますヨ」

李宗民は言った。

郷田は一歩一歩と歩を進める。

郷田梅雲の体からは異様な殺気が溢れ出る。

この男も、只の男ではないのだ。

化け物中の化け物なのである。

李宗民との距離が三メートルを切った時。

郷田梅雲は腰をぐるんと捻ると、右拳を上空に高々と上げて。

一気に振り下ろした。

李宗民はまだ動かない。

郷田の右拳が目の前に迫った時。

腰をゆっくり落とした。

ススッと摺り足で前に出る。

左拳を直線上に伸ばす形で放つ。

バチイィィィンーーー!

郷田梅雲と李宗民の間に光が走る。

郷田梅雲の右拳が弾け飛ぶ。

いや。

李宗民の左拳もである。

お互いの攻撃が同格であり、数ミリの狂いもなく同時に交じり合った時、それはお互いの体に反動として返ってくるものである。

破壊力では、郷田梅雲。

スピードでは、李宗民。

「・・・・・!?」

(なんという破壊力!私のスピードでも勝てなかったデスヨ!)

李宗民は、自分の攻撃が弾き返されたことに驚いた。

「・・・・・!?」

それは、郷田梅雲もである。

(なんという速度じゃ・・・。ワシの動作の方が断然に速かったなはずのに、あのスピードに押し負けたわ!)

郷田はすばやく両腕を顔の前に上げた。

防御の体制である。

なぜ、郷田梅雲は防御の体制をとったのか?

それは。

李宗民の攻撃が異常な程の速度だったからである。

人間が左右の拳で攻撃をする場合、普通は反動を付けたり、引きを溜めたりするものである。

だが、李宗民の拳にはそれが一切ないのだ。

引きや反動を一切付けずに、その位置からの強力な攻撃。

これは、ブルース・リーが創始した武道・截拳道の縦拳による攻撃そのものである。

截拳道とは、ブルース・リーが生み出した武道である。日本ではジークンドーと呼ばれ、スペル(Jeet Kune Do)から頭文字を取ってJKDとも呼ばれる。幼少期にブルース・リーが学んだカンフーの技術に、レスリング、ボクシング、サバット、合気道、柔道などの幅広い技術を取り入れられた武術だ。

 相手をより速く倒す為に、目潰し・金蹴り・頭突き・踏みつけなど、何をしても構わないのが基本ルールである。考えられうる中での最上の攻撃手段を使い、相手を倒すことが求められるのだ。

そして。

李宗民は、このジークンドーを六歳の頃から習っており、それ以外にも様々な格闘技を習得している男なのである。

「これはびっくりデス・・・。まさかこれ程とは・・・」

李宗民は声を出した。

お互いが相手のことを噂でしか聞いていない為に、過小評価していたのかもしれないと感じた。

だが、このファーストコンタクトで、お互いがお互いのことを悟ったのである。

この男の強さは本物だ、と。

チリチリとした空気が二人の間に流れる。

(お互いの力は拮抗しているでしょう。しかし・・・郷田さんの方が、分が悪いですね)

戸倉一心は二人の様子を眺めた。

郷田梅雲の方が、分が悪いと思ったのには理由がある。

それは、郷田梅雲がマイケル・フォーとの闘いで、軽い負傷をしているからである。

両腕の打撲。

口内と鼻腔からの出血。

先程の闘いによる体力の消耗。

それらを総合的に判断した結果、断然に李宗民が有利なのは明らかである。

(しかし・・・闘いは時の運です。何が起こるかわかりませんけどね・・・)

戸倉は再度腕を組んで前に出た。

郷田梅雲はゆっくりと右に回る。

李宗民も摺り足で郷田の正面に体を向ける。

チリチリとした空気が周りを包み込む。

そして。

先に動いたのは。

郷田梅雲である。

右拳を大きく振りかぶると、左足を前に大きく出した。

その瞬間。

郷田の体が小さく傾いた。

「何・・・!?」

郷田は左足のバランスが一瞬狂ったのを感じた。

すばやく、足元を見る。

大きく踏み込んだ場所に、血の塊があった。

マイケル・フォーが、闘いの最中に吐き出した血の塊であろう。

郷田の左足は、その血の塊を踏み付けると、軽く滑ってバランスを崩したのである。

そのチャンスを、李宗民程の男が見逃す筈はない。

「チェリヤアァーーー!」

李宗民は大声を上げると。

左右の足を交互に摺り足で前に進め、右拳を直線上に放つ。

縦拳。

狙いは、郷田の顎である。

そのスピードは数倍の破壊力を生む。

(くっ!なんという不覚!)

郷田が上唇を下の歯で噛みしめた。

闘いの中においては、運も大きな実力である。

体のコンディションや怪我、天候や闘う場所によっても運は大きく左右される。

お互いの力が拮抗しているとするならば、ちょっとの運が大きな差となり、闘いを左右するのは必然なのだ。

郷田梅雲は瞬時に考える。

答えは二つだ。

赤く腫れ上がった両腕で、李宗民の攻撃を防御するか。

頭部を左右どちらかに振って、その攻撃を交わすか。

だが。

李宗民の右拳は異常な程の速度。

交わすことは不可能である。

郷田の判断は早かった。

両腕を顎の前に持ってくると、交差して防御する。

二人の間に光が走る。

バシイィィーーーン!

倉庫内に大きな衝撃音が鳴り響く。

清水組の組員達は両手で耳を塞いだ。

それ程の衝撃音である。

李宗民はニヤリと笑った。

いや。

笑った筈だった。

「・・・・・?!」

だが。

李宗民は、細い両眼を大きく見開いて、口を大きく開けた。

「・・・?」

李宗民は我が目を疑った。

自分の右拳が大きな掌で包まれていたからだ。

それも、郷田梅雲の掌ではない。

成人男性の二倍はあろうかという大きさの掌にである。

李宗民の目の前にいたのは・・・。

戸倉一心だったからだ。

「いいですね、この衝撃」

戸倉一心は李宗民の爆撃を右手の掌で受け止めたのだ。

「なぜ・・・?!」

李宗民は戸倉一心を見る。

「こんな闘いを見せられたら、我慢できなくなりますよ」

戸倉一心はニコリと笑う。

その笑いは、気持ちが悪い程の笑顔である。

郷田は目の前に戸倉一心がいることに驚いた表情をしたが、小さく溜め息を付くと、掲げていた両腕を下に降ろした。

(ふぅ、あぶねぇあぶねぇ。一心に助けられたわ)

郷田梅雲は大きな体を揺すった。

「さて、今日はこれぐらいにしてもらいましょうか?李宗民さん」

戸倉は静かに言う。

李宗民は、右拳を引き戻そうとするがピクリとも動かない。

戸倉一心の大きな掌が李宗民の右拳を包んで離さないのだ。

それ程の握力なのである。

「それでも、まだ闘うと言うのなら・・・私がお相手しますよ」

戸倉一心は李宗民を見た。

金縁メガネの奥で、戸倉の両眼は異様な光を放っていた。

「・・・・・!?」

李宗民は戸倉一心の両眼を見た瞬間に、背中に冷たい悪寒を感じた。

恐怖。

畏怖。

いや、そうじゃない。

もっと禍々しいモノである。

今までにいろいろな人間達を見てきたが、どの人間達にも属さない異様な感覚。

(この男は・・・かなり危険デス・・・!)

(何か得体の知れないチカラを・・・隠し持ってイル?!)

李宗民は、右拳に力を入れると一気に引き抜いた。

そして。

後方に飛び跳ねる瞬間に、戸倉一心の頭部に左上段蹴りを放つ。

そのスピードは人間の領域を遙かに超えている。

重さもあり、しなやかさもあり、バネもある。

だが。

戸倉一心はその蹴りを右腕ですばやく受け止めた。

バチイィーーーン!

何かが弾けた様な爆音。

戸倉一心の右腕に衝撃が走り、痛みが襲う。

それと同時に。

戸倉は左手を大きく振った。

ぶおおぉぉん!

轟音が空気を切り裂き、李宗民の目の前を横切る。

(なんと言う剛腕デスカ?!あぶないですネ・・・)

李宗民は後方に飛び跳ねた。

稲葉剛・清水五郎の二人は、その様子を、固唾を飲んで見守っている。

それは、日本裏社会「暴武」部門のルーキー達や清水組の組員達も一緒である。

倉庫内に、異様な静けさが纏わり付く。

郷田はゆっくりと体勢を整えると、李宗民を見る。

戸倉は、蹴られた右腕を少し振った。

戸倉一心と郷田梅雲と李宗民。

人間の常識を逸脱した裏社会の怪物が三人。

この場に揃ったのである。

倉庫内の空気は異様な熱を帯び、酸素の供給率を著しく下げていた。

清水組の組員の中には、余りの緊張感の為か、呼吸困難になっている人間が数人いた。人間の本能が危険を察知しているのだ。

ある程度の修羅場を潜っていない人間が、この場にいることは自殺行為と言えよう。

じりじりとした緊張感が走る。

すると。

「わかりましタ」

李宗民はそう言うと、攻撃態勢をゆっくり解いた。

「今日は、大人しく引き上げまス」

李宗民はニコリと笑うと、両手を空中に上げて敗北の仕草をした。

そして、ゆっくりと倉庫の入り口に向かって歩き出す。

戸倉一心と郷田梅雲の真横を、李宗民はゆっくりとズボンに両手を入れて歩いていく。

そして、戸倉の横にピタリと止まると。

「戸倉さん、いずれまた、この決着は付けまショウ」

李宗民はそう言うと、細い目で静かに笑った。

「ええ、いいでしょう」

戸倉もニコリと笑ってそれに答える。

「おいおい、俺は無視かぁー」

郷田はボサボサの黒髪をボリボリと右手で掻き毟った。

その頃には、稲葉剛も清水五郎も緊張の為なのか、精神的にぐったりとしていた。清水五郎も変な気はどこかに消え失せたらしく、自分の組員達を連れて静かに貸し倉庫から出て行った。

こうして、稲葉会と清水組の代理戦争は、稲葉会の勝利で幕を閉じたのである。


李宗民は、貸し倉庫から出た瞬間。

自分の鼻孔から水滴が流れ出るのを感じた。

ポタリ。

地面に落ちる。

ポタリ。

地面を見ると。

赤い水滴が地面を濡らしていた。

(鼻血?!)

李宗民は左手で鼻をつまんだ。

そして、ハッとした。

(まさか・・・喰らっていたのカ?!)

李宗民の顔が赤く紅潮する。

(戸倉一心の最後の攻撃が・・・私の鼻をかすめていたと言うのカ!?)

李宗民は、怒りで全身がワナワナと震えるのがわかった。

細い目は大きく見開き、両眼は充血して血走っている。

そして、心に大きく誓ったのである。

「戸倉一心・・・絶対に許さないネ・・・」

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