第28話  プロレスラー

郷田梅雲。

実は、元プロレスラーである。

十六歳の時に、日本で一番大きなプロレス団体「サムライプロレス」に練習生として入門。

入門した理由は、体が異常に大きかったのと、子供の頃からテレビで見ていたプロレスを愛し、プロレスを世界最強の格闘技だと信じ、最強のプロレスラーになりたかったからである。

入門して三年間は、地獄の様な下積み時代であった。

朝五時起床。

練習場の掃除から始まり、先輩や兄弟子達の世話などをして、その後は二時間のランニング。

練習場に戻ってからは、先輩や兄弟子達のスパーリングパートナーを務めながらの、基礎体力作り。

腕立て伏せ千回。

腹筋千回。

スクワット千回。

これを、二セット。

昼になると食事の時間なのだが、ハードな練習の影響なのか食欲は一切なかった。それでも、食べなければいけなかった。体を大きくする為に胃袋の中に押し込めなければいけないのだ。

昼からも、基礎体力作り。

天井からぶら下げたロープを使っての上下運動、三百往復。

サンドバックへのパンチ・キック練習、一時間。

大きなハンマーを使っての振り下ろし練習、一時間。

そして。

腕立て伏せ千回。

腹筋千回。

スクワット千回。

これを、三セットである。

その後は、近所へ二時間のランニング。

再度、練習場に戻って、先輩や兄弟子達へのスパーリングパートナーを務める。

これが一日の練習量である。

これを、郷田梅雲は三年間やり通したのだ。

あまりのハードな練習の為に、同時期に入門した練習生は、三か月も経たない内に郷田以外は全員消えていた。

郷田の精神を支えていたモノは、プロレスが地上最強だと言う信念であった。プロレスを学べば、自分も地上最強の男になれる。

その信念だけが、彼を支えていたのである。

プロデビューは、十九歳の時であった。

身長百八十九センチ。

体重百キロ。

すでに、かなり大きな体躯であった。

相手は、先輩レスラーである。

郷田は、三年間の下積み生活をかき消す様に、がむしゃらに闘った。攻撃は全て受け止め、それ以上の力で打ち返す。その闘争心は観客をも大いに興奮させ、新人レスラーの中で唯一のベストバウト賞を頂くことになる。

もちろん、デビュー戦は勝利で幕を閉じた。

二十歳になった頃、郷田は新人プロレスラーの中では頭一つ抜きん出た存在になっていた。

体の異常な大きさ。

化け物的な強さ。

そして、プロレスなのに、より真剣勝負に近い闘い方をする最高のパフォーマンス。

まさしく、スター選手の片鱗を見せていたのだ。

だが、それを良く思わない先輩レスラーもたくさんいた。

試合中に、郷田を壊そうと企むレスラーもいたが、郷田は瞬時に察知して、反対に撃退した。時には腕を折り、膝を壊し、手首を極める。八百長を求めてきたレスラーには、心底後悔させる為に、病院送りにしてやった。

そして、付けられたニックネームが「クラッシャー郷田」である。

郷田にとって、強さこそが全てであった。

弱いから倒され、潰され、壊される。

プロレスラーは最強でなくてはいけないのだ!

その頃になると、ほとんどのレスラーが郷田との試合を組みたがらなくなっていた。なぜなら、プロレスと言うショーマンシップの仕事の中で、真剣勝負に近い闘いを迫られ、簡単に潰され、壊され、再起不能にさせられるからである。

そんな時。

「サムライプロレス」のエース・橋本健介との試合が組まれることになった。

郷田にとっては、一世一代のチャンスである。

エース・橋本健介は、「サムライプロレス」に所属する約百人のプロレスラーの中で頂点に立っている男であった。

年齢は三十歳。

身長は百八十七センチ。

体重は百十キロ。

茶色の髪を綺麗に整えた、甘いマスクのプロレスラーだ。

その甘いマスクからは予想だに出来ない程の強さを誇り、ここ二年間は負けを知らない。チャンピオンベルトも他団体を含め、三つ保有しており、プロレス界の絶対的エースであった。

郷田は胸が高鳴るのを感じた。

最強のプロレスラーと、とうとう力一杯戦える!

俺の強さがどの程度なのか、実感できる!

本気で挑んでみよう!

郷田の期待は膨らむばかりであった。

そして。

試合当日。

郷田は、エース・橋本健介から控室に来る様に呼び出されて、信じられない言葉を聞くことになる。

「郷田、今日は負けてくれ。わかったな?」

橋本健介は、部屋の中央にあるソファに深く腰掛けていた。

「え・・・?」

郷田は、自分の耳を疑った。

あのエース・橋本健介から、その様な言葉が出るとは思ってもいなかったからだ。

頭の中で、ガンガンと何かが鳴るのがわかった。

「おいおい、何が不服なのだ?お!あれか?」

橋本健介は、隣に立っている練習生に何かを持ってくるように依頼した。

練習生は、部屋の隅にあった大きな鞄を持ってきて、橋本健介に渡す。

「これで満足だろ?」

橋本健介はニコリと笑って、大きな鞄の中から札束を三つテーブルの上に置いた。

現金三百万円である。

「・・・」

郷田は目の前が暗くなるのを感じた。

プロレスこそ、最強の格闘技だと自負していた。

最強のプロレスを証明する為に、今まで血の出る様な努力と練習を繰り返してきたのである。

プロレスがショーマンシップであることは重々承知である。

観客を楽しませて、満足させるのが我々プロレスラーの仕事であるのはわかっている。

だが、リングを降りればそれは違うのだ。

本気で戦えば、どの格闘技よりも強いのがプロレスだ。

郷田はプロレスと言うものに誇りを持っていた。

そして、今回こそ本気で戦えると思っていたのだ。

それがどうだ?

プロレス界の頂点に君臨するこの男でさえ、八百長を当たり前の様に仕組み、金と欲望の為にプロレスを汚しているのである。

本気のプロレスは存在しないのか?

こんな腐りきった環境で、最強のプロレスが語られるわけがない!最強の格闘技が実証されるわけがない!

プチン。

郷田の中で何かが弾けた。

その瞬間。

郷田はゆらりと動いていた。

橋本健介の隣にいる練習生の頭部を両手で掴むと、右膝蹴りを顔面に喰らわしていた。

ぐちゃっ!

肉と骨が軋む異音が部屋に響く。

大量の赤い血が空中に飛び散る。

その練習生は、顔面からもんどり打って床に倒れ込んだ。

橋本健介は、身の危険を悟ったのか、ソファからすばやく立ち上がる。

郷田の動きはそれよりも速かった。

橋本健介の腹部に向かって前蹴りを放つ。

だが、橋本健介もプロレス界の絶対的エースなのだ。

その前蹴りを右手でさばくと、郷田の顔面に右拳を飛ばす。

ぐしゃあつっ!

橋本健介の右拳が郷田の左頬を直撃する。

「これが・・・」

郷田はびくりともしない。

橋本健介の右拳を左頬に受けたまま、微動だにしないのだ。

「これが・・・あんたのプロレスか?」

郷田が両眼を大きく見開いて、橋本健介を見た。

「あ?何言ってやがる!誰に口を聞いているのだ!郷田!」

橋本健介が大声を上げて逆上する。

「てめぇの様な若手が、誰に口を聞いているのだ!コラ!」

左右の拳を郷田に放つ。

鈍い音が部屋中に響く。

郷田はその攻撃を避けずに、全て顔面で受ける。

そして。

両眼をカッ!と見開く。

その瞬間。

郷田は、橋本健介の右腕を掴んで体ごと空中で回転した。

全体重百キロを載せた高速回転だ。

ぶちぶちぶちっ!

橋本健介の右腕から悲鳴が上がる。

「ぎぐうっーーー!」

橋本健介は、右肘の靭帯が損傷したのを感じた。

靭帯とは、強靭な結合組織の短い束で、骨と骨を繋ぎ関節を形作るものである。

肘関節の両側には、関節が横方向へ曲がらないようにしている側副靭帯という組織があり、その靭帯が損傷したのだ。

郷田の動きは止まらない。

橋本健介の右腕から両手を離すと、体勢を低くして懐に飛び込む。

「このクソ野郎が!何してくれているのだ!てめぇは!」

橋本健介は両目を血走らせて叫ぶ。

郷田はその言葉に耳を傾けずに、橋本健介の腰に両手を回して、床に押し倒した。

橋本健介は、床に倒されながらも左拳で応戦する。

だが、郷田の動きの方が速い。

橋本健介の右腕を両手で再度掴む。

「やめろ!何しやがる!やめろ!」

その叫び声が終わるや否か。

郷田は全体重をかけて、捻った。

ぼきぼきぼきっ!

肘関節の前腕尺骨が折れた音が響き渡る。

「うぎっーーー!」

橋本健介は叫び声を上げる。

自分の右腕を見ると、ぶらりと逆方向に折れ曲がり、ピクリとも動かない。

郷田は橋本健介の腹部に両足で跨り、今度は左腕を掴む。

「おい!やめろ!郷田!俺が悪かった!」

橋本健介は体を力一杯動かすが、郷田が動きを封じ込めて固定している為に動かない。

「何が望みだ?!え?!俺がお前の望みを叶えてやるから!」

橋本健介は、哀願の眼差しで郷田を見る。

「車か?!女か?!」

橋本健介は問いかける。

「俺はプロレスが大好きだった。そして、最強だと思っていた。だが、現実はどうだ?エースのあんたでさえ、この有様。本気で戦おうともしない。もううんざりなんだよ」

郷田はそう言うと。

全体重をかけて、橋本健介の左肘を捻り曲げた。

ぼきぼきぼきっ!

そして。

ぶちぶちぶちっ!

骨と靭帯が断裂する乾いた音。

「ぎやあぁっーーー!」

プロレス界の絶対的エース・橋本健介が目に涙を溜めて叫ぶ。

両腕は肘の部分で曲がってはいけない方向に折れ曲がり、全身で痙攣を起こしている。

「もう、やめてくれ!俺の負けだ!な?!な?!」

橋本健介は顔をぶるぶると左右に振って、郷田に哀願する。

「あんた、弱すぎるよ。プロレスは実戦でも最強じゃなければ意味がない。八百長ばかりしているから、こうなるのだ」

郷田は右肘を上空に高く上げると。

そのまま。

橋本健介の顔面に振り落とした。

ずどおぉん!

部屋の床に衝撃音が走る。

橋本健介の下半身が、もんどり打った様に跳ね上がる。

郷田の右肘は、橋本健介の顔面にめり込んでいる。

「も・・・う、やめでく・・・れ・・・」

橋本健介が弱弱しい声を上げる。

郷田が右肘をゆっくりと上空に上げると。

そこには、顔面を破壊された絶対的エース・橋本健介の姿があった。

鼻骨骨折、頬骨骨折、眼窩底骨折、篩骨骨折。

顔面のあらゆる骨が、原型を留めていない。

「こんな男がプロレス界のエースだったとは・・・情けない」

郷田はゆっくりと立ち上がると、くるりと踵を返した。

その瞬間。

空中に数滴の水が舞い落ちた。

涙。

そう、涙である。

郷田梅雲の両眼から涙が零れ落ちたのである。

(この様なことをした以上、プロレスの世界ではもう生きてはいけないであろう)

ゆっくりと歩き出す。

(だが、俺が悔しいのはそんなことではない)

部屋の扉にあるノブを右手で掴む。

(最強と信じていたプロレスが、この程度だったと言うことだ。頂点に君臨する男でさえ、この程度なのだ。では、最強とはなんなのだ?)

郷田は扉のノブを右手で捻ると、風の様にその部屋から消えて行った。

そうして。

郷田梅雲は、表の世界から永遠に消え去ったのである。

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