第26話 少年時代
廃墟ビル。
その一階に、西牙丈一郎の事務所があった。
西牙丈一郎は、事務所にある黒いソファから起き上がった。
短時間の眠りだったが、深い睡眠を取ることが出来たようだ。
体中に力が漲っていくのがわかった。
世界の戦場で十年間を過ごした西牙丈一郎にとって、長時間の眠りは死を意味していた。戦場では、いつ敵が襲ってくるかわからないので、短時間の睡眠を数回にわけて取るのだ。
その癖が付いてしまってからは、安全で平和な日本と言う国に戻ってきても、その様な眠り方しか出来ない体になっていた。
頭を左右に振って、部屋の隅にある冷蔵庫に向かう。中に入っている一リットルの牛乳パックを取り出すと、ゴクゴクと一気に飲んだ。
そして、部屋の端に置いてある椅子に座った。目の前には檜で作られた机があるのだが、右側の一番上の引き出しを開けた。
ボールペンとメモ用紙が無造作に放り込まれていたのだが、それ以外に銀色のペンダントの様なモノが入っていた。
そのペンダントは、直径四センチ程の大きさで、銀色の鎖が付いていて首にかけられるようになっている。年数が経っているらしく、銀特有の光沢はなく、細かい傷が裏表に見られた。
西牙は、そのペンダントを右手に取ると、カチリと上蓋を開けた。
そこには、白黒色の写真がはめ込まれていた。
成人男性と少年が肩を並べて写っている。
「・・・・・」
西牙はその写真を少し眺めた後、部屋の天井を見上げた。
風間丈一郎、十二歳。
初めての戦場で、初めて人を殺めた丈一郎は、その場で意識を失った。
ミスター・サイガは、失神している丈一郎を右肩にかつぐと、他のメンバー達と一緒に、密林の中に雲の様に消えていったのである。
風間丈一郎が次に目を覚ましたのは、あの事件のあった三日後のことであった。
目を覚ますと、見たことのない部屋にいた。部屋の真ん中にはベッドがあり、そこの上に寝ていたのだ。
意識はしっかりしていたが、体中がかなり重い。
そして、背筋に冷たい何かを感じて、丈一郎は身震いした。
あれは、現実なのか?
丈一郎は、自分の両手をすばやく見る。
赤い血は綺麗に洗い流されている。
夢だったのか?
いや、夢に違いない!
丈一郎は、そう思い込むことで現実から逃れようとした。
その時。
部屋の扉がゆっくりと開いた。
丈一郎の表情が徐々に歪んでいく。
ミスター・サイガである。
(あの男がいる!目の前に!現実だ!これはまぎれもない現実なのだ!)
(そして・・・俺は人を殺したのだ!人を殺したのだ!)
丈一郎は、ベッドの上にフラフラと立ち上がると。
「うおぉぉぉーーー!」
と大声で叫び、ミスター・サイガに殴りかかった。
ミスター・サイガは、その攻撃を軽くよけると、丈一郎の顔面を右手で掴んで部屋の床に叩きつけた。
「がはっ!」
後頭部から床に叩きつけられた丈一郎は、もんどり打って咳をする。
「それだけ元気なら、大丈夫だな」
ミスター・サイガは静かに言った。
「ぐっ・・・!お前が!お前が!俺に人を殺させたのか!」
丈一郎は叫ぶ。
「戦場で生きていくしかないお前が何を言っている?遅かれ早かれ、人を殺さなくてはいけないのだ」
ミスター・サイガは、丈一郎から離れるとベッドの横に置いてある椅子に座った。
「くそっ!くそっ!なぜ俺がこんな目に・・・」
丈一郎は、部屋の床を右拳で叩き始めた。
ミスター・サイガはその様子を眺めている。
(戦場に送り込まれる人間ってのは、ある程度相場が決まっている。その国で必要とされなくなったのか、売られたのか、自ら志願してやってくるかのどれかだ)
「・・・・・」
(俺の予想だと、この坊主は売られたか、捨てられたのだろう)
ミスター・サイガは右手の親指と人差し指で顎を撫でた。
丈一郎はひたすら床を右拳で叩き続けている。
石の床が赤い血で染まる。
(だが、俺の所にわざわざ送り込んで来たということは・・・日本の裏社会が絡んでやがるな・・・)
ミスター・サイガは腕を組んだ。
(残酷な話だが、その現実を受け入れない限り、お前に未来はない。早く気付くのだ、坊主)
ミスター・サイガは、椅子から立ち上がると、丈一郎の右腕を掴んだ。
「もう止めろ。それ以上すると拳を痛めるぞ」
ミスター・サイガは丈一郎を見た。
丈一郎の両眼は涙で溢れかえり、右拳は血で塗れている。
「丈一郎、覚悟を決めろ。お前は、ここで生きていくしか道はないのだ。そして、生きていく為には戦うしかない」
ミスター・サイガは静かに言う。
「俺がお前を一人前に育ててやる。わかったか?」
ミスター・サイガは丈一郎の目を見た。
「う・・・う・・・」
丈一郎の頬に涙が伝う。
そして、大声で泣きながら床に突っ伏した。
(泣け。今日だけは泣くことを許そう。だが、本当の地獄はこれからだ)
ミスター・サイガは丈一郎の背中に右手を置いた。
十二歳の傭兵の誕生である。
ミスター・サイガ。
本名、西牙宗春。
国籍、日本。
身長百八十七センチ。
体重九十八キロ。
年齢、三十二歳。
顔は小さく、目が鋭く吊り上っている。鼻スジは綺麗に整っており、唇は細く薄い。鍛えられた肉体は体脂肪率三パーセントを切り、一流アスリートの肉体をも凌駕していた。
そして、短い間だったが日本の裏社会に存在していたこともある。
だが、二十五歳の時に自ら戦場に赴き傭兵となる。
なぜ、傭兵になろうとしたのか?
はっきりとした理由はなかった。
ただ、自分の強さがどこまで通用するのか確かめたかったのと、死への恐怖心を味わってみたいという究極の欲望だったのかもしれない。
だが、その軽い気持ちが後にとんでもないことになるのである。
戦場に出て数か月が経った時に、ミスター・サイガの体に異変が起こった。いきなり呼吸困難になり、全身に寒気が走り震えだした。完璧な肉体を持ち、病気などしたことがなかった男にとって、これは一大事であった。
そして、診断の結果。
戦闘ストレス反応による、心的外傷後ストレス障害であることがわかった。
通称、PTSDである。
強い衝撃を受けたり、死に直面する様な出来事を体験したことにより、精神機能はショック状態に陥り、パニックを起こす場合がある。そのため、その機能の一部を麻痺させることで一時的に現状に適応させようとする。
その時に起こす体の症状がPTSDである。
戦闘ストレス反応は、戦争に行った兵士が主になる病気だ。
戦争で手足が一瞬にして吹き千切れるのを見たり、捕虜が人形の様に簡単に殺されるのを見たり、一瞬にして吹き飛ばされ殺されるという恐怖から気を緩める暇もないという状況が、驚くべき現象を生み出すのである。
(なんという精神力の脆さ!俺がPTSDだと?!)
ミスター・サイガは自分自身に怒りを感じた。
最強の肉体を持っていながら、精神力は子供並みだったのだ。
そこから、ミスター・サイガは接近戦に命をかけた。脆い精神力を打破する為に、敵兵を次々と殺していった。躊躇するからことはなかった。迷いが精神に不安を与えることを知っていたからだ。
そして、数百人の人間を戦場で殺した時に、ミスター・サイガのPTSDは嘘の様に治まった。
だが、その代償に普通の生活に戻れなくなっていた。
戦場での緊張感を味わっていないと、無気力になり何もする気が起きない人間になっていたのだ。
そこから、ミスター・サイガの戦場生活が始まった。
その当時、アジア人の傭兵は少なく、最初は誰も彼を雇おうとしなかった。しかし、戦場での戦いや戦歴を重ねるにつれて、彼の凄まじい身体能力・機動力・洞察力が発揮され始める。
三十歳の時には、アジア人最強の傭兵としての地位を確立。
そして、名付けられたニックネームが、ミスター・サイガである。
味方の人間達は彼を尊敬の眼差しでそう呼び、敵対する人間達は、彼を恐怖の対象としてそう呼んだ。
ミスター・サイガのもっとも得意とした戦闘は、接近戦である。
肉体を使った肉弾戦から、刃物を使った殺傷戦。
その強さは人間の領域を遥かに超えていて、一対一の戦闘であれば、誰も太刀打ちが出来ない程なのだ。
経験を積んだ格闘技を、人間を殺す為だけに改良を加え、自分のモノにしていく。戦場でさらに研究し、より早くより俊敏に相手を殺す。
まさしく、戦場の鬼神である。
時には、三十人のテロ集団を一人で壊滅に追い込み、チームを組めば四個小隊の反政府グループを粉砕する。
こうして、ミスター・サイガの傭兵としての名声は、アフリカ全土に響き渡っていったのである。
ミスター・サイガが風間丈一郎に最初に義務付けたのは、肉体の鍛練であった。戦場において、自分の肉体は最高の武器であり、防具でもある。自分自身の肉体を隅から隅まで把握していない限り、最高のポテンシャルを発揮することができないからだ。
だが、ミスター・サイガを驚かせたのは、丈一郎の肉体であった。
十二歳とは思えない筋肉の量。
柔軟性と機敏性の両方を兼ね揃えた筋肉の質。
ミスター・サイガは唸った。これ程の肉体と筋肉を身に付けるのには、よほどの鍛練をしていないと無理なのである。
この少年はどのようにしてこの肉体を製造したのか?
その答えは、丈一郎の過去を聞き出すことで全て謎が解けた。
この坊主は、もしかしたら化けるかもしれない!
ミスター・サイガはそう確信した。
そこからの、ミスター・サイガの指導は速かった。
肉体の鍛練さえ出来ていれば、あとは技術面を磨くだけである。
自分の殺人格闘技を一から百まで教え、刃物を使った殺傷術も学ばせた。
銃の使い方や手榴弾の扱い方、戦場での注意点や行動の仕方など、ありとあらゆる知識を教える。
丈一郎も必死であった。
日本と言う国に戻ることもできない。
いや、戻り方さえも何一つわからないのだ。
この戦場で生きていくしかないと決断した時、丈一郎の中で何かが吹っ切れた。そこからの丈一郎の吸収力は半端ではなかった。
そして、唯一の救いはミスター・サイガの存在であった。
同じ日本人で言葉が通じる上に、丈一郎を自分の息子の様に育ててくれたことにある。
まだ、神様は風間丈一郎を見放してはいなかったのだ。
丈一郎が次に戦場に立ったのは、ミスター・サイガから訓練を受け始めてから三ヶ月後であった。
戦場は、東部アフリカのソマリア、今のソマリア連邦共和国であり、その国の首都・モガディシュであった。
ソマリアは、東アフリカのアフリカの角と呼ばれる地域を領域とする国家で、ジブチ、エチオピア、ケニアと国境を接し、インド洋とアデン湾に面する。常に内戦が堪えずに、いろいろな国家がその内戦にさらに参戦した為に、終わりの見えない戦争へと広がっている国家である。
ミスター・サイガと丈一郎は、反政府軍の傭兵として雇われた。
傭兵にとって、政府軍であろうが反政府軍であろうが関係がない。報酬の高い方に付くのが常識である。そして、国においては政府側が常に正しいと言う概念は捨てた方が賢明である。独裁国家などがその例で、独裁政治を進めている政府側が正しいのか、民主的な政治を求める反政府側が正しいのか、それはその国の人間にしか理解できないことなのだ。
反政府軍として戦った風間丈一郎。
この戦場で、ついに自らの意志で人間を殺したのである。
三か月前の様な恐怖や恐れは一切なく、建物の陰に隠れていた政府軍の人間を背後から押さえ付けると、がむしゃらに頭部を掴んで後方に力一杯捻った。政府軍の人間は全身をぶるっと震わせると、そのまま地面に倒れ込み、息を引き取った。
一瞬にして奪い去った命。
こんなにも簡単なモノなのか?
丈一郎は、全身が意味なく震えるのを感じたが、両腕で抑え込んだ。
そして、言い聞かせる。
「殺さなければ、こちらが殺される!」
しかし、丈一郎の体は動かなかった。
無理もない。
齢にして十二歳。
体は大きくても、精神や心はまだまだ子供。
ミスター・サイガの様に、淡々と人間を殺せることはできないのだ。
その戦場での戦闘期間は一か月に及んだのだが、丈一郎が直接手を下して殺した人間の数は、その一人だけであった。だが、アサルト銃を使って仕留めた政府軍の数を入れたのなら、百人は下らなかったであろう。
ミスター・サイガの働きも尋常ではなかった。
政府軍の遊撃部隊のリーダーを五人殺し、ますます知名度を上げた。
それからの、風間丈一郎の成長は異常な程早かった。
ミスター・サイガがいつも一緒にいたこともあったが、本人の環境適応能力がずば抜けていたこともある。
そして、丈一郎の格闘センスは群を抜いていた。
攻撃力、身体能力、俊敏さ、どれもとっても一流の戦士である。
十三歳になった頃には、顔付きも大人になり、肌は浅黒く日焼けしていた。体格は誰がどう見ても、十三歳には見えなかった。
身長百七十三センチ。
体重六十九キロ。
強靭で柔軟な筋肉で包まれた肉体は、ミスター・サイガをも唸らせた。
傭兵として参戦した戦場も、アフリカ全土を中心に多忙を極めた。
北アフリカのアリジェリア、エジプト、リビア、モロッコ、スーダン、チュニジア。
西アフリカのギニア共和国、ガンビア共和国、トーゴ共和国、ベナン共和国、ナイジェリア連邦共和国。
中部アフリカのアンゴラ、ガボン、コンゴ共和国、ブルンジ、ルワンダ、チャド。
東アフリカのウガンダ、エチオピア、エリトリア、ケニア、ジブチ、セーシェル、ソマリア、タンザニア、南スーダン。
南アフリカのザンビア、ジンバブエ、ナミビア、ボツワナ、モーリシャス、スワジランド、南アフリカ共和国。
傭兵としての経験を着々と積んでいく丈一郎。
戦場では、多くの地獄を経験した。
水や食料が手に入らず、丸三日間を空腹のまま闘い抜いた戦場。
捕虜になり、周りの仲間が次々に殺される中で生き抜いた戦場。
空からのミサイル攻撃を喰らい、失明しかけた戦場。
仲間が数秒後には裏切るという現実を見た戦場。
拷問を丸五日受け続け、耐え続けた戦場など。
ありとあらゆる地獄を味わった頃、風間丈一郎は十六歳になっていた。
そして、この後。
風間丈一郎とミスター・サイガの身に、前代未聞の大事件が起こるのである。
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