第25話  元世界王者

「さて、頼んだぞ。梅雲」

稲葉剛は、右手で郷田梅雲の右胸を叩いて言う。

「御意」

郷田梅雲は太い首をぐるんぐるんと回転させた。

稲葉剛は後方に五メートル程下ると、パイプ椅子に腰掛けた。戸倉一心と二十人のルーキー達も後方に下る。

(倉庫に入った瞬間に、禍々しい気が一気に消えましたね)

戸倉一心は腕を組んで、清水五郎の回りにいる人間達を見た。

清水五郎は後ろにいる自分の組員に何かボソボソと呟いた後、全体的に五メートル程後方に下った。

「ひっひっひっ!あの男を連れて来い!」

清水五郎は、横にいた男に言った。

横にいた男は、すばやく走り出すと、倉庫の奥に止まっている大きなバスの中に入っていった。

一分後。

大きなバスの窓ガラスが粉々に割れ、中から人間が一人飛び出てきた。

先程、中に入って行った男である。

しかし。

その姿は尋常ではなかった。

首は後方にねじ曲がり、顎は外れ、右腕がおかしな方向に折れ曲がっている。

「か・・会長・・・助けて・・・」

その男は、ゆっくりと立ち上がると折れ曲がった右腕を左手で触りながら、倉庫内をよろよろと歩き出した。だが、首が後方にねじ曲がっている為に方向感覚がおかしくなっているのか、清水五郎の下に行くはずが大きなバスに歩み寄って倒れる。

ピクリとも動かない。

清水五郎の回りにいた男達もざわざわと動き出す。

「・・・」

(予想通り!まさしく化け物だ!)

清水五郎がゴクリと唾を飲み込む。

そして。

大きなバスの前方にある扉が、内側から衝撃を受けた様に壊れ噴き飛んだ。

扉は、倉庫内の地面を面白い様に滑る。

そして。

大きなバスの前方から、ジャリっと白い大きなスポーツシューズが降り立った。

帽子を深く被った黒人である。

それも、かなり大きな体躯である。

身長百九十センチはあろうか。

体重も百十キロはありそうだ。

その黒人は、地面に降り立つと、深く被っていた帽子を脱いだ。

「・・・?!」

その姿を見た稲葉剛は驚愕した。

いや、稲葉剛だけではない。

戸倉一心も組んでいた腕を外し、一歩前に身を乗り出した。

「ば・・・馬鹿な・・・?!」

「まさか・・・本当なのか・・・?」

日本裏社会「暴武」部門のルーキー達もざわざわと騒ぎ始める。

「おいおい・・・この男を連れてくるかよ」

郷田梅雲は、ボサボサの黒髪を右手で掻き毟った。

「ひゃっはっはっはっ!びっくりしましたか?兄弟!」

清水五郎は大声で笑う。

その黒人は、後ろに背の低い太った黒人を一人引き連れて、清水五郎の下にゆっくりとやってくる。

「そうですよ!あのボクシング界最強の男と言わしめた、元世界ヘビー級王座統一チャンピオンのマイケル・フォーですわー!」

清水五郎は、勝ち誇ったように大声で叫ぶ。

「おいおい、まさか・・・マイケル・フォーが来るとは・・・」

稲葉剛は、パイプ椅子から立ち上がり戸倉一心を見た。

「本当ですね。どれだけの金を積んだのでしょうか」

戸倉一心は、マイケル・フォーをじっくり見た。


マイケル・フォー。

ボクシング界、いや、格闘技をかじっている人間で、この男を知らない人間は皆無ではなかろうか。

元世界ヘビー級王座統一チャンピオン。

ボクシング界史上最強と称えられているボクサーの一人である。

十四歳からボクシングを習い、二十五歳の時にWBC・WBA世界ヘビー級チャンピオンに君臨。

その体躯からは信じられない程のスピードを誇り、ヘビー級ボクサー達を次々にノックアウトしていったのである。

アマチュアボクシング戦歴、二十五戦二十二勝三敗。

プロボクシング戦歴、八十戦七十五勝七十KO五敗。

その後、二十八歳で引退。

そして、彼をさらに有名にしたのは、引退してからの素行であった。傷害事件、殺人未遂、婦女暴行など、ありとあらゆる犯罪に身を染めていったことだ。

目的を失った人間ほど自暴自棄になりやすいが、マイケル・フォーの場合もそうであった。

特に莫大な金を持っている人間には、いろいろな種類の人間達が金の魅力に引き寄せられて近寄ってくる。信じる相手全員に裏切られ、どんどんと金を奪い取られていく。

人間不信に陥った人間程、壊れやすいモノはない。

マイケル・フォーは、酒と薬におぼれ始めたのである。

そこからの転落は速かった。

街のバーで、八人の男を叩きのめし傷害事件を起こす。

さらに、会社の共同経営者の男に暴行し、全治三か月の重傷を負わす。

そして、ホテルに呼び出した女性に対しての婦女暴行。

それらが全て事実であると世間に知れ渡った時。

マイケル・フォーは、ボクシング界での名誉と地位を完全に失ってしまったのである。


マイケル・フォーは後ろにいる背の低い太った黒人に、ボソボソと話す。

「報酬は間違いないでしょうね?」

背の低い太った黒人は、マイケル・フォーの通訳者らしく、流暢な日本語を話す。

「オーケー!オーケー!契約は五十万ドル!成功報酬は追加で、五十万ドル!」

清水五郎は両手の指を全部広げて叫ぶ。

五十万ドルは、日本円にすると約五千万円である。

成功報酬を含めると、約一億円。

(今まで、どれだけお前に苦い思いをさせられたか!覚えているか?!稲葉剛!)

清水五郎は苦虫を潰した様な表情をした。

(だが、それも今日までだ!お前の敗北した顔を早く見てみたいぜ!ひゃっはっはっはっ!)

清水五郎は心から胸が躍るのを感じた。

マイケル・フォーは、鋭い眼光を郷田梅雲に向けると、黒いトレーナーを脱いだ。

全盛期に比べると、格段に筋肉の量や質は落ちてはいたが、異様な殺気がそれらを補っている。

現在、三十三歳。

丸い輪郭に鋭い眼光、鼻はかなり大きく唇は黒人特有でぶ厚い。

短い縮毛の頭髪には、サイドに三本のラインが入っている。

身長百九十センチ。

体重は百十キロ。

全盛期の体重は百キロを少し上回るぐらいだったので、十キロは増えたことになる。

キュッキュッと左右の足を動かしながら、両手の拳にぶ厚いバンテージを軽く巻いていく。

ボクサーにとって、拳を痛めること程危険なことはないからである。破壊力は鍛えればいくらでも増すが、拳の骨は鍛えることができない。

グローブをはめていても拳を痛めることがあるのに、これからの闘いは素手なのだ。

マイケル・フォーは胸で十字を切った。

(人を殺してしまうことをお許しください)

左右のステップを強く踏み込むと、拳でシャドーボクシングを始めた。

その動きは華麗である。

回りにいる人間達が、ただ見とれている。

「最高!最高!やっぱり、世界規模は違いますな!兄弟!」

清水五郎は面白い様に叫ぶ。

「・・・クッ!」

稲葉剛はムムッと唸る。

「あらら、やる気満々じゃねぇーか」

郷田梅雲は、ふぅと溜め息を付いた。

(おいおい、稲葉総裁の機嫌を刺激するなよなぁ)

郷田は首を左右に振って、マイケル・フォーを見た。

身長はほとんど同じ。

体重だけが違う。

郷田梅雲は百三十五キロ。

マイケル・フォーは百十キロ。

二人の男がゆっくり近付く。

その間隔、三メートル。

「それでは、稲葉会と清水組の代理戦争を始める!ルールは、どちらかが死ぬか、敗北を認めるまで!勝者側には、今度の商業高層ビルの工事一式の全権を委ねること!以上じゃ!」

稲葉剛が大きな声で言う。

「稲葉会代表者・郷田梅雲!」

稲葉剛が叫ぶ。

「はいよ」

郷田梅雲は、のそのそと動くとボサボサの黒髪をもしゃもしゃと掻き毟る。

「清水組代表者・マイケル・フォー!」

清水五郎が叫ぶ。

「オォーーーーーーーーー!」

マイケル・フォーが雄叫びを上げる。

その奇声は倉庫内を震わせて、そこにいる人間達の内臓に響き渡った。

「でわ!始めえぇーーー!」

稲葉剛と清水五郎が同時に叫ぶ。

こうして、二匹の猛者、いや、猛獣が激突することになったのである。

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