第22話  初めての戦場

真っ暗な闇の中で目を覚ます。

両眼の感覚はあるのだが、目を開けても視界は暗く、聴覚だけが異常な程に敏感になっているのがわかった。両手と両足も何かで束縛されているらしく、身動きがとれない。

数秒。

いや、数分後だろうか。

人間の足音が近付いて来たのがわかった。

そして、両眼を閉じているにも関わらず、眩しい光が瞼の隙間から差し込んできた。

どうやら、布で目隠しをされていたようだ。

両眼をゆっくりと開ける。

強烈な太陽の光が両眼の角膜を刺激し、周りの世界を徐々に開放していくのがわかる。

まずは、青い空だ。

気持ちの悪い程晴れ渡り、雲一つない。

そして、それを囲む様に緑の木々が永遠に生い茂っている。遠くを見ることすらできないぐらいに、近くにいろんな種類の木々が乱立して茂っている。

森?

林?

いや、山の中だ。

頭を左右に振って、視界を全開にする。

目の前に、にゅるっと黒い影が映り込む。

人間だ。

それも男である。

「大丈夫か?坊や」

その男は日本語でそう言うと、両手と両足を束縛している紐をゆっくり外し、横の草むらに投げ捨てた。

「う・・・ここは・・・?」

俺は小さな声で聞き返す。

「ここか?ここは・・・戦場だ」

その男は口の中に入っていたガムを草むらに吐き出した。

「せ・・・戦場・・・?」

その男の言っていることが理解できない。

何を言っているのだろうか?

俺は夢を見ているのだろうか?

頭の中で意味のわからない言葉がぐるぐると駆け巡る。

だが、周りの景色を見てもわかる通り、確実に今まで生活していた場所とは程遠い空間や匂いを感じた。

「お前の名は?」

その男は上空を眺めながら問う。

「あ、あ、風間丈一郎・・・」

俺は、呆然としながらも、人間の反射対応に負ける様に自分の名前を返していた。

「歳は?」

その男は立て続けに問う。

「あ、十二歳・・・」

俺はその男をじっくりと見た。

服装は、緑色と茶色のみで仕立て上げられた迷彩服を着ており、靴は黒いブーツを履いている。腰には数本のナイフが装着されていて、背中には大きなアサルトライフルM16A2を背負っている。

「せ、せ、戦場?」

丈一郎は、もう一度呟いた。

「丈一郎、覚悟をきめろ」

その男は、丈一郎の前にしゃがみ込むと静かに言った。

「お前が、どの様な理由でここに運ばれて来たのかは知らない。だが、お前は今現在、この戦場にいる。いいか?お前に残された道は二つしかない。この戦場で死ぬか?生きるか?だ」

その男はそう言うと、丈一郎の眼を見た。

「意味が・・・意味が・・・わからない」

丈一郎が言葉を吐いた瞬間。

その男は、丈一郎の右頬を拳で殴っていた。

「がはっ!」

丈一郎は、もんどりうって草木を生い茂る地面を滑る。

「どうだ?痛いか?」

その男は続けて言う。

「これは夢なんかじゃない。現実を見ろ!生き抜く為には、自分の力で戦うしかない!わかったか!」

その男は、丈一郎の首を掴んだ。

「う・・・はい・・・」

丈一郎は、ただ単に返事をした。

今、何が起こっているのかさえわからない状況で、これ以上痛い思いをしたくなかったからだ。

「もう一度言うぞ。お前は、この戦場に捨てられたのだ。そして、戦場でのルールはただ一つ。自分の命は自分で守れ。生き残りたかったら、敵を殺すしかない」

その男は、丈一郎の首から手を離すと、親指と人差し指を口元に持っていき、鳥の鳴き声の様な音を鳴らした。その音は、緑の生い茂った山の中を縦横無尽に走る。

数分後。

周りの木々から、ザザッと言う音がしたと思うと、数人の男達が現れた。

全員、その男と同じ様な恰好をしている。腰や背中にナイフやアサルトライフルM16A2を背負っているのだ。

「ミスター・サイガ、この坊主をどうするつもりだ?」

大柄な体格の黒人が言葉を放つ。

その表情は、硬い。

「自分の身は自分で守らせる」

ミスター・サイガと呼ばれた男は、周り集まった男達に聞こえる様に答える。

「それは・・・連れて行くってことか?」

髪の長い韓国人が静かな声で問いただす。

「ああ。このまま、ここに残しておいても死ぬだけだ。それなら、せめて生きる可能性をこの坊主に与えてやりたい」

その男は両手を動かし、手振り身振りで説明する。

「ミスター・サイガ、俺はあんたを尊敬している。今まであんたの意見にはほとんど賛成してきたが、今回だけは賛成できないぞ!」

大柄な体格の黒人は、横にある大木に背中を預けた。

「これは、俺のわがまま。お前達には迷惑はかけない」

その男は両目を大きく見開いて言った。

「ははは!冗談は止してくれよ、ミスター・サイガ!この状況はわかっているのか?戦場だぞ?この坊主を連れて行くだと?正気の沙汰じゃねぇーぞ!」

眼鏡をかけた華奢な体格の白人が叫んだ。

「状況はわかっている。だが、俺はこの坊主を連れて行く」

ミスター・サイガと呼ばれた男は、頑なに言い放つ。

「皆、一旦落ち着きましょう」

物静かな口調で言葉を投げかけたのは、背の低い中国人だ。

「まずは、この状況を整理しなくてはいけないでしょう。そうでしょ?」

背の低い中国人は、ポケットから煙草を取り出すと、口元に持っていった。

そして、今置かれている状況を話し出した。

場所は、中部アフリカのコンゴ民主共和国、旧ザイール共和国である。この国は、民族間同士の内戦が数十年以上も起こっており、すでに約四百万人強の死者を出している史上最悪の戦場でもある。

その戦場に、我々は政府側の傭兵として雇われているのだ。

目的は、都市キンドゥ付近を根城にしている反政府軍の一グループを抹殺することである。

そして、首都キンシャサから東へ八百キロ先にある政府軍の村に到着したのが、昨日のことであった。

ここで、ミスター・サイガ達に思いもかけない出来事が起こる。

なんと、夜中に数台の車がやってきて、一人の少年を寄越してきたのだ。

それが、風間丈一郎であった。

寄越してきた?

いや、それは語弊があるかもしれない。

もっと丁寧に言うと、村に入ってきた数台の車は、スピードを緩めずに、後部座席から風間丈一郎を地面に放り投げ去って行ったのである。

ミスター・サイガ達は、数台の車が村に入ってきた瞬間には、反政府軍グループの攻撃では?と思い、すばやく物陰に隠れ、アサルトライフルM16A2を構えていた。

あまりの出来事に、誰もが唖然とした。

黒い布で目隠しをされて、両手・両足を紐で縛られた少年が、いきなり捨てられたのである。

それも日本人である。

ミスター・サイガ達は、その少年に近付き、生存状態を確認するが、静かに眠っていた。どうやら、麻酔か何かで眠らされているのであろうと悟った。

「と、言う状況なわけです」

背の低い中国人は、いかにも自慢げに言った。

「あいかわらず、お前の説明は長いな」

髪の長い韓国人はそう言うと、背の低い中国人を見下ろした。

「どうしても連れて行く気だな?ミスター・サイガ」

大柄な体格の黒人は両目を閉じて言う。

「ああ。すまない」

その男は周りにいる男達を見回した。

「わかった。その代り、俺達はどんなことがあろうと、その坊主を助けないぞ。負傷しようが、死ぬことになろうが、ノープロブレムだ」

大柄な黒人は両目をカッと見開いてミスター・サイガを見た。

「了解!了解!」

眼鏡をかけた華奢な白人は舌打ちをすると、踵を返して歩き出した。大柄な体格の黒人、背の低い中国人、髪の長い韓国人も後に続いて歩き出す。

「丈一郎、これを持て」

ミスター・サイガはそう言うと、丈一郎に大きなアサルトライフルM16A2とナイフを渡した。そして、アサルトライフルの使い方を簡単にレクチャーする。

「いいか?自分の身は自分で守れ。それが、戦場でのルールだ」

ミスター・サイガは丈一郎の両肩に手を置いて言った。


ミスター・サイガ達の集団が歩き出して二時間後。

山中から少し景色が広がりを見せた辺りで、小さな建物らしき物体が姿を現した。コンクリートで雑に作られた建物らしく、いたる所が崩れ落ち剥離しているのがわかる。色も風化しているのか、灰色と茶色のコンストラストを引き出している。

建物の回りには、材木で作られた物見台が三個ある。敵の侵入を監視する為であろう。

建物の裏手辺りからは白い煙が無数に上がり、生活感が漂っている。

まさしく、敵のアジトである。

「さて、どうするか」

ミスター・サイガが呟いた。

大柄な体格の黒人。

髪の長い韓国人。

眼鏡をかけた華奢な白人。

背の低い中国人。

そして、風間丈一郎である。

年齢にしては体力のある風間丈一郎だから、ミスター・サイガ達に付いて来られたが、平凡な普通の十二歳なら付いて来られず、すでに脱落していたであろう。

作戦は一瞬で決まった。

ミスター・サイガが全ての指揮権を発動し、他のメンバーに指示を出す。ミスター・サイガと風間丈一郎を残して、他のメンバーは茂みの中に姿を消した。

ミスター・サイガは身を低くし、ゆっくりと茂みの中を進んでいく。緑の茂みが少なくなり、木々が多少開けてくる。

風間丈一郎は大きな木の下でたたずんでいた。手には大きなアサルトライフルM16A2を持っていたが、掌は汗でぐっしょり濡れていた。

ミスター・サイガは、茂みの中から敵の物見台を眺めていたが、いきなり獣の如く走り出すと、物見台の下に移動した。

三台ある物見台のうち、人がいるのは左右の二台だけである。

左側にある物見台の下にはミスター・サイガが。

右側の物見台の下には、髪の長い韓国人がいた。

お互いがアイコンタクトで合図をすると、物見台の頂上へ向かって登り出した。そのスピードは人間の動きではない。

ガツガツと両手を使って登っているが静かであり、口にはナイフを挟み込んでいる。

物見台の頂上にふわりと辿り着いたミスター・サイガは、椅子に座っていびきをかいている敵の兵士の頭を掴むと後方に捻った。

ごきききっ!

という気持ちの悪い音がした後、その兵士は物見台の床に倒れた。

即死である。

髪の長い韓国人は、敵の兵士が起きていたこともあり、ナイフで心臓を一突きして絶命させていた。

これで、物見台から発見されることがなくなったのだ。

ミスター・サイガは、茂みの中で待機していた大柄な体格の黒人と背の低い中国人、眼鏡をかけた華奢な白人に物見台の上から合図した。

髪の長い韓国人はすでに物見台の下に降りて、背中に背負っていたアサルトライフルM16A2を持って、建物に静かに近付いていた。

ミスター・サイガも、物見台の床から伸びている綱を掴むと、一気に地面に滑り降りる。

建物の外壁には、ミスター・サイガ以外全員が集結していた。

ミスター・サイガは態勢を低くしたまま、チーターの様に走り抜け、建物の扉を足で蹴破り中に滑り込んだ。

中には三人の兵士がいて、アサルトライフルを横に置いて談笑しているようだった。

だが、ミスター・サイガの動きは速い。

照準を定めた瞬間、両手に持っていたナイフで三人の兵士の首を横一線に引き裂いた。

そのまま、動きを止めることなく次の部屋に滑り込む。

ミスター・サイガに続いて、髪の長い韓国人が三人の兵士の心臓をナイフで次々に刺していく。完全に息の根を止めないと、後々こちらが痛手を負うことになるからだ。

次の部屋には五人の兵士がいた。

ミスター・サイガの動きは、人間の領域を確実に超えていた。

両手に持っていたナイフを兵士に向かって投げた。一人は額に深々とナイフが突き刺さり絶命した。もう一人は、ナイフが右目に突き刺さり、その場で倒れ込む。

敵の兵士達も何が起こったのかがわからない。

その瞬間には、ミスター・サイガの両手が兵士達の頭を掴み、次々と捻っていた。頭部を半回転以上捻られた兵士達は、白目をむいて絶命していく。

そして、次の部屋へ。

その頃になると、物音や兵士の悲鳴に気付いた敵の兵士達が動き出してきた。

ここで、大柄な体格の黒人はアサルトライフルM16A2を握り締めると、建物の外壁を右回りに走り抜け、敵兵を見定め銃撃する。

バババババババツッ!

敵兵が面白い様に吹き飛ぶ。

そして、建物の左側を攻めているのが、眼鏡をかけた華奢な白人である。

こちらも、敵兵を瞬時に見定め、アサルトライフルM16A2で一人一人射殺していく。


建物の中と外で銃声が響き渡り、敵兵の叫び声がこだまする。

茂みの中で佇んでいた風間丈一郎は、その光景を遠くから眺めていたが、いきなり吐き気をもよおしてその場で胃の中のモノを吐いた。

十二歳とは思えない体躯。

身長百七十二センチ。

体重八十キロ。

だが、精神力はまだまだ子供である。

平和な国での喧嘩などとは程遠い、戦場での現実。

「死」と言うリアルな危険が自分の身に迫ってくると感じた時、人間の精神力は大いに試されるのだ。

(あそこで何人の人間が死んでいるのだ?)

咳き込み、涙で視界が何も見えない。

(こんな世界があっていいのか?)

また、吐き気が襲ってきたが、胃の中が空っぽなのか、黄色い胃液しか出なかった。

(俺は・・・、ただ・・・強くなりたかっただけなのだ)

両眼から透明な涙がボトボトと落ちる。

(ただ、父さんに認められたかっただけなのだ)

風間丈一郎は、両手でアサルトライフルM16A2を持ちながら、フラフラと茂みの中から歩き出した。


建物の中から、ミスター・サイガと髪の長い韓国人が出てくると、背の低い中国人はポケットに入っていた手榴弾のピンを抜いて、建物の窓から中に放り投げた。

数秒後、大きな爆発音と共に建物の一部が吹き飛ぶ。

銃撃戦は、建物の裏側でまだ起こっていたが、敵兵の悲鳴しか聞こえてこない。

建物の裏側から表側へ逃げ出そうとする敵兵も、ミスター・サイガに捕まり、喉をナイフで引き裂かれ死んでいく。髪の長い韓国人は、物見台に登ると、アサルトライフルM16A2を構えて、逃げ惑う敵兵を上空から射撃する。

反政府軍グループの殲滅こそが、今回の仕事である以上、誰一人としてここからは生きて帰してはならないのだ。

時間にして約1時間。

人数にして約四十名の反政府軍グループの人間がこの世を去ったのだ。

ミスター・サイガ達の完全勝利。

誰もがそう思った時。

遠くで人間の叫ぶ声が聞こえた。

ミスター・サイガ達が、瞬時にその方向へと走り出した。

そして。

そこには、反政府軍グループの一員に捕まって、頭部に銃を突き付けられている風間丈一郎の姿があった。

「くっ!」

ミスター・サイガは舌打ちをした。

(あれほど、茂みの中から動くなと言ったのに・・・)

大柄な体格の黒人、背の低い中国人、髪の長い韓国人、眼鏡をかけた華奢な白人、全員がその場に居合わせる。

「ミスター・サイガ、あの坊やが死のうが関係ない。敵を打ち殺すぞ」

大柄な体格の黒人は、アサルトライフルM16A2を持ち上げて構える。

今にも発砲しそうな態度である。

敵兵が大声で何かを叫んでいるのがわかる。

「待ってくれ!俺が行く」

ミスター・サイガはそう言うと、両手を上空に上げた。

降服のポーズである。

「おい!ミスター・サイガ!俺達の目的を忘れたのか?!」

眼鏡をかけた華奢な白人が叫ぶ。

「お、お、お、お前ら・・・何をしてくれているのだ?!我が同朋にこんなことをして神が許すと思っているのか!」

風間丈一郎の頭に銃を突き付けている男は、大声で叫んでいる。

「殺してやる!お前ら全員殺してやる!全員、両手を上げろ!全員だ!」

両眼を見開き、全身を震わせて叫ぶ。

手に持っている小型銃を、さらに風間丈一郎の頭部に押し付ける。

「い、痛い・・・。やめて・・・」

風間丈一郎は両目から涙を流し、鼻水を垂らしながら、言葉を放つ。

「皆、頼むから俺の言うことを聞いてくれ」

ミスター・サイガは言う。

「チッ!」

大柄な体格の黒人は舌打ちをすると、アサルトライフルM16A2を足元の地面に投げた。

「おいおいおい!本気かよ?!なぁ?」

眼鏡をかけた華奢な白人も、手に持っていたアサルトライフルN16A2を地面に投げ付け、両手を上空に上げた。

髪の長い韓国人と背の低い中国人も、手に持っていた武器を地面に捨て、両手を上に上げる。

「我が同朋を殺した罪は甚大である!許さない!許さない!神よ!この悪魔達を全員殺すことをお許しください!」

反政府軍グループの男は、口から大量の唾を撒き散らしながら叫び続ける。

「まずはお前だ!ゆっくりこっちに向かって歩け!」

指名されたのは、ミスター・サイガである。

両手を上空に上げたまま、ゆっくりと歩を進める。

一歩、二歩と。

その瞬間。

空気を響かせる銃撃音が一発鳴った。

それと同時に、ミスター・サイガの右太腿から血が噴き出る。

「もっとゆっくりだ!もっとゆっくり来い!悪魔め!」

その男は、小型銃をすばやく風間丈一郎の頭部に当てる。

ミスター・サイガは、本当にゆっくりとした歩みで進んでいく。

進んだ道筋には、赤い血がしたたり落ちている。

「だから言ったんだ!そんな坊主は捨てていけってな!そうだろ?お前ら?!」

眼鏡をかけた華奢な白人は叫ぶ。

「黙れ!ここはミスター・サイガにまかせるんだ!」

大柄な体格の黒人は、眼鏡をかけた華奢な白人を睨む。

「何を話しているんだ!悪魔達め!何かの作戦か?!許さない!許さないぞ!悪魔め!」

そして、小型銃をミスター・サイガに向けて発砲する。

パン!と言う乾いた音がしたと思うと、ミスター・サイガの左脇腹から血が噴き出る。

「ぐっ・・・」

ミスター・サイガは激痛を口の中で押し殺した。

「許してください・・・許してください・・・」

風間丈一郎は声を震わせて言葉を放った。

だが、反政府軍グループの男には日本語は通じない。

ミスター・サイガが、数メートル程、前進した時。

大柄な体格の黒人と髪の長い韓国人は、ミスター・サイガのある一部を見た。

そして、お互いがアイコンタクトをしてニヤリと笑った。

その笑いは、勝利を確信した笑いであった。

「ちきしょう!ちきしょう!だから、俺は言ったんだ!そんな坊主は捨てていけってな!」

眼鏡をかけた華奢な白人は大声で叫ぶ。

それに反して、背の低い中国人は静かに黙ったままである。

そして、フッと笑った。

背の低い中国人も何かに気が付いた様であった。

ミスター・サイガは両手を上空に上げたままである。

だが。

左手の中指の付け根には、透明なピアノ線が光っていた。

そして、そのピアノ線を下方に辿っていくと、なんと刃渡り二十センチ程のナイフがぶら下がっているのである。

反政府軍グループの一員からは、ミスター・サイガの太い腕でナイフは隠れているが、仲間達からは丸見えなのだ。

ナイフの柄の部分に、透明のピアノ線が輪っかになっていて、それを中指にぶら下げている感じである。

大柄な体格の黒人、髪の長い韓国人、背の低い中国人は、ミスター・サイガの勝利を確信していた。

それ程、ミスター・サイガの戦場での信頼度は高かった。

反政府軍グループの男が、何かを叫んで小型銃をミスター・サイガに向けた瞬間。

ミスター・サイガは、上空に上げていた左手をすばやく下ろした。

左腕の後ろに隠れていたナイフが、一直線に飛ぶ。

そして。

ドスッ!という鈍い音が響く。

反政府軍グループの男の左目には、ナイフが深く突き刺さっている。

「ぐあああああっ!」

その男は、激痛と左目が見えなくなったことに動揺したのか、大声を上げた。小型銃を地面に落とし、風間丈一郎を突き飛ばす。

風間丈一郎は、体をよろめかせて地面に倒れそうになる。

だが、倒れなかった。

ミスター・サイガが風間丈一郎の体を後ろから支えていたからだ。

いつの間にか、反政府軍グループの男と風間丈一郎のいる場所まで移動していたのである。

なんという瞬発力であろうか。

「丈一郎、覚悟を決めろ」

ミスター。サイガはそう言うと、風間丈一郎の右手を後ろから掴んだ。

「え?」

風間丈一郎はキョトンとした表情になる。

ミスター・サイガは、敵の左目に突き刺さっているナイフを風間丈一郎と一緒に引き抜く。潰れた眼球と大量の赤い血が噴き出る。

「ああぁ・・・」

風間丈一郎は声を震わせた。

(何が起こっているのだ?これはなんなのだ?)

「ぎいやあああああーーー!」

反政府軍グループの男は、両手で左目付近を押さえて、両膝を地面に付けた。

「あああぁぁ・・・」

風間丈一郎は、ナイフを右手から離そうとしたが、後ろからミスター・サイガが強く抑えているので離せない。

そして。

ミスター・サイガは、丈一郎の右手をゆっくり動かすと、敵の男の首元へナイフを導いた。

「え・・・?」

風間丈一郎は、後ろを振り返りミスター・サイガを見る。

「覚悟を決めろ、丈一郎。戦場で生きていくしか道がないのなら、敵を殺すことに躊躇するな」

ミスター・サイガはそう言うと。

風間丈一郎の右手と一緒に、ナイフを横一直線に走らせた。

ぶしゅああっ!

敵の男の頸動脈から、血飛沫が噴き出る。

風間丈一郎は、その赤い血を顔面に大量に浴びた。

「ひいいーーーーーっ!」

風間丈一郎は、ガクガクと体を揺らす。

(俺が人を殺した?そんなことはない!そんなことはない!)

反政府軍グループの男は、切られた首から出る血を止めようと、すぐに両手で押さえていたが、無駄なことであった。数秒後には、顔面から地面に倒れ込み、全身を痙攣させると動かなくなっていた。

「ひいいいーーー!」

風間丈一郎は、真っ赤に染まった自分の両手を見て叫んだ。

(俺は殺していない!俺は殺していないのだ!)

その瞬間、視野が急に狭くなり、周りから黒い闇が襲ってきた。

そして、意識を失ったのである。


電車の窓に映り込んでいる自分の肉体を見ながら、西牙丈一郎は過去を思い出していた。

「ククク、お前達とは潜りぬけてきた世界が違うのだ」

ポツリと独り言を言う。

電車がどんどんとスピードを落として、最寄りのホームに吸い込まれていく。

西牙丈一郎が出入り口のドアに向かって進もうとした時。

気絶している香川浩介の右足がずるりと動いた。

「何?」

西牙丈一郎は驚いた。

いや、確実に意識は失っている筈である。

だが、香川浩介の肉体は、ゆっくりと動いたのだ。

人間の闘争本能?

いや、前に進もうという自我?

「ククク、お前は本当に最後まで楽しませてくれる」

西牙丈一郎は、出入り口のドアに向かってゆっくり進む香川浩介に道を開けた。

止めることも出来たであろう。

足を引っ掛けて倒すことも出来たであろう。

だが、西牙丈一郎はそうはしなかった。

なぜなら、最高の闘いを味あわせてくれた香川浩介に、敬意を示したのである。両眼は光を失い、口の端からは血を流し、完全に意識を無くしてでもなお、動こうとする香川浩介に。

香川浩介は、出入り口のドアの前まで進むと、頭部をドアに付けてピタリと止まった。

西牙丈一郎は、香川浩介の後ろに静かに立つ。

電車はさらにスピードを落としていく。

そして、ホームにゆっくりと止まると、全車両のドアが開いた。

ぷしゅーっ。

そして、香川浩介の体が、長い闘いから解き放たれるようにホームにぐらりと降り立った。

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