第21話  解き放たれた拳 

「そりゃ!そりゃ!行けぇーーー!」

稲葉会総裁・稲葉剛は両手を上空に上げて叫んだ。

隣に正座して座っている稲葉会若頭補佐・若林組組長・若林一成の顔色は、みるみる青白くなっていて、今にも倒れそうである。

なぜなら。

自分のボディガードをしている河村亜門が、戸倉一心に怒涛の攻撃を受けてボロボロになっているからだ。

河村亜門が負けることは、自分の死を意味している。

(総裁は絶対に実行する人だ!確実に!だから、俺は殺される!)

若林一成は、ゴクリと唾を飲み込んだ。

(誤算だった!まさか、戸倉がこれ程の強さだったとは・・・)

額から気持ちの悪い汗が流れ落ちる。

戸倉一心は、河村亜門の攻撃をよけると、左右の掌底を力強く放つ。

その攻撃は、気持ちのいい様に河村の顎を打ち抜く。

しかし。

それでも、河村は動きを止めない。

「殺してやるーーー!」

大声をあげて、戸倉に左右の拳をぶん回してくる。

視界はすでに波打った様になっているはずだが、薬物の効果が絶大なのか、攻撃の手を緩めようとしない。

「まだやるか、コラ」

戸倉はドスの効いた声で言うと。

後方にふわりと飛び上がった。

そして。

白い砂を両足の指でメリッと掴んだ。

「お前、死んでもしらんぞ」

戸倉は大きく息を吸い込むと。

左手を前方に出した。

それは、余りにも大きい掌である。

通常の成人男性の二倍の大きさはあるのではなかろうか。

その掌の指を。

一本ずつ。

内側に曲げて納めていく。

「ま、ま、ま、まさかーーーーー!」

稲葉会総裁・稲葉剛は、身を乗り出して叫ぶ。

「戸倉一心が・・・拳を握る姿が見れると言うのかーーーーー!」

稲葉の興奮は絶頂に達している。

それもそのはずである。

戸倉一心が拳を握るなんて、ここ数年なかったからだ。

その姿を見たものは奇跡であり、対戦相手で見たものはこの世にほとんど生存していないからである。

それ程、貴重であり、危険なことなのである。

小指から順番に掌に押し込んでいく。

薬指、中指、人差し指。

そして、最後に親指を四本の指の上に置く。

「準備完了じゃい!」

戸倉はそう言うと、その左拳をゆっくりと後方に下げる。

「へへへ!ぶっ殺してやる!」

河村は両目の焦点を泳がせながら、戸倉に向かって突進してくる。

戸倉は軽く瞬きをすると。

体ごと、河村に近付いた。

その瞬間には、河村の体は大きく揺れて、後方に五メートル程ふき飛ばされていた。

戸倉は、左拳を前方に出したまま立ち止まっている。

「あ、あ、あ、ぐあふぁつっふぐ・・・」

河村は変な呻き声を上げている。

両足をガクガクと震わせて、頭部は上空を向いている。

「終了や」

戸倉は、左拳をゆっくりと下に降ろすと、ズボンのポケットに突っ込んだ。

ズシン!

と、河村の膝が、白い砂の散りばめられた石庭に落ちる。

河村の頭部がぐらりと正面を向く。

「・・・・・!」

稲葉会若頭補佐・若林組組長・若林一成は声を失った。

なんと。

河村の下顎が、なくなっているのだ。

いや、なくなっているのではない。

下顎が強烈な衝撃により、皮膚と共に粉砕され、なくなったように見えるのである。

だが、その衝撃は下顎だけにとどまらない。

頭部全体に波紋を呼び、河村の頭部は異様な形に変形していた。

上顎も数カ所破損しているのか、いびつに歪んでいる。

両目は白目を剥き、口内からは大量の血と涎を垂らしている。

全身をガクンガクンと震わせていたが。両膝を着いたまま倒れないでいた。

それは、河村亜門の最後の意地なのだろうか。

「あ、あ、あ・・・・」

稲葉会若頭補佐・若林組組長・若林一成は、声を震わせた。

(負けた・・・。負けた・・・。)

全身に悪寒が走る。

若林にとって、もう河村のことはどうでもよかった。

このまま、河村亜門が死んでしまおうが、生き残ろうが、自分には関係のないことであった。

今は、自分の身を守らなければならない。

(くそ!くそ!くそっ!)

若林は、横目で稲葉剛をチラリと見た。

「おおおーーーーー!最高じゃーーーー!」

稲葉剛は、全身で興奮を露わにして叫んでいる。

戸倉一心の闘いに夢中で、周りの状況には目もくれていない。

若林はゆっくりと背広の内側に左手を滑り込ませた。

(チャンスは今しかない!このままだと、俺は殺される!だが・・・、総裁さえ殺してしまえば、なんとかなるかもしれない!)

若林は、背広の内側に忍ばせてあった短刀を引き抜いた。

刃渡り二十センチはある。

そして。

稲葉剛の首に走らせる。

戸倉一心ですら、気が付いていない。

刃の先が、稲葉剛の首元に近付いていく。

その距離、一センチメートル。

(決まった!これで、俺は殺されないですむ!)

若林の表情が一瞬、赤く高揚した。

その時。

にゅるり、と。

稲葉剛と若林一成の間、後方から太い腕が出てきた。

そして。

若林の握っている短刀の刃を、掌でぎゅっと掴んだ。

「これは駄目だろ?若林さん」

稲葉と若林の後方から、野太い男の声が聞こえる。

「・・・・・!」

若林は慌てて、後方を振り返った。

そこには、一人の大男があぐらをかいて座っていた。

戸倉一心でもなければ、稲葉会関係のヤクザでもない。

だが、若林はこの男を知っていた。

「あ、あ、あ・・・」

若林は血の気が引くのを感じた。

「ん?どうした?」

稲葉会総裁・稲葉剛は、隣で起こっている騒ぎに、ようやく気が付いた感じであった。

そして、若林が握っている短刀を静かに見る。

「なるほど、なるほど」

稲葉剛は、両目を大きく見開いて静かに頷いた。

「そういうことか・・・」

全てを悟った動作である。

「あ、あ、あ、総裁!総裁!すみません!すみません!」

若林は大声で懇願すると、短刀の柄から手を離した。

「消せ」

稲葉剛は、顔を石庭の方向にゆっくり向けると呟いた。

何の情もない声色である。

その瞬間。

稲葉と若林の後方にいた謎の大男が、若林の頭部を両手で掴んだ。

そして。

軽く後方に百八十度捻った。

ばきっ。

若林の首から異様な音が聞こえたと思うと、そのまま上半身ごと前のめりに倒れる。頭部は反転して顔面を背中側に向けており、その表情は、両目を見開き、舌はだらりと口内から飛び出していた。

稲葉会若頭補佐・若林組組長・若林一成、即死である。

「梅雲、すまぬのぉ」

稲葉会総裁・稲葉剛は、後方にいた謎の大男に声をかけた。

「いえいえ、めっそうもありませぬ」

謎の大男は、大きな体を小さくして礼をした。

そこに、戸倉一心がゆっくりと近付いて来る。

「総裁、大丈夫でしたか?」

戸倉は、稲葉剛に声をかける。

「ははは!大丈夫じゃ!なんせ、お前と唯一互角に闘える男・郷田梅雲がワシを守っておるのじゃからのぉ!」

稲葉は、大声で笑うと後方にいる大男を見た。

その男こそ、裏社会においては、戸倉一心と同じぐらい有名な男・郷田梅雲である。

郷田梅雲ごうだばいうん

齢、四十歳。

身長、百九十二センチメートル。

体重百三十五キログラム。

裏社会で生きている人間で、この男の名前を知らない人間は誰一人としていないのではなかろうか。

それ程有名であり、それ程偉大な男なのである。

そして、裏社会の「暴武」部門で、戸倉一心と双璧を為す存在でもあるのだ。

「デビルハンド戸倉」「暴力の絶対者」こと、戸倉一心。

「クラッシャー郷田」「破壊の帝王」こと、郷田梅雲。

このツートップこそが、裏社会の「暴武」部門においての頂点であり、誰もが目指す頂でもあるのだ。

裏社会の中にもいろいろな部門があり、「暴武」の部門とは、暴力や武闘と言った力の世界を現し、「暗密」の部門とは、情報収集や交渉と言った情報機関の世界を現すのである。

「一心、久しぶりだなぁ?」

郷田梅雲はニヤリと笑うと、自分の顎に生えている髭を撫でた。

その笑いは、決して嫌味な笑いではなく、相手を信頼している笑い方であった。

頭髪は黒一色でボサボサ。

顎髭も適当に伸ばしている様子。

そして、驚くべきはその体躯である。

戸倉一心が、先程闘った河村亜門もかなり大きかったが、それ以上に郷田梅雲は大きいのである。

「本当ですね」

戸倉一心もそれに答える。

そう、この二人は親友でもあるのだ。

知り合ったのは、日本裏社会の「暴武」部門に入ってからだが、二人で切磋琢磨して、「暴武」の世界をここまで大きくしたのである。

「しかし、お前が拳を握るのは、久しぶりに見たわ」

郷田はそう呟くと、ゆっくりと畳の上から起き上がった。

大きい。

いや、体躯だけではない。

この男の持っている空気感が、全ての人間を大きく包み込んで、回りの人間の存在を小さくするのかもしれない。

「ほんまじゃ!ほんまじゃ!一心の拳を握る姿が見れるとは、ワシも運がいいわい!」

稲葉剛は大声で笑った。

戸倉一心が、稲葉会総裁・稲葉剛の専属用心棒を辞めてからは、郷田梅雲が代わりに専属用心棒を引き継いでいた。他の男達でも良かったのだが、万に一つの間違いも起こせない稲葉剛の用心棒には、やはり戸倉一心レベルの人間を置くしかない。

そうなると、郷田梅雲しかいなかったのだ。

郷田梅雲は、しばらく戸倉一心を眺めていたが、ゆっくり近付くと静かに言った。

「最近、表社会の人間に熱をあげているみたいじゃないか?」

戸倉は郷田を見上げた。

「ほう、どこでその情報を手に入れたのですか?」

「俺様の情報網を甘くみるんじゃないわい!ぐははは!」

郷田は顎髭を撫でながら言った。

「そうですか」

戸倉は、畳に置いておいた自分のスーツを拾い上げた。

「だが・・・」

郷田は顎髭を触るのをピタリと止めた。

「これ以上、表の世界で好き勝手していると・・・執行部が黙っていないぞ」

郷田は、戸倉を見下ろして静かに言った。

裏社会執行部。

それは、裏社会のいろいろな部門全てを牛耳っている最高機関であり、裏社会の中枢でもある。執行部で決定された物事は、裏社会で生きている人間にとって絶対的ルールであり、それに背くことは死を意味しているのだ。

そして、戸倉一心の行動は、執行部が動き出すに十分な内容でもありえる。裏社会の、それも「暴武」部門のトップが、表社会の誰ともわからない人間と戦おうとしているのだ。裏社会においては、仕事が絡まない限り、裏社会の人間同士でも喧嘩や揉め事は、基本的にご法度とされている。

郷田は、脳裏に描いている妄想を大きく広げた。

執行部が戸倉一心の行動を知るのには、そう時間はかかるまい。

いや、ワシでさえ知っている情報なら、すでに情報は筒抜けかもしれぬ。

そこで執行部が動き出し、戸倉一心の審判を決断したとなると・・・。

答えは、五分五分。

裏社会からの追放か、もしくは抹殺指令だ。

執行部の中には、戸倉一心の強さを称える者もいるが、反対に煙たがっている者も多数いる。

そして、郷田はわかっていた。

戸倉は、追放と言う審判が下ったとしても、喜んでその審判を受け入れるであろうことを。

あいつは、そういう男だ。

裏社会での地位や名誉なんて、何も求めてはいまい。

あいつが求めているものは、強さへの探求心のみだ。

裏社会からの追放や脱退は、今後絶対に裏社会とは関わってはいけないことを現している。

だが、あいつはそんなことなど関係なく、強い人間を探し求め闘い続けるであろう。それが裏社会の人間であっても。

郷田は両目を閉じると、小さく息を吐いた。

そして、ゆくゆくは抹殺の審判が下ったとしたら・・・。

もう、誰も止められぬ。

この俺自身も、お前を殺す為に動かなくてはならなくなる。

お前は何もわかってはいない。

俺達の様な人間が生き残れる世界は、この裏社会でしかないのだ。

だから。

お前を、そうはさせない。

唯一無二の親友として。

「郷田さん、私の追っている男はただの男じゃないですよ。裏の世界でも滅多にお目にかかれない程の男です。そんな男が、表の社会にいること事態おかしいのですよ」

戸倉はスーツを着ると郷田を見た。

「まぁ、お前は一度言ったことは、絶対に引き下がらないタイプだからのぉー」

郷田は小さく笑うと、戸倉の横をするりと歩いた。

大きな体躯をしていながらも、その動きは滑らかでいて機敏である。

「しかし、執行部が動き出すと言うのなら・・・俺がお前を止めるしかあるまい」

郷田は石庭を眺めながら静かに言った。

「あなたが私を止めると?」

戸倉は、石庭を眺めている郷田を振り返って見た。

「まぁ、そうなるわなぁー」

郷田は戸倉の方を見ずに、石庭を端から端まで眺めながら言い返す。

「そんなことをすれば、私かあなたのどちらかが無事ではいられないでしょう」

戸倉は郷田の大きな背中を見た。

裏社会の「暴武」部門のトップ二人が戦うとなると、どちらかが命を落とし、どちらかが瀕死の重傷を負うことは目に見えている。

さらに、トップ二人を長期間失った「暴武」の裏社会は、バランスを崩し、暴力の戦国時代へとなだれ込むことは間違いないのである。

「それもわかっているわい」

郷田はくるりと振り向き、戸倉を見る。

「だが、親友であるお前を止めるには、ワシが動くしかあるまいて」

郷田の眼は悲しげであり、そして温かい情熱を含んでいた。

「・・・・・」

戸倉は、その眼を真正面から受け止める。

「コラコラコラ!お前らは何をゆっているんじゃー!」

稲葉剛が、すばやく間に入ってお互いを見渡す。

「お前らが戦う?そんなことはワシが許さんぞ!ワシにとって、お前らは大事な用心棒なのだからなぁ!」

稲葉は大声で笑うと、戸倉と郷田の肩を叩いた

「これはワシからの命令じゃ!お前達は絶対に戦ってはならぬ!わかったか!」

稲葉は笑いを止めて、大声で言い放った。

「・・・はっ」

郷田梅雲は少し沈黙した後、こくりと頷いた。

「御意」

戸倉一心も静かに頷く。

「がはは!それでいいのじゃ!お前達が戦うことはワシが許さぬわ!例え、それが裏社会・執行部の命令であってもな!」

稲葉剛は、大声で笑い出すと、戸倉と郷田を見た。

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