第18話 ドラッグファイター
稲葉会総裁・稲葉剛の豪邸。
その中に存在する石庭。
その広い空間に、戸倉一心と河村亜門は対峙していた。
お互いの間合いは、五メートル程であろうか。
河村亜門は、上半身に身に付けている白いシャツを脱ぐと、石庭の端に向かって投げ捨てた。
戸倉一心は、河村亜門の肉体をゆっくり見る。
その肉体は尋常ではなかった。
筋肉が異常な程付いている上半身。
首は顔の幅よりも太く、腕も大きく血管が浮き出ている。
両肩の筋肉は盛り上がり、胸の厚さは腹部の二倍程である。
腹筋は気持ち悪い程に割れ、八個の隆起を作り出している。
「ほう、なるほど・・・」
戸倉は河村を見て言った。
河村は左右の手首を回すと、ダラリと全身を脱力させた。
体中からは恐ろしい程の殺気を放っているのだが、静かで落ち着いている。
戸倉は、首に巻きついているネクタイを外すと、石庭の端に投げた。
その瞬間。
河村亜門は、白い砂を蹴っていた。
河村亜門の大きな体が宙を舞う。
そして。
戸倉の顔面に向かって放たれる重い蹴り。
戸倉は両腕でその蹴りを防御するが、その威力と重さにニメートル程後退する。
石庭の白い砂が飛び散り、砂煙を巻き上げる。
河村は石庭の地面に降り立つと、体をぐるんと回転させて戸倉の顔面に右拳を飛ばす。
戸倉も負けてはいない。
その右拳を左手で叩き落とすと、軽く前蹴りを放つ。
だが。
河村はその蹴りを自慢の腹筋で受ける。
バチーーーン!
お互いの攻撃が同時に起こり、爆音が空気中を響かせる。
石庭全体を見渡せる六十畳の和室のヘリには、二人の男が座っていた。
一人は、稲葉会総裁・稲葉剛。
もう一人は、稲葉会若頭補佐・若林組組長・若林一成。
稲葉剛は、両腕を胸元で組み、両眼を輝かせている。
戸倉一心の暴力が久しぶりに見れる喜び・幸せ。
それだけが彼の心を満たしていた。
若林一成は、稲葉総裁の隣に正座していた。後頭部や顔面からは大量の血を流していたが、今はそれ所ではなかった。自分が死ぬか生きるかの瀬戸際なのである。目の前で行われている戦いを凝視するしかないのである。
「戸倉さん、あなたと戦えるなんて光栄ですよ」
河村は、ぽつりと声を発した。
「それはありがたい事で・・・」
戸倉は両手を前方に持っていき、構えた。
「あなたの武勇伝や噂は、今までに毎日の様に聞かされてきましたからね。ただ、もうあなたの時代は終わりですよ。年齢も四十歳になられ、肉体の衰えも出てきているのでは・・・?」
河村は首を左右に振った。
「自分では衰えは感じないのですがねぇ」
戸倉はじりじりと石庭の白砂を足の指で撫でた。
「今日、私があなたに引導を渡して終わりにしてあげますよ」
河村は大きく息を吸うと、息を止めた。
そして。
河村が右足を一歩、前方に出した時。
河村は大声で叫んだ。
「あああああぁぁぁぁぁーーーーーーーーーーーーー!」
その叫びは、石庭のみならず、稲葉剛の豪邸をも包み込んだ。
稲葉剛と若林一成は、あまりの大声に慌てて両手で両耳をふさいだ。
河村の肉体はすでに躍動していた。
戸倉の体中に、左右の拳や蹴りを次々に叩き込んでいる。
そのスピード、破壊力、どれを取っても人間業ではない。
戸倉の体からは衝撃音と火花が散り、攻撃を受ける度に体が揺れた。
「お前の時代は終わったのだーーーーー!」
河村はさらに大声で叫ぶと、左右の蹴りを戸倉の両足に叩き込んでいく。
一秒間に三発。
いや、四発、五発と飛ばす。
その連続攻撃に、戸倉は顔をしかめた。
「河村あぁーーー!いけぇーーー!ぶち殺せーーー!」
若林一成は両手をあげて叫んだ。隣に稲葉総裁が座っていることなどお構いなしである。
なぜなら、自分の命がかかっているからだ。
河村はすばやく戸倉の右手首を両手で掴むと、体を反転させて腰に戸倉自身を乗せ回転した。
その速さは、素人には絶対に眼で追うことができないレベルである。
どごおぉんーーー!
戸倉の体が石庭の地面に叩き付けられる。
そして、跳ねる。
柔道で言う、一本背負いである。
「がはあぁーーーーーっ!」
戸倉は大きく咳き込むと、すばやく体を回転させて地面に両手両足を付いた。
河村は、その戸倉の顔面に向かって蹴りを飛ばす。サッカーボールを力一杯蹴る様な攻撃である。
だが、その攻撃は空を切った。
戸倉は、両手に力を入れると地面を押し、上半身を跳ね上げた。
戸倉の体が地面に立ち上がる。
そして。
また、戸倉一心と河村亜門の間には、五メートル程の間隔が出来上がっていた。
「なかなかやりますね?あなた」
戸倉は黒いシャツに付いた白い砂の汚れを両手で叩いた。
「戸倉さん、負け惜しみはいいですよ。あなたでは、私には勝てない!」
河村は戸倉を見下ろして言う。
「その自信は、どこからきているのですか?」
戸倉は静かに河村を見る。
河村はニヤリと笑った。
両眼の焦点が合っていない。
「そろそろ時間だ」
河村は、戸倉の質問を無視すると、体中をぶるっと震わせた。
痙攣。
いや、そうではない。
興奮が抑えられないようである。
先程までの静かに落ち着いていた雰囲気がなくなり、恐ろしいまでの殺気のみが表面に出てきている。
「一つ、良い情報を教えてやろう」
河村は両目を大きく見開いて、戸倉を凝視した・
その両目は赤く充血して、空を彷徨っている。
「ここに来る二時間程前に、その男はある薬を服用した。その薬は、強力な殺傷能力と暴力性を追求して調合された、裏社会でしか手に入れることのできない代物だ。そして、それを服用した人間は、人間離れした力と瞬発力を手に入れることができるのだ」
河村はゆっくり語りだした。
「なるほど・・・」
「それで・・・合点がいきますね。あなたの体から溢れ出ている異常なまでの殺気が」
(薬物の服用ですか)
戸倉は河村を見て言った。
「そして、その薬の効果が出てくるのが、服用後・・・約二時間後・・・。そろそろだ・・・」
河村は体中から力が漲ってくるのがわかった。脳細胞が鮮明に晴れ渡り、筋肉が興奮の雄叫びをあげていく。頭部には数本の血管が浮き出て両目は充血して見開いてくる。
「きたきたきたーーーーー!」
河村は石庭の上空を仰ぐと、叫びだした。
「最高だ最高だ最高だーーーーー!」
河村の口からは、白い煙の様な蒸気が出る。
「これ程の充実感はあるだろうか!誰にも負ける気がしない!虎であろうが、ライオンであろうが、粉々に粉砕してくれるわ!」
河村は大声を上げて両腕を天高く伸ばす。
そして。
河村の両目が戸倉の姿を捕えた瞬間。
戸倉の体が、くの字に曲がって後方に飛んでいた。
「ぐっ!」
戸倉は両手でその攻撃を防いだと思ったのだが、河村の前蹴りはさらにその上をいっていた。
五メートルの距離感を、一瞬にしてゼロにする瞬発力。
さらに。
戸倉が飛ばされた場所には、すでに河村の体があった。
下方から、轟音が響き渡る。
戸倉はすばやく左手を出した。
河村の左拳を受け、体を捻り右手の掌底を飛ばす。
ズバーーーン!
河村の顔面に、戸倉の掌底がぶち当たるが、河村は引かない。
掌底を受けながら、左右の拳を放つ。
戸倉は軽いフットワークでそれらを避けると、後方に飛び上がった。
ふわり。
しかし、河村も同じ様に空中を飛び上がる。
そこで。
数十発の殴打戦。
河村の蹴りが唸りを上げ、左右の拳が雷鳴を轟かせる。
戸倉の掌が爆撃を生み、前蹴りが光を放つ。
お互いの攻撃が同時に絡み合うことにより、それはお互いの防御にも繋がる。
「最高最高最高―――――!」
河村は大声で叫ぶと、戸倉の体に無数の拳を放っていく。
戸倉も負けてはいない。
その無数の拳を左右の掌で受け止め、攻撃へと転換する。
そして。
河村と戸倉の両足が石庭の白い砂を踏んだ時。
河村の体が反転した。
その瞬間。
戸倉の頭部が後方へ弾き飛んだ。
「ぐはっ!」
戸倉は、上半身に大型トラックが衝突してきた様な衝撃を受けたが、首の力で頭部押し戻す。下唇からは赤い血が流れている。
「どうだ!どうだ!どうだ!戸倉一心!貴様の力では、この俺は止められないぞ!」
河村は蹴り足を引き戻した。
(回し蹴りですか・・・。しかし、あまりの速さで見えなかったですよ)
戸倉は下唇に付いている赤い血を舌で舐めると河村を見た。
河村の表情は人間の常識を逸脱していた。
両目は大きく見開き充血し、剃り上げられた頭部には数本の浮き出た血管が隆々と脈打っている。口内からは白い蒸気の様なモノが吐き出され、筋肉は気持ちの悪い程膨張している。
まさしく、薬物による恩恵だ。
人間は、薬物を摂取することにより、体力や筋力・持久力や瞬発力をいとも簡単に手に入れることができる。
しかし、その反面、肉体に起こる副作用もまた尋常ではない。
視力低下や心臓への負担、不眠症や精力の低下、頭痛や頭髪の抜け毛など、肉体への悪影響が顕著に現れるのだ。
だが、河村亜門にとって、その様な代償など無に等しかった。
最強の強さを手に入れられるのなら、どんな代償でも背負う気があったからだ。
強さこそが正義!
強さこそが全て!
強さこそが正しいのだ!
「これだ!これだ!体中に力が溢れて止められない感覚!殺してやる!殺してやる!ぶっ殺してやる!」
河村は舌を出すとニヤリとした。
ドラッグファイター・河村亜門の完成である。
その時。
ギリギリ・・・。
異様な音が石庭内に響き渡り始めた。
ギリギリ・・・。
何かと何かがこすれ合う音である。
「ははは!ついにきたか!一心の暴走モードじゃ!」
稲葉会総裁・稲葉剛は両手を叩いて笑顔で叫んだ。
隣に正座して座っている稲葉会若頭補佐・若林組組長・若林一成は、ゴクリと唾を飲んだ。
「そうだそうだ!それでいいんだ!戸倉さんよ!本気で来ないと俺があんたを潰してしまうじゃねぇかよ!」
河村は両目を見開いて大声をあげる。
口内からは異様な蒸気を発している。
ギリギリ・・・。
「血の味は久しぶりだねぇ・・・」
戸倉は上空を見上げてポツリと言った。
ギリギリ・・・・。
歯と歯がぎちぎちと擦り合い、居心地の悪い異音となる。
そして。
戸倉一心の顔が正面を向いた時。
その表情は一変していた。
両方の眉毛は吊り上り、眉間には五本程の筋が入っている。両眼は見開き血走っている。
「おどれ・・・いてまうぞ、コラ」
戸倉がドスの効いた声で静かに言った。話し方も、関西弁に変わっている。
戸倉一心の暴走モードである。
「最高!最高!最高!あんた、最高だぜ!」
河村は、戸倉の豹変振りに驚きもぜずに叫ぶ。
戸倉は腰を低く落とすと、河村に向かって走った。
河村も同時に石庭の白い砂を蹴る。
お互いが正面でぶつかり合う。
その時には、戸倉の左右の掌底が河村の両耳を叩いていた。
ズパパアァァーーーン!
轟音が響き渡る。
河村の両耳の穴からは血しぶきが噴き出るが、河村は痛みなど感じないのか、戸倉への攻撃の手を止めない。
河村の両拳が戸倉の顔面を襲う。
しかし、戸倉はそれらをかわすと、河村の顎に右膝を飛ばした。
「がはっーーー!」
河村はその右膝を喰らったまま、力で押し戻すと。
戸倉の顔面に頭突きを放つ。
「痛くも痒くもねぇぞ!戸倉一心!どうしたーーーー!」
河村はニチャリと笑う。
「安心せぇや。今から、おどれをとことんぶちのめしたるわ!」
戸倉は河村の頭突きを両手で掴んで防ぎ、自ら頭突きで応酬した。
グチャツッ!
一・二発。
ゴキキツッ!
三・四発。
メキキツッ!
五・六発。
河村の頭部を大きな両手で掴み、頭突きを顔面に打ち込んでいく。自らの頭部を限界ギリギリまで後方へ引き下げ、そこからの爆発的頭突き。
だが。
河村も負けてはいない・
戸倉の首を両手首で掴むと、戸倉の腹部に左右の膝蹴りをぶち込んでいく。
ドゴゴオオォン!
一・二発。
バグオオォォン!
三・四発。
バチイイィィン!
五・六発。
そして。
お互いの攻撃が二十発を超えた辺りで、どちらからでもなく相手の体を離した。
「ぐへへっ!効かないぞ!効かないぞ!そんな攻撃など!」
河村は両手を上空に高く上げて叫んだ。
しかし、その顔面は痛々しいまでの状態をさらしていた。
顔面は大量の血で染まり、鼻は右に折れ曲がり、左右の頬骨は粉砕骨折をしているのかへこんでいる。両耳からは血を流し、両瞼は打撲の為か半分閉じていた。
だが、薬物投与の影響なのか、痛みはまったく感じていない様である。
「はよ、おねんねしんかい、コラ」
戸倉は腹部を右手で数か所軽く押さえた。
どうやら、肋骨の数か所に痛みが走っているようだ。
(骨折はしとらんみたいやな。でも、数か所にヒビが入ったかもしれん)
そして。
戸倉の怒りが爆発した。
「おどれ・・何さらしてくれとんじゃい・・・」
戸倉はゆっくりと河村に近付くと。
左手の掌底を、弧を描く様に飛ばした。
河村は後方にすばやく移動する。
しかし。
戸倉の動きはその動きさえも凌駕していた。
河村の顎に戸倉の掌底が入る。
バググツツッ!
河村の体が一瞬ガクンと揺れる。
どれだけ肉体を鍛えようとも、どれだけ精神を鍛練しようとも、防げない部位がある。
目玉・脳・関節・神経網などのある顎に強い衝撃を受けたことで、脳が大きく揺れて視界を歪ませ、脳からの伝達網を鈍らせることができる。首を鍛えることで顎の脆さは防げるかもしれないが、余りにも強い衝撃を受けると、それもほとんど無意味である。
河村は、視界がぐんにゃりと歪むのを感じた。
さらに、両耳の鼓膜を破壊されているために、戸倉が言っている言葉が脳内に一切入ってこないのと、三半規管が正常に反応していないので平衡感覚がすでに失われていた。
「この野郎!ぶっ殺してやる!」
しかし、河村の肉体は悲鳴をあげない。
なぜなら、薬物によって痛みや怖さを感じなくなっているからだ。
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