白昼夢

@noino

白昼夢

僕は落ち込んでいた。なぜだかわからない。

しかし、この店で珈琲を飲んでいると、僕は自分が落ち込んでいることに気付く。


僕はこの店へ珈琲と煙草と読みかけた小説と有線で流れる妙に無機質でそっけないジャズスタンダードとを目的に来ているつもりでいたのだが、どうやらそれだけではなかったみたいだ。僕はそれら全部を使って落ち込もうとしている。何のため?それは自分の感情が死ぬような瞬間に出会うためなのだと僕は思う。


世の中には希望があって、自分の生活の中にもきちんとやりがいのようなものがあり、自分は自分というものを肯定できる、と僕は信じている。これは本当だ。


でも僕は落ち込もうとしている。だからここに来て珈琲を飲んでいる。良い循環の中にいる自分が気に食わないのかもしれない。 自分の精神に下りのエレベーターがあって、下れば下るほど、深層心理に近づいて行くのだとしたら、つい先ほど書いた僕の信条のようなものはかなり浅いところにある。もっと、光もなく音もしないような深い沈黙のある部分に僕は定期的に潜りに行かないと気が済まないのだろう。


息のできる深海。僕の意識のタマネギのなるべく真ん中の方。

そこには幸せはない。幸せという概念自体、もっと浅瀬の方の僕が決めるものだから。あるいは他人が。

感情が死ぬような瞬間、だが決して死んでなどいない。タマネギの外側で、海の浅瀬で、健康的に存在しているはずだ。

道徳的でも理性的でもない、しかし外側の僕は「異邦人」のムルソーのようにそれに釣られて誰かを傷つけることもない。

瞑想?そんな高尚なものじゃない。現に僕はこれから1時間後にこの店を出て、エリカと少し酒を飲んでから、おそらくセックスをする。そうしたいと思っている。こんな瞑想があってたまるか。




エリカは僕の予想を裏切り、時間通りに待ち合わせ場所に来た。

僕はもうすっかり浅瀬に戻ってきていた。これも紛れもなく「僕自身」だ。深い部分こそが本当の自分だとは思わない。

「お腹空いてる?」

エリカは言った。彼女は見た目より気が利く女性だ。僕はどちらでもないだとかどこでもいいだとか、うだつの上がらない言葉を吐きながら、とりあえず街の中を進んでいった。


店は彼女が行きたいと提示した四つの候補の中から僕が彼女の一番行きたい店を当てることで決定した。僕にとって都合のいい民主主義だ。どうせならもっと独裁的でもいいのに、とすら思う。

仕事、家族、家の間取り、血液型、テレビ、いろんなことを話した。僕も彼女も話の内容の如何にはこれっぽっちも興味がなかった。投げるボールがなんであれ、彼女とキャッチボールをすること自体が楽しいと思った。


最近、僕には自分でも可笑しいと思えるような考えがあった。自分は常に半径数メートル以内の人間と微々たる単位においてセックスをしている、という考えだ。

なぜこんなことをエリカと話しながら、僕は思い出したのだろう。しかし、気が付いたときには僕はもう話し始めていた。彼女と話すことに僕はある種の「気持ちよさ」を感じていたのだと思う。

「あのさ、僕がこうやって吐き出した二酸化炭素とか酸素とか、そういう物質が君の体内に取り込まれて、君を構成する一部となっていく、体内の物質の交換ってやつだよ。そう考えるとすごい小さいレベルで僕たち、というかこの店全体でセックスしてるみたいじゃないか。この店もおおよそ乱交パーティー状態って感じ、みたいな。」

自分はなんてことを言っているんだろう、と思うと同時に僕は溜め込んでいたものを上手く出すことができたような、それこそ射精をするときのような「気持ちよさ」 を感じていた。エリカはさほど驚いた様子もなく、答えた。

「わかるよ、なんとなく。私、居酒屋で働いてた時、なんでさっきまでいたあのおじさんたちの唾液の付いた箸とか皿を触ってるんだろうとか、このおしぼりであの人は顔を拭いてたなーとか、無駄に考えちゃって、似たような考えしたことあるもん。でもそれをセックスだとまでは考えなかったよ。」

彼女は恥ずかしそうに笑った。僕は自分の考えが頭ごなしに否定されたり意味不明だと笑い飛ばされるものだと予想していたので、彼女の発言に驚いていた。それと同時に僕は彼女にならもう少し下の階の自分を吐き出すことができるのではないかと考えた。それは僕にとってとても興奮する出来事でもあったし、少し恐ろしい出来事でもあった。


僕の意識のタマネギの芯に近い部分はもっと他人から忌み嫌われるべきだった。理解されること、今のように他人から的を得た共感がされることはあってはならないはずだった。僕は自分が彼女を恐れていることに気付いた。自分以外の人間が皆、浅瀬でばかり生きているのだと高をくくっていたわけではない。もちろん彼女に関してもそうだ。僕は自分の中のバランスを一時的に失って、次にどこを軸にすればいいのか分からなくなっていたのだと思う。僕は煙草を手に取った。煙草は僕にとってそういうバランスを見つけるためのある種の記号的な役割を果たしているのかもしれないとその時初めて思った。




・・・・・・・・・・・・・・




草原の中に白い小屋のようなものが建っている。広く青い空と草原によく合っている。

その小屋の正方形の窓の奥に古い机と簡単なベッドがあって、机の上には日記帳のような冊子があった。僕はそれに何かを書いている。僕はそれを書き終えると、楽しそうに僕を呼ぶ声のする方へ向かって行った。

そこには白い服を着た綺麗な女性と、同じように真っ白な服を着た少女二人がいて、「やっと来た」と言わんばかりの顔でこちらを見て、やさしく微笑んだ。少女二人はおそらく双子で、小屋とその近くの大きな木との間に麻の紐を引いて干している白い洗濯物たちの周りをぐるぐるとかけ回っていた。その姿はこの上なく微笑ましくて、この幸福感を誰かと共有したくなった。そう思い振り向くとさっきの女性が微笑んでいた。彼女が僕と同じ気持ちを持っていることがすぐに分かった。そして僕がこの女性を愛しく思っているということも分かった。



風が吹いた。すくい上げるような風。不愉快なものではなくとてもふさわしい風。

その風はさっきまで僕のいた部屋にもやって来た。窓から入ってきた風はカーテンを揺らし、僕の書いていた冊子のページを何枚もめくり、そして一番最初のページに戻した。僕の人生はやり直しになる。



僕の人生はやり直しになる。




・・・・・・・・・・・・



「吸い過ぎじゃない?」

エリカが言った。気が付くと、テーブルの上の小さめの灰皿に吸い殻が何本も入っていた。僕はそれを見て「気持ち悪い」と思った。直感的に。おそらく僕は少し目を丸くしていたと思う。まるでこの吸い殻たちが僕の目の前に突然現れて来たかのように。あれからどれくらい時間が経ったのだろう。5分?10分?それまで彼女との会話が途切れていたわけではないが、しばらくの間、半ば無意識で彼女との時間を過ごしていたことに気付いた。

「白昼夢」

僕はそう言っていた。ほとんど口を動かさずに。

「え?」

当然の反応だ。彼女は美しい。

「白昼夢、を見ていた。言葉の本当の意味は解らないけど、たぶん。」

「せっかく私が話してたのに、失礼な人。」

彼女はおどけて言った。 僕はもう自然に笑うことができた。今のは何だったんだろう、と思ったが、あまり深く考えないことにした。

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