第2話殴り込みと正当防衛
藍原隆人は走った。階段を駆け降り、人波を抜け走った。光に引き寄せられる虫が無意識なのと同様に、隆人も導かれるままに走り続けた。肺が酸素を求めて何度も収縮を繰り返し悲鳴を上げるが、関係無い。そう、関係無いのだ。
すれ違い様に誰かと肩がぶつかってしまった。
衝撃の強さと体の固さから相手は男だと思われる。なら足を止める必要は無い。
すまない と声だけを掛け、衝撃によって失った速度を再び取り戻し、進んだ。背中に突き刺すような視線と罵声を浴びせられたことすら気付かない。
校内の端の端、暗く薄気味悪い立地の建物の前に立ち、隆人はようやく足を止めた。
雑草がそこらかしこに生え広がり、窓には蜘蛛の巣状のヒビが入っている。補うように貼られたガムテープが妙に様になって見えた。
古びた、というより壊れかけの建物。軽く見たところ十畳ぐらいはあるだろう。
荒い息を吐きながら、入り口に掛けられた表札を眺め、何度も確認する。そこにはちゃんと『ゲーム・漫画愛好会』と書かれていた。
(ここで間違い無い…よな。)
耳を澄ませるが、音は全く聞こえない。
(誰もいないのか?)
ドアノブに手を掛けてみると、鍵をかけ忘れたのか、軽い感触が伝わってきた。離れとはいえ無用心だろう。
そのまま、捻ると軋むような金属音が響く。立て付けが悪いのか、または金具が錆びているのか。その両方かも知れない。
「…失礼します。」
一歩、足を踏み入れる。
隆人は部屋を見渡す間もなく、埃っぽい空気に包まれた。噎せ返り、慌てて後退る。
制服の袖口をマスク代わりに鼻にあてがうことで、なんとか息が出来る状態だ。片手で涙を拭いながら歩を進める。
部屋の中央には会議室にあるような長机を合わせるように並べており、厚みのあるパソコンが二つ、ちょこんと乗っかっている。
その机の回りにいくつかのパイプ椅子が乱雑に設置され、埃を被ったクッションが置かれていた。
めぼしいものはそれくらいだろう。あとは小さい冷蔵庫とロッカー、姿見、それと去年の日付のカレンダーぐらいしか置かれていない。
(使われて無いな。)
予想外の光景に隆人は肩を落とす。いや、心のどこかで予期していたことだ。
涙が溢れたのは、埃の所為だけではなかった。
(……帰ろう。)
机の回りを一巡し、机にうっすら広がる埃を指で拭う。隆人は暫く指に付いた埃を眺めていたが、興味を失ったように埃を払い、力無く垂れていた頭を上げた。
踵を返し、部室から出ようとする隆人は不意に足を何かに取られ、声を上げた。
「うわっ!?」
倒れまいと近くにあったパイプ椅子に手を掛けるも、豪快な音をたてて椅子ごと倒れてしまった。
隆人は打ち付けた鼻と舞い上がった埃に喉を痛めながら、なんとか体を反転させる。
そして、恐る恐る右足に視線を移した。
机の下から伸びる ひょろっとした青白い手がしっかりと隆人の足首を掴み、入口から射し込む光に二つのレンズが反射した。
「うおっ、だ、誰だっ!?」
隆人の声に反応したかのように匍匐前進で机の下から這い出てくる男。
さながらゾンビのようだ。
目の前の男が醸し出す異様な雰囲気に隆人は上げそうになった悲鳴をなんとか押し殺す。
右足首は未だ掴まれたままである。
「ふふふふふふふ。」
貧相な男は満面の笑みを浮かべ、呟いた。
「…一人目ゲット。」
「はい?」
いつの間にか右足は男に抱きしめるように掴まれていた。なんて気色悪い光景なのか。
第三者に見られようものなら有らぬ疑いをかけられてしまうだろう。そうなれば、藍原隆人の高校生活は二週間という短さで終わりを迎えてしまう。
(女の子と付き合うどころか、手すら繋いだことないのに!変な噂を立てられてたまるか!)
最悪のケースが頭を過り、血の気が引く隆人の足の上で男は不気味な笑みを深めたまま。
「…離してくれませんか?」
「離せば、君は逃げるだろう?」
(いや、逃げるけども。)
机から出てきたことで、男の姿がよく見えるようになった。
埃まみれのボサボサ髪の隙間から大きめの丸メガネと少し太めの眉毛が覗く。不健康そうな青白い肌の色から考えるに、外出や運動などははあまりしないように見える。
男は貧弱そうな体つきをしていた。シンなら隆人とこの男を同時に運べるかもしれないが、あいにく馬鹿力は持ち合わせていない。
「は、なせって…言ってるだろ…がぁ!!」
何度か試すものの、床の埃を拭うぐらいで状況は全く変わらない。足を引くと、引いた分だけ、男がそのままついてくるのだ。
隆人の儚い抵抗に、男はますます拘束を強める。
「とりあえず、話を聞いてくれ!」
「誰が聞くか!いいから離せって!!」
「離せば君は逃げるだろう!?」
ゲームキャラのように同じ台詞を必死に吐き出す男は 絶対に逃がさん!とか言いながら、隆人の上に這い上がり始めた。
ゾワゾワと悪寒が走り、隆人は必死に得物を探す。この際、殺傷力が有ろうが無かろうが構わない。とにかく一撃を与えれば、この男も正気に戻るはずだ。
しかし、手頃な武器は見当たらない。
(パイプ
手を伸ばし、椅子の足を掴む。
かなりグロテスクなことになるだろうが、仕方無い。隆人は罪悪感を微塵も感じることなく、得物を引き寄せる。
(頭はさすがにマズいよな。背中に一発ぐらいなら…。)
後々問題になったとしても停学にならない範囲内での攻撃を試案する隆人の耳に楽しそうな女生徒の声が聞こえてきた。
「っ!」
振り上げていた腕を一旦、停止させる。男の視線は隆人の得物に張り付いており、ガタガタと体を震わせ、動きを完全に止めていた。…牽制にはなったらしい。
その隙に耳を澄ませ、外の様子を伺うと声が近づいていることがわかった。話声から想像するに人数は二人だ。
状況は最悪だった。
男が動いていないとはいえ、両足はしっかりと掴まれていて逃げることは出来ない。
(……やはり、
ふいに浮かんだ考えに、自嘲する。我ながら 馬鹿だな、と。
このままパイプ
すると、何事かと女生徒達が駆けつけて、武器を持った隆人と意識を失った男を発見する。
ハイ、終了。
このままいくと、バッドエンドにしかならない。ならば、どうするか。
藍原隆人は完璧な算段を立てニヤリと笑う。叫ばれても、発見されても終わりだ。なら、発見される前に終わらせれば良いだけだ。
つまり、一撃必殺。『One Shot One kill』だ。
隆人は振り上げていたパイプ椅子を音をさせないように細心の注意を払いながら、ゆっくりと下ろす。頭にではなく、床に。
男は安心したのか、表情から怯えが消えたように見えた。二人の笑顔が交差する。
そのまま―油断した男の胸ぐらを掴み、一気に引き寄せる。ある程度の距離―隆人の射程範囲に寄せ―
「せいやっっ!!!!」
―全力の拳で男の顎を打ち抜いた。
「……行った…か。」
藍原隆人は安堵の息を吐いた。額に滲み出た汗を袖で拭い、深呼吸する。
清々しい気分だ。全く攻略出来なかった最高難度のゲームをクリアしたかのような爽快感と達成感。そして全力を出したことによる充実感を全身で味わい、隆人の口角が吊り上がる。
先程、女生徒をやり過ごすため、ドアを閉めていたせいで部屋の中はうっすらと暗い。
彼女らは行ったのだ。いつまでも暗いままでいる必要は無いだろう。
ドアの横にあるスイッチを押すと部屋の隅々にまで光が射し込む。
余韻を堪能していた隆人だったが、次第に顔の表情が曇り始めた。先程の表情が雲一つない晴天だとすれば、今の表情は荒れ狂う雷雲といったところか。
拳がかなり、いや、少しだけ痛い。
赤く腫れ上がる患部は見ているだけで痛々しかった。―やはり、メチャクチャ痛い。
拘束を逃れたことによる安堵とズキズキとした痛みでふと、冷静な思考が隆人に戻る。
男の正体が浮かび上がった。
そして隆人の体温は一気に急降下し始めた。
次から次へと滲み出る不快感しかない汗を拭う。背中はびっしょりと濡れているのだと、感覚でわかってしまった。
(いやいやいやいや……まさか。)
―それしかない。と断言する脳を掻き出したい欲求に駆られながら、なんとか希望的観測を導こうとする。
(…ただの通りすがりの変態っていう可能性も。)
―それはない。と否定する脳を叩き、思考から追い出す。何故、気が付かなかったのか。度し難い馬鹿だと自身を笑う。
腫れ上がった手を労るように撫でつつ、床に転がる男をチラリと見る。
さっきからピクリともしない。
何度か足でつついてみたが、反応しないのだ。
「気持ちいいくらいキレイに入ったからなぁ。漫画知識とはいえ、マジで気絶するんだ。」
他人事のように呟いてみせたが、やはり返答は無い。まるで死人の様だ。
(ついでに記憶も無くしてくれてるといいんだけど。)
隆人の頭の中で議論が始まり、一分も経たないうちに終わる。「よしっ」と決意した声を出しつつ頷く。幾つか案は出たが、これが最良に思えた。足音を立てないように細心の注意を払いながらドアの方に向かう。
つまり、結論は 逃げる だ。
だが、
―あと一歩。
というところで肩を掴まれ、拘束された。誰に拘束されたのか言うまでもないが。
「何か言いたいことはあるかい?」
「すみません。」
「いや、怒ってる訳じゃあ無いんだ。確かに僕も誤解されるようなことをしてしまった自覚はあるからね。だが……普通に考えて、そのまま帰ろうとするのはオカシイのではないかな?」
「すみません。」
「……謝罪に気持ちが込もって無いね。」
「すみません。」
「……否定しないのだね。うん…まあ、…いいだろう。」
男はヒビの入った眼鏡を中指で押し上げる。
だが、眼鏡は所定地に留まろうとはしない。ダメージはレンズだけではないようだ。かなり重要な部分にも伝わっているらしい。
ブリッジを持ち上げることを繰り返していた男は、ついに諦めたような溜め息を吐き、正座をさせていた隆人を見た。
「…さて、君を生徒会に突き出し、停学処分にすることも出来る訳だ。つまり、君の命は僕次第ということだね?」
「まあ、そうですね。出来る限りで良いので、穏便に済ませて頂けると有難いですが。」
悪びれることなく淡々と語る隆人に男は 信じられない といったような表情を浮かべた。空気を変えるように ゴホンと咳をし、無駄だというのに眼鏡を持ち上げる。男の癖の一つらしい。
「ふむ、君は停学すると困るようだね。だが僕としても、このままお咎め無しというのは…ねぇ?」
「すみませんでした。」
頭を下げた隆人を眼下に映し、男は勝ち誇ったように鼻を鳴らす。思い通りに事が進み、面白くて仕方無いのだろう。―気持ちは良くわかるが。
「実は僕は非常に困った状況にあってね、君が協力してくれるなら……先程の一件は不問としよう。」
「えっ?」
男は、腰を下ろし目線を合わせた。股を大きく開くような姿勢のまま隆人を睨み付ける。
俗にいう、ヤンキー座りだ。
「いや、難しい話では無い。こちらの用件、いや、この場合は命令…になるか。今日から俺の部下になれ。これは厳命だ。」
すっ と目の前に差し出された、指を大きく広げた手を見て、隆人は確信した。やはり、コイツが『ゲーム・漫画愛好会』会長だ。
理由は幾つかあるが、決め手となったのは、先程のセリフ――ヴァチェスアフ大佐。
『祖国の土となれ』 とある国の独立を目指し、革命軍として闘う主人公 アレクサンドル・イヴァノフの生涯を描いた超大作テレビゲーム。ヴァチェスアフ大佐は敵国の軍人である。
百二十話という長編ストーリーにも関わらず、ヴァチェスアフ大佐が出るストーリーはわずか七話。脇役の脇役といっても良いほどのキャラクターだが、彼の存在感は圧倒的だった。
軍人らしい鍛え上げられた肉体に、ポマードで適当に後ろへと撫で付けた髪。煙草というより葉巻が似合いそうな大人の雰囲気を醸し出している。大御所人気声優が演じたというのも人気の理由だろう。
会長らしき男のセリフから想像できるように、ヴァチェスアフ大佐は誇りの為に闘う主人公を気に入り、軍人として生まれ変わるように唆すのだ。
だが、アレクサンドルは大佐に唾を吐きかける。国に、軍人に、貧しさに、愛するものを奪われ続けた人生を呪詛を混え、語る。拘束されていなければ、目の前の男を殺そうと襲いかかる勢いで、だ。
ヴァチェスアフ大佐はアレクサンドルを見て笑う。「お前の気持ちは俺にはわからない」と。
境遇の違いゆえに理解出来ないのではない。アレクサンドルの全てを理解した上で、彼の
そして誰にも話したことのない自身の生涯をアレクサンドルにだけ語る。
―何故、軍人になったか
―何故、生きるのか
―何故、戦うのか を。
「今日から俺の部下になれ。これは厳命だ。」
ゲームでは、ここで分岐ルートとなる。もう一度差し伸べられた手を取るか、革命軍として
『祖国の土となれ』はマルチエンディングゲームだ。アレクサンドルの行動によって、ストーリー、情勢、生死といった 全てが変わってくる。
全てのエンディングをコンプリートする為、隆人も時間を忘れ、没頭した。
オーバーヒートするまで苛酷労働を強いられたゲーム機 愛称 オメガ君は、ストライキを起こすようになってしまった。本体の起動がかなり遅くなったり、途中で電源が切れたりするようになったのだ。
やっとの思いで手に入れた労働者をすげ替えるほど、隆人は余裕がある主人ではなかった。
チェックポイントやオートセーブ地点に行く前に、オメガ君がストライキを起こす度に――何度、枕を濡らし泣いたことか。
アレクサンドルの人生は荒れ狂う海原に揺られる小舟のようだったが、ヴァチェスアフ大佐の生涯は何者にも翻弄されることはなかった。
あるエンディングロールでヴァチェスアフ大佐について語られている。
文面はこうだ。
ヴァチェスアフ大佐は戦場で生死不明となる。
彼が指揮していた隊員のうち、数人の遺体、遺品は、機密を漏らさぬ範囲内で遺族に引き渡された。
だが、大佐が手ずから育て上げた精鋭部隊とヴァチェスアフ大佐の死体は、誰一人として見つかっていない。
――終戦後
勝利を喜び、踊る女達。子どもは国歌を歌い、男は雄叫びを上げ、酒を浴びるように飲んだ。
国民が終戦の喜びと産声をあげた新政府に希望を託しているなかで。
ひっそりと――大佐と彼の部隊に対し、失踪宣告がなされた。
『祖国の土となれ』は発売から七十年が経ったが、主役食いと名高いヴァチェスアフ大佐の人気は未だに根強い。
ファンから、彼を主人公とした作品を作ってくれと製作会社へと大多数の声が上がった。
それに対し製作会社から、こう返答があった。
『ヴァチェスアフ大佐は、自身について多くを語らない。彼の生涯は彼だけのものであり、我々は彼の人生を悪戯に語ることはしたくはない。一部の者達は利益を求め、我々を馬鹿だと笑うだろう。だが、ヴァチェスアフ大佐は同郷の軍人から揶揄されることが多々あったが、彼がそれに反論したことは一度として無い。彼曰く、言いたい者には言わせておけば良いのだ。彼の魅力を愚者にまで伝える必要性を感じたことは無い。故に我々は語らない。』
――大佐、それに製作会社 共に男であった。
(……ヴァチェスアフ大佐を演じてくるとは、コイツ…なかなかやりやがる。)
隆人は会長の評価―ヲタク度を二段階上げた。やはり、この会に入ろうとしたのは間違いではなかったと微笑む。
「一つ質問しても?」
「構わん。」
会長は短く鼻を鳴らして、立ち上がる。まさに、あのワンシーンだ。この男もかなりやり込んだらしい。
まあ、だからといって手加減はしない。するつもりも無い。
「なんで隠れてたんですか?」
「うん?」
隆人は続ける。
「あなたが誰かは知りませんけど、隠れてたってことは、あなたも
「何故…。」
簡単に会長から剥がれ落ちた仮面を踏み潰すかのように立ち上がり、一歩距離を詰める。会長は距離を保とうと詰められた分だけ後ずさった。
「長い間使われてませんよね、この部屋。……理由は、まあ…想像できますけど。この件がバレて困るのは、俺とあなた…どっちですかね?」
会長は返さない。押し黙ったままだ。だが、握り絞められた拳が小刻みに震えている。彼の心情を表すかのように。
隆人は自身の考えが正しいと確信した。それと同時に、可哀想だと思う。
「解体…させられたんですね?」
自分でも驚いてしまうほど、優しい声音だ。これは会長への憐れみから出た言葉なのだろうか。
人員不足、経費削減、単に心無い者達に標的にされたのかもしれない。会長に聞いてみるまでわからないが、恐らくどれか一つは当たっているだろう。
『ゲーム・漫画愛好会』を消したくないという一心で、隆人に入会を迫ったのだと思うと胸に熱いものが込み上げてくる。
(…本当にパイプ椅子を使わないでよかった。)
「……気持ちはよくわかります。」
隆人は優しく慰めるように声を発する。今度は意図的に、だ。
彼との関係を構築するにあたって、弱味を握られての関係は避けたかった。
ある意味で危ない発言にも聞こえてしまうが、この際置いておく。
彼の性格上、何かを強制するようなことは無いと思われるが、絶対ではない。
何か問題が発生した時、彼の窮地を救った英雄と弱味を握られて、渋々入会した男とでは対応が変わってくる。
そう、藍原隆人は彼の救世主とならなければならないのだ。
そのためなら、どんな汚い手を使っても構わなかった。彼の悲痛な現状も利用し、従属させるつもりだった。――先程までは。
彼の境遇には同情する。石を投げられようとも、心無い言葉を吐きかけられられようとも戦ってきた戦士 同士、当然のこと。
『ゲーム・漫画愛好会』が存在することから激戦の中、戦い続けたことは明らかだった。設立すら困難を極めただろう。
だが、それを成した男なのだ。彼は。
だからこそ、彼に敬意を込め、隆人は双方にメリットが有る仕方で落とし所を探した。
そして―今、隆人は会長から剥がれ落ちた仮面を被る。次は隆人の番だからだ。
「俺はアンタの部下にはならない。」
ビクリと会長の肩が跳ね、力無く落ちる。
隆人は構わず、そのまま続ける。
「だが、今は自分がわからなくなった。何が正しくて何が間違いなのか…がな。」
隆人は肩を窄めてみせる。アレクサンドルのように。
「だから…今は、アンタの隣に立ってやる。覚えとけよ、俺はアンタをいつでも殺せる位置にいるってことをな!」
隆人は自身の完璧な演技に酔いしれていた。
アレクサンドルは捕縛されているために、指を指すことは出来ないのだが、調子に乗っている隆人には設定無視が出来る程、些細なことだった。
ちなみに、ゲームでは、ヴァチェスアフ大佐の手を取るとそのままエンディングに移行し、強制終了となる。
ゲーム進行上、やはり彼は敵軍だったということだ。
演技を真顔で返すなんて酷くないか、と心の中でツッコミつつ、黙ったままで何の返事をもしてこない会長に隆人は呆れたように言う。
「とにかく、俺は入会したいです。というか、是非入れて下さい!」
断られるはずもなく、隆人が伸ばした手を会長は涙ながらに握った。
繋がれた手に涙が落ち、弾けた。
「……俺を仲間に入れて貰えますか?」
その言葉に会長は膝から崩れ落ち、隆人に縋るように――泣いた。
(どうしてこうなった?)
藍原隆人は目の前の男を睨み付けながら思う。
いや、目の前の男ではなく腕の中の男というのが最も正しい表現だ。今、現時点では。
会長は問わず語りに廃部までの経緯を語り始めた。かと思ったら、話は何故か彼の半生にまで発展していった。
そこで知ったことだが、彼の名前は
クスン、クスンと子供がするように鼻を啜る佐伯に隆人は 勘弁してくれと天を仰ぐ。
この絵面でも充分過ぎるほどだが、更に気持ち悪いことに泣き過ぎか、時折噎せるのだ。
涙と鼻水と唾液で制服に染みが広がる様子を想像しない為に顔を背けた隆人から、意図せず溜め息が漏れた。
ここまで裏目に出るとは思わなかった。ちょこっと優しい声を掛けて、ちょっと協力してもらおうと思っただけだったのに。
(それが、何故?)
男らしさの欠片もない佐伯に呆れたところだ。むしろ女らしいとも思う。
「……オヴォエッ―」
隆人はトドが鳴いたかのような低い声を耳に捉え、慌てて佐伯を突き飛ばす。相手が弱っていることに加え、隆人の配慮の無い一撃が合わさり、かなりの勢いとなったらしい。
背中から勢いよく壁に張り付いた佐伯は打ち付けた頭を労るよう擦りながらフラフラと立ち上がった。
「…すまない、取り乱していたようだ。」
「取り乱すというか、吐こうとしてましたけどね。俺の上で。」
「僕は、泣きすぎると
「知りませんし、そんな情報いりませんから。あ、それ以上近づかないで下さい。」
隆人は佐伯が近づいてこないことを確認し、佐伯が漏らした情報を整理し始める。
『ゲーム・漫画愛好会』が廃止となった理由は、隆人が想像していなかったこと―顧問を努めていた教師が定年退職しただけらしい。
会員数の不足ではなかったようだ。
我が校では部活動、同好会、愛好会問わず同好会員が十名以上いなければ廃部となり、活動を禁止される。だから、この『ゲーム・漫画愛好会』も会員数不足で廃部になったのだと思っていたのだが―
佐伯の説明では、他の部活動に入るのを渋った生徒が幽霊部員として在籍しているため、会員数の点では問題ないとのことだ。
現時点で二十二人の会員がいるらしい。下手な文化部より多いのではないだろうか。
もちろん、経費削減でも無い。
部費を与えられるのは基本的に部活動のみとなっているらしい。同好会や愛好会に割く経費など元より無いようだ。
例外的に同好会や愛好会にも費用が与えられることもあるそうで、その場合、部費では無く一時金が与えられるらしい。
だが、一時金が与えられることは本当に稀だという。学校設立まで遡ろうが、たったの一例しかないらしい。
それは『日本武術同好会』が全日本武術大会 骨法個人戦 学生の部 で準優勝した時の、この一例だけらしかった。
金額もたったの五千円。―よく頑張ったね。疲れただろうから、とりあえず
人数換算すると、最高でも一人当り五百円。これは会員数最低で考えた場合だ。これより人数が多い場合は――考えないでおこう。
そして『日本武術同好会』は大会準優勝から二年後、会員数不足で廃部となったらしい。
なんとも悲しい話だ。
そして、最後の心無い者に標的にされた―ということは全く無いと断言された。むしろ寛容だったと佐伯は嬉しそうに続けた。
特に問題は無く、設立まで至ったという。
やはり、藍原隆人の回りだけが局地的暴風雨なのだ。
予想がことごとく外れたことに隆人の顔が赤く染まる。掠りもしなかった。大外れである。
(うわ、すげぇ恥ずかしい。勝手に自分と重ねて、同情までしたよ!馬鹿か俺は!いや、馬鹿だ俺は!!)
赤くなった顔を なるべく佐伯から見えないように片手で覆い、隆人は口を開いた。
「とりあえず、顧問を見つければ活動を再開出来るって事ですね?」
「ああ、その通りだ。」
高揚と頷く佐伯に言いたい事は山程あったが、唾とともに飲み込む。今は顧問探しを優先させるべきだ。
知りたいことは後々、聞けばいい。
「あ、名前聞いてなかったね?」
「藍原隆人です。」
「隆人君だね、わかった。ヨロシク、隆人副会長!」
グッと親指を伸ばした拳を突き出し、笑う佐伯。―いやいや、ちょっと待て。
隆人は心の中でツッコミしつつ、慌てて口を開いた。
「副会長?」
「うん?どうした、不満かね?」
「…キャラ安定させてから話して下さい。いや、不満とかじゃなくて、副会長すらいない状況だったんですか?」
「かつて
「また、キャラ変えですか。面倒くさいんで一々キャラまで触れませんからね、俺。」
「彼は良き友人だった。だが、方向性の違いで仲たがいしてしまってね。」
「…無視ですか。」
フッと悲しそうに笑う佐伯の視線が中空で止まり、そして黙る。そして、そのままの状況で二分が経った。
佐伯は隆人が同じ舞台に上がらないことを確認すると、残念そうな表情を浮かべた。
「……もっと詳しく聞きたくならないのかね?」
「正直、今はどうでもいいです。それに時間が惜しいので。とりあえず、副会長として行動させてもらいますから。」
佐伯が了承の証しに頷くのを見てから隆人は続ける。
「顧問は俺が探しときますから、佐伯会長はこの部屋の掃除をお願いします。」
「掃除は構わないが…。」
佐伯は部屋を見回し、肩を窄めた。
「一応、僕も探したのだが、顧問になってくれそうな教師はいなかった。とりあえず、ちゃんとした会員を集めてから改めて提訴しようと思ってね。」
「ああ、だから俺が一人目なんですね。会員は余るほどいるのにおかしいと思いましたよ。」
隆人は短く息を吐き出す。
会員を集めたところで顧問がいなければ活動を再開することは出来ない。なんとかしようという気持ちはわかるが、今必要なのは顧問だ。
しかし、佐伯の言う通り顧問探しは楽なことではない。教務という激務に、更に負担を掛けようという物好きはいないからだ。それに顧問をしたからといって、実入りが増えるわけではないのだ。
中等部でも教師による顧問の押し付け合いを何度か目撃したことがある。新任教師が口車に乗せられ、良いように利用されていた。自分の身が一番可愛いという点では、教師―聖職者と言えども人間であった。
「一応、一人。暇そうな人に心当たりがあります。」
「ふむ。」
佐伯は口に指を添え、軽く俯いた。
聞かなくても何を考えているか隆人にはわかった。そんな人物いるか? だ。
「あまり期待しないで下さいね。それでは、今すぐ行ってくるんで…あとはお願いします。」
「わかった。君に全て任せる!」
隆人は佐伯から注がれる熱い憧憬の視線を一身に受け、部室を後にした。
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