君主論《マキャべリズム》の村人A

@NABI2

第1話 絶対王者フィリア・ハーストン

爆発に次ぐ爆風。耳を劈く爆音が体を叩くように響き渡る。

爆発によって起こされた土煙が高く舞い上がり、殆ど視界が利かなくなった円形闘技場コロッセオで男はただ呆然と立ち尽くすしか無かった。

あちらこちらから硬質な物がぶつかり合う音が聞こえる。

息を荒げる声が断末魔の声に変わり、鮮血が飛ぶ。

どうしてこうなった。

勢い良く転がってきた友人の首を見つめ、男は自身に問う。

絶対に勝てるはずだった。だから参加したのだ。

ポツポツと体にあたる水滴に気付き、天を見上げれば、黒々とした雲から降ってきているのだとわかった。

仲間の誰かが土煙を抑える為に魔法を発動したのだと。次第に強くなる雨が体の体温を奪うが今の男にそのような事を気にする余裕など無かった。

雨の冷たさに慣れたころ、ふと気づく。

静かだ。

先程までの喧騒など無かったかのように静まり返る円形闘技場コロッセオに男の背筋にゾワリと冷たいものが走る。そして一つの答えを導き出した。

信じたくは無い。だが、それしか無い。

雨によって土煙が完全に抑えられ、回りの様子が一見出来た。三十にもなる死体が転がる円形闘技場コロッセオに立つのは二人。

自分とそして、この凄惨な光景を作り出した人物だ。

純白の鎧に包まれた騎士と視線が交差する。

今すぐここから逃げ出したかった。だが、体が全く動かない。

「あ……あぁ。」

ガタガタと震える足を叩き、動け!動け!と念じる。血が滲もうとも関係無い。足を睨み付け、爪を立て、唇を噛む。それでも体は自分のものでは無いように頑なに動かない。

ガシャリと金属が擦れ合う音が聞こえ、その音がだんだんと近付いてくる。

これから何が起こるか。答えは簡単だ。地に伏し、雨に打たれるだけの彼らのようになるのだと。

騎士の鉄靴が上げる音が無くなったことに気付き、男は慌てて顔を上げた。

「この結果は必然だ……ゆえに、私は警告した。」

騎士は何の感情も持たないように冷たく言い放つと男に剣を突き付ける。

男の喉元に切先が刺さり、血がぷくりと吹き出る。血はそのまま男の首に付着した水滴に混ざり、流れ落ちた。

そして、一線。両断され、反転する視界に自らの体を写し、男の意識は消失した。



「かっけぇぇぇぇぇ!!」

藍原隆人あいはら たかとは自室のベッドの上で、枕を抱き締め唸り声を上げた。

「くうぅっ!」

内に残る興奮が体に伝わるまま、足をベッドへと打ち付ける。安物のスプリングがギシギシと悲鳴を上げようとも、今の隆人には関係無かった。

短く息を吐き、そして吸い込む。

体を反転させ天上へと視線を動かす。正確には天上に貼り付けた一枚のポスターへ、だ。

そこには純白の鎧を纏った聖騎士が飾られていた。

「俺も、ああなれたらなぁ。」

隆人はこれ見よがしな溜め息を吐き出す。

部屋には自分の他に誰もいない。いや、勝手に部屋に居られても困るのだが、この気持ちを共感してくれる誰かがいてほしいとは思う。

一週間前、あの動画を見た時、心臓を握り絞められたような感覚に襲われた。激しい動悸に息切れ、かなりの熱量を放つ体。全く経験に無い感覚だった。

隆人は、三十人以上の敵を相手にたった一人で戦い、完勝して見せたその姿にどうしようもなく焦がれてしまったのだ。

「カッコ良すぎですよ!フィリアさん!!」

枕を強く抱き締め、瞳を閉じる。

それだけで、先程の映像が頭の中で再上映される。

純白の騎士に飛びかかった男を一瞬で斬り伏せ、後ろから迫る火球を跳躍し躱す。

一人、また一人と斬り伏せ、そして―

隆人の耳にドスドスと階段を駆け上ってくる、戦場に似つかわしく無い雑音が届いた。

「……またか。」

惜しみながらも上映を一旦止め、この部屋に通ずる唯一の扉を睨む。

耳を澄ませ、様子を伺うまでも無い。誰が、何をしにやって来るか、なんてわかりきっているのだから。

―絶対怒ってるよ。あぁ、めんどくさ。

舌打ちしつつ体を起こすと打ち鳴らすような足音を響かせる人物は直ぐそこまで来ていた。

「うるさい!クソアニキ!!」

ドアを蹴り開け、ズカズカと部屋に入ってくる乱入者もとい、妹を思い切り睨みつける。

「ノックしろっていつも言ってるだろ、美尋みひろ!」

蹴りの反動か、太股を見せつけるような短さのスカートが揺れていた。白を基調としたセーラーに赤いタイ。これまた白いスカートには金色と赤色のラインが描かれている。

清純なる学校生活を校訓としているための白い制服だったが、見た目は死に装束のようにしか見えない。

赤のタイはその体に流れる汚れなき血を表しているのだとか。ますます死に装束ではないか。

校則に反しない程度に抑えられた明るさの茶髪を今日は尻尾のように一つに纏め、丸い大きな瞳はこちらを睨み付けていた。

女らしさの欠片も無い平たい体とはいえ、兄としては足を強調する長さのスカートは如何なものかと思う。

「はぁ!?」

女子とは思えない低い声に隆人はビクりと体を震わしながらも、性格ぐらいは女らしくしやがれと心の中で吐き捨てることは忘れない。

本人に言わないのは別に妹が恐いからでは決して無い。決して。

「バカアニキがうるさくするのが悪い!毎日毎日……」

(あ、ヤバイ。)

直感に従い、抱き締めてた枕を顔まで引き上げる。

瞬間、藍原美尋の蹴りが枕にヒットした。

「危ないだろ!」

一瞬遅かったらどうなっていたことか。隆人は自身の腕の中で力無く折れる枕に憐憫の眼差しを向けた。そして両手で枕の反発力を確かめ、頷く。―あと数発は持つな。と

戦友をベッドに横たえつつ、口うるさい妹から逃げるように顔を反らす。

「お母さんが早く御飯食べろってさ。」

フンっと鼻を鳴らし踵を返した妹を横目で見送り、体を倒した。

ギシィと鈍い音を立てながらも、程よく反発するベッドに身を預け、短く息を吐き出す。

掛けられている時計を見れば、予定時刻を二十分も過ぎていた。美尋が起こしにきたのも当然の時間帯だ。

「しっかし、もっと優しく出来ないのかね?」

隆人は溜め息を吐き出し、部屋を後にした。



欠伸をしつつ階段を降りていると、楽しそうな笑い声が聞こえてきた。

「もうっ、お母さん、茶化さないでよ!」

「ふふっ。みーちゃんは可愛いからね。その子の気持ち、よくわかるわー。…良いわね、青春って感じで。」

「っ!…かわいい言うな。」

(俺と話すときとは大違いだな……美尋は。)

苦笑しつつリビングに入ると美味しそうな香りが鼻を擽る。香りにつられ、テーブルを見ると朝御飯というよりは昼食並みの量が並べられている。

これが藍原家の普段の食事量なのだ。ちなみに、昼食、夜食になると更に増える。

別に隆人や美尋が大食いというわけでは無い。料理好きな母は、おかず、副菜を合わせて四種類以上で食卓を飾らなければ気がすまないらしく美尋や隆人が何を言おうと絶対に譲らなかった。

美尋が体重の増加に苦しみ呻いていることなど知るよしも無く、母は今日も腕によりをかけて作ったらしい。

「たーくん、早く食べないと遅刻するわよー。」

米が山のようにそびえ立つ茶碗を受け取りながら、隆人は斜め前の椅子に座る母、藍原春菜あいはらはるなを睨み付ける。

「母さん、たーくんって呼ぶの止めてって言ったよね。高校生にもなってそんな呼ばれかたしたくない。」

母は、近所でも美人だと評判だ。

おっとりとした性格に、優しい笑顔。腰まで伸びた髪が女性らしさを増している。プロポーションも、まあ、良い方…だと思う。自分の親をつかまえて何を言ってるのか、少し恥ずかしくもあるが。

守ってあげたくなる女性だと隣に住むおっさんが言っていたこともあった。近所受けも良いようだ。

男としては良い妻、美人で終わる。だが、息子としたら、多いに不満がある。

名前の呼び方がその最たる例だ。

「やーん、たーくんが怒ったー。」

隆人はえーん、と子供が泣くような仕草をする母を見ないように努める。母の行動は演技では無い、あれが素なのだ。


目玉焼きを食すべく醤油差しを探す。目的のものは、母の目の前だ。

いつもなら一番近い人物に頼むのだが、今は止めておこう。

「美尋、醤油。」

「…………。」

(無視かよ!)

心の中で盛大にツッコミをしつつ、隣に座る美尋を睨み付ける。

何故機嫌が悪いのか不明だが、もう一度だけ試してみる。

「醤油取って下さい。」

「……………。」

出来るだけ優しく丁寧に言ったつもりだったが、今の美尋には効果が無いようだ。

料理を口に運び、満足そうに笑みを浮かべるだけで、こちらを見ようともしない。

(この野郎…完全に無視する気か。)

身を乗り出し、なんとか醤油差しを掴むとそのまま目玉焼きめがけ一回しする。

「なかなか来なかったけど、たーくんは何してたの?」

「……動画を見てた。」

先程のやりとりなど無かったように聞いてくる母に苦笑しつつ答える。

いったい、いつになれば『たーくん』を卒業出来るのだろうか。

「…毎日毎日キモい。」

「はぁ!?動画見てただけなんですけど?」

何故、美尋にここまで言われなければならないのか。

確かに時間を忘れてしまい、美尋が呼びに来たことは何度かある。だが、呼びに来てくれと言った覚えは無い。そっちが勝手にやっていることだ。

隆人と美尋のやり取りをキョトンとした表情を浮かべていた母だったが、何か思い付いたのか、「あっ、なるほど。」と短く呟き、美尋に向かって手招きする。

「たーくんだって男の子なんだし、そういう年頃なんだから。それにたーくんぐらいの歳の子は皆そうなんだから。」

お母さんはわかってるから とでもいいたげにウインクしてくる母に

「うわ、男って皆そうなの?……キモッ。」

椅子をずらし、少しでも距離を取ろうとする美尋。

完全に勘違いされているらしい。

隆人は頭を抱える。

母も美尋も思いこみが激しい。このままいくと完全に変態のレッテルを貼られてしまう。

現に、母は「お父さんも若いときは色々と大変だったって言ってたし。」なんて言ってやがる。

攻勢に出なければ。この歳で烙印など押されてたまるものか。

「ゲームの動画だって!ほら、知ってるだろ。絶対王者フィリア・ハーストン!」

隆人は勢いよく机を叩いた。




さて―

はるか昔。

地球温暖化やら異常気象に人類が慌てふためいていた時代があった。

その時代の科学者は口々にこう言ったらしい。

『あと百年後には地球から人類は滅び去る』と。

それから二百年後の未来――今、現在。

人類は絶滅することも衰退することも無く普通に生きている。それなりに危機はあったらしいが、科学者や大統領とか、お偉いさんが集まって協議し、行動した結果、なんとかなったらしい。

歴史の授業をしっかり聞いていれば、もっとまともに答えられただろうが、俺―藍原隆人にはこれが限界だ。興味無いものに割く頭は無いし。

人類というやつは、自分達が思うよりもしぶとい生き物だということが証明された瞬間だった。そのしぶとさは人類が嫌忌する黒の飛行物体と良い勝負かもしれない。


話を戻そう。

激変した自然環境から身を守る為に人類が取った秘策―地球の縮小化だ。

これは地球という星を縮めるという意味では無い。地球という名の、生き物の生活圏を縮小するということだ。

生き物が安全に住める地域を囲むように造られた半球形の防壁『ドーム』。その中で人類は生活をしている。

ドームには二つの役割がある。

一つは、自然の脅威から生き物を守ること。

二つ目は、光、風、雨、熱など外界から得られていたエネルギーの供給。

ドームの大きさは国単位の巨大な物から諸島などの区域ごとに分けられた小さいものがある。

ドームを建設する場所の環境や地形によって大きさや形が決められていた。

では、我が祖国、日本ではどうなのか。

日本はその形状ゆえ、一つのドームで覆うことは出来なかった。

北海道、九州、四国、沖縄はそれぞれ一つのドームで囲い、残る本州は一筆書きしたような歪な形のドームとなっている。ドーム間の移動は繋げるように建設されたトンネルを使用してい行われる。人が住まない離れ小島などは、今だドームは造られず、建設予定すら無い。不必要な経費は極力省く気なのだろう。

あらかじめ決められた天候。快適な気温設定など、様々な恩恵を与えてくれるドームだが、それなりに欠点もある。

だが、それは次の機会にしておこう。


生活環境や自然が大きく変化するとこはあっても、変わらなかったものがある。

日本の、いや世界で不変の文化『ヲタク』だ。

今やネット普及率は全世界で94%を超え、日本の大衆娯楽は全世界に発信されることとなった。それに伴い、ゲーム、アニメ市場は大躍進を遂げた。

世界的な『ヲタク』の人口爆発である。

『ヲタク』が用いていた単語は日本語から一種の自然言語として確立されることとなり、「ヲタクの国境越え」という名言まで生まれるほどとなった。

コスコンは世界大会が開かれるほど争いが激化した。

赤毛、碧眼など、外国人だろとしか言い様の無い日本人キャラクターが闊歩するアニメ、ゲーム業界。そのため、体格、体質の差により日本人コスプレイヤーの多くが涙を飲む結果となる。

ゲーム、アニメ、漫画、特撮、SF、擬人化まで、ありとあらゆるジャンルを作り出し、取り込み、成長を続け、猛威を振るうウイルスに人類は壊滅的に犯されてきたのだ。

俺―藍原隆人もそのウイルスに犯されてしまった一人だった。


ここに『Arcadia《アルカディア》』というゲームがある。よくあるネトゲの一種なのだが、他のゲームとは違う点がある。

それは、あらかじめ造られた世界をプレイヤーが冒険するのでは無く、プレイヤーが世界を造り上げ、冒険することを目的としたゲームだという点だ。

『Arcadia《アルカディア》』ではキャラクターを登録するとまず土地を貰える。その土地を好きなワールドに配置、そこを拠点としてゲームがスタートされる。領地をどう造り上げるかを楽しむゲームと言えよう。

例を上げるなら、迷宮を造り、そこにモンスターを配置しダンジョン化させ、他のプレイヤーに攻略させる者もいる。

国を造り上げ、民として移住させ、自らは王として鎮座する者もいる。店を造り、大商人となった者も。土地を売りさばき、自由奔放に旅する冒険者もいた。

あるアイテムを使って土地の引っ越しも出来るため、昨日には無かった建物や土地が出現していることも『Arcadia《アルカディア》』では日常茶飯事だ。

土地を売ろうが町を作ろうが、全ては、そのプレイヤーの自由。

運営から放置されているだけでは?―とも言えるような自由度の高さ。多機能同時翻訳により120を超える言語を瞬時翻訳。そして圧倒的なグラフィックに重厚な世界観から爆発的な人気を誇った。


そして、『Arcadia《アルカディア》』個人ランキング二位 フィリア・ハーストン。

支配領域 円形闘技場コロッセオに住まう孤高の騎士だ。たった一人で領土を守り、不敗神話を持つ彼女についた二つ名は絶対王者。

ちなみに、藍原隆人の初恋を奪った相手でもある。

フィリア・ハーストンと出会ってからの隆人の行動力は異常だった。

まず彼女の人物像、ゲーム内での行動範囲、フレンドの傾向、好きなクエストなど、出来得る限り彼女のことを調べ尽くしたのだった。

上位プレイヤーともなればゲームをする誰もが知っていて当たり前の情報だった。貿易や友好関係を築くなど、ゲームの攻略の為に必要不可欠だからだ。名声を得ようと彼女を倒そうという不届き者もいるようだが。

彼女の名を知らないヤツは潜りだと馬鹿にされることすらある。

フィリア・ハーストンの人気はゲーム内だけに留まらない。彼女の冒険譚を綴った漫画や小説も出版されている。悲しいかな、どちらも非公認だが。もちろん、こちらもチェック済みだ。




だが、『Arcadia《アルカディア》』がどれほど有名かつ、すばらしいゲームだとしても、フィリア・ハーストンが万人を惹き付ける魅力溢れる人物だとしても、所詮はゲーム。知らない人は知らないし、興味も無いだろう。

隆人はそれを考えていなかった。


「誰それ?」

見事な調和で同時に首を傾げる二人に隆人は自身の浅慮を嘆きながら、出来る限りの説明を行う。

隆人の熱量をよそに、説明を聞き終わった美尋の感情は冷めたものだった。

「所詮はアニメキャラでしょ?」

「みーちゃん、ゲームのキャラだって。ねっ、たーくん。」

「…どっちでもキモイ。」

「……いや、ゲームだけど、フィリアさんは実際の人物で…。」

「ゲームキャラにさん付け!?無いわー。」

「みーちゃん、たーくんをあんまり苛めないの。男の子が女の子を好きになるのに理由なんていらないでしょ。」

(女って、いつもこうだ。)

男が女性アイドルを好きだと言えば、気持ち悪がられ、女が男性アイドルを好きだとしてもそれは普通だと言う。この差は何だというのか。

自分本位に物事を歪曲させる異種族二人に、隆人は痛む眉間を抑えた。

これがアイドルや芸能人を好きだと言ったなら不快感を示しても、とりあえずは理解してくれただろう。

それが二次元になると、もう目も当てられない。集中砲火、雨霰である。

『ヲタク』人口は上昇しているにも関わらず、藍原隆人のまわりは局地的と言ってもいいほど一般人ばかりだった。

過去の偉人達も自分と同じように孤軍奮闘したに違いない。何百年経とうと、一般家庭におけるヲタクの立ち位置、肩身の狭さは変わらないものだ。

隆人は理解者を得られないことを嘆きながら、目の前の料理を掻き込む。

旨い料理がせめてもの救いだ。舌鼓を打ちつつ、左腕にはめた飾り気の全く無いブレスレットに軽く触れ、起動させる。

天候や気温、ニュースなどの情報をスライドさせ、目的の現在時刻を表示させる。

そろそろ家を出なければ、電車に乗り遅れてしまう時間帯だ。

「そうだっ、私帰るの遅くなるから。」

「あらあら、理由は聞かない方が…いいのかしらね?」

「違うって!なぎとカラオケ行くの!二人で!」

「本当に?」

「……お母さんなんてキライ。」

「ふふふ、ごめんね。もうしないから」

チラリと美尋を見れば、話に花が咲いているようで、箸が完全に止まっている。時間のことなど、頭から消え去っているらしい。

隆人はニヤリと意地悪い笑みを浮かべると自分にあてがわれた分の料理を全て平らげ徐に席を立った。

話を一旦止め、こちらをキョトンと見つめてくる美尋に左腕のブレスレットを人差し指で叩いて見せた。

「ああっ!」

壁に掛けられた時計と机に並べられた料理を交互に見て慌てる美尋を残し、そのまま玄関へと向かう。

靴を履き終わり、ドアノブに手をかけた隆人の耳に美尋の苦しそうな呻き声が聞こえてきた。

母は料理を残されるのを嫌う。残すな、と言われたことはないが、料理を残された日は酷く落ち込むのだ。

早食い出来る自分は良いが、美尋はそうもいかない。時間と戦いながら、母を傷つけまいと必死に料理を掻き込む美尋を想像し、少しばかり溜飲が下がった隆人だった。






退屈な授業を遮るベルが鳴り響き、藍原隆人は伏せていた頭を持ち上げた。

教師が出ていった教室は気が抜けたような息と10分というあまりにも短い休息時間への喜びの声で満ち、ガヤガヤと騒がしいものへと変わる。霞む目で黒板を見ればところ狭しと難解な数字の羅列が描かれていた。

頭を掻きながら、視線を落とす。

提出を求められるであろうノートは新品同様の白さ。唯一の汚れは口から流れ落ちた液体によって丸い染みが出来ていることぐらいか。いつものことだ。

固まった体を伸ばし、窓の外を眺める。

貼り付けたような青空が広がり、どこから出ているかわからない不自然な風が木の葉を揺らしていた。

それがドームの欠点の一つだ。

贋作は贋作でしか無い。人間がどれだけ踵を持ち上げ、背を伸ばそうと試みても限界は存在する。風には頬を撫でるような心地好さが消え、映像化された青空に心を動かされる者はいない。

ドームの中で産まれ、生きてきた隆人はこれで充分だと思うが、本当の自然を求め、ドームの外へと足を運ぶ者も少なくない。

藍原隆人の父親もその一人だった。

あの時の光景を隆人は忘れることは出来ない。

大きな腕に抱かれ、泣き喚く幼い妹。悲しみを圧し殺し、笑顔で見送る母。隆人は家族を残し、ドームを出た馬鹿な父の背に罵声を吐きかけ続けることしか出来なかった。

(帰ってくる…わけ無いよな。)

夢想していた隆人は頭を叩かれ、衝撃で我に返る。肩に掛かる重力が増したことにそれほどの不快感を感じることは無く、腕を回してくる男を睨み付けるだけに抑えた。

「シン、重いから退け。」

180cmにもなる巨体を揺らし、制服を着ていてもその存在を主張するかのような筋肉を持つ男―土井慎之介どいしんのすけは笑う。

「お前が凄んでも、まっったく恐くないな。」

シンは身を起こし、隆人の机にどっしりと腰を落とした。

「……ほっとけ。」

窓に背を向けるように座り直しながら、がっしりとした体格のシンを食い入るように見つめた。おもに嫉妬からだが。

土井慎之介は天性の運動能力、恵まれた体格、整った顔立ちも含め、男女ともに人気がある人物だ。

そんな友人を一言で表すとしたら爽やか野球馬鹿しかないだろう。

甲子園を通過点を言い張るシンの夢は野球の本場、アメリカのメジャーリーグで大成することらしい。

初めて夢について聞かされたのは中等部のころだった。真っ直ぐな男だと感心するのと同時に夢を語るその姿にこちらが気恥ずかしさを感じてしまった。それほどまでに熱い男なのだ。

「いつ完治するんだ?」

首に掛けられた布から、ギプスで固定された左腕が覗く。あまりにも痛々しい姿に思わず顔を顰めてしまう。

「全治1ヶ月。…軽い方で良かった。」

すぐに治ると笑って答えるシンだが、絆創膏や湿布で足りる怪我しかしたことがない隆人には全治1ヶ月は大怪我でしかない。

シンは黙ったままの隆人を見ると、頬を掻き肩を窄めた。

「……あ、妹いるじゃん。」

今の一言は話題を変えるための振りだ。隆人は直ぐに理解した。いつもの手だ。

シンは空気が悪くなった時や話題が尽きた時、言いたくない話題の時などに。こうして無理矢理にでも話題を変えることが度々あった。

頬杖を突きつつ横目で校庭を見ると、確かに見覚えのある尻尾が揺れていた。

(あの様子だと、遅刻しなかったのか…。)

舌打ちをしつつ顔ごと視線を逸らす。今度はもっと遅く教えてやるかと企みながら。

「お兄ちゃんとしては気になる?」

「……何が?」

兄弟と顔を合わせることぐらい、中高一貫校ではよくある光景だ。いちいち気になどしてはいられない。

だが、続くシンの一言は隆人にとって意外なものだった。

「A組の鈴本が妹に告白したって。」

「はぁっ!?」

それがどうした、と言いたかった隆人だったが、何と勘違いしたのかシンの口角がつり上がった。

「やっぱり気になるのか。さすが兄貴だな。」

俺も兄弟欲しかった と嘆くシンを無視し、隆人は短く息を吐いた。

今朝の母と美尋のやり取りはコレの話だったらしい。美尋の顔が真っ赤に染まるわけだ。

美尋は、その手の話は苦手なのだ。ドラマのキスシーンですら直視出来ないぐらいに。

隆人にとって、どうでもいい話なのだが。



高等部に進学して二週間。やっと、二週間という長い時間が経った。

隆人は破顔する。

それは初日のこと。

担任との簡単な顔合わせが終わると、いくつかのパンフレットが配られた。

校則が書かれた面白みの無い規則書や輝かしい高校生活を送るために と書かれた校長の挨拶状。そのなかの一枚、部活動紹介と書かれたパンフレットに目が止まった。


我が校では、部活動の入部は希望者のみとなっている。無理矢理に入部を迫られることはないが、それでも、帰宅部員はいないらしい。

理由は生徒の間で囁かれる都市伝説にも似た噂話のためだ。

部活動に入らない者は成績が一割ないし二割下がるというものだ。確証は無いが、学歴主義の社会の中で懸命に生きる学生達を慄かせるには、噂話だけで充分だった。そのため、仕方なしに部活に入る者、幽霊部員として名前だけを連ねる者達が生まれた。

藍原隆人は後者の予定だった。運動はあまり好きでは無い。かといって、文化部では畑が違う。

中等部では親しい友人達と共に読書部に所属していた。活動は月に一度。図書室から本を借り、その場で直ぐに返却する。本を借りたという記録作りの為だけの行為だ。それを部活動と言えるのかは難しいところだが、活動報告はそれで通した。

高等部でも、そうするつもりだった。

だが、パンフレットに書かれた『ゲーム・漫画愛好会』と書かれた一行を見つけたとき、全身を雷に打たれたような衝撃が駆け巡り、隆人の考えは百八十度変化していた。

(これが、天命というやつなのか!)

中等部の頃は、これほどすばらしい部活、もとい、愛好会は無かった。さすがは高等部。

「なんて…すばらしいんだ。」

「えっ、なにが?」

意図せず漏れた言葉に隣に来ていたシンが首を傾げる。

朝礼はいつの間にか終わっていた。

顔を上げると、どの部に入るか と仲間内で相談している生徒の姿が目に入る。幽霊部員になるつもりなのだろう。

女子達は、結城ゆうき先輩がいる部に入る! と姦しい。高等部人気No.1の男の名前が出たことで隆人は女子達を嘲笑する。

―勝手に入るが良い。そして失恋しろ と。

「すばらしいって何が?」

「別に。」

説明しても生粋の野球少年シンには理解出来ないだろう。

「言ってもわからないだろ、お前じゃ。」

「あぁ、ゲーム関連?……そんなにゲーム好きならさ、俺と一緒に野球やろうぜ!」

「やらない。」

「夢の甲子園だぞ?」

このやり取りは何回目だろうか。中等部の頃もしたような気がする。いい加減に諦めてくれれば良いものを。


握りしめたせいでパンフレットに付けてしまった皺を伸ばしつつ、視線を戻す。

愛好会と書かれてあるということは正式な部活として認定はされていないのだろう。

ここにも少数とはいえ、同志がいたのだ。喜ぶべきことだ。

唯一残念なことは、二週間経たなければ部に入部することが出来ないのだという。本当なら直ぐにでも入会の意思を伝えに行きたいのだが、規則は規則。従うしかなかった。



―そして今日。放課後になれば、入会出来る。そう思うと、つい笑みがこぼれる。

「お前って、笑うと不気味だよな。」

「次それ言ったら、シバくぞ。」

教室に授業開始のベルが鳴り響いた。

嘆息しつつも席に戻るシンを見送ると、希望を胸に、放課後に行われる活動へ向けて睡魔に身を委ねた。

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