第4話いざ、Arcadiaへ

ピピピピとけたたましく鳴る方へ隆人は舌打ちをしつつ、腕を伸ばす。その先には目覚まし代わりの愛用のブレスレットがあるはずだが、手から伝わってくるのは肌触りの良いシーツの感触だけだった。

頭を持ち上げ、重たい瞼を開く。瞼は半分ほどしか開かなかったが、それでも目の前に映るものが何かはわかった。

壁だ。

隆人はインテリアに頓着しない。必要な物だけあればよいと考えるタイプだった。

隅に置いたベットに勉強机。それにクローゼット。あとはベットの隣に配置してある支柱が一本タイプのキャリー付きの小型デスク。それしかない。

ベットは部屋の最奥。壁に沿うように角に配置してある。扉の方に頭、窓側の壁に足を向けて寝るような設置をしたのだ。

つまり、今、目の前に見えるのが壁だとすると、普段とは逆方向に寝ていたことがわかる。


隆人は、まだ覚醒しない脳を動かす。

昨夜は疲れきっていたため、枕に埋まるようして寝たはずだ。枕の位置をわざわざ変えたりはしないので、昨日の時点ではちゃんと寝ていたはずだ。

つまり、昨夜は――かなり寝相が悪かったようだ。

魘されるような夢を見た記憶は無いが、それは単に覚えていないだけなのかもしれない。

しばらくベットの上で呆けていた隆人だったが、ベット際の壁からドンドンっと鈍い音が響き、無理矢理に頭を覚醒させた。

「……ハイハイ、今止めますよ。」

早くこのアラームを止めなければならない。隣室の住人を怒らせると録なことにならないのだから。

隆人はモゾモゾとベットを這いずり、脇に置かれたデスクを引き寄せる。

そのままブレスレットを掴み浮かび上がったパネルに解除コードを入力すると、アラームは止まった。

「おはようございます。現在時刻はAM5:20。関東地区の設定天候は晴れのち雨です。PM16:30より降水量2mmの雨が120分ほど降ります。お出掛けの際は傘をお忘れなく。それでは良い一日を。」

まるで本当の人間が話しているような上質な声音を駆使し、設定された情報を一通り話終えたブレスレットはそのままスリープモードに入った。


隆人はブレスレットをデスクに戻すと、ゆっくりと上体を起こす。

まだ、瞼が重い。

昨日のアレさえなければ、と呟き、右手に視線を動かした。

湿布薬の独特な匂いが鼻を突く。幾度となくお世話になっているものだが、どうもこの匂いは慣れない。

湿布薬を剥がし、適当に丸めてからゴミ箱に投げ入れる。湿布薬は綺麗な弧を描き、ゴミ箱の中へと消えていった。

「よしっ。」

隆人は小さくガッツポーズを取り、再び視線を拳へと戻す。

昨日よりは腫れは引いたようだ。一応、手を握ったり開いたりしながら程度を確認する。

一目で腫れていることがわかってしまうが、痛みは無い。もうこれで湿布薬を貼る必要は無いだろう。

隆人は、一度頷くと清純さの証たる白き学生服へと手を伸ばした。





隆人がリビングへと入ると、いつものように芳しい香りが鼻を擽る。

今日は早く家を出るため、隆人の為に母はいつもより早く起き、料理を作ってくれているのだ。

先程の鼻に付いていた薬臭さが全く無くなったことを喜びつつ、隆人はキッチンで忙しく働く母の背中へと声を掛けた。

「おはよう、母さん。」

母はビクリと体を震わし、フライパンを片手に振り返った。

「あ、たーくん…お、おはよう!」

「無理言ってゴメン。今日は早く出ないといけないから。」

「いいのいいの!気にしないで!たーくんはもっと我が儘言っていいんだからね!」

「え?…あ、うん。ありがとう。」

母はそう言うと、フライパンの中の料理を盛り付け始めた。慌てているのか、いつもより盛り付けが雑のように見える。

隆人はその様子を眺めると視線を鋭いものへと変えた。


様子がおかしい。


料理好きな母らしくない。仕込み、味付け、盛り付けそして飾りまで一切手を抜くことが無かった母が何故、今日は雑なのか。

隆人はテーブルの上に視線を動かす。

今日もかなりの種類の料理が並べられている。

ただ、いつもと違うのが質と量だ。

まず、親子三人で食べ切れる量ではない。いや、いつもそうなのだが今日は普段の倍はありそうな量だ。

そして質。まだ食べていないので味についてはわからないが、いつもより盛り付けが雑だ。フライパンから、さっと移し代えただけのように思える。飾りが乗っている料理は一つもないようだ。

「……母さん、何かあった?」

隆人の問いに母は、またもや体を震わす。

「えっ、何かって何?」

「わからないけど、今日の母さんなんだか変だから……何かあったのかなって。」

「えー、そうかなぁ?別にいつも通りだけど。たーくんの勘違いじゃないかなぁ?」

母は張り付けたかのような笑顔を浮かべ、手早く料理をテーブルへと運ぶ。

「さっ、早く食べて食べて。」

母は隆人を押すように椅子に座らせてから、向かいの椅子に腰掛けた。

「いただきます。」

母は隆人が料理を口に運ぶのを満足そうに眺める。そして何かを言おうとしたのか、口を開いたと思ったら閉じ、悩むような表情を浮かべた。その後も幾度か開閉を繰り返し、やっと決心したのか重々しい口が開かれた。

「たーくん、学校は楽しい?」

「えっ?」

最初は何故急にそのような話をするのかがわからなくて、隆人は首を傾げた。

すると母はあからさまに慌てる。

「え、いや、別に、その、たーくんも高校生になったから、友達増えたかなーって……ね。」

「いや、顔ぶれは変わってないから。一貫校だし。」

「そっかあー、それで、学校はどう?」

そこで、隆人は母が何を聞きたいか理解した。

昨日の件が尾を引いているのだ。

だが、それでも―

(相変わらず下手くそだな。イジメられているって疑うなら、もっと他に聞き方があるだろ。)

隆人は心の中でそっと呟く。美尋も母もよく似ていると思う。役者の才能は無いという点では本当にそっくりだ。それも壊滅的なレベルで下手くそなのだ。

「別に…普通だけど。」

「へー、じゃあさ、担任の先生はどんな人?家庭訪問はいつになるのかな?」

(おい、ちょっと待て。滝川と何を話すつもりだ!?)

母がしようとしている行動を読み取り、勘弁してくれと隆人は頭を抱える。

滝川にもイジめられているなんて勘違いされようなら愛好会どころじゃなくなる。

滝川は隆人の様子を見るため毎日、顔を出そうとするだろう。そうなれば嘘がバレてしまい、滝川に問い詰められるだろう。下手をすれば、会の存続が危うくなってしまう。そうなればフィリア・ハーストンと会う手段が無くなってしまうという悲劇に繋がるのだ。

アルバイトの許可が下りるのは、夏休み前からだ。今まで唇を噛み締めて我慢していたのに、これから更に我慢しなければならないのか。

そのような事、許せるわけがない。


「母さん、勘違いしているようだから言うけど…イジメられてないからね、俺。」

「そんなこと思ってないよ!ただ、学校はどうかなーって思っただけで…。」

母の視線は中空を泳ぎ、隆人の右手へ注がれた。

隆人は溜め息を吐きつつ、右手を母の目の前へと突き出す。

「これは、ぶつけただけだって昨日言ったよね。部活も決まったし、尊敬……出来る先輩とも知り合った。母さんが心配するようなことは全く起きてないから。」

隆人は母が頷くのを確認してから、右手を引き戻すと、山のように盛られた米を掻き込む。

隆人は食卓を飾る料理を半分ほど平らげたところで、チラリと母の様子を伺った。

母は未だに不安そうな表情で隆人を見つめている。隆人には母のその気持ちがよくわかった。

藍原家は三人で支え合って生きてきた。生活は決して楽なものではなかったが、それでも幸せだった。

もし、美尋がイジメにあっていると聞いたら、隆人だって心配するし、怒りもする。その相手を容赦しないとまで言い切れる。それほどまでに家族の結束は強かった。

「母さん、本当に大丈夫だから心配しないで。何かあれば、ちゃんと言うから、さ。」

「うん…。」

完全には納得してはいないのだろう。まだ浮かない顔をしている。それでも、いつものように笑ってくれた。

「ご馳走さま。今日も美味しかったよ。だけど…もう少し量を減らしてもいいんじゃないかな?」

「ふふ。…ちょっと張り切り過ぎちゃった。でも、みーちゃんもいるし、これぐらい大丈夫よ。」

「……ソウダネ。」

隆人は割り当て分の料理、そして大皿に乗せられた料理を完食する。

物理的な意味で、胃袋への負担が少しでも減ればよいのだが、大皿の一皿ぐらい大して変わらないだろう。

(美尋、すまない。俺に出来るものはここまでだ。あとは任せた。)

隆人は美尋の苦難を思い、心の中で合掌した。






早朝の学校というのは物静かなのに一種の喧騒を持ち合わせているものだ。

それは笑い声ではなく、掛け声。

一斉に、雄々しく叫ぶ男達の野太い声が周囲に響き渡る。


我が校ではグランドは一つしかない。

中等部、高等部はそれぞれのクラブの部長、生徒会員で円滑な話し合いの末、各部の使用時間が決められる。

実際に見たことは無いが、毎回、壮絶な大舌戦が繰り広げられるそうだ。

同じ人間同士とは思えないような遠慮の無い雑言ジャブの応酬。他校はどうかは知らないが、我が校の部長クラスに求められる能力はリーダーシップに加え、鋼の精神力、そして相手を黙らせ、丸め込む能力だろうか。

第三者として覗き見たい気持ちはあるが、参加資格は部長と生徒会だけで、そもそも愛好会、同好会は頭数に入れられていない。

隆人がこの会に参加することは絶対に無いだろう。


この学校にはグランドは一つしかない。といっても、広さの点では全く問題は無いのだが。

今朝は、中等部の軟式野球部、高等部の硬式野球部、それに中高合同サッカー部がグランドを駆け回っている。

人気球技とはいえ、ざっと見たところ百人はいるだろうか。いや、それ以上はいるかもしれない。

それだけいても、まだスペースが余っているように見える。


隆人はフェンス越しに目当ての人物を探した。

シンはかなり目立つ。高校生離れした体格のお陰で今まで見つけられなかったことは無い。

遠足先での班行動は、隆人達の班はいつも個々の自由行動となっていた。個人行動は禁止されていた為、教師が出没する付近で合流するように取り決め、その目印と化したのがシンだ。

シンで合流――。それが隆人達の班の決まり事だった。


人一倍大きい声につられるように隆人の視線が動く。正規の練習場からは離れている為か、簡易ベンチに水筒や様々な野球道具が立て掛けられている。

簡易ベンチの回りにいるのは全て一年だ。見知った顔が球拾いに走り回り、球拾いを免除された他の者は汚れた球を次々と磨き上げていた。

シンはベンチの横に立ち、練習をしている仲間へと声援を送っていた。

「やっぱり居やがった…あの野球馬鹿め。休めって言われているだろうに。」

隆人は吐き捨てるように言う。

そのままフェンス沿いに歩き、グランドへと足を踏み入れた。

すると、幾人かが異物を見るような目で隆人へと視線を動かす。その中には見定めるように上から下までしっかりと見てくる者までいた。

だが、直ぐに興味を失ったかのように顔を背けてしまった。

理由は至極簡単だ。隆人の体格を見て、部には不適当だと思ったのだ。

事実、隆人は体育の成績は平均値だった。

体格に恵まれず、運動もしなさそうな男。例え入部希望者だとしても、大きな目標を持ち日々努力している者達は隆人レベルの人間なぞ見向きもしないだろう。

隆人もその気持ちは理解出来る。本当に目指す物の為、日々、取捨選択する生活。素人に構う時間は無いということだ。


隆人は真っ直ぐにシンの元に進む。

距離がある程度までくるとあちらも隆人に気づいたようだ。

シンは一瞬、目を大きく見開くと、笑みを浮かべ隆人の元まで駆け寄ってきた。

「珍しいな、隆人がこんな時間に来るなんて。」

明日は雨、いや嵐だな、と笑うシンを隆人は軽く小突く。

「うるせーよ。練習見に来いって言ってたのお前じゃねーか。」

「あ、確かに言ったな。……で、感想は?」

隆人は嬉しそうな顔を向けて来るシンの様子に肩を窄め、言った。

「まあ、すごいなとは思う。」

「何が?もっと具体的に言ってくれ。」

「あのボールを追いかけるだけの練習をひたすら続けられる精神力とか、後輩という理由で雑用を押し付けられても文句を言わない態度とか。」

その答えはシンが求めていたものでは無かったようで、シンの顔に一瞬、黒い影が掛かったのを隆人は見過ごさなかった。

「…まあ、やってみると楽しいだろうな。」

「だから、一緒にやろうって言ってるだろ。二人でメジャー目指そうぜ!」

そこは甲子園と言うところだろう。隆人は笑顔で受け流しつつ、心の中で呟いた。

「いや、俺運動好きじゃないし。」

「なら、マネージャーで。」

「それは嫌だ。」

野球部のマネージャーと言われ、隆人が一番に思い浮かべるのは可愛い女子マネージャーだ。野球部には数人の女子マネージャーがいるらしいが、野球部員も男より女の子が入部してくれる方が良いだろう。

そして次に思い浮かぶのは只の雑用係というイメージだ。

隆人は一年生部員らを見る。

青い収穫用籠に積まれた球を磨き、磨き、磨く。あれもマネージャーになれば押し付けられる仕事の一つになるのだろう。

それに合宿などを行われたら、あの汚ならしいユニフォームを洗わされるに違いない。何が楽しくて男が、男の汗臭く、泥にまみれたユニフォームを洗わなければならないのか。

それはただの罰ゲームでしかない。

「絶対に嫌だ。」

「そうか?お前は目が良いから、相手のピッチャーの癖とか直ぐ見つけてくれそうなんだけどな。あと、頭良いし。参謀とか向いてそうだよな。」

「えっ?ああ、まあ…、そう…だな。」

隆人は不意に誉められ、口篭る。

肉体労働者ではなく、頭脳労働者として期待されていたとは全く思っていなかった。

皮肉で返そうと身構えていただけにどう返答したらよいかわからず、頷くことしか出来なかった。


――眩しい。


錯覚とはいえ、隆人はあまりの光量に思わず目を細める。

シンは嘘がつけない性格だ。いや嘘をつかないと言ったほうがより正確だろう。話を逸らすことはあるが、相手に嘘をつくということは無い。はっきりとした、誰が見ても好感が持てる性格をしている。


先程の言葉は嘘偽りの無い、シンの本心なのだ。

シンのこういう実直さが隆人は苦手だった。

真っ直ぐ過ぎて何故かこちらが恥ずかしくなるのだ。世辞じゃないとわかる分、余計に。



隆人がそのようなことを考えているうちに、シンの話は野球の素晴らしさとマネージャーの重要性に発展していた。

隆人は慌てて、シンの誉め殺しを大袈裟な咳払いで遮る。

そのような話をするためにわざわざ来たのではないのだ。


「シン……ちょっと向こうで話さないか?」

顎でグランドの外を指すと、シンは嫌そうに顔を歪め、隆人から顔を背けてしまった。

その視線の先にあるのは白球を追いかけるチームメイトの姿だ。

あの輪の中に入れないことが辛いのだと、ひしひしと伝わってくる。

「……頼む。」

隆人の口調の変化を感じ取り、シンはポツリと呟いた。

「……わかったよ。」





フェンス越しに野球部の練習を眺めながら、隆人はどう切り出すべきか迷っていた。

どう言ったとしても、シンを傷つけることになるのはわかりきっていることだ。なら、隆人が出来ることは親友としてシンと対することだろう。

適当な嘘をついたり、話を曖昧に誤魔化したりはしたくはなかった。

それに、聞いておかなければならないこともある。隆人は意を決する。


「休めって言われてたんじゃなかったか?」

「………。」

シンはその問いに答えない。

顔は隆人の方に向くことはなく、一心にチームメイトらへと注がれている。だが、無視をしているという訳ではない。

シンはそういう男だ。

隆人は続ける。

「野球好きなのはわかるけどな……。今、ここにいても出来る事なんて一つも無いじゃないか―」


「―今、シンに出来ることは早く傷を治すことだろ?」

隆人にそう言われ、シンの顔が暗く沈む。

「……それぐらい、わかってる。」

シンは右手でフェンスの網を掴む。

その手が震えているのは怪我をしてしまった自分への怒りの為だろうか。それとも心無いことを言う友人への怒りか――隆人にはわからなかった。

「…やっぱり、何かあったのか?」

いつも明るく周囲に和を振り撒くシンがここまで動揺するのを隆人は初めて見た。

それほどのことが起きたというのか。隆人の頭に最悪のケースが浮かび上がるが、頭を振り、即座に打ち消す。

それでも腹の底で気持ちの悪い感情が渦巻き続ける。隆人は祈るような気持ちで、シンの返答を待った。



キーンと硬質な音が響き、歓声が上がる。

何事かとグランドを見ると、何人かが空を指差しているのが見えた。

隆人もシンも指された方を眺める。

グングンと空を切る一つの点は、木々の向こうに姿を消した。

それでも歓声は止むことはなく、残響のようにグランドに響いていた。


「今のスゴいな、かなり飛んだぞ。」

「あれは、四番の保木ほぎ先輩だな。あの人はいつもあれぐらい飛ばすらしいぞ。」

互いに軽く笑い合う。だが、その声は尻窄みに消えていった。


シンはこの空気に耐えきれなくなったのか、深呼吸を繰り返し、やがて口を開いた。

「……俺は、ずっと野球しかしてこなかったから……休めって言われても何をすればいいのかわからないんだよ。」

シンはそう言うと、右手に力を込める。すると、フェンスの網がシンの握力に負け、手の中心に引っ張られるように形を曲げたのが見えた。


「…………えっ?」

気の抜けたような、場違いな声が漏れる。

シンの言葉を反芻するも、隆人はシンが何を言っているのか理解出来なくて、もう一度、言うように頼み込む。

シンは首を傾げつつ、一字一句漏らすことなく繰り返した。

「怪我が悪化したんじゃ…。」

「え?俺、そんなこと一言も言ってないぞ。」

驚いたように目を見開きながら「なんの話だ?」と聞いてくるシンから逃げるように顔を反らし、隆人は自身の間違いに気付く。


「あー、なるほど…ね。」

隆人は、たまらず頬を掻いた。

つまりは野球が出来なくて辛いから練習でも見ようか。ただ、それだけ―ということなのだ。

それだけなのだ。



血を吐くように呟くシンには悪いとは思うが、隆人にはその気持ちが理解できなかった。

シンの発言は隆人の予想の範疇を出ることはなかったからだ。

正直言うと、もう少し何かあるかと期待した。

友人との約束を果たす為とか、ライバルにポジションを奪われようしている状況だとか、実は怪我が悪化して野球が出来なくなったとか、最悪のケースまで想像してしまった。

ゲームのやり過ぎ、漫画の見過ぎだと言われるかもしれないが、勘違いしてしまっても仕方ないではないか。

(……俺は悪くない。)

隆人は自分に言い聞かせる。

シンは悲劇の主人公のような台詞言ったが、怪我の程度は全治一ヶ月なのだ。もう二度と野球が出来ない風に言ったり、そのような雰囲気を醸し出すのは止めて欲しい。勘違いしてしまうから。


確かに一ヶ月もの間、野球が出来ないことはシンにとっては辛いことなのだろう。

野球をしたことが無い隆人には一ヶ月という時間が及ぼす影響なぞわからない。だが、ここまで悲観するようなことなのだろうか。



まあ、シンは野球に打ち込みたいからと言って、何人もの女子を泣かしてきた男だ。元来、 野球以外に興味は無いのだろう。

今までシンと付き合って来て、今更、野球愛への深さを再確認することになるとは思わなかった。シンは野球に対しても、真っ直ぐな男だ。それも輝かんばかりに。

「あー。まあ、なんて言うか、お前らしいな……。うん、実にお前らしい。」


それでも、文字通り応援をするより、他に出来ることがあるのではないだろうか。


隆人にとって一ヶ月間、ゲームを禁止された場合、確かにそのことは辛い。『Arcadia』をプレイ出来るまでの二週間、死ぬような思いをして待ったのだから。

だが、隆人はその待ち時間を無駄に浪費することは決してしない。

ゲームルールを頭に叩き込むことは勿論のこと、今日までの街の外観。配置モンスターの情報。上位プレイヤーから危険視されているプレイヤーの情報からギルドの情報など、隆人は逐一チェックしている。

鍛練プレイするだけが野球ゲームではないのだ。

朝早く起きて声を出すために時間を潰すより、新しい球種を覚えるとか、ライバルチームの情報を集めるとか、野球の細かいルールは知らないので今はこれ以上思い浮かば無いが、やりようは山程あるのだ。

―何故、それに気付かないのか。


(俺の心配を返せ!)

隆人は呆れを通り越し、ふつふつと内に湧いた怒りのまま腕を振り上げ、ピンと伸ばした手をシンの頭部へと降り下ろした。

「いでっ!」

シンは突然の暴力を理解出来ず、非難するように見てくるが隆人には関係無い。もう一度振り上げ、同じ場所に落とす。

だが、二度も同じ攻撃を受ける男ではない。シンは右手で隆人の手を掴み、睨み付ける。


隆人は悪びれる様子も無く言った。

「いや、ガチガチの石頭を柔らかくしてやろうと思ってな。…物理的に。」

「はぁ?」

隆人は顔を顰めるシンをキッと睨む。

だが、睨み付けた所で、この野球馬鹿には通じないことはわかっている。ただ、睨み付けたかっただけだ。


隆人は人指し指をシンへと突き付けた。

「何していいかわからないっていったな、じゃあ、一週間。放課後の少しの時間でいい。俺の夢の実現の為、手を貸してくれ。」

急に話が変わり、シンは首を傾げた。漫画なら頭上には疑問を表すマークが浮かび上がっただろう。


本当は、気晴らしに『Arcadia』に誘うつもりだった。一緒に楽しくプレイして、少しでも気が紛れてくてれば―と思っていたのだが、シンの気持ちを聞いた今、遠慮は要らないのだと悟った。

なら、目的の為に大いに利用させて貰おうじゃないか。それによって架空現実の闇を覗くことになるだろうが、オブラートに包むよう配慮すれば良いだろう。まあ、ある程度は―だが。

親友とはいえ、ゲームで容赦はしない。



シンが否定の言葉を発するよりも早く隆人は続けた。

「タダとは言わん。手伝ってくれたら、時折、相手チームの情報を集めてやろう。……どうだ?」

隆人の提案にシンの凛々しい眉がピクリと跳ねた。

かわいい女の子の告白も「野球があるから」と真顔で断るような男に、「一緒にゲームしようぜ!」と言ったところで断られるのは目に見えている。

必要なのは心に訴えることと、野球に関しての実利を兼ね合わせることだ。シンはこれで大抵落ちる。


シンは額に拳を当て低く唸る。

メリットとデメリットを考えているのだろうと容易に予想出来た。

この話、双方にメリットはあるが、デメリットは無い。隆人は『Arcadia』を攻略するための仲間を得ることが出来る。シンは一週間という短い期間で優秀な情報屋を味方に出来るのだ。


シンの先程の発言に表れているように隆人の情報収集能力は高い。隆人のネットワークは広大だ。友人ヲタク仲間が与えてくれる情報は多岐にわたる。

わざわざ相手チームの練習を偵察に向かう必要は無い。友人に頼み、映像を送って貰うだけで良いのだ。

必ず対価を要求されるのが唯一の頭の痛い点だが、それは利点でもある。正当な対価を与えていれば、あちらが裏切ることは絶対に無いと言い切れる。


シンが悩むのは、野球部に顔を出せなくなるからだろう。といっても本当に顔出しだけだ。練習も出来ないし、片手では球も磨けない。

居ても居なくても同じだろう。何を迷うことがあるのか。

(早く堕ちろ。堕ちろ堕ちろ堕ちろ。)

隆人が内心で呟きつつ、シンを窺うとシンは眉間に皺を寄せて聞いてきた。

「……俺は何を手伝えばいいんだ?」

「俺の恋愛成就、かな?」

シンが疑問を口にするも、隆人は満面の笑みを浮かべた。







「なあ、ほんとに部室なんかあるのか?」

シンは顔の回りを飛ぶ羽虫を煩わしそうに払いながら言った。

「いいから、黙ってついて来いって。」

「うわ、隆人アレ見ろって、めっちゃデカイ虫がいるぞ。」

校舎の端の端。二人は薄暗く不気味な雰囲気に包まれた場所に居た。そこには湿気が溜まりやすい立地なのか肌にベタ付くような不快感がある。

シンは人の手が入っていない場所が珍しいようで、楽しそうな声を上げている。確かに現代ではここまで管理されていない場所を探すほうが難しいだろう。

「ほら、あそこだ。」

隆人が指差す先に立つ建物を見た瞬間、シンの顔色が曇った。

「……趣はあると思うぞ。」

隆人の肩に手を乗せ、フォローをしたつもりの―ヒクヒクと痙攣するかのような笑みを浮かべたシンに隆人は変な気を遣うなと言った。

「今にも倒壊しそうだろ?」

「ああ、押したら壊れそうだ。」

「いや、それは無いだろ。」

そのようなことを話ながら部室へと近づくと、勢いよく扉が開き、眼鏡を掛けた男が顔を出した。

シンは不安そうに隆人をチラリと見る。シンが今まで接することの無かった人種なのだ。佐伯の雰囲気に困惑しても仕方ないといえる。

「あれが会長の佐伯先輩だ。」

「あの人が…。」

シンは足早に佐伯の元に駆け寄り、丁寧に頭を下げた。

「ウス!一週間お世話になります。土井慎之介です。よろしくお願いします。」

その丁寧な態度は誰が見ても好感が持てるほどだ。シンにはそのような魅力がある。

佐伯もそう感じたのだろう、身長差からくる威圧感と体育会系特有の圧に押されつつも嬉しそうに頷いた。

「慎之介君だね。話は隆人君から聞いているよ。まあ、立ち話もなんだしね。ささ部室こちらへどうぞ。」

佐伯に促され、シンは部室へと入る。隆人もシンに続いて入った。

「有力会員候補…ふふふふ。」

「なあ、隆人、あの人どうした?」

「気にするな。いつもああだ。」

立ち止まるシンの背中を押し椅子に座らせる。佐伯の行動に一々反応していたらキリが無いし、さっさと『Arcadia』をプレイしたかった。


シンはパイプ椅子から長い足を投げ出すように座り、物珍しいのかキョロキョロと回りを見回していた。

「なんか、趣味が爆発したって感じだな。」

「趣味って何が―」

隆人は言葉に詰まる。

疑問を口にする前に一変した部室を見てしまったからだ。


猫の耳と尻尾が生えた二人の幼女のポスターがラミネートされ壁に貼られている。一人は灰色の毛色、もう一人は白毛だ。にこりと微笑み、向かい合い両手を絡め合う二人は何故か水着だ。それも旧式の肩や足を出したタイプのスクール水着で背景は大空。

隆人にも色々と理解が及ばない領域だ。

机の上には瞬間湯沸し器と急須。それに四つの湯飲みが置いてある。佐伯の自前だろう、それぞれにアニメキャラクター のデザインが施されている。

机には可愛らしい文字体のステッカーが左上がりに貼られている。邪魔にならないようにではなく、痛まない場所を選び張り付けたという感じだ。

窓には目が痛くなるほどのピンクのカーテンが付けられている。そのカーテンには二匹の猫がジャレている絵が布一杯に、これでもかと描かれてあった。それも先程のポスターのキャラなのだろう。それぞれの尻尾には色違いのリボンが巻かれてあった。



一夜で佐伯色で染められてしまったらしい部室に隆人は驚愕し、落胆もした。

昨日、隆人を早めに返したのはこの為だったのだ。

隆人は別に人の趣味をどうこう言う気は無い。

だが、それは自身に害を成さない範囲に限られる。佐伯が自分の部屋を好きに飾ろうが何も言うまい。

だが、ここは部室なのだ。共同スペースを何の断りも無く、勝手に飾りたてるとはどういう了見なのだろうか。


本音を言えば、隆人も自分の好きなように飾りたかった。それが出来ない理由があったので、我慢するしかないのだ。

何故我慢しなければならないのか、少し考えればわかるだろう。

顧問、滝川だ。

もし、この部室を滝川に見られでもしたらどうなるのか。

滝川にはゲーム作りの為の会だと伝えてある。そのことを佐伯に伝えてはいないが言われなくともそれぐらいのことは考えて欲しかったし、どうしても我慢出来ないというのなら、せめて滝川が耐性を付けるまで自重して欲しいものだ。

何の耐性を持たない滝川はこの部室に足を踏み入れた瞬間、悲鳴を上げるほどでは無いだろうが、かなりの忌避感を示すだろう。

実際、アニメやヲタクに対して偏見を持ってはいないシンですら―若干、いや かなり引いているのだ。

滝川は、この部室を目にして、顧問として どう動くだろうか。

ポスターやカーテンを撤去しろと言われるだけならまだ良い。これを機とばかりに活動停止、又は廃部という措置を取られる可能性だってあるのだ。そうなれば『Arcadia』をプレイすることが出来なくなってしまうのだ。



佐伯の行動を諌めなければならない。それも今。この場でだ。

今、このタイミングを逃せば佐伯の暴挙を止めることは、非常に困難になる。

この手のタイプは、許されたと勘違いすれば欲望のまま際限無く暴れ狂う。

今、この場しかないのだ。


「佐伯会長……少々やりすぎでは?」

声のトーンが明らかに低くなった隆人に佐伯は声を荒らげる。

「隆人君、これでも君に配慮したのだよ。」

佐伯は痛みがあるかのように額に指を押し付け、溜め息と共に腕を振るう。

「見たまえ!壁紙には一切、手をつけていない。会を復活させてくれた君の為に措いてあるのだよ!君の好きなように飾るがいいさ!」

心外だと言わんばかりに眉間に皺をよせた佐伯の言葉が隆人に叩きつけられる。


その時、隆人の何かが弾けた。


「そういうことじゃないんですよ!何で我慢出来ないんですか!? 滝川がこれ見たらどう思うかとか考えて下さいよ‼」

シンが仲裁に入るも、隆人の熱は止まらない。

「もうちょっと頭使って下さいよ!ただでさえ、俺たちは風当たりが強いのに、こんなの殺してくれと首を差し出しているのと同じじゃないですか‼ 」

「飾って何が悪い!」

佐伯はツカツカと歩み寄り、隆人の胸ぐらを掴む。さすがに殴るようなことはないが、佐伯の剣幕に隆人は圧倒される。

「君はそう言うがね、僕はそのようにコソコソ生きたくは無い!笑う者には胸を張って言ってやれば良いのさ『これがゲーム・漫画愛好会だ!』と。」

言ってやったぜ と自慢げに鼻を鳴らす佐伯の手を煩わしげに隆人は払う。

佐伯は、その態度が癪に障ったのか隆人の胸ぐらをもう一度掴もうとし、寸前で払われる。



(……どっちも子供だ。)

互いの手をパシパシと叩き合う二人を見ていたシンは猫のケンカを思い出していた。

男のケンカと云えば殴りつけたり、蹴りつけたりだが、この二人は そうはならないだろう。

似た者同士のケンカだ。いや、ケンカというよりただの言い合いだが。どちらにしろ可愛らしいものだ。

「―はいはい。そこまで。」

このまま放っておいても全く問題は無いだろうが、止めなかったら何時間でも続けていそうだ。


シンは隆人と佐伯の間に両腕を割り込ませ、手の甲でそれぞれを軽く押す。

噛みつかんばかりの距離が少し離れ、しだいに落ち着きを取り戻す隆人にシンは笑い掛けた。

「これぐらい可愛いもんだと思うぜ?俺、もっと凄いの見たことあるしさ。それに隆人なら、滝川ぐらい丸めこめるだろ?」

シンは首を佐伯の方に百八十度動かし、そのまま続ける。

「佐伯先輩も、気持ちはわかりますけど、何かする前に相談しても良かったんじゃないッスかね?…チームメイトなんだし…ね。」

「………。」

「………。」

子供に諭すような言い方なのが少しばかり不快だが、シンの言う通りだ。

このまま続けたとしても、どちらも譲る気は無いし時間の無駄だろう。だが、問題の先送りになるのは避けたい。

「この件は後で話合いましょう。」

「…了解した。」

佐伯はまだ何か言いたいようだが、客人シンの手前、あっさりと身を引いた。

佐伯はシンを会員候補として狙っているようだ。印象を悪くするようなことはしないつもりなのだろう。

「なあ、さっさとゲームやろうぜ。」

「わかったわかった。」

隆人は佐伯から受け取った専用HMDをシンに投げ渡す。


HMDとはヘッドマウンド・ディスプレイの略で頭部装着型の投影装置だ。これを使用することで仮想現実へと旅立つというわけだ。

仕組みはよく知らないが、この装置から発せられる映像やら電気信号やらを脳が読み取ることによって仮想現実に入っているように感じているらしい。


隆人にはこれ以上の説明は出来ない。

生体科学は詳しくないし、コンピューターの仕組みを説明なんて一般人に出来る訳がない。

ただ、そういうものだ と言われているから そういうものかと認識している。それだけだ。


隆人に出来るのは、良さを伝えることだけだろう。

完全にその世界に入り込みたい人は完全防音のフルフェイスヘルメットを愛用し、ゲームをしている時の見た目、軽さを重視したい人はアイウェアタイプを使用する。

個人的には防音タイプのフルフェイスヘルメットの方がお勧めだ。少しばかりの頭重感はあるが、現実世界から切り離され、仮想世界に飛び込むような没入感が他のタイプよりも卓逸しているのだ。


「古いタイプだな、コレ。」

シンは片手でクルクルとヘルメットを回しながら後部からコードを引き出し、机にあるパソコンへと伸ばす。

旧式モデルだとコードでコンピューター機器へと接続しなければならないのだ。ちなみにシンに渡したHMDは七世代前の機種となる。

コード付きのHMDは比較的安価で今でも愛用している者も多い。隆人やシンが中等部へ入学する頃まではコード付きが一般的だったため、どちらかというと、こちらの方が親しみはあった。


「とりあえず、君たちは新規登録を済ませてくれ。先に集会場で待ってるから。」

「俺はキャラメイクはしないから、直ぐに行けます。シンはどうする?」

「あー、そういうの面倒いから俺でいくわ。」

「じゃあ、それで。直ぐに行きますから。」

シンは手慣れた手付きで接続を終え、隆人と佐伯は自前のHMDを装着する。

隆人はフルフェイスタイプのHMD。飾り気は無く単色。シンプルな見た目をしているが、耳の部分が角のように後ろへと短く付き出ている。遮音性能では右に出るもの無しと言われていた逸品だ。

佐伯はアイウェアタイプの最新モデル。空気抵抗を感じさせないような見た目のHMDだ。フレーム部分は鮮明ライトブルーでディスプレイ部分には壁に飾られている猫耳幼女が描かれてある。


「それでは、仮想世界あちらで会おう。」

佐伯の声を皮切りに、座り心地の悪いパイプ椅子に身を任せ、ピカピカと点滅するディスプレイへと思考を移す。


やがて機械音声が脳内に響く。

『Arcadiaへダイブしますか?』

「YES。」

隆人がそう発すると光速で進むかのように視界が動く。あるパーティが大型モンスターと戦う映像が流れ、大穴から腐臭の漂うゾンビが這い出る映像へと移る。グルリと視界が反転し、建国に勤しむ人々へと切り替わった。

次々に過ぎ去る美しい映像に心を奪われていると、急な浮遊感に襲われる。

髪が一気に後方へ流れ、風圧に肌が波打つ。急降下という言葉が相応しいほどの垂直落下だ。

「うわあああああ!!」

その叫び声は風切り音に搔き消される。自身の耳すらも体を擦るような風音しか拾わない。

それでも隆人は叫び続け、眼前へと迫った大地への衝撃に備え、反射的に身構えた。


だが、いつまで待とうとも衝撃に襲われることは無く、隆人は恐る恐る目を開いた。

いつの間にか、地に足が着いており、目の前に広がるのは茨で覆われた とてつもない大きさの門扉アイアンゲートだ。


一歩、門扉へと歩を進めると門の中央部分に光の粒が流れ星の如く集まり輝き始めた、そしてそれは一つになる。

その光が閃光の如く弾け、中から現れたのは美しい天使だ。

「ようこそ、神の箱庭へ。」

白髪をなびかせ羽衣を着た天使は続ける。

「ここは二人の神が造りし世界―。その名を『Arcadia』。ここは神を崇める信心深き者のみ住める聖域。汝は我が神を崇める者か?」

「はい。」

「……よろしい。この誓約は貴方を縛る掟。貴方が罪を犯す時、神は裁きを下されます。そのことを留めておきなさい。」

天使は隆人の前に降り立ち、扉へと促す。

「さあ、行きなさい。『Arcadia』が貴方の理想郷となるように―信心深き者に神の祝福があらんことを―。」

天使の姿が光となり消えると同時に扉を覆っていた茨が燃え始めた。

炎は茨を呑み込み走るように進む。炎が全ての茨を燃やし尽くすまで時間は掛からなかった。


全ての茨が燃え尽きたというのに、灰も煙すら上がらない。何事も無かったかのような静けさだけが辺りを包む。


隆人は深呼吸すると扉の前まで進む。

言い得ぬ興奮が腹の内で暴れていた。それが伝わっていたのか指先が震えていた。

そのまま震える手で扉に触れると、ゆっくりと焦らすような速度で扉が開き――隆人は一瞬で光に包まれた。




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