恋踏み
「これ、瀬良にってさ」
給食も食べ終わった午後。僕の前の席、そこの椅子を拝借した有馬は休み時間にそう言った。本来の使い方とは反対に、背もたれの方を前にして組んだ両腕をそこに乗っけて座っている。そうやって小さな声で有馬が差し出したのは薄い、白に近いピンク色の封筒だった。僕は見慣れない、触り慣れないそれがなんとなく自分のものになることに実感がわかなくて、しばらく受け取らず、有馬の手に握らせたままじっと見つめていた。
「おい、もっと喜べよ。ラブレターだよ、きっと」
そう言う有馬は少し不機嫌そうだった。ほら、と更に手を延ばして僕と手紙の距離を近づける。近くで見た封筒には皺のひとつもなく、4つの角は傷を負いそうなほど鋭く尖って、触れたところから血が流れそうだった。僕は少しためらって、角に手を触れないようにそっと手紙を受け取った。それはいつも触れる学校のプリントとかノートとかではない質感の紙でできていて、そこで僕はやっとどぎまぎと心臓が高まった。すこし湿り始めた手で封筒の裏を見る。けれど、どこにも差出人の名前はなかった。
「……これ、だれから?」
「あれ、名前ないの?……きっと中にでも書いてあるんじゃない。俺の口からはいえないよ、書いてなくて言っちゃったら俺のせいになるし」
そう言って有馬は椅子の背を手で掴み、体をのけぞるようにして顔を天井に向けた。その後で「あーあ」とわざとらしくため息をつく。
「ついに瀬良にも彼女出来ちゃうのかな〜」
カノジョ。
そう有馬の言葉を
いつもならまぶたが重い昼下がりの授業中、僕はもらった手紙のことばかり考えていた。まだ封は切っていない。有馬と話している最中、他にも数人クラスの奴が寄ってきて、開けろ開けろと急かされた。けれど、そう言われれば言われるほどここで開けてはいけない、という気持ちが強くなった。
机の中に左手だけを突っ込んで、手の感覚だけで封筒を探し、そっと触れてみる。有馬の言う通り、ラブレター、だと思う。そう考えて胸がどきりと跳ねた。つまりそれは誰かが僕を好きだということで。他にもいる男子よりも僕のどこかしらを気に入って、特別に思っていてくれたわけで。そしてそれを僕に伝えようとこの手紙を書いたんだろう。でも、それでどうするんだろうか。僕に何を期待するのかな。恋人、ってやつになりたいのかな。もし僕が望めば、付き合うってことになるのかもしれない。
付き合う。恋人。彼氏と彼女、か。
そういえば、小学生ぐらいの時、他の男子と遊ぶのと同じくらい葛貫と一緒にいた僕はよく「お前ら付き合ってんの?」とか「お似合い瀬良夫婦」なんてからかわれた。その度に僕は怒って、何度も何度もそいつらと喧嘩をした。ひどい時には殴り合いになって、僕も相手もお互いが泣いてボロボロになるまでやめなかった。僕はそうなっても絶対に謝らなかったし、それが原因で葛貫と離れることはなかった。だって僕が間違っているとは思わなかったから。からかわれるようなことは何もしてないって思ってた。
懐かしいなと思って、少し胸がきゅっと縮こまった。それからふと考えた。ああやって喧嘩することが無くなったのはいつからだろう。
僕は急に敏感になった。周りからの目の色とか囁かれる声、いろいろ。それらを知ってからは逆らうことが怖くなった。
間違ったことはしていない。そう思っていても、周りから離れて突き通す強さはもうなかった。何が正しいとか間違ってるとかは関係ない。どうすれば生きやすいか、それだけが大事になっていた。
すべての授業が終わり、僕は鞄に教科書やらノートやらを詰め込む。もちろんあの封筒も、できるだけ周りに見られないようにそっとしまった。
「クズ、帰ろう」
鞄を提げて葛貫の前に立つ。僕を見ずに頷く葛貫。そんな僕らを見る周りの目。僕は気付かない振りをする。気付いてないから逆らわない。そういう振りをしてしていればここにいるのが、葛貫と一緒にいるのが、少しだけ、楽になるから。
コンクリートを埋め尽くしていた桜は盛りの色を失っていた。茶色く変色したそれらのほとんどは道路の両淵に溜まって立体的な線を引く。桜は儚いと誰かが言っていたが、実はこうやってしぶとく花びらは生きている。木から離れて久しいというのに、色を変えて場所を変えてまだその形をとどめているんだ。
葛貫は相変わらず何も喋らない。僕と距離をとって後ろを歩く。周りの景色が変わっても葛貫の態度はそのままだ。僕は振り返り、そのいつもの姿を認めてからまた前を見て歩いた。
もし、僕が手紙の子と付き合うことになったら、きっとこうやってふたりで歩くことはなくなるのだろう。僕の後ろを、いや、隣を歩くのは違う女の子になるはずだ。そうしたらこの沈黙も、周りの目に怯えることもきっとなくなる。僕をもやもやとさせること、なくなる。
そう考えてふと気付いた。僕は葛貫といて、苦しむことしかないじゃないか。イライラしたり、胸を痛めたり、そんなことばっかりじゃないか。
なのに、どうして僕はこいつから離れないんだ。
「クズ」
急な僕の呼びかけに葛貫は少し驚いたような小さな声で「うん」と答える。
「僕、今日手紙をもらったんだ。女の子から」
言葉にしてはっとする。自分でもどうして急にこんなことを言ったのか分からなかった。葛貫に伝えてどうするつもりなのか、不思議だった。それでも何となく葛貫の返事を待っていた。どんな反応をするのか、期待した。
「付き合うの?」
どきりとして、思わず振り返る。葛貫からそんな言葉が出るとは思わなかった。何というか、普通だった。同じクラスの女子たちも言いそうな、普通の反応だった。
葛貫は顔を上げていた。それで、僕を見ていた。その表情にも何も特別なものはない。普通の葛貫。僕は何も答えなかった。答えられなかった。何でかひどくがっかりして、そんな自分に恥ずかしくなった。
それから葛貫も僕も別れるまで口を開かなかった。ただ、葛貫に何かを期待した自分に腹が立って、無性に恥ずかしかった。
自分の部屋に入った僕は制服を着替える間も無くすぐに手紙を読んだ。最初はベッドに腰掛けて、それから文字を読み進めるにしたがってだんだんと体は倒れていき、読み終わる頃には完全に体は天井を向いていた。
差出人は隣のクラスの女子だった。確か去年同じクラスで、一度だけ隣の席になったことがあった。でも、本当にそれだけ。その時に彼女から受けた印象は悪くない。でも、特別良くもない。
内容はやはりラブレターに間違いなかった。僕のことが好きであるということ、よければ付き合ってほしいということ、そんなことが2枚の紙に渡って書かれている。紺色のインクで記された文字は女の子独特の丸さがあったが、読みにくいと感じることはなかった。
彼女が好きだという僕の部分。書いてあることは僕が知る自分とは合っているようで違う気がした。その違和感に少しだけもやもやとして自然に小さく溜息が出た。瞬間、それがとても失礼なことのように感じて胸が痛む。ごめんね。彼女に聞こえない謝罪をする。でもこんなのただの自己満足で、自分の罪悪感を消すためだけの言葉だ。僕は偽善的で、ずるい。それを思い出して、手紙の中の僕は、彼女が好きだという僕は、やっぱり僕ではない気がした。
次の日の放課後、僕は手紙で指定された空き教室にいた。そして目の前には彼女がいた。久しぶりに見た彼女に僕は「こんな顔だったな」なんて思ってしまった。全く失礼なやつだと自分に苦笑する。
「手紙なんて初めてもらったよ。ありがとう。すごく嬉しかった」
それでも何を思っていたって口では綺麗な言葉が吐けるんだよ。
「でも、ごめん。付き合うことは、できない。ごめんね」
また僕は許されるために謝罪をして、自分のために彼女に頭を下げた。彼女は少しだけ微笑んで、「そっか、そうだよね」なんて声を震わせた。
「やっぱり、葛貫さんが好きなの?」
え、と自然に声が漏れる。今、どうして葛貫の名前が出てくるんだ。僕は彼女の顔を目を大きくして見つめた。
「なんで、クズ……葛貫?」
「だって……いつも学校来るのも帰るのも一緒じゃん。昔から一緒だって聞くし」
「好きじゃないよ」
自分の声にはっとする。思っていたよりも大きくて、冷たい声だった。驚いたのは彼女も同じだったようで、少し潤んだ目が大きく見開かれていた。堪えられず、僕は彼女から目をそらす。
「……ごめんね」
再びずるく謝る僕に、彼女は「うん」とぎこちなく笑って教室を出て行った。僕はしばらくそこにいて、自分の心臓の音を聞いていた。バクバク、いつもより大きくて早い鼓動だ。確かに心臓は僕の中にある。けど、不思議とシクシクと縮こまって消えていくような、そんな感覚がしていた。教室の外ではまだいつもの放課後のざわめきが残っている。それを遠くに感じて、ひとり囲われた僕は、何だかすごく怖かった。
僕はひとりで家路を辿る。今日は葛貫はいない。用があるから、と先に帰らせたんだ。いつもとは違う放課後。だからか普段考えない色々なことを考えた。そうしていたらまた心臓がシクシクしだしたから考えるのをやめた。
コンクリートの花びらはまだ今日も残っている。僕は未だに地面にこびりついている茶色い桜、その一枚を靴裏で擦り、蹴って歩いた。未練たらしい。そう呟いて、慣れない舌打ちをして、歩いた。シクシクとするのは、家に帰ってもしばらく治らなかった。
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