さよなら、

 ヨシくん、じゃなくて、瀬良くんはかっこいいらしい。


 同級生の女の子たちが噂するのがよく聞こえてくる。落ち着いてて、他の男子とはちがうねって。ちょっと冷たく感じるのもまたいい、らしい。私はそれを耳にして「そうなんだ」「そうかな」って勝手に頭の中だけでその会話に参加する。それを口に出して彼女たちに近づくことはない。


 たぶん周りから仲がいいと思われている、ひとりじゃ居たたまれないときにふらっと話す同級生。彼女たちとはそんな話題は出てこない。みんな当たり障りの無い話を好んでした。今日の天気とか、さっきの授業とか、誰に話しても、誰に聞かれても問題ないような話。だから私たちはお互いを知ってるようであんまり知らない。だって興味もないから。ひとりじゃ怖いから寄り集まってるだけ。それだけ。


「葛貫さん、瀬良くんと仲いいよね?」


 どこかで見た事あるような景色。私がひとり、仲良しグループで集まった女の子たちに取り囲まれる。彼女たちは賢い。こんな状況になるとき、だいたい周りには男の子はいない。いても彼女たちが視界の端にも入れないような男の子だけだ。そう、ちょうど私の男の子版みたいな。


「……幼馴染み、だから」

「え?でもそんなの日高も一緒じゃん。小学校一緒だったんでしょ?」


 ね、日高。女の子たちは少し離れて後ろにいた日高ちゃんに顔を向ける。日高ちゃんは「まあ」と「うん」をくっつけたような返事をして、気怠そうに黙り込んだ。しかしその目は私をまっすぐ見ている。何かを責めるような、何かを蔑むような、そんな目をしている。


「登下校も一緒らしいね?すごい仲良しー」


 日高ちゃん以外の女の子は笑っている。笑っているけれど、その目は妙に黒々としていて、何かを探るように私を見ている。気付けば私を囲む人以外からの視線も感じる。いつも私と寄り集まる子もその中のひとりになって、私を凝視していた。皆の目は同じ感じ。黒々と、私を観察する。


「……ただ、家が近い、から」


 その目から逃れたくて、私は顔を伏せる。絞り出した声の後にはしん、とした空気だけが残った。ちら、と様子を伺えば、彼女たちから笑顔が消えていて。それから「声ちっさ」「調子乗んなよ」なんて好き勝手な事を口にしながらポロポロとばらけて行った。


 一番最後まで動かなかったのは日高ちゃんだった。相変わらずのまっすぐな目。私たちはしばらく見つめ合って、それから日高ちゃんがふっと目を反らして去って行った。


 日高ちゃん。短いスカートから白くて細くてまっすぐな足が伸びる。とてもきれいになった。とてもきれいな、女になった。


 その周りの女の子もそう。みんなみんな、かわいいを求めて余念がない。女になるのにためらいが無い。


 ああ、みんな、女になっている。男を巡って、あんなにムキになって。日を追うごとに変わっていって。


 私は。私だけが、取り残される。女に馴染めずに、けれど何も知らない訳じゃなくて。完全な子どもでもなくって。中途半端なところ。ぶらぶらと、取り残される。



 今日も朝、私のパンツは汚れていなかった。


 母は少し心配そうで、婦人科に行ってみる?なんて最近よく言うようになった。なんでそんな発想になるのかな、私はあなたとは違うのに。私は絶対、絶対にいやって言って今日も家を飛び出した。


「おはよう、クズ」


 いつもの場所、少し待てば瀬良くんがやってくる。みんなの、かっこいい瀬良くん。


「おはよう、瀬良くん」


 そう言えば瀬良くんはふいっと私に背を向けて歩いて行く。私はその大きくなってしまった背中を少しだけ眺めて歩き出す。隣はもう歩けなかった。少しだけ遅れて私は歩く。


 通学路に敷かれた桜の散った跡。気をつけないと踏んでしまいそうだった。白い白いその色を汚す事が怖くって、私はいつもふらふら歩いた。ふらふら歩いて、瀬良くんには追いつかない。早く歩けって彼は言うけど、ごめんって私も返すけど、いつもほんとは思ってるんだ。わざとだよって。本当は気付いてるんでしょって。


 私たちはなんだか隠し事が多くなった。知らんぷりをすることも増えた。たまにする会話も、お互いに何かを避けあって、踏んではいけないものを感じてしまって、うまく前に進んでいけない。


 それが大人になってしまったようで、たまに酷く悲しくなる。


 早く大人になりたいって言ってたのは誰だったかな。ヨシくん?日高ちゃん?それとも私?


 たぶん、みんなみんなそうだった。早く大人になりたくて、でも大人になるってどういうことか本当は何にも知らなくて。ただ、自由で堂々として、かっこいいものが大人だと思ってた。大人=凄い、なんてふわふわとしたイメージだけで憧れてた。


 現実はこんなに不自由なのに。


 子どものまま、大人になるのだと思っていた。みんなみんな変わらずに、大人になるのだと思っていた。


 けど、日高ちゃんはズボンしか履かなかったのに今では短い短いスカートを履く。


 ヨシくんはちっちゃくて女の子みたいだったのに今ではみんなのかっこいい瀬良くんになった。


 私は、




 私は何になろうとしているのだろう。


「瀬良、っはよー!」


 有馬くんが挨拶する声が聞こえる。瀬良くんが返す声が聞こえる。


 校門に近づけば近づくほど、同級生たちが増えていく。挨拶の声が増えていく。けれど、それは私に向けられることはない。ヨシくんじゃなくなった、瀬良くんにだけ向けられる。


 向かいからやってくる女の子たちの集団が見える。その中心にいるのは私じゃない。ズボンを履かなくなった日高ちゃんだけがそこにいる。


 ふらふら動いていた足が止まる。校門をくぐれば、教室に入れば、今日も変化していく同級生。かつての友達。


 足がすくむ。


 皆が当たり前のようにくぐる門が、くぐれない。飛び越えられない。


 瀬良くんはそんな私を知らんぷりして、ひとりでどんどん前へ行く。どんどんどんどん前へ、私からの距離じゃ、誰かもわからないくらい遠くへ行ってしまう。一緒に来たはずなのに、その距離は開くばっかりだ。


 大きくなりすぎた瀬良くんの背中。まっすぐ見れない私は自然に俯いて足下を見た。白いスニーカー、その靴底からこれまた白い何かが覗く。よく見なくてもわかったその正体。足の裏を宙に向けて、その一枚ひとひらを手に取った。それから、ふっと息を吹きかける。白い白い、けれど少し黒ずんでしまったその花弁は立ち止まる私を迷惑そうに追い越す人の中に飲まれ、見えないどこかへ消えて行く。


「僕はずっと一緒の僕だよ」


 見えなくなった一枚を追う事を止めた時、ヨシくんの声が聞こえた気がした。

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