Chapter:4-4

 ぞわり。純一は背中に悪寒を感じた。緋依のことではない、何か嫌な予感がする。

 

 暗い埠頭の中を駆け抜けていた純一は突如、前に進む足が重く感じる。まさかとは思うが、あの二体の天使の戦いに決着でも着いたというのか――

 戦っている守人に対して自分ができることは何一つない。だが、せめてその戦いの結末を見届けたい、そう感じた純一はいてもたってもいられなかった。

 

 純一は守人は必ず勝つと信じていた。誰かのために戦うというのは、自分をとことん信じている奴にしかできない。別の世界からやって来たあいつの信念がそう簡単に折れるはずがない――

 

 そんなことを考えていた時だった。そびえ立つコンテナの山の中にぽつりと小さなプレハブ小屋を純一は見つけた。事務所か簡易的な休憩所にでも利用していたのだろう。周りの建物と同じく錆びついてはいるが、形は保たれている。

 緋依を背負いながら走っていたため、純一にしても体力的にそろそろ限界である。息を切らしながら純一はプレハブ小屋へと近寄っていった。

 

 ……小屋の中には机や椅子も何もない。ただ、風雨を凌ぐ程度の造りにはなっているため、身を隠すには丁度いい。開け放たれたままの入口から小屋の中に一歩入ると、樹脂製の床がギシギシと軋む音がする。床が抜けないかひやひやする純一であったが、その心配はすぐに払拭された。

 

 海月かいげつから放たれる過剰な明かりが当たる小屋の一角に、純一はそれまで背負っていた緋依をおろす。支えを失った緋依の体が純一の手によって静かに床に横たわる。それでも彼女は頑なに目を瞑ったままだった。


「ごめんな、こんなことに巻き込んで……」


 純一は苦悶の表情を浮かべながら、眠ったままの緋依に言葉をかける。緋依が巻き込まれたことは天使の襲撃以上に純一の心にこたえた。


 ――なぜこうなったか今は考えない。大事なのはこれからどうするかだ。


 おもむろに純一は自分の着ていたジャケットを、緋依にかける。


「少しだけ、外の様子を見てくる。だから、ここで待っててほしい」


 純一は精いっぱいの優しい声で眠ったままの緋依に安心させるように言う。そして右手を差しだすと、緋依の頭にのせる。緋依の細くつやつやした黒髪の感触を純一はその手に感じた。

 そして純一は慈愛に満ちた目で、緋依の顔をもう一度だけ見つめる。

 ……綺麗に整った顔に特徴的な泣きぼくろ。そして壊れそうなほどに儚げなその華奢な体。


『Sleeping Beauty(眠り姫)』、純一の頭にそんな言葉が思い浮かんだ。


 ……いや、百年も眠られては困る。必ず目を覚まして、元気になってもらわなければ。それなら彼女を起こすのが、自分の役目だろうか?


 純一はそう考えたところで、頭を掻いた。


「王子さま、って柄じゃあないよな……」


 こんな状況であるが、苦笑が思わず純一の顔に浮かぶ。もし王子さまであるのなら、守人に変わってあそこで戦うべきは自分である。それなのに自分はこうして逃げるしかない。そんな情けない王子さまがいていいのだろうか。


「じゃあ行ってくるよ。……〝ひーちゃん〟」


 自分の無力さを再度、確認した純一は照れくさそうに、幼い頃呼んでいた名を呟く。そして、開け放たれた入口へと向かっていった。


 純一は夜の埠頭を駆け抜ける。守人が勝利する確信を抱いて。


     ✝


 ――だが、純一の期待は無残に打ち砕かれた。


 ようやくやって来た六番倉庫前。純一は倉庫の前に広がる海上で戦う天使たちを見守っていた。そこで純一が見てしまったのは、海中から突然現れた三枚の刃に守人が貫かれる瞬間であった。


「佐治いいいぃぃぃぃ――ッ‼」


 純一は思わず叫んでいた。

 そして羽の消えた守人が、海に落ちていく。再び静寂を取り戻した埠頭にドボンという、大きな水音が響いた。


 守人を打ち破った透音は羽を使って再び守人が現れないか警戒する。だが、いつまでたっても守人が浮いてくることはなく、疑念はやがて確信へと変わる。


(そんな……あいつが負けるなんて)


 純一は愕然としながら暗い夜の海を見つめていた。その場で立ちすくむ純一へ向けて、透音は優雅に空中を舞いながら埠頭に降り立つ。


「〝悪〟は滅びるものなのよ」


 勝利の優越感に浸った声で透音は純一に言う。純一には何も言い返すことができなかった。守人という最大の協力者を失った自分にいったい何ができようか。


「洲崎……本当に早瀬を殺したのはお前なのか……?」


「しつこいわね。本当だって言ったでしょ。で、次に殺すのは〝あんた〟」


 笑いもせず平然と透音は言った。純一にはそれが冗談などではないことを感じる。

 逃げようのない絶望感が心を覆い、純一はその場で膝をつく。


「安心しなよ。なるべく苦しまないようにしてあげるから。『武士の情け』っていうやつ?」


 少し意味が違う。などと純一は突っ込む心情でもなかった。

 そんな諦めのムード漂う純一ではあったが、解せないこともあった。


「……お前が俺の命を狙う理由は知ってる。この左手にある聖紋が欲しいんだろ」


 膝をついたまま、純一は右手で聖紋の宿る左手をさする。血色が抜けて冷たくなっていた。


「そう言えばあんたに宿る聖紋を正確に見てないわね。あの堕天使に教えられて知ってるんでしょ」


「第七紋……『勝利ネツァク』だ」


 それを聞いた透音は笑う。純一にはそれが凍えるほどに冷たいものに感じた。


「『勝利』とは皮肉ね。あんたらに与えられたのは敗北。まあ、聖紋は天使の世界にあるべきものなんだし、あたしにはその言葉通りなんだけど」


 純一には信じられなかった。今、目の前にいる存在が、学校で自分が見てきた洲崎透音と同一の人格を持った存在なのか。


「それが、お前の本当の姿なのか?」


「そうだよ、これが私。山県君の前ではオカルト好きな異国の風貌を持った少女を演じてたの」


 その時だけ、声のトーンが一段と高くなり、純一が普段学校で聞いていた透音の声に似ていた。その変貌ぶりはおぞましいものであった。


「あの告白も演技だったのか」


「当たり前でしょ。誰があんたらみたいな劣等種を好きになんかなるの?」


 純一は心の底から戦慄する。その純一の姿を透音は面白そうに見ていた。


「知ってか知らずか分からないけど、あんた、意外とあたしたちがつけ込めるような隙の無い生活してたんだよ。でもいつまで待つのも面倒になったからちょっと誘惑してみたの。童貞っぽそうだし、簡単に落ちると思ってたんだけどね」


 透音はニヤニヤと純一を小馬鹿にするような笑みを浮かべる。


 ……危なかった。もしあの時、透音の告白に返事をしていたらどうなっていただろうか。もしかしたら、透音に人気のない場所に連れ込まれて殺されていたというシナリオがあったかもしれない。

 だが過去はどうであれ、純一は今まさに殺されようとしている。数日間だけ生きる時間が伸びただけなのか。どちらにしろ、もう自分に残された時間は少ないのかもしれない。


 だとしたら、今ここではっきりさせないといけないことがある。


「俺のことはどうだっていい、煮るなり焼くなり好きにしろ。……でもな、ひとつだけ許せないことがある。なんで無関係な朝霞を巻き込んだんだよっ!」


 心の奥底から湧きあがる怒りに任せ、純一は臆することなく目の前の天使に吠えるように怒鳴った。しかし、透音は怯むことなく純一を見下したままだった。


「別に、最初からあの子を攫うつもりなんてなかったよ」


「じゃあ――」


「あたしがあの子に〝呼び出された〟のよ」


(なんで?)


 透音が言っていることは嘘かもしれない。緋依が自分と別れた後、どうしてそんなことをする必要があるんだ?


「嘘をつくな!」


「あはははははっ!」


 純一の動揺ぶりに、透音は笑いをこらえることができなかった。


「何がおかしいんだ?」


「ふふっ……いやねぇ、こんなおかしなことってある? そりゃもう笑うしかないじゃない」


 腹を抱えてケラケラ笑う透音の言うことを、純一は一向に理解できない。


「あの子はねぇ、あたしを呼び出してなんて言ってきたと思う? 『洲崎さんは山県君と付き合っているんですか』って聞いてきたの」


「そんな……」


「あたしの仲間が次々と斃れていく中、そんなことを聞くために呼び出されて、思わず呆れちゃった」


 純一は唖然とした。別れたあとの緋依は、自分自身で真偽を確かめようとしたのか。


「でね、ちょっとばかし、からかってみることにしたの。あの子に『もしそうだとしてもあなたに何ができるの?』って言ってやったわ」


 面白おかしく話す透音に対して、純一は心が締めつけられるようで、息が苦しくなる。


「そうしたら彼女どうしたと思う? 俯いちゃって『山県君と別れてほしい』なんて言いだして――」


(え――)


 その事実は純一に衝撃をもたらした。なぜ緋依は透音に対してそんな要求をするんだ。


「あたしも言い返してみたんだけど『山県君があなたと付き合ってから彼の様子がおかしい。何か彼に負担になるようなことをさせているんじゃないの?』とか言ってきて鬱陶しいことこの上ない、ってかんじ」


 確かに、透音に告白された日に天使の襲撃を受けたのだから、自分の様子がおかしくなったことには納得できる。だが、そんなことはどうでもいい。

 トラブルを抱えていることを悟られないよう隠していた、純一の必死の装いを緋依は見抜いていたのだ。そしてあろうことか、純一を思った行動を知り、胸の奥が焼けるように痛む。


「適当に追い払おうとしても一歩も退かなくてってねぇ、あの子、あんたのことが〝好き〟なのよ」


「――――――――!」


 その事実を聞いた瞬間、言葉では言い表せない鈍痛が純一の心を引き裂く。痛みを通り越して血が流れんばかりに唇を強く噛みしめながら、純一は悲痛に喘ぐ。

 

 何一つ気付くことができなかった。


「あんたがあの子を好いていたのは前々から気付いていたけど、まさか両思いだったとはねぇ。なんて悲しいすれ違い……反吐が出そう」


 同情も憐みも浮かべず、ただ面白そうに透音は純一を皮肉るように言った。


「まあその様子を見てから、これはあんたに使うことのできる有力な駒になることを思いついたんだけどね」


 それを聞いた純一は何の動作もなく、立ち上がった。

 透音はすこし驚いた表情を浮かべるが、目の前の人間には何もできやしないことを思い出して無表情に戻る。

 一歩、また一歩と純一は透音に近づいていく。項垂れるように俯いているため、その表情はよく見えない。そして透音まであと数歩といったところで立ち止まる。

 ゆっくりとした動作で純一は膝を折るとそのまま地面に手をついた。そして額すら地面につくほど低くして透音へと跪く。


「頼む、どうか……彼女の命だけは……」


 それは、今の純一にできる唯一のこと。自分はもうどうにもならない。ならせめて最後まで自分にできることをしてから殉じたい。

 自分の愛しい人の命だけは守りたい、その一心だった。


「無様ね」


 頭の上から蔑みの言葉を投げかけられても、純一は動じることはなかった。その様子を見た透音は両手を腰にあてながら、純一の頭に足を乗せる。額が地面に押し付けられて痛みを感じても、純一の心が揺れることはない。


「ふーん。劣等種にしてはなかなか芯が太いじゃない。じゃあさ、あたしの言うことなんでも聞く?」


「聞きます」


 即答。純一に迷う隙は無い。


「ふふふっ、それなら考えてあげてもいいかな。……顔を上げなさい」


 玩具を与えられて喜ぶ子供のような嬉々とした声を透音はあげる。

 透音がどんな要求をしてくるのかは分からない。だが、どれだけ自分の尊厳が傷つけられようとも、純一にはその覚悟があった。そして顔を上げた純一は真っ直ぐ透音を見ていた。


「がッ――!」


 純一は自分の顎に強い衝撃を受け、後方へと吹っ飛ぶ。同時に口の中に苦い鉄の味が広がる。透音の鋭い蹴りが純一の顎に直撃したのだった。

 

 その後も透音は地面に這いつくばる純一を足蹴にする。目の前の劣等種はひたすら耐え、抵抗することもない。遊ぶにはいい玩具おもちゃだ。

 

 しばらく透音は薄ら笑いを浮かべながら、夜空を見つめていた。

 もちろんこの人間の要求を素直に飲むつもりなどない、ただの暇つぶし。弱らせた獲物をなぶるという感覚は愉悦だった。

 しかし、流石に遊びすぎたせいだろうか、動きが鈍ってきた。いつまでもこうしているわけはいかないから、そろそろ終わりにしよう――


「でも残念。あんたには聖紋を身に宿すってことで研究サンプルにはなるけど、あの子にその価値はないわ。それに……人間の女は嫌いなの」


 透音は残酷ともいえる宣告を純一に告げる。

 透音は見たかった。天使と姿は同じであるが、自分たちより下等な人間の顔が絶望に染まる瞬間を。


「ふざ、けるなっ――‼」


 埠頭中に響き渡る、鋭い怒声。それは透音の予期しなかった反応。

 目の前の人間は絶望に打ちひしがれることもなく、また自身へと突きつけられた宣告に涙することもなかった。ただ、その目に怒りを滾らせ、よろよろと再び立ち上がる。


「……何のつもり?」

 

 悦に入っていた透音だったが、純一の反応には興ざめだった。

 立ち上がった純一は、口の中に広がっていた血を地面に向けて吐く。


「俺のことはどうだっていいんだ! 彼女さえ守れればそれでいい。だけど、そうでないなら俺は全力でお前をゆるさない‼」


 ありのまま純一は透音に向かって叫ぶ。ただ一つの願い。その一縷の望みを踏みにじる透音を純一は許せなかった。

 純一の逆上には多少驚くところがあったが、所詮はただの人間。透音は氷のような冷ややかな視線を向ける。


「で、どうするの? まさか天使のあたしと戦うっていうの?」

 

 純一はもう恐れない。武器を持たないただの人間が戦っても勝ち目が一パーセントもないことは承知だ。しかし、このまま何もせずに緋依が殺されてしまうのを見過ごすわけにはいかない。

 

 折れることのない心で目の前の天使、いや悪魔に最後まで抵抗しようではないか――

 

 純一のやることを茶番だと言わんばかりに透音は見ていたが、その姿を見てはっとした。


 ……目の前に立ちはだかる劣等種じゅんいちの目には強い光が宿っている。


 だがそれはあの堕天使もりととは違う光。何もかもを捨て去った虚空の上に厳しく孤高に輝く光ではない、他者への思いやりに満ちた温かく柔らかな光。


 あの堕天使もそうだったが、なぜ自分たちが不利であるというのに、このような光を持てるのか。透音にはそれが気に入らなかった。


「かっこいいわね、お姫様を守る騎士ナイトにでもなったつもり?」


 あくまでも余裕の表情を崩さない透音は、純一を嘲る。


「俺は……騎士ナイトでも、ましてや王子さまなんかでもない……」


「そう。じゃあ死んでもらおうかな」


「殺してみろよ。〝悪魔〟」


 プツリ。透音の中で何かが切れ――いや、弾けた。いま、目の前の人間はなんと言ったのであろうか。


「いま……なんていった……」


 肩を震わせながら透音は言う。


「こいよ、悪魔」


 純一は恐れず、もう一度透音に言ってのける。


「魂のない木偶人形の分際でっ、あたしを〝悪魔〟呼ばわりとは言い度胸してるじゃない‼」


 純一に悪魔呼ばわりされて透音は激高した。今までにないほどの威圧感を漂わせ、怒りに満ちた琥珀色の瞳が純一を睨む。


 透音のプライドは大きく傷つけられた。

 自分は天命に従って動いている天使だ。その高貴とも言える存在に、空も飛べない劣等種にんげんに貶められるなどあってはならない。

 以前にも透音は自身のプライドを純一によって傷つけられていた。それは、あの時の告白。いくら演技でその気がなかったとはいえ、人間風情に拒絶されたのは大いに不愉快だった。


「聖紋の宿る左手だけ残して、残りは原型がなくなるまですり潰す」


 憎悪に満ちた台詞を吐き捨てた透音は、頭の中で純一が最も苦しんでから死に至る方法を考えていた。火あぶり、四肢切断、ありとあらゆる拷問方法を思い浮かべる。


 そんな怒りに満ちた天使を目の前にして、純一は静かに思う。


(なんだ。やっぱり悪魔じゃないか――)


「もういい、その顔を見るだけで吐き気がしてくる。早く死になさい!」


 カテゴリー:エレメント、上位魔法〈衝戟の大獄炎バリスティック・ヘルファイア


 透音が天へと向けて両手を掲げる。同時に今まで透音が放ってきた魔法よりも更にどす黒く、遥かに大きな大火球が成長していくように肥大化していった。

 禍々しい黒炎の大火球が出来上がったところで、透音はそれを力の限りに純一向けて解き放つ。

 火球はそれほど早くないスピードで迫り、今までにないくらいの熱気が純一の肌を焼く。だが、それでも純一は逃げない。己の肉体が消し炭に変わろうとも、立ち向かうと心に決めたのだから、最後まで屈しない――


 純一の心は溢れ出んばかりの光に満ちていた。


 ――例えここで死んでも、自分の心、いや、"魂は"……。


 黒炎の火球は狂うことなく目標に当たって大爆発を起こした。その衝撃は遠くに離れていた透音にも届く。

 

 間違いなく山県純一は死んだ。そう確信したところで透音はため息をついた。

 

 勢い余って、威力の高い爆発系の魔法を使ったのは失敗だった。この後、山県純一だった〝肉片〟をかき集めて聖紋を探さなくてはいけない。何とも手間のかかる方法を取ってしまったのだろうか。

 そう思って、一歩前に進んだときだった。


 ――感じる。これは……そうだ、魔法だ――


「まさかっ‼」


 慌てて、透音は爆心地へと目を凝らす。炎と煙が立ち込める中、二つの影がそこに浮かび上がる。


「前よりもいい目をしているな。山県純一」


 純一のすぐそばに、海へと墜ちたはずの天使が立っていた。

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