Chapter:4-2

 隙間から僅かに光が漏れる扉を純一は力の限り、横にスライドさせた。錆びついた鉄と鉄が擦れ合って軋んだ、腹の底から響くような重低音が倉庫内に響く。

 扉自体の重さもあるがローラーが錆びついているらしく、動かすには予想以上の力を必要とした。何とか全開の半分まで扉を開けたところで、純一は倉庫の中に入った。

 

 扉を開けてから再び静かになった倉庫であるが、目の前から漏れてくる微かな光はまだ消えない。純一は自身のWIDをライト代わりにしながら慎重に踏み出した。

 純一が見た映像には映らなったが、倉庫の中には使われなくなり、朽ちた木箱の残骸いくつも積み重なっていた。恐らく純一が見せられた映像は北側の扉から入ったものだったのだろう。

 

 汗ばむ両手を固く握りしめ、体にまとわりつく恐怖心を何とか押しとどめながら、純一は倉庫内を一歩一歩進む。暗闇からの不意打ちを警戒しつつ、純一は倉庫内をゆっくりと探索していった。

 ドクン、ドクンとこれほどまでに自分の心臓の鼓動を感じたことはない。もし気でも抜きさえすれば、胃の中のものが全部吐き出せそうなほどに神経が張り詰めていた。積まれた木片の山を通り抜けると、純一の視界が開けた。

 

 ……そこにいたのは純一が数時間前に見たものと全く同じであった。

 ライトブルーのカーディガン、花柄のワンピースと傍らに転がるハンドバック。全て純一の見覚えがあるものだ。そして、それらを身に纏った黒髪の少女の顔を純一は見間違えるはずがなかった。

 

 朝霞緋依、純一が心の底から恋い慕う相手である。

 

 近くの木箱に置かれた小さなライトが、静かに横たわる緋依に向かって照射されていた。扉から漏れていた光の正体はこれだろう。


「朝霞っ⁉」


 いてもたってもいられず、純一はそれまでの慎重さを忘れて駆け寄ろうとしたときだった。

 何かが音をたてずに、ひらりと宙を舞う。そしてそれは、純一と緋依の間に割って入るように、ほぼ無音で着地した。正体不明のその存在に、純一は阻まれる。純一はそれが緋依を攫った天使だと認識する。

 敵愾心を燃やした目で純一は相手をじっと観察した。


 天使と思われる不審者はフードが付いた白い布に身を包み、純一に顔を見られないように横を向いて立っていた。天使が被っている外套はいわゆるマントと言っても差し支えないものだろう。現代においてはコスプレくらいにしか使われない時代錯誤な格好の天使は静かに佇んでいた。


 一つだけ、純一が驚いた点があった。

 刺客である天使たちのリーダーだけに、相当体格のいい男が現れるのではないかと純一は勝手に思っていた。だが、目の前の行く手を阻む天使はマントを身につけているにも関わらず、小柄であることが見て取れた。恐らくだが、身長は自分より低い。


 だが、そこは人類には未知なる天使。あのマントの下に何か仕掛けがあるのかもしれない。最大限の警戒心をもって純一は天使に向かって声を張り上げた。


「約束通り、ここまで来てやったぞ。朝霞は無事なんだろうな⁉」


「…………」


 目の前の天使は何も言わない。だが、純一の真剣さが伝わったか定かではないが、天使は純一と緋依の間から一歩だけ下がると、確認してみろと言わんばかりに左手を軽く持ち上げた。

 天使がみせた物腰の柔らかさに純一は不意を突かれた。だが、横たわる緋依の安否を一刻も早く確認したくてたまらない純一は、天使から大きくカーブを描くように遠回りしながら駆け寄る。

 天使の真横を通りすぎた一瞬、フードの中にあるその顔は純一には見えなかったが、薄ら笑いを浮かべているような気がした。


「朝霞? 大丈夫か⁉」


 純一は地面に横たわる緋依を抱きあげながら、声を掛ける。力なく、ぐったりとした緋依の衣服は特に乱れた様子はなく、出血などの異常は服の上からは認められなかった。


「…………」


 安らかに目を閉じたまま、緋依は何も言わない。考えられる最悪の事態を頭の中から振り払いつつ、純一は緋依の口元に耳を近づけた。

 ……柔らかな吐息が、全神経を集中させた純一の耳に当たるのを確かに感じた。その瞬間、純一の全身に言葉では言い尽くせないほどの安堵が広がり、目頭が熱くなる。


「よかった……生きてる……」


 純一は思わず、緋依を抱きしめていた。線の細く華奢な体ではあるが、その柔らかな感触が純一には尊いものに感じられた。


 だが、喜びに涙している時ではない。

 緋依の無事が確認できた以上、純一には差し出さなければならないものがあった。純一は右腕で緋依の体を抱きとめながら、自分の左手をじっと見る。

 

 聖紋。全てはこの手の中にあるものから始まった。

 天使にとっては神への信仰の対象であり、数々の奇跡を起こす力があるとされている。だが、奇跡の片鱗も見たことのない純一には、自身に降りかかる数々の災難の元凶である。


――自分にとってこいつは決して〝聖紋〟などではない、災厄をもたらす〝呪いの印〟だ。


「お前が欲しがっているのは、この左手だ」


 そう言って、純一はただ一点、真っ直ぐ前を見つめながら左手を伸ばした。

 突き出された純一の左手に吸い寄せられるように、天使は足音一つしない忍び足でそっと近寄る。距離を詰めたところで、マントの隙間から左の手を出すと、差しだされた純一の手の上に重ねるように掲げた。暗くてはっきりと見えないが、線の細い指が見えたような気がした。


 ぽう、と純一の周囲が明るくなる。


 光が放たれる場所は見なくてもわかる。守人と出会ったあの日、聖紋の存在を知ったあの時の光と全く同じだ。純一の手の中に宿る聖紋『勝利ネツァク』が、天使の力を受けて光り輝いていた。そして、すぐそばにいる天使が、その存在を見て息を呑んだように純一には感じられた。

 

 しばしの静寂。純一にはこの後、天使がどのような行動をとるのか予想はついている。傍らに佇む無言の天使は差し伸べた手をマントの中にしまうと、入れ代わりに今度は右手を出す。

 だが、素手だった左手に対して右手には何かが握られている。ぎらりと鈍く光る金属の塊、短剣もしくはダガーナイフと呼ばれる代物がそこにはあった。

 逆手に持ったダガーナイフを天使は自身の頭の上より高く掲げる。そして、ナイフを振り下ろす先を決め、一息に振り下ろそうとしたときだった。


「今だ!」


 純一は突然声を張り上げる。

 純一の合図と同時に、左の手の聖紋の輝きよりも更に強烈な光が天使の顔目がけて照射された。いきなり現れたまばゆい光に、天使は身を退きつつ、ナイフを握る右手で目元を覆う。

 だが、それだけでは終わらない。光が照射されてから間髪入れずに、怯んだ天使の頭上にあった採光用の窓のガラスが甲高い音をたてて割れた。砕け散ったガラスの破片が頭の上から降り注がれるなか、一つの大きな影が天使の首筋目がけて真一文字に振われた。

 

 それらが起こったのは、刹那とも言っていいほどの短い間。純一は降り注がれるガラスの破片で緋依が怪我をしないように庇っていた。


 だが白いマントを纏った天使は自身に振われた一撃、いや殺気を感知したのか、大きく後ろに飛びずさる。そしてダン、という大きながしたかと思うと天使が先ほどいた場所には守人が地面に左手を当てながら着地していた。守人の右手には純一が見た間近であの白刃の剣が握られている。


「山県ッ! 早くそいつを担いでここから逃げろ!」


 守人は目の前にいる天使から視線を離すことなく、背後にいる純一にそれまで聞いたことのない強い口調で命じる。それを聞いた純一は黙って頷くと、緋依を背負い始める。緋依をコンクリートの床に打ち付けることのないように慎重に緋依の体を持ち上げた。緋依の体が軽いか重いかどうかを気にしている余裕などない。


「佐治!」


 立ち上がった純一は守人の背中に声を掛ける。


「どうした?」


「……死ぬなよ」


「ふん、それはお前もだ。……気をつけていけよ」


 純一には守人の表情は見えない。だが、純一には守人が笑っているように思えた。

 そして緋依を背負う純一は、倉庫に入って来たとき通った南の扉に向かって走り出す。


「くっ……」


 その一部始終を見ていた天使は、マントの下から悔しげな声を上げた。このままでは聖紋を逃してしまう。だが追うにしても、目の前に立ちふさがる叛逆天使を始末しないといけない。

 

 守人はその焦りを見逃さなかった。

 

 正直に言ってしまえば、守人の作戦の半分が成功し、半分は失敗した。

 倉庫に突入する前、守人が見た空に向かって伸びる光の筋は、倉庫に嵌められていた採光用の天窓から漏れた光であった。倉庫の横にはコンテナが積み上げられており、倉庫の屋根に気付かれずに上るのは比較的容易であった。


 屋根の天窓の傍で守人は待機し、純一は緋依の安全を確かめるため倉庫内に入る。緋依の安全を確認する前に純一が襲われるという可能性もあったが、聖紋が純一の体のどこに宿っているのか天使には分からない。そのため天使は聖紋のある場所を確認してから行動に移すことに守人は賭けた。

 

 大胆な守人の賭けは見事的中し、純一の身に危険が迫ることなく緋依の無事が確認できた。そして、純一の聖紋に引き寄せられている天使に向けて目くらましのための光を当てる。あの強烈な光の正体は純一が左手に嵌めているWIDのライトであった。


 倉庫に入る前に、守人は自分のWIDから純一のそれを遠隔操作できないか純一に聞いてみた。守人の言うことをいまいち理解できなかった純一だったが、それは可能であると答える。

 かくして動作をシンクロさせた二台のWIDを用いて天使を怯ませ、その隙に天窓を突き破って突入した守人はその天使の息の音を止める算段だった。


 しかし、寸でのところでその一撃はかわされた。守人が葬ってきた三人の天使たちよりも明らかに危険察知と反応速度が違う。

 本当は一撃で仕留めたかったところであるが、やはりそれ相応の能力を持った相手だ。この場から純一たちを逃すことができただけましだったと守人は思った。


「さて、ここからは一対一の勝負だ。その前に一つ、お前らの所属している組織はどこだ? ニュアンスは違うかもしれないが、暗殺まがいの行動は明らかにイージスの任務を逸脱している」


「…………」


「それともう一つ。早瀬俊樹の右手はお前が持っているのか?」


 守人の問いかけに白マントの天使は答えることはなかった。だが、守人は落胆することはなく、むしろ当然とまで思っていた。ここでペラペラ喋りだしたらそれこそ真実ではない。


 守人は短く息を吐き出すと、右手に持っていた剣を両手で構える。

 倉庫内に漂う空気が、溢れんばかりの殺気で重く張り詰めた。そして先に仕掛けたのは守人ではなく、白マントの天使であった。


 カテゴリー:エレメント、上位魔法アッパークラス爆炎の四重奏カルテッド・イクスプロージョン


 マントから出した両手を大きく広げると、天使は赤黒い炎の塊を四つ、空中に撃ち出した。爆発する火炎弾特有の色。その初速の遅さがネックではあるが、一つひとつの一撃の威力は凄まじい。

 先手として上位魔法を躊躇いなく使ってきたことは守人の予想外ではあったが、この程度なら防御魔法で防げる。そう判断した守人は自身の前に向けて手をかざす。


 しかし、守人のその判断は間違いであった。

 天使か撃ちだした火炎弾は一つも守人に向かってくることはなかった。代わりに火炎弾が向かったのは倉庫の壁や天井。

 

 その時、守人は悟る。

 目の前にいる天使は最初から自分を相手にするつもりはなかったと。


 爆音が四つ轟いたかと思うと、弾けた火炎弾の衝撃によって守人がいた倉庫は崩壊する。守人の頭上からは大量の鉄骨とガラスの破片が雪崩れのように迫る。


「なんだっ⁉」


 倉庫から脱出し、海沿いを走りながら西へ向かう純一の耳に大きな爆音が届く。慌てて振り返ると自分が先ほどまでいた倉庫の屋根がひしゃげるように崩落していた。

 純一は身震いする。純一が見ていた天使の力はほんの一部でしかない。本気を出した天使の力は、純一を含めた人間の想像の遥か上をいくものであった。


 ――これほどの力を持った存在に、果たして人間は敵うものなのであろうか。


 純一の心の中にふと疑念が湧きあがる。だが、今は考えている余裕などない。頭を振ってどこかへ追いやると、前へと進む足を速める。

 

 先ほどの爆音を聞いても、背中にいる緋依が目を覚ますことはなかった。


「安心しろ。すぐに安全なところに連れていくからな」


 純一は背中で眠る緋依に優しく声を掛ける。返事が返ってこないことへの不安に押しつぶされそうになりながらも純一は先を急いだ。そしてコンテナの山の一角を曲がろうとしたときだった。

 

 再び爆音が轟く。そして、爆音とともに純一の横にあったコンテナの山が崩れ出すと、純一の行く手を遮った。


「くそっ‼」


 勢いそのままに、純一は崩壊したコンテナの山の前で右折して積まれたコンテナの隙間を通ろうとする。だが、もう一度同じ爆音、今度は閃光も視認できたと思えば、純一の通ろうとした道は塞がれた。

 こうなると、純一はもと来た道を引き返さなければならない。緋依を背負った純一が回れ右したときだった。

 

 純一の前に、つい先ほどに見た白いマントが海風にはためいていた。


「そんな……」


 純一は絶句する。


(佐治がやられた? そんな馬鹿な。自分で啖呵をきっておいて、あんまりすぎだろ)


 だが天使を前にしても、純一は不思議と臆することはなかった。なぜなら、まだ純一の心の中では守人は死んではいないと思っていたからだ。

 そういえる根拠はどこにもないし、それほどの信頼感があるわけでもない。しかし、あれほど瞳に強い光を持った奴がそう簡単にやられるものかと純一は信じていた。


 白マントの天使は、おもむろに純一に向かって手をかざす。だが純一は恐怖に目を反らすことなく、目の前の天使の姿を真っ直ぐ見据えていた。


 カテゴリー:エレメント、中位魔法ミドルクラス狂飆きょうひょうの大斬……


 ――カテゴリー:エレメント、上位魔法アッパークラス大炎山インフェルノ〉!

 

 小山ともいえるほどの巨大な炎の塊が目の前にいる天使に向かって落とされる。炎の小山は天使がいた一帯の地面を焦がすほどに熱く、火傷しそうなぐらいに熱い熱波が純一にも届いた。

 魔法を放ったのは他でもない、守人だ。

 守人はコンテナの山の上に立って、自身が放った炎の勢いが弱まるのを待っていた。

 

 パチパチとくすぶる地面の中に、やがて一つの影が浮かび上がる。陽炎で揺らめく空気が元に戻るにつれ、純一はその姿をはっきりと捉えることができた。

 魔法を受けた天使は白っぽい膜のようなものに包まれていたが、その身に纏う白いマントには点々と焦げ茶けており、守人の放った魔法の凄まじさを物語っていた。

 火の勢いが弱まると、天使は自身を包んでいた白い膜を消し去った。

 

 ――その時、突然海から強い突風が純一たちに吹きつけられる。

 

 風は下火になっていた炎を全て消し去ると、目の前にいる天使のフードも吹き飛ばす。そして、フードの中に隠されていた天使の素顔が純一と守人の前に露わになった。

 

 ……日本人離れしたはっきりとした顔立ち、琥珀色の大きな瞳。そして頭の後ろでひとまとめのポニーテールにしている栗色の髪が夜の海風に大きくなびく。


「……嘘だろ、おい……冗談だよな? 何かの間違いだよな? 何とか言ってくれよっ‼」


 信じられないとばかりに叫ぶ純一。だが、その問いかけは虚しいものであった。


 そして、闇の中で静かに佇む天使『洲崎透音すざきとうね』は静かに嗤う――

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