Chapter:3-4
――最悪だ。
明かりのついていない自室で純一はひとり、水底に沈んだような気分でベッドに横たわっていた。この状態になってかれこれ数時間は経過している。日はとうに沈み、息が詰まりそうな暗闇が世界を包んでいた。
純一がどんなに別のことを思い浮かべようとも、あの時、緋依の目から涙が零れ落ちる瞬間が何度も脳内で繰り返される。
緋依を泣かせた原因は自分にある。当然のように純一は自覚している。だが、緋依が泣いた理由はぼんやりとしていて、はっきりしない。
ただ、緋依がみせた涙は強く純一の心を締め付けていた。
純一は生来、物事に関しては穏便な、言い換えれば当たり障りのない立場を常に取り続けてきた。そんな人付き合いを続けてきたためか、人との衝突を極端に嫌う。無論、他人を泣かせたことなど一度もなかった。
そんな純一だからこそ、他人の見せる感情には人一倍気にかける。だが、数時間前に起きた緋依との出来事は純一の理解の範疇を越えていた。しかも相手は自分が好きな異性だというのだからなおさら混乱する。
あの時どうすべきだったのか、延々と頭の中で想定してもあの場面は起こりえないように思えた。ピースの欠けたパズルを解かされるようなもどかしさに身を捩らせていたその時だった。
ピピピッ、というWIDのボイスチャットのコール音が部屋の静寂をかき消す。
瞬間、純一はベッドから飛び起きると、目にも止まらぬ速さで操作する。頭の中に淡く思い浮かべた相手からのコールであれと期待をにじませながら。
しかし、その期待は【非通知】という文字に簡単に打ち砕かれる。
失意に沈み、落胆する純一。そのまま怒りに身を任せ、誰か分からぬ相手からのコールを拒否する一歩手前で、純一はふと思った。
もしかしたら、コールしてきたのは〝彼女〟かもしれない。自分の名前が表示されるのが照れくさかっただけかもしれないじゃないか――
再び希望を抱いた純一は、名前の表示されない相手からのコールを着信した。
〈もしもし……朝霞か?〉
〈………………〉
勢いで緋依の名前を口にしてみたものの、回線の向こうの相手は沈黙し続けていた。流石の純一もこれには悪戯の類ではないかと疑う。
〈あの、どちら様ですか? 〉
〈………………〉
どうやら本当に悪戯だったようだと、自分の浅はかな期待に苛つきながら着信終了の表示に指を突き立てたときだった。
〈…………ヤマガタ、ジュンイチ……〉
ビクッと純一は大きく体を震わせると、突き立てていた指を止める。突然自分の名前を呼ばれたことに驚きを隠せなかった。
回線越しに自分の名前を呼ぶ声は肉声ではなく、ボイスチェンジャーで変換された電子音に近いものだった。そのため純一には、話しかけてきた相手が男か女かは判断できない。
〈……あんたは誰だ?〉
自分でも驚くような低い声で、純一は相手を威嚇する。しかし、回線の向こうの相手はクククッ、と純一の威嚇を一笑に付した。
〈それは君もよく知っているんじゃないか?〉
〈まさか……〉
思わず純一は唸るように呟いた。それを聞いた相手はフハハハと、高らかな笑い声をあげた。その笑いは肯定からくるものだということが容易に分かる。
〈そうだ、我々はお前に少し用があって連絡したんだ〉
〈ふざけるな! 聖紋がどれだけ崇高な存在だか俺には知らないが、お前たちに殺される筋合いはない〉
――思えば、佐治を除いた天使とコミュニケーションをとるのは初めてだった。
〈これだから人間は下劣な存在なのだ。いいか、聖紋はいわば神が我々の世界に残した救いの証。神を信じぬ愚かな人間どもの手にあってはならない〉
〈お前らの好きにはさせない〉
〈フフフ、そう言っていられるのも今のうちだ。山県純一、旧市街の使われていない廃港、その6番倉庫に来い。取引をしようじゃないか?〉
〈冗談じゃない、誰が行くものか。それにお前だって、もう打つ手がないのか?〉
不敵にあざ笑う天使に一歩も引くことはなく、純一は要求を突っぱねた。
〈フン、威勢がいいのは例の裏切り者がいるからか。だが、否が応でもお前はここに来ることになる〉
そう天使は告げると、空中に映していたWIDの灰色の画面が突然、黒く染まった。恐らく、向こう側の天使がビデオチャットに切り替えたのだろう。自分に見せたいものでもあるかと画面の中を注視していると、真っ暗なスクリーンが突如明るくなった。赤、青、そして茶色、使われなくなって錆びついたコンテナの山々がそこには映しだされる。画面の中には風景しか移されず、撮影者の天使の姿は映されることはなかった。
そこは天使の言う旧市街の廃港に間違いなかった。コンテナの隙間を縫うように移動する映像を純一は見つめていたが、やがて移動していた視点は大きな建物の前で立ち止まった。
……かなり古い建物だ。建物全体が赤茶色の錆に覆われ、ところどころが風化して小さな穴が無数に空いている。二十年ほど前には栄えていた港の倉庫は見るも無残な姿に変貌していた。
明かりがおもむろに倉庫の壁面に向けられた。すると赤茶色の中に白い塗料で「6」と塗られた数字が浮かび上がる。これが廃港にある6番倉庫なのだろう。
しかし、映像はまだ終わらない。開け放たれたままの倉庫の扉をくぐった先、明かりの灯らない黒い空間で天使は立ち止まったようだった。
画面の先で再び明かりが灯る。埃が積もった灰色のコンクリートの上には何かが横たわっていた。
「――なっ⁉ ど、どうして……」
映像を見ていた純一は驚きに目を剥きながら立ち尽くす。そして血の気が抜けていくような脱力感に体を蝕まれると、がっくりとその場に膝をついた。
WIDからはセミロングの綺麗な黒髪に透き通るような白い肌を持った少女が映しだされていた。見覚えのあるライトブルーのカーディガンに花柄のワンピース、そして小さなバックが傍らに転がっている。
純一もよく知るその少女は魂が抜けたようにピクリとも動かない。
「う……そだ、嘘だよな? おい……」
WIDに向かってすがるような声を上げても、画面の中の
そこで映像が途切れると、再びボイスチャットに切り替わった。
〈これでわかったか? お前はここに来るしかない。そして取引だ、山県純一。お前の持つ聖紋と、いまここにいる彼女の命を交換しようじゃないか〉
声の主は茫然自失となった純一の様子に満足したようで、更にたたみかける。
〈朝霞は、無事なんだよな⁉ 生きてるんだよなっ⁉〉
無我夢中で純一は緋依の安否を天使に問うた。他にも言うべきことがあるのかもしれないが、それ以外に思いつくことは何もなかった。
〈安心しろ。せっかくの取引の材料だ、まだ生きてる。しかし、それはお前の行動次第だ。我々も無駄に人間の血を流すようなことはしたくはない。……だが、もしお前が彼女を見捨てたときは分かっているよな?〉
〈やめろ……やめてくれ……〉
純一は天使に懇願するしかなかった。
どうしてこうなったのかは分からない。なぜ関係のない緋依が人質にならなければならないのか。ただ、自分の境遇を呪うしかなかった。
〈タイムリミットは日付が変わるまでだ。もし、お前以外に誰かがいたと分かったら彼女は容赦なく殺す。いいな?〉
プツリ、という音がしたかと思うと、ボイスチャットは切断されていた。
同時に魂が抜けたように佇んでいた純一は静かに床へと崩れ落ちる。心の中でただひたすら自分を責め続けながら。
しばらく純一は喪心したまま何もできなかった。だが、天使にタイムリミットを設定された以上、このまま何もしないわけにもいかない。
この状況で頼れるのは――
純一は迷うことなく、WIDに手を伸ばした。
✝
「……そうきたか」
純一は天使からの連絡の一部始終を守人に伝えた。青白く生気の抜けたような純一とは対照的に、守人は純一の話を聞いても顔色一つ変えることはなかった。
突然、純一からコールしてきたことを守人は意外に思ったが、回線越しに話し始めてからすぐにその様子がおかしいことを察知した。
簡単な話はWID越しに聞いた。しかし守人は純一を呼び出して詳しい話を直接本人から伺うことにしたのだった。聞いた当初は、天使の偽装した罠ではないかと疑う。しかし純一曰く、今日会った時の格好かつ、いくら連絡しても緋依は応答しないとのことで信ぴょう性は高いといわざるを得ない。
そして待ち合わせた新市街の明るい広場で待っていた守人の前に、おぼつかない足取りで純一は姿を現した。挙動不審な様子であることが一目で見て取れる。
「お前が作りだしたその、ホロアバターに近い技術の線はないのか?」
守人は、偽造されたものではないかということを純一に再度確認する。しかし、純一は首を横に振る。
「それはない。俺はそれなりに精巧なホログラムをいくつも見てきたから分かる。どんなに優れていても、まだホログラムは実体には追いつけない。俺が作った《
《電子擬態》はもともと非現実的な空想を超えるために純一が作りだした技術だ。しかし、本物の魔法相手にはやはり太刀打ちできないのかという口惜しさを噛みしめる。
「いや、そうでもないさ。お前の言う通り、確かに他人に化ける魔法は存在する。だがそれは俺らの中でもかなり特殊な魔法だ」
「なにが特殊なんだ?」
守人のいう特殊な魔法とやらに興味が湧いた純一は尋ねる。
「他人の姿を模すということは魂の外殻を変えるということで、簡単にできるものじゃない。発動にはかなり慎重な手順を要する。それに万が一、失敗したら似せようとした相手と自分の姿が不完全に融合して、下手をすれば人の形すらなさない結果をもたらすことにもなる。リスクの高さから研究はされども、誰もこの魔法を使う奴なんかいない。それに……」
言いかけたところで守人は口ごもった。ここから先はあまり人間にとって聞いていて楽しいものではないからだった。
「とにかく、魔法である可能性は限りなくゼロに近い」
「そうか……」
純一はがっくりと肩を落とす。緋依ではない別のなにか、であるという僅かに抱いた希望は打ち砕かれた。
「いちおう、言っておこう。この件はお前のせいでだけはない。連中がまさか関係のない人間すら巻き込んでくるとは俺にも予想がつかなかった。そういう意味では、たかを括っていた俺も同罪だな。だが、裏を返せば、それほど連中も切羽詰まってるということでもあるが」
「朝霞が攫われたのは、俺のせいだ……」
震えた声で、純一は自信を責める心情を吐露する。そんなことを言ったって現状が良くならないことは分かっている。しかし、誰かに打ち明けなければ、何かが壊れそうだった。
胸がえぐられるような深い自責の念に純一は頭を抱える。名状しがたい絶望感に純一の心は底のない淵にただ沈むようであった。
心に蔓延る虚無が純一の視力すら覆いかけたとき――
「ぐっ!」
突如、襟元を掴まれ、そのまま地面に体を思い切り叩きつけられる。純一は自分の目から火花が飛んだように感じた。
「な、いきなり何するんだよッ!」
地面に転がる純一は、そばで平然と佇む守人に怒声を浴びせる。
「いいのか、それで」
起伏に乏しい、平坦なひとこと。いつもの守人の調子だ。
だが、明らかにいつもとは違う、その言葉には重みがあった。
もしかしたら、自分は今、現実から目を反らそうとしていたのではないか。
朝霞の身を案じ、自分を責めるふりをすることで、現状を忘れようとしていたのではないか。
無意識に誰かの優しさを欲していたのではないか。
――何をやっているんだ。
自嘲するように薄笑いを浮かべると、純一は我に帰った。
「……すまない、少し動揺しすぎた。もっと前向きに考えることにする」
それでも守人は何も言わない。
多少強引な方法であったが、これが守人なりの諭し方なのだろう。むしろ優しい言葉を掛ける守人というのは今のところ想像がつかない。
心に再び余裕を取り戻した純一は、砂のついた服を手で払いのけながら立ち上がる。そして、守人に対してあらたまった顔つきへと変わる。
「佐治、お前には俺の命を救ってもらったりといろいろ感謝している。その上でまた頼み事になる。……あいつを、朝霞を助けてくれないか」
純一は誠意を込めて守人に頭を下げた。今の純一に頼れるのは守人しかいない。
「なら、準備はできてるか?」
いつも通りの沈着した守人の声が純一の頭に投げかけられる。それを聞いた純一は顔を上げて守人の顔色を窺った。
目の前に立つ守人は何も動じることなく、真っ直ぐ純一を見ていた。その瞳から相変わらず一片の感情も読み取れない。しかし、何が起ころうとも決して折れることのない覚悟がそこにはあった。襲撃から純一を救ってくれたあの時と、同じだ。
「……準備?」
「今から朝霞を助けに行く。俺がこの世界に来たのは天使が人間を殺すことを止めるためだからな。そしてだ、山県純一。結果がどちらに転ぼうとも、お前はその結末を受け入れなければならない。その〝覚悟〟はできてるか?」
一瞬だけ、純一の心は揺れる。
万が一、救出に失敗して、緋依が命を落とすことになれば、純一はその罪の十字架を一生背負って生きていけなければいけない。
例え、救出に成功したとしても緋依に何らかの説明をしなければならないだろう。もしかしたら、緋依との関係に亀裂が走るかもしれない。
――どちらにしても、純一は何かを失うことになる。
ただ、もうすでにこの戦いからは逃れる道はない。そしてこのまま緋依を見捨てて、のうのうと生きていくことなどできるわけがなかった。
純一は奥歯を噛みしめ、固く目を瞑る。
脳内に記憶の中の緋依の顔が思い浮かぶ。楽し気な表情や嬉しそうな表情、怒った表情その全部が純一には愛しいものだった。そして最後に、昼過ぎに見せた彼女の涙。
どうしてあの時、彼女は泣いたのか未だに分からない。だが、理由はともあれ、純一は緋依にまだ謝っていない。
だからこそ、守人の言う覚悟をいま決めなければ、この先一生かけて悔いることになるかもしれない。
「……俺は今まで、自分がこんなに無力であったことに気がつかなかった。強い力も、賢い頭脳もない俺は結局、誰かに頼ることしかできない。だからせめて、気持ちだけは誰よりも強くありたい」
守人に自身の決意を告げた純一の顔にはもう迷いの色など消え失せていた。先ほどまで青白かった顔色も今は血色に漲り、ただまっすぐに目の前の守人を見据えていた。
その一部始終を見届けた守人は唇の端を持ち上げると、今まで固かった表情をはじめて崩す。これには先ほど決意を固めた純一も、守人がみせたニヒルな笑みには不意を突かれた。
「安心しろ、必ず助けるさ。それにクラスメイトが殺されるのは俺個人にしても忍びない」
そう守人は言うと、ポンと軽く純一の肩を叩き、広場の出口へ向かって歩み始める。守人の表情の軟化に純一は驚いたが、自分の覚悟が伝わったことをはっきりと感じた。
そして純一は固く拳を握りしめると、先を行く守人の背中を負う。
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