Chapter:3-3

 ……今日は休みだ。

 

 ちゅんちゅんと雀の鳴く声が寝起きの耳に響く。カーテンの隙間から差す朝日に眩しさをおぼえ、寝ぼけ眼を擦りながら純一はベットから這い出た。当然、学校に行く必要はない。

 

 学校での騒動やクラスメイトからの告白、挙句の果てには天使の襲撃と、この一週間にいろいろな出来事が起こりすぎた。まだ夢の中を彷徨っているのであれば、今すぐにでも早く覚めてほしい。

 しかし、それらは純一の左手首につけてあるWIDを操作すれば、事実であることを思い知らされる。透音とのやり取りや、深夜に受信した守人からのメッセージがその証拠。守人に託した《電子擬態デジタル・ミミック》を用いた作戦は純一の狙い通り上手くいったようで、目下の脅威の一つは減った。

 

 ――今日は家でゆっくり過ごそう。 


 そう決意すると、純一は少し遅めの朝食をとるために、二階にある自室から一階へと降りていった。ダイニングとキッチンが一体になったリビングに入ると、母がホロディスプレイに流れるニュースを暇そうに眺めていた。


「あら純一、起きたの?」


 寝間着姿の純一に気が付いた母、小雪が声を掛ける。


「ああ、おはよう。章悟は?」


「朝練、あの子も頑張ってるのよ。朝ご飯は自分で用意してね、それくらいはできるでしょ?それとお母さん、この後出掛けなきゃいけないの。だからあとはよろしくね」


 そう言いながら小雪は薄手のカーディガンを羽織ると純一とはすれ違いにリビングを出ていく。そして家に取り残された純一は手始めに朝食をとるためキッチンに向かった。

 冷蔵庫から朝食用のベーコンエッグが入ったパックを取り出すと、そのままレンジに放りこむ。そして切り分けられた食パンも同じようにオーブンに入れてからボタンを押した。

 朝食が出来上がるまではすることがないので、純一はホロディスプレイを起動させる。先ほどまで母が見ていたニュース番組がスクリーンに映し出された。


《……次は天立あまだて市で起きた殺人事件についてです。》


 偶然のタイミングで早瀬俊樹はやせとしき殺害のニュースが流れ始める。全てはこの事件から始まったのだ。最初にこのニュースを見た時は他人事だと思い、何にも気にすることはなかった。ましてや犯人の次の標的が自分であるとは微塵も思わなかった。


 報道番組によると、どうやら警察はまだ犯人の足取りを掴めていないようだった。しかし、警察に対する世間の目は厳しい。防犯設備に長けた新市街で起きた事件なのに一向に解決する見込みがないことへの非難が殺到していた。


 インタビューを受ける市民の姿を見ていた純一の気持ちは複雑だった。

 ここに住む住人たちは早瀬を殺した犯人を捕まってほしいと思っている。しかし仮に犯人が捕まったとなれば、同時に殺人犯の正体が人間でないことも判明することになるだろう。そのあとのことは想像がつかない。


 天使の存在が明るみに出たときの混乱を考えると、純一は素直に犯人に捕まってほしいとは望めなかった。頼りと言っていいのか分からないが、あのクラスメイトに任せるしかないのだろう。


 ……だが万が一、関係のない人間が捕まったともなっても大問題である。あれこれ考えていると、調理が完成したことを告げる電子音が部屋の中に響いた。


     ✝


「駄目だ、さっぱりわからん……」


 朝食を済ませ、適度に身だしなみを整えた純一はとりあえず学校の課題に取り掛かっているところだった。課題は全て学校側から配付された課題専用のプログラムを通して行わなければならない。残念ながらコピー&ペーストなどを用いても、教育者たちには容易に見破られる。


 今のような『情報優先社会』で自分のPCを持っていない高校生はそういない。万が一、持ってなかったとしても学校から端末が貸与されるので課題をこなす上で支障はない。

 

 純一が課題に手を付けてからそれなりに時間が経っていた。情報と数学、物理の課題は終えることはできたが、英語で手間取っている。特に文法がつらい。

 現実的な話をすると、WIDの同時通訳機能を使えば難なく外国人と意思疎通できる。しかし、話すことだけが語学ではないのだ。だからこうして純一は頭を抱えている。


「ああ――っ……」


 もやがかった気分の純一は勢いよくデスクに突っ伏した。

 学校に入学するにあたって覚悟はしてはいたが、予想通り、授業のレベルはそれなりに高い。だが、一ヶ月もたたずに落ちこぼれに転落するのは絶対に避けなければならない。幸いにもクラスには学力でランク付けをするような雰囲気はなく、わからない所を教えてくれるほどの懐の広さを皆が持っていた。脳筋キャラかと思われがちな克人もそれなりに頭はいい。

 

 だが、人の好意に甘んじるだけでは成長はできない。純一自身も他人に乗っかるだけではいけない、と思うくらいのプライドはある。再び立ち直ろうとした時だった。


 ピピピッという単発の電子音が幾度も繰り返され、左手首に振動を感じた。マナーモードを解除してあるWIDのボイスチャットのコール音である。


(一体誰だ?まさか佐治の奴じゃないだろうな……)


 コールした人物を確認するためデスクに突っ伏していた顔をおもむろに上げた。WIDを起動すると、守人や克人ではない名前が空中に表示されていた。


 ハートの形をしたリンゴのアイコンに【Hiyori】というID名がそこにはあった。


(な、なんで朝霞から……?)


 緋依と連絡をとることはさほど珍しくない。だが、突然のコールに純一は動揺せざるをえなかった。鳴り響くコール音を前に少し固まっていた純一だったが、用件も聞かずに無視するわけにもいかない。すぐに着信の表示に指をなぞらせた。


〈……もしもし、朝霞?〉


〈あっ、山県君、急に連絡してごめんね。少し聞きたいことがあるんだけど、いいかな?〉

 

 スピーカーから聞こえる緋依の声に、課題でストレスを感じていた純一の心は癒されるようだった。


〈全然問題ないよ。で、どうした?〉


〈いま海月かいげつの商業区画にいるの。それでね、もしよければ山県君も一緒にと思って連絡したんだけど……〉


 出された課題の中にわからない所でもあったのかと純一は気楽に思っていた。だが緋依からの遊びの誘いは予想外だった。本来なら今日は家でゆっくり過ごす予定だったが、またとない機会に純一の心は弾む。


〈実は今日、別の用事があって日が沈む頃には家に帰らないといけないんだ。それまでなら問題ないけど、いいかな?〉


 残念ながら天使の件があるため、外に長居はできない。だがこの数日間、夜間の外出をやめて人通りの少ない所に寄りつかなければ、今のところ純一の身の周りには何も起こらなかった。


〈ほんと?じゃあ、二時までに来れるかな?〉


 スピーカーから聞こえる緋依の声が明るく変わった。回線越しでも緋依が喜んでいる様子が純一にも伝わる。


〈朝霞以外は誰がいるの?〉


 焦りで純一自身にも信じられないような間抜けな声が口から出る。


〈うん、飯田さんと柿本君もいるよ〉


 それまで早鐘をうっていた純一の心臓は元通りの平常運転に引き戻された。悲しんだほうがいいのか、それとも安心するべきなのだろうか今の純一にははっきりしなかった。

 飯田は緋依の座席の後ろにいる女子で、いつも仲よさげに緋依と話している姿を目にする。しかし、柿本はクラスの中でチャラそうな雰囲気を出している男で、緋依の口からその名前が出たことを純一はすこし懸念する。


〈……と、とにかく二時に商業区画だな、分かった〉


〈うん。商業区画の発着場辺りで待ってるから、よろしくね〉


〈お、おう〉


 ピッ、という短い単音がしたとおもえば、ボイスチャットは終了していた。本音を包み隠さずいえば、緋依と話ができてうれしかった。 

 折角の休日を寝て過ごすにはもったいない。それに友人たちと過ごすのはいいことではないか。青春しているみたいで。

 少しばかりの制約はあるが、そこは今のところ問題なく上手くいっているようである。

 約束の時間までに課題を終えようと純一はやる気に満ちた顔で再びデスクに向き直った。


     ✝


 磁気浮動式のためほとんど揺れることのないシャトルの中で純一は窓から流れていく景色を眺めていた。温かい日差しは眩しいが、夜には雨が降ると天気予報は言っていた。だが日が落ちる前に帰る予定の純一に傘など必要ない。

 海の上に架けられた連絡橋から見える景色はもう見慣れたものではあるが、今日は一段と綺麗に見える。

 

 しばらくして海月の商業区画の発着場に降り立った純一はまず、遅刻していないか時刻を確認した。時刻は午後一時五十分、遅刻の心配はない。既に緋依たちが待っているのではないか、と辺りを見回していると背後から誰かが近づいて来たような気がした。


「山県君っ!」


 自分の名前を呼ばれ、振り返った純一は息を呑む。声を掛けてきたのは緋依だったが、その格好に目を奪われたのだ。

 春らしいライトブルーのカーディガンに、花柄のワンピース、そして小さなバックを肩にかけた姿はとても似合っている。そして普段と違って化粧を施したその顔は学校で見るものよりも大人びていた。そのため、純一は午前中に緋依たちと行動を共にしていた柿本に羨ましさで嫉妬すらおぼえる。


 緋依の姿を見て、それなりに身だしなみを整えてきてよかったと純一は安堵する。純一はカットソーの上にジャケットというカジュアルな格好。家ではTシャツにジーパンというラフな格好だったが、着替えてきて大正解だった。


 中学時代にも休日に何度か外出姿の緋依に出会ったりもしたものだが、その時はまだ幼さが残っていた。だが、目の前にいる緋依は着実に大人の階段を上っていることを純一は意識する。同時に緋依からは自分がどう見えているのかも気になった。


 ――昔に比べて身長は伸びたが、それ以外は成長したのだろうか。


「どうかしたの? 口を開けたまま固まっちゃって」


「いや……その、つい朝霞の格好に見惚れちゃって……」


 純一は素直に思ったことを口にするが、それを聞いた緋依は顔を真っ赤にして俯く。緋依の気に障っていないか、しどろもどろしだす純一だったが、「ありがとう」という緋依の小さなつぶやきを聞き逃さなかった。純一は自分の胸が高鳴るのが手に取るようにわかるようだった。


「そういえば、飯田と柿本はどうしたんだ?」


 固まってしまった緋依の気を紛らわすため、純一は辺りを見回すようにして話題を変えた。しかし、緋依は相変わらず沈黙したままだった。

 どうかしたのかと訝しむ表情の純一に、緋依は意を決したように切り出した。


「あのね、山県君。実は飯田さんも柿本君も、お昼までは私と一緒に行動してたの。でも……山県君を誘った後、二人とも急に用事ができて、帰らないといけなくなって……」


「え。それって……」


 緋依の言おうとしていることを純一は瞬時に理解した。


「連絡しなかったのは悪いと思ってるんだけど……結果として私と山県君の〝ふたりだけ〟ってことになっちゃった……」


 そう言いながら、緋依は再び俯いた。


 ――やった。


 顔には一切出さないようにと必死で平静を装いつつ、純一は心の中で歓喜の雄叫びをあげていた。数々の災難が身に降りかかりながらも、純一はいまこの瞬間を本気で喜んだ。それこそ、神に感謝せんばかりに。


「それでもいいかな?」


 心の中で歓喜に打ち震える純一目の前にして、緋依はおずおずと尋ねる。


「朝霞が構わないなら、俺は全然気にしないよ」


 気恥ずかしさで目の前にいる緋依から視線を外しつつ、何気ないふりをしながら純一は言う。

 無論、純一には困る理由もなく、このまま解散という流れに陥ることの方が心配だった。純一の返事を聞いた緋依はそれまで不安げだった表情は消え、少しばかり赤面する。しかし、純一からそう言ってもらえた緋依も実のところ心の中では喜んでいた。


「うん、私も……大丈夫だよ」


 緋依が顔を上げると、空中を泳いでいた純一の目とたまたま視線が交わる。ふたりとも慌てて視線を反らすものの、何とも言えない気まずさが純一と緋依を包み込んだ。ただ、それは苦々しいものなどでは決してなく、甘酸っぱくも儚いもののように純一は感じた。


「ははっ……」「ふふっ……」


 純一と緋依は互いにこらえきれなくなり、ほぼ同時に吹きだした。


「「はははははははははっ!!」」


 その様子があまりにもおかしく、こらえきれなくなった二人はその場で堰を切ったように大笑いした。自分たち注がれる周囲の視線など気にすることもなく、純一は満面の笑みを浮かべていた。この一週間に自身に起きた出来事の全てを忘れるほどに幸せを感じられた。


 そして純一は緋依と二人で楽しい時間を過ごした。

 

 海月の商業区画は馴染み深い所ではあるが、今日ばかりはいつもと違う景色に見えた。純一が何気なく通りすぎていた店も緋依にはよく知る場所であったり、それまで知らなかった発見があった。反対に純一がよく行く店でも緋依には初めての場所だったということもあった。

 

 海月の地理に詳しくなると同時に、純一はそれまで知らなかった緋依の姿を見れたような気がした。長居付き合いがあるとは言ってもそれは学校の中でのこと。緋依のプライベートのことに関してはまだまだ知らないことが純一にはたくさんあった。

 

 そして純一と緋依は互いに知らない部分を補完しあいながら、街を巡り歩んでいた。その途中で緋依はアクセサリーショップの前で何度か立ち止まり、ショーケースの中の商品を眺めていた。それを何度か繰り返すと、気に入ったものが見つかったのか店の中へ入っていった。


「何買ったの?」


 店の前で待っていた純一は、嬉しそうに買ったものを携えて出てきた緋依に尋ねた。


「ちょっとした小物を買ったの」


「へえ、ちょっと見せてよ」


「だ、ダメ!今はまだ見せられない」

 

 試しに言ってみただけなのだが、緋依は慌てて買ったものをバックの中にしまいこんだ。一体何が駄目なのか純一にははっきりしないが、女子とはそういうものなのかと自分なりに納得させた。


「今度みせるから」


 難しい顔をしていた純一に緋依は優しく声をかけると、緊張しかけたその場は一気に和んだ。その後も緋依に買ったものをさり気なく聞こうとしてみたが、頑なに明かさなかった。しつこく思われるのも嫌なので、結局純一は緋依が何を買ったのか分からずじまいだった。


 適度に歩き回った二人は足を休めるため、たまたま目に止まった和風な佇まいの喫茶店に入ることにした。店内を覗くと行燈を模した間接照明に、簾が描かれた仕切りに区切られた個室が並んでいる。店のオーナーの趣味なのだろうか、立派な生け花が純一たちを出迎える。生け花のすぐそばにあった端末から二人用の個室に空きがあることを確認し、緋依と話し合ってそこに入店することを決めた。


 店内の個室はそれぞれ季節に合わせた花の名前が付けられている。そして純一たちに割り当てられた部屋はマーガレットだった。部屋の入口に来てみれば、ホロディスプレイに白やピンクの小さな花びらをもった可憐な花が一面に映されていた。

 

 個室の中に入った純一たちは、メニューから各々好きな物を注文し終える。しかし、店の静けさも相まって、注文した飲み物が運ばれてくるまでお互い口を開けずにいた。軽い気持ちで個室を選んでみたが、そんなに広くない密室空間の中で男女二人っきりという状況は予想以上に気まずいものに感じる。純一には初めての経験だった。


 何の話題を持ち出そうかと頭の中で思い浮かべてはみたものの、すぐに別の自分が横から否定し、手詰まり状態に陥る。もしかしたらお見合いというのもこんなものかもしれないとなどと、全く別の話題に逸れる始末であった。


「あ、あのさ、朝霞は高校では誰と仲良くしてるんだ?」


 このままじゃ埒が明かないという焦りから、安直ながら学校生活について緋依に聞いてみることにした。


「クラスの中だとやっぱり、席が近い人と仲良くしてるって感じかな。午前中に一緒にいた飯田さんとかとはよく話したりしてるし」


 純一の思い切った問いかけは功を奏したらしく、店に入る前の雰囲気に戻った。


「そういえば午前中には柿本もいたんだよな。あいつとも仲がいいのか?」


「柿本君?えーっと、普段はあんまり話さないかな。今日いたのは飯田さんが誘ったからなの。いろいろ話してみたけど、なかなか面白い人だったよ」


「そうか……」


 誰と仲良くしていようとも関係のないことだが、それでも純一は緋依の異性関係が気になる。しかし、緋依と柿本の間にあまり深いつながりがないと知った今、純一は心のどこかで安堵していた。

 そんなところで、注文の品が純一たちの部屋に届けられた。そのため、会話は一旦そこで打ち切られる。


 運ばれてきた飲み物を前に、再び純一たちの間には気まずい沈黙が漂っていた。純一が何を話題にすればいいと思い悩む中、視線をそれまでテーブルに落としていた緋依がおもむろに顔を上げた。


「山県君はその……学校やクラスで気になる人とかいないの?例えば……洲崎さんとはどうなの?」


「え……」


 思いもよらない緋依からのカウンターに純一は内心焦った。ほんの数日前、純一は透音から告白されている。結局、純一は透音の告白は断ったが、彼女の好意を貶めることは絶対にしたくはない。だから緋依にはどう話せばいいのか純一は考えあぐねた。しかし、その沈黙を緋依は肯定と受け取る。


「やっぱり……洲崎さんと付き合ってるんだ」


 緋依は落胆するように肩を落とすと、そのまま目を伏せる。


「ち、違う!」


「何が違うの?この前、洲崎さんと一緒に楽しそうに歩いてるところを私見たよ」


 この前、というのがいつかを指し示すのか分からないが、緋依の強い口調に純一はたじろぐ。だが、このまま黙っていればますます緋依に誤解されると純一は危惧した。


「朝霞、聞いてくれ。俺は洲崎とは付き合ってない」


「…………嘘よ……」


 なぜ自分の言うことが素直に信じてもらえないのかわからない。


「どうしてそんな嘘をつく必要があるんだ?」


「……洲崎さんと楽しそうに、海月を歩いてる山県君を見かけたの。ほんの軽い気持ちだったんだけど、しばらく様子を見てた。もちろん良くないことだと思ったけど、気になってしょうがなかったの……」


(まさか……)


 息が詰まるような嫌な予感が、ねっとりと純一の心に絡みついた。


「それで、行きついた先の公園でふたりが……ふたりが、キスしてた――」


 それまで何とか保っていた雰囲気に大きな亀裂が走る。少なくとも純一はまだ誤解を解くことができると踏んでいたが、その道のりは遠のく。緋依が見たのはよりにもよってあの日の出来事だったとは大誤算だった。


 しかし、緋依が見たという光景は事実ではない。キスと言っても互いに口づけあったわけでもなく、透音から頬に軽いあいさつ程度のものを受けただけだ。しかし、純一にはその光景を緋依に見られていたことに動揺を隠せない。

 キスだけの話ではない、それほど透音と親しい関係に思われたことの方が純一には問題だった。


 なぜなら、自分が本当に恋い慕うのは目の前にいる彼女なのだから――


「朝霞が見たものの半分は間違ってる。あの時、洲崎は俺の頬にキスをしただけだし、それにそのあと……」


「もういい」


 暗く冷ややかな声が、純一の釈明を打ち切る。向かいに座る緋依は俯いたままで、ここからではその表情を確認できない。


「帰る」


 冷たく言い放ったあと緋依は急に立ち上がり、そのままつかつかと個室の出口向かっていく。両手を固く握りしめ、肩を小さく震わせながら。


「待てって!」


 このままだと関係が破綻すると恐れた純一は、咄嗟に緋依の腕を掴んでその場に留まらせた。だが、振り向いた緋依の目は潤んでいた。


 ほろり、と一筋の滴が彼女の頬を伝わりながら、床に流れ落ちる。彼女は泣いていた。


 だが、純一にはどう対応すればいいのかわからない。戸惑いに揺れる純一だったが、いつまでもその場に留まる緋依ではなかった。

 彼女は粗雑に純一の手を振り払うと、その場から逃げるように部屋を出ていった。振り払われた手を、いなくなった彼女の背中を追うように虚しく伸ばしたまま、残された純一は茫然と立ち尽くしていた。

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