Chapter:1-2
――昼休み。
講堂に引けをとらないほど大きな食堂は、学年に偏りなく生徒たちで溢れかえっていた。白を基調とした清潔な空間に長椅子や丸テーブルが至る所に整然と並べられている。そこには仲の良い者同士が集り、笑顔を交えながら食事を楽しんでいた。
この学校の大半の生徒がここで昼食をとっている。パンやサンドイッチを売る購買も併設しているが、数に限りがあるため大人気というほどではなかった。
周囲と
共働きで毎朝忙しい母親は毎日の昼食代を一括で支給する。余れば自分の懐に入れてもよいということなので、なるべく食事は安く済ませたい。
食堂の入口に置かれた注文用のコンソールに表示されるメニューを眺めてみる。
一番安いのはコロッケバーガーだが、育ち盛りの男子高校生だ。当然、それだけでは到底腹を満たすことなどできない。空腹と戦いながら午後の授業を受けなければならない程、生活に困窮もしていない。暫く迷った末、純一は日替わり丼を注文することにした。
あとは自分の手にしているWIDをかざせば、チャージされたクレジットが引き落とされ注文が完了する。
完全自動化された無人の厨房で料理が作られ、自分のWIDに料理が出来上がったという旨の通知が届く。出てきた料理を受け取った純一はそのまま手近に空いている席へと腰を下ろした。
今日の日替わり丼は生姜焼き丼だった。
いつもなら親しい友人たちと席を並べるのだが、今日は部活関係で誰もが忙しいとのことだった。頼みの綱だった克人も中学時代の友人たちに誘われたと言って、どこかへ行ってしまった。透音は女子同士でランチタイムを楽しんでいるようで、お邪魔する勇気は純一には到底ない。
たまには独りで食事も悪くないと、疎外感を感じつつも料理に箸をつけはじめる。味については特別おいしいというほうではないが、かといって不味くはない。
黙々と食事に集中していた純一だったが、テーブルの向こう側でふと、女生徒が立ち止まる。
特に気にしないふりを装いつつ、純一は箸を進めていた。だが女生徒はそのままこちら側に向き直った。
「ここ、空いてる?」
綺麗な響きのある澄んだ声が純一に掛けられた。
自分に声を掛けた本人の顔を確認するために箸を止め、どんぶりから目を離す。
そこにはどことなく落ち着いた雰囲気のある女生徒が食器を乗せたトレーを手にしていた。
セミロングでストレートの艶やかな黒髪に、左目に泣きぼくろのある大きな瞳が特徴的だ。
「あれ、珍しいな。今日は独りなのか?」
純一は目の前の女生徒に気後れすることなく話しかけた。透音を除けばあまり異性とは親しくない純一だったが、目の前にいる女生徒とは長い付き合いがあるのだ。
彼女の名前は
同じ学校に通えば成立する可能性あるかもしれない。だが流石に高校は別々になるだろうと純一は考えていた。
なぜなら、緋依は高校受験で東京にある国内でも名の知れた名門高校への進学を希望していた。純一も緋依がそこに進学するだろうと思っていた。しかし、結果として彼女には残念な結果に終わることになってしまった。
棚ぼた的にこの高校に進学できた純一だったが、驚くべきことにまたクラスで緋依と再会することとなった。その時は流石に運命と言うものを多少なりと感じた。だが彼女の心情を考えると手放しで喜べるものではなかった。
入学式後の数日間、純一は緋依に話しかけることを遠慮して様子を見ているだけだった。しかし、今となっては彼女も気を取り直したようで、クラスメイトに明るい笑顔を振舞っている。
そして今、彼女から話しかけてくれたことに純一は安堵と嬉しさを心の中で感じずにはいられなかった。
「今日はみんないろいろとあるみたい。山県君もおなじ? それともいつもひとりなの?」
嬉しさ反面、純一の心の中では未だに「山県君」と他人行儀な呼び方がもどかしい。昔は別の呼び方だったはずだが、今はちょっと思い出せない。
「寂しいひと呼ばわりしないでくれよ。朝霞と同じさ、今日は周りと都合が合わなかっただけさ」
「冗談、冗談。最上君とか……洲崎さんと仲が良いいみたいだね」
緋依と話しができることに純一は心がくすぐられるようだった。
「そういえば、朝礼前のあれ、なんだったんだろうね?」
朝礼前のあれ。というのは例の天文研究同好会、ひいては
あの爆発を伴ったアピールは純一だけでなく他のクラスでも被害を出していた。
聞けば天文研究同好会という団体は、部活紹介ページ上に部活紹介ページ上に今朝現れたようで、一年生の誰も存在を知らなかった。
派手な演出とリアルな映像技術には目を見張るものがあったが、いささか過激すぎる。しかも音が出ないようスピーカーをオフにしていても強制的に起動させるという質の悪いものであった。
しかし、その過激さと被害の多さから天文研究同好会の名前は学年中に瞬く間に広がる。どうやら御園生葵の作戦は狙い通りに成功したようだ。
そしてこの一連の騒動は後に『ビッグバン事件』などと呼ばれるようにもなる。
天文研究同好会、ひいては御園生葵への愚痴が混じった純一の話を聞いた緋依は時折、笑みをこぼす。その都度、純一は電撃が走ったような感覚とともに一瞬だけ時が止まったような気がした。
「あ、あのさ、朝霞はもう部活を決めたか?」
今朝も克人と透音の間で話題になった話を純一は緋依に聞いてみることにした。
「うん、もう決めたよ。演劇部に入ることにしたの」
「へぇ、でも、中学では美術部だったよな。なにか気でも変わったのか?」
「うーん、とね……私ってさ、人にものを伝えるのがあんまり得意じゃないの。だからその……そういうところを克服したくて、演技で自分を変えようと思ってこの部活を選んだの」
五年間、緋依のことを見てきたがそんな素ぶりは一度も見たことがなかった純一は心の中で驚く。
「そうだったのか……でもしっかりした理由で部活選んでるなんて、朝霞は真面目だな。そういうところは素直に尊敬するよ」
純一は褒めたつもりだったが、緋依は少し困った表情をしていた。
「そこまで褒められるようなことでもないと思うけど……そういう山県君は決まったの? まさかまた帰宅部なんて言わないでよね?」
「さすがに帰宅部は中学の三年間でもう懲りた。でもしっくりくるような部活がなくてね……」
「それなら私と一緒に演劇部に入らない? 年に何回か発表会があって、それに向けてみんなで指導しあってるの。男女比も同じくらいだから、きっと山県君でも上手くできると思うよ」
インドア派の純一にとっても悪くない選択肢ではある。
「考えてみるよ」
「本当? じゃあ私、期待していいかな?」
緋依は瞳を輝かせながら、熱い眼差しを純一に向ける。純一にはその視線を眩しく感じた。
「今日はダメなの?」
「えーっと……今日はいくつか見に行きたいところがあるんだ」
「もしかして、例の天文研究同好会とか入ってたりするの?」
緋依の鋭い指摘に純一は狼狽えた。
「つっ、バレたか……」
冗談交じりに笑ってごまかそうとした純一だったが、緋依の表情は一転して曇る。
緋依の様子に気が付いた純一は、何とかその場を誤魔化そうとあられやこれと思考を重ねる。だが純一の言い訳を待たずして、緋依は何か一言呟き、立ち去ってしまった。
テーブルの上に二組の空いた食器と放心したままの純一がその場に残される。
「ばか」
去り際に残した緋依の台詞が、純一の頭の中で繰り返し響いた。
✝
――時を同じくして。
閑静な住宅街に建つまだ新築のマンション。だが、その入口は黄色と赤の進入禁止ホログラムによって封鎖されている。さらに進入禁止帯のそばに立つ警察官が物々しい雰囲気を醸し出していた。
そんな殺伐とした雰囲気をものともせず、二人の男たちは淡々と歩んでいた。
ひとりは壮年を既に超えた中年の男。白髪が目立つ頭に若干よれた灰色のスーツを身に纏っている。
もうひとりはまだ青年といえるような若い容貌だったが、その表情には不安の色が見え隠れする。しかし紺色のスーツをしっかりと着こなし、きびきびとした足運びで前に進んでいた。
見張りの警察官は識別デバイスを掲げた二人を一瞥すると、右手で軽く敬礼した。
「お前、昼飯はもう食ったか?」
ガラス張りのエレベーターの中で、年配の男は外の景色を見ながら言った。
唐突な問いかけに部下の若い男は質問の意図を汲みかねたのか、面食らったような顔をする。
「昼飯ですか? ええ、もう済ませましたが……」
その答えを聞いた年配の男は、ため息を混じらせながら部下に告げた。
「そうか、そりゃご愁傷さま。だけど現場を汚すのだけは勘弁してくれよ」
何の事だか一向につかめていない部下だったが、エレベーターは目的の階層にたどり着く。踊り場を出て、数歩進めば今回の現場が見えてきた。
「ここか」
「はい。まだ鑑識が作業をしていますが、行きましょう」
最新式のセキュリティーが施されたドアは開け放たれたままで、室内を覗き込むと多数の鑑識官が作業をしていた。
現場を汚さないように注意を払いつつ、中に上がり込む。思ったよりも室内が綺麗だということにふたりは驚いた。
だが玄関に入ってすぐに、部屋に入る前から漂っていた異臭が一段と強くなる。
むせかえるような強烈な臭いに若い部下は顔をしかめ激しく咳き込む。そしてエレベーターの中で上司が言ったことの真意をようやく理解したようだった。
えずく部下とは対照的に年配の男は慣れたと言わんばかりに表情一つ変えない。
異臭は玄関から入ってすぐのバスルームから発せられていた。中を覗けば、発見されるまでこもり続けた腐臭が一層強くなり、鼻に痛いほどの刺激を浴びせる。
バスルームは白いタイル張りの清潔感にあふれていたが、至る所に点々と、ときにはべったりと赤黒くひび割れた汚れがこびり付いていた。
そして、水の張られていない空の浴槽の中では下着一枚だけを身に着けた男の亡骸が無造作に放置されていた。遺体に目を向ければ、喉元にはぱっくりと裂けた刺し傷が開かれ、そこから尋常ならざる血液が流れ出たことが容易に推測できる。
「この部屋の住人ということで間違いないか?」
「はい。
若い刑事はハンカチを鼻にあてて死臭に耐えていた。
「なるほど。にしても二十八とはまだ若いじゃないか。それなのにこんな高層マンションに一人で住んでいるのか」
「ええ、彼は巷で話題の古物商だったそうです。人を惹きつけるようなセールストークが売りで、それなりに成功していたらしいですよ」
「古物商ね。若者にしちゃあ珍しい仕事だな。それで死因は何だと思う?」
「検死にまわしてみないとはっきりと断定はできませんが……この喉元の一撃ですかね」
「まあ、そうだろうな。〝順序が逆〟な訳がねえからな」
死体を一通り確認すると、二人の刑事は一旦バスルームから出る。
若い刑事は周辺の状況を聞くといって部屋を出ていった。一刻も早く腐臭が漂うこの空間から脱出したいという本音が背中から丸わかりだった。
残った年配の刑事は部下の一連の流れを鼻で笑った後、リビングへと場を移す。
(なんだ? この部屋は……)
部屋に置かれていた調度品の多さに圧倒される。しかもそのほとんどが時代を感じさせるようなアンティーク調の木製家具なのである。まるでこの部屋だけ時間が数百年ほど遡った気さえした。
この時代、木製の家具というのはかなりの貴重品である。それがそこらかしこに置かれている様子と部屋の主の年齢を合わせれば異様にも思える。
職業柄、自分が取り扱う品を部屋に置いているだけかもしれない。そう考えて試しに光沢のあるダークブラウンのデスクの引き出しを開けると、ちゃんとペンやその他の道具が入っている。
早瀬俊樹という人物は職業だけではなく、生活様式も同世代の若者とはかけ離れていた。
独特の雰囲気のあるリビングであったが、目を引く異変が一つだけあった。今では数千万はくだらないであろうペルシャ絨毯に一人掛けの大きなソファーが倒れている。
(おかしい……)
倒れたソファーの背を持ち上げてみると、その下にあった絨毯が褐色のシミで汚れている。鑑識を呼ばなくてもそれが血痕であることは容易に分かる。早瀬はここで刺されたのだろうと、年配の刑事は推測した。
だが、これだけではまだ何も犯人につながらない。それに凶器もまだ見つかっていない。
年季の入った刑事の勘が厄介な事件であるとすぐさま察知した。
リビングや他の部屋をあらかた調べたところで、聞き込みに行っていた若い部下が戻ってきた。
「吉島、お前この事件をどう思う?」
「どうといわれましても……一言でいえばかなり不可解な事件ですよ」
吉島と呼ばれた部下は困り顔で質問に答えた。
「そうだ。はっきり言って異常だな。まず物盗りの線はないだろう」
「そうですね。私が強盗だとしたら、この部屋は宝の山ですよ。このマホガニーのキャビネットなんか、いくらするのか……」
吉島は壁に沿って置かれた赤みがかったキャビネットをまじまじと見つめ、ため息を漏らした。死んだ被害者とはそれほど歳は離れていないはずなのに、いったいどうしてここまで差が付いたのか。と、吉島は格差を体感した。
「ただの怨恨って線も薄そうだ」
そんな部下の敗北感を気にせず、年配の刑事は話を続けた。
「刑事の勘っていうやつですか?」
吉島は未だ落ち着きがない様子のまま、部屋中を見回しながら言う。
「勘というよりかは、一目で素人がやったもんじゃないってわかる。殺し方にしても、喉を一突きなんて明確な殺意と技術がなければできない芸当だ」
「ですが、ただの古物商にこれほどの殺意を抱く人物はいるのでしょうか?」
「それは調べてみねえと分からねえな。しかし若年にしてここまで豪奢な暮らしぶりだ、何か非合法なことの一つや二つはありそうな話だろう」
吉島は年代物の高級家具たちを一瞥する。上司の言う通り、そう考えればこの家具類が胡散臭いもののような気がしてきた。
「朝霞さん! ちょっと見てくださいよ、これ」
キッチンに移動した吉島が上司の朝霞を呼ぶ。朝霞は訝しげにキッチンに行くと吉島は小さな箱型の家電の蓋を開けて、一本のボトルを手にしていた。
「見てください。……同盟国外品じゃないですか?」
差し出されたワインボトルのラベルを確認すると確かにヨーロッパ連合を形成する国のものである。そして製造年は二〇二〇年と書いてあった。
「随分古いワインですね。四十六年前のものですよ……」
「ああ、俺の生まれた年でもあるな」
「そうなんですか? にしても、今の国内事情を鑑みるとこれは値段のつけようのない代物ですね」
ワインに限らず、この国で手に入るのは基本的に環太平洋条約機構に加盟している同盟国内品に限られている。そのため条約機構が成立する前に国内にあった同盟国外品には希少価値がつけられることにもなった。おかげで一時は経済が大混乱に陥ったこともあったが、今ではすっかり落ち着いている。
「もとから国内にあったものか、はたまた不正規輸入されたものか……ここでは判断できんな。だが、不正規輸入だとしたら輸入元を突き止めなければならん。署に帰ったら調べるとするか」
不正輸入だとするとそれなりの組織でなければできない。こうした連中であれば何か手掛かりになることがあるかもしれない。そう朝霞は考えた。
「ところで吉島、ここら一体のカメラはどうだったんだ?」
吉島は残念そうに首を横に振った。
「被害者が最後に映った三日前の深夜の前後で周囲一キロ圏内にあるものを簡単な検索にかけてみました。ですが特に怪しい人物はいませんでしたし、データの破損や改ざんも見当たりませんでした」
通常ならば周辺のセキュリティカメラのデータを洗えば大概、犯人が分かる。二〇五五年に第四世代の都市インフラが発表され、そこで新たに生体情報の記録がカメラに追加された。これにより犯罪者の迅速な確保に大きく役立ち、同時に冤罪をほぼ駆逐することとなった。
「あと、ここのドアの開錠記録も見てきたんですがちょっとおかしいんですよ。入口の生体センサーの記録だと事件当日に早瀬以外が部屋に上がり込んだ形跡はないんです」
「なんだって? じゃあ一体どうやってこの部屋に侵入したっていうんだ?」
「発見当時、ベランダへ通じる窓が空いていたそうです。しかしここは二十六階、外からの侵入なんて無理ですよ」
吉島と朝霞は窓から、話題に上ったベランダに出た。
流石は高層マンション、一望できる景色はそれなりに圧巻だ。遠くには海に浮かぶ
朝霞は試しにフェンスから少しだけ身を乗り出して、階下を見降ろした。マンションの前の駐車場に、米粒ほどの大きさのパトカーが数台停まっているのが見える。
ここから飛び降りて脱出するには大分無理があるだろう。仮にザイルを使って懸垂下降をしたとしても間違いなく駐車場のカメラにその姿が映るはず。その逆も然り、屋上へと登ったとしてもセンサーに必ず感知される。
ここまで現場を見て周ったものの、犯人の姿が一向に掴めない。
「本当に犯人は人間なんですかね」
朝霞の後ろにいた吉島がふと呟いた。
「どうしてそんなことを言う?」
「入口の生体センサ―には反応がない、おまけに監視カメラにも映らない。そして、この高層マンションからどうやって脱出したのかも不明。これじゃあ、犯人が幽霊だって言われたら信じてしまえそうですよ」
「馬鹿言え、そんなことがあってたまるか。実際に人が殺されているんだぞ」
ベランダに出ても特に手掛かりが見つからなかった二人の刑事は、再び室内へと戻った。そして警察署に戻って情報を整理することを決める。
「……だが、幽霊だかなんだか知らんが、なんでこんなことまでする必要があるんだ?」
早瀬の遺体が見つかったバスルーム前で立ち止まった朝霞は言った。
朝霞は顎で遺体の男の右腕、正確に言えば〝右手があった場所〟を吉島に指し示した。
早瀬の遺体は体のほぼ全てが浴槽内に収まっている。だが右腕だけは浴槽の縁から飛び出し、洗い場の床に向かってだらりと垂れていた。
そして吉島は視線を床へと落としていく。やがてそこには目を背けたくなるような肉の断面が露わになっていた。
やや黒みをおびた赤い肉、断面の中心には白い骨が垣間見える。そして腕の途切れた先にはあふれ出た血を受け取るために、洗面器が置かれていた。
「ひでえ有様だ。犯人はリビングで殺してからここへ運んで、右手を切り取ったんだろうな」
朝霞は切断された右腕から目を反らすと、吐き捨てるように言い放った。
「同感です。ただ、腑に落ちないのは切り取った右手を持ち去ったことですね。ここまで手際よく殺す奴なのに、死体の一部を持っていては足がつくことも容易に分かるはずですが……」
嫌悪感を露わにする吉島のひと言に朝霞は力強く頷いた。
「そう、それが一番違和感がするところだ。被害者を殺すにしたって喉元の一撃で十分、なのにわざわざ右手を持ち去るその理由が知りたい。これじゃあまるで最初っから右手を奪うために殺したようなもんじゃないか」
「気味が悪くなってきましたよ」
「俺もだ。だがこの場は一旦鑑識に任せるとしよう」
事件のあったマンションを出ると、そこには自身が見慣れた風景が広がっている。事件の不可解さに、マンションを見上げながら朝霞は頭を掻いた。
「朝霞さん!」
高層マンションを見上げていた朝霞のもとへ吉島が車を運ぶ。そのまま車に乗ると運転する吉島がにわかに声を掛けた。
「そう言えば、朝霞さんはこのあたりにお住まいでしたね」
「そうだな。ここから歩いて十分もかからない」
「だったら、こんないかれた犯罪者を野放しにはできませんね」
「ああ」
まっすぐ前を見据えたまま強い語調で言い切った吉島の言葉に朝霞は一言だけ返した。そしてふと、霞がかかった春の空を眺める。
事件現場から見えた『海月』にある学校に通う〝娘〟の顔が図らずも脳裏をかすめた。
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