Prologue: 栄光の簒奪

 とあるマンションの一室。


つやの入ったアンティーク調の家具が几帳面に配置された部屋。若い男がひとり、革張りのソファーに身を投げ出して日中の仕事の疲れを癒していた。


 時刻は午後十一時五十七分

 数分前に家に帰ってきたばかりだが、もう日付が変わろうとしている。帰宅時間の遅さに嫌気がさすが、生活のためなら仕方ない。

 仕事に追われ、忙しい毎日を過ごす。そんな日々を送る彼の唯一の楽しみは、映画配信サービスで映画を鑑賞することである。仕事の休憩時間に見ていたレビュー集から目を付けた映画のタイトルを自分以外、誰もいない部屋でそらんじてみる。


 すると、先ほど述べた映画のタイトルの文字とともに、検索エンジンにかけられた結果が空中に表示された。


 平面投影式ホロディスプレイ。2030年代までテレビやモニターと呼ばれていた機械は、ついにモノ的存在から消え失せてしまった。


 全てを変えたのは西暦2042年、たったひとりの天才が作りだした発明だった。

 太平洋の洋上科学プラントで生まれたそれは【プロメテウス】と名付けられた熱核融合炉。

 

 理論は昔から提唱されていた。だがそれを稼働させるためには高温・高圧を必要とし、その時代の人間の力では到底制御することができなかった。

 しかし、不可能を可能するが故の天才。不可能と言われた実験を次々と成功させ、一号機であるプロメテウスを完成させるのに、一年もかからなかったそうだ。そうして、天才は立て続けに四つの核融合炉を作りだした。


 南極海『第二核融合炉【インティ】』

 インド洋『第三核融合炉【アグニ】』

 北極海『第四核融合炉【ウルカヌス】』

 大西洋『第五核融合炉【ラー】』


 五つの核融合炉は枯渇の危機に瀕した世界のエネルギー問題を遥か彼方に追いやってしまう。そして、莫大な電力を得ることに成功した人類は、核融合炉の恩恵とともに、科学技術を飛躍的に進歩させたのだった。


 だが、歴史に名を遺した天才は人知れず表舞台から突如、消えてしまう。もしかしたら今もどこかで研究を続けているのかもしれない。


 時を経て、現在西暦2066年。過去と比較すれば、少なくなくとも随分〝便利〟な生活を送れるようになった。無論、今に至るまでのおよそ二十年間、世界は様々な出来事を経験してきたが。


 空中に浮かぶホロディスプレイを興味無さそうに眺めているこの部屋の住人、早瀬俊樹はやせとしきは映画配信サービスの名前を口にする。

 壁面に浮かんでいた検索エンジンの結果を表示するディスプレイの上に、いつも利用する見慣れたページが重なる。日本語字幕で、と更に声を壁に投げかけると部屋の照明は徐々に弱まり、部屋全体がシアターモードへ移行。当時の配給会社の社名が映し出されたところで、彼はシャワーを浴びるために一時停止を命じた。


 現在、映画というものは昔にあった娯楽の一種としてしか認識されておらず、彼と同じ世代で興味を抱いている者は少ない。代わりにVR(仮想現実バーチャルリアリティー)技術によって作りだされた電脳空間サイバースペースで五感を用いて体験する一体型エンターテイメントが人気を博している。


 ただ映像を見るだけの観覧者から自身が主人公の、いわば体験者となれる一体型エンターテイメントが普及するのに時間がかからなかった。

 高度な技術によるコンピューターグラフィックスは体験者をVRと現実世界リアルの区別を曖昧にさせる。更に映画撮影に必要なコストも抑えられるという制作側にとってもいい話なので次々と新タイトルが生みだされもした。

 

 しかしながら、早瀬には一体型エンターテイメントにそれほど心惹かれなかった。


 自分は主人公ヒーローなどではない、観覧者ビジターだ。――それが早瀬の持論であった。

 

 シャワーと簡単な身支度を済ませた彼は、現在においては言葉すら消滅しかけているワインセラーの中から、お気に入りのボトルを取り出した。


 同盟国外から不正輸入したワイン。恐らくもう二度と手に入らないだろう。

 

 ラベルを眺めてみるとそこに表示されている数字はまだ世界が分裂する以前のものだった。開けることを惜しみつつも、栓を抜き、真紅の液体をグラスに注ぐ。そこから、彼の至福の時間が始まるのだ。


 毎晩、早瀬は映画を観ている訳ではない。今日はいつもより比較的早く帰宅することができたからだ。

 古物商を営む青年実業家として、少しばかり世間に名を馳せる彼の多忙さは同世代のそれとは比較にならなかった。彼がここまで成功できた理由として、それなりに聡明な頭脳はもちろんのこと、特筆すべき彼の特異な才能のおかげでもあった。


 彼の才能。

 それは彼の発する言葉が〝人を惹きつける〟というものであった。しかも、広範な知識を持ち合わせていたり、巧みな会話術を用いるという訳でもない。


 例えば、彼の会話の一言一句を書きとめた議事録があったとする。きっとそこには、どこでも行われている普通の商談が書き連ねてあるだろう。

 しかし、実際に彼と顔を合わせて会話をすると、無意識に彼の言葉に惹きこまれ、特に興味のない古物に得も言われぬ魅力を感じてしまうのだ。もちろん、彼としても相手を洗脳するような意図などなく、ただ普通に会話しているだけなのだが。


 その甲斐あってか、早瀬のする商談は次々と成功し、彼の地位を押し上げるものとなった。


 早瀬は自分の才能を生まれつきの天賦のものと信じて疑わない。


 ――しかし、彼は気が付かなかった。その才能の裏にある奇跡と、彼を狙う者たちに。


     ✝


 空中に浮かぶスクリーンの映像に夢中になっている早瀬をよそに、背後のクローゼットの扉がゆっくりと、音をたてずに開く。それが合図だったのだろう、玄関から早瀬がいる部屋へ通じる扉も物音一つせずに開いたのだ。


 心霊現象ではない。静寂を保ったまま開いたクローゼットとドアからぬらりと人影が三つ、部屋の主に気取られないように現れた。


 ひとりは少しだぼついた白いパーカーにベージュのカーゴパンツで、明るめの髪色をした若者。もうひとりはチャコールグレーに縦のストライプが入ったスーツ姿で、縁のないメガネが身に馴染むような男だった。そして最後のひとりは白いブラウスに黒色のスカートで、背はそれほど高くない女だった。


 三人とも黒いニット帽を被り、革の手袋を嵌めていた。

 三人の中で唯一の女の手には無機質な金属の塊が握られている。金属の塊はスクリーンに投影された光を鈍く反射させていた。


 三人は互いの距離が詰まると、先頭に立つ女は左右に立つ者たちに目配せをする。


 事前に打ち合わせていたのだろう。了解、とばかりにふたりの男は音をたてないよう注意を払いつつ、首を縦に振る。


 この状況下、不幸にも早瀬は映画に夢中だ。映画の内容が余程面白かったのだろう。背後からの侵入者に気が付くことはなかった。万が一、気が付いたとしても、彼にはこの先に待っている結末を変えることなど、できはしない。


 侵入者たちは彼に最後まで気付かれることなく、背後に立つ。そして何の迷いもなく、中央から迫っていた女は早瀬の口を左手で覆う。

 

 ……!


 早瀬は突然の出来事に声を出そうにも、くぐもった声にならない音が漏れる。


 彼の口を塞ぐと同時にパーカーの若者は早瀬の正面に立ち、暴れようとする彼の手足を押さえる。もうひとりは彼が座っていたソファーを後ろに思い切り引き、暴れた際の余計な物音を立てそうな家具から遠ざけた。

 

 彼の口を封じていた女はそのまま左手で彼の顎を上に押し上げる。そして逡巡することなく持っていたダガーナイフを彼の首と顎の付け根の間に押し込んだ。

 二人の男に抑えられていたにもかかわらず、ビクンという衝撃が早瀬の体を弓なりに曲げる。しかし、それが最後の抵抗となり、数秒後に早瀬俊樹は絶命した。


 二十八年。それが早瀬俊樹の生きた時間であった。


「死亡確認」

 

 映画の音声が虚しくも流れ続ける主亡きこの部屋で、言葉が発せられた。

 抑揚のない淡々とした口調、感情を微塵も感じさせないような一言。

 声の主は早瀬に止めを刺した女のものだった。それを聞いた残りの二人の男は抑えていた遺体から手を離して立ち上がる。


 「ナイフはまだ抜かないで。余計な出血が増えるから」


 ナイフを抜こうと手を伸ばしかけたスーツ姿の男に、彼女はそう言い放つ。そのあと彼女は、糸の切れた操り人形のように床に転がる早瀬の遺体のそばにしゃがみ込んだ。おもむろに、死に顔が張り付いたままの早瀬の頭を彼女は膝の上にのせた。

 

 死者を弔おうとするような所作。だが彼女は傷口が開いて血液がこれ以上漏れ出ることを嫌っていただけだった。その証拠に虚空を見据えたままの早瀬の双眸そうぼうを閉じようとはしなかった。


 「聖紋の確認を」

 

 膝の上の死体に一切の興味を持たず、緩慢とした動作の彼女とは対象に、男たちは忙しなく動いていた。


 無造作に倒れたままの遺体を大の字に寝かせ、おもむろに衣服を脱がせ始める。下着一枚を残した遺体に対して、奇妙なことに男たちは遺体のあちこちに手をかざすという作業を始めたのだった。


 傍から見たら死体に【念】、という非科学的な作用でも送っているような行為をしているようにしか思えない。


 やがて、ラフな格好をしていた男が遺体の右手に何かを見つけたようだった。


 「ありました、どうか確認を」


 そう言って男は、遺体の右手の手の平を持ち上げると彼女の顔へ向けた。


 早瀬の右の手の平が僅かながら光り輝いている。それだけではない。輝きを放つ光源は幾何学的な模様を形づくっていた。


「模様の形からして、第八の紋『栄光ホド』だと思われます。どうされますか?」


「……確かに、これは『栄光ホド』で間違いないでしょう。それにしてもなんて美しい造形、そして輝き。……魔法で引き剥がすことはできないの?」


 放たれる光にうっとりと酔いしれるような視線を送りつつ、彼女は部下に尋ねる。


「残念ながら我々の力では聖紋に何の作用を及ぼすことはできません。それに聖紋の周りの部分を〝除去〟したとして、聖紋がどのような挙動を示すか予想がつきませんよ」


「そう……なら仕方ない。あまり目を引きたくはないんだけど、聖紋のある部分を〝切り離す〟しか方法はないようね」

 

 はあ、と彼女は軽くため息をつく。騒ぎになることは最小限に抑えておくことが、当初の計画だったためだ。


「のこぎりを持ってきて頂戴。でも、ここでやると汚れるから、先に〝これ〟をバスルームに運びましょう」


 遺体をバスルームへと運ぶため、彼女と仲間の男はそれぞれ早瀬の腕と足を抱える。残されたもうひとりは部屋から一旦出ると、黒くて大きいサイズのボストンバッグを担いで再び現れた。

 ドスンという音と共にバックを開くと、中には大量の工具が詰まっていた。そして男は、工具の中から迷うことなく弓鋸ゆみのこをとりだす。


「人間って、死体が残るから面倒なのよね。おかげで手間がかかりっぱなし」


 そう言うと彼女は二人の部下に〝作業〟を始めさせた。


     ✝


「いい? 何一つ証拠は残さないように。指紋、髪の毛一本でも残せば、我々の存在が人間に知られる。特に床には足跡も残らないよう念入りに調べて」


 作業を終え、証拠の隠滅工作を一通り済ませた彼女は、早瀬の部屋のベランダに佇んでいた。ベランダといっても、その広さはちょっとしたテラスといってもいいほどだ。


 時刻はすでに深夜の二時を過ぎている。四月とはいえども、時折吹く夜風は少し肌寒く感じる。

 今宵の空は分厚い雲に覆われた生憎の空模様。だが、彼女たちにとって最高の天気だった。しばらくすると、痕跡を完全に消し終えた二人の部下が彼女のもとに戻ってきた。


 「これで一つ目の作戦が完了。今日のところはこれで解散。各自なるべく人目につかない、ついても堂々として絶対に不審に思われないように。待機しているクラウディオには私から連絡しておくから」

 

 そう言った彼女は一息ついた。だが、まだやることが山積みで安堵するほど気が抜けない。


 「状況報告ブリーフィングは明後日の夜に行うから覚えておいて。連絡したと思うけど、もうあまり時間がない。機会があればすぐに〝1番〟の始末に取り掛りましょう」


 「了解。で、今のところ〝1番〟に変わった動きは?」

 

 スーツの男はメガネの端を軽く持ちあげながら、話を切り出す。


「ない。でも厄介なことに行動パターンが定まってなくて、隙ができる機会が特定できない。もう少し監視してみるけど、駄目だったらこちらで状況を作り出すことになるかもしれない。それと、まだ特定できていない〝3番〟はどうなっているの?」


「区画を分けて一つひとつ探してはいるのですが、如何せん人間が多すぎる。特定にどれくらい時間がかかるか今のところ見当もつきません」


 ラフな格好の男は申し訳さそうに釈明した。


「そう……、まあ〝3番〟に関しては力が発動した形跡もないのだから、慌てることはない。それに、見当がついていないのはも同じ。引き続き作業をお願い」

 

 彼女たちは一通りの会話を済ませるとベランダの端へ歩みよった。

 目の前に広がる景色は壮大なものだ。深夜にもかかわらず、群れ集う建築物一つひとつから溢れんばかりに光が漏れ出ている。


 なかなかの夜景だ。目の前に広がる光景は人間が生みだしたという〝地上の太陽〟の恩恵なのか、と彼女は半ば感心していた。


 更に遠くを見渡せば海が広がっているはずなのだが、今は何も見えない。かわりに無を感じさせるような広大な闇が口を広げているようだった。


 二十六階。それが今彼女たちのいる高層マンションの階層だ。階下の様子に目を向ければ全てが小さく、まるで模型を真上から覗き込んでいるようである。


「準備して」


 そう彼女は言うと、被っていたニット帽を取り去った。帽子の中で抑え込まれていた髪が宙に舞い、夜風になびく。

 すると彼女と二人の部下は、何の迷いなくベランダのフェンスから身を乗り出す。飛び降りれば〝普通の人間〟なら命の保証は確実にないだろう。


 ふと、彼女は空を見上げた。見上げたところで、星はおろか、月さえ見えない曇天に寂しさを覚える。


 〝彼女がいた世界〟と、何もかもが違う中で、そらに輝く天体だけは自分が見ていたものと寸分違わない。その事実は、異世界に潜む彼女の慰めだ。


 躊躇いなく、彼女は倒れ込むようにして空中に身を投げる。

 彼女の合図を皮切りに、残された部下たちもベランダから一斉に飛び降りた。地面へと吸い込まれるように落下していく彼女たちを、闇が滑らかに包み込む。


 ……だが、聞こえてくるはずの肉体が地面に叩きつけられる音はせず、いつまでたってもその場は静寂のままであった。


 ――残りの紋は『勝利ネツァク』と『王国マルクト


 それは、闇に溶け込む前に、彼女が頭の中で思い浮かべたことだった。

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