Chapter:5-4
……いつの間にか、意識を失っていたようだ。
手足が自由に動かせる感覚がしたと同時に、山県純一は重い瞼をゆっくりと開こうとした。どうして寝ていたんだろうか、そんな疑問が頭の中をよぎる。
どうでもいいか、まだ寝ていたい。甘い誘惑に誘われるまま、純一は再び意識を闇へ沈めようとした時だった。
誰かの悲鳴が耳鳴りのように駆け抜ける。悲鳴の主は――
「朝霞っ!!」
すべてを思い出した山県純一は、飛び上がるように起き上がった。
空は
だが、東の空には日の出の気配がない。それどころか、空全体が均一に塗りつぶされたように、緋色に染まっていた。
「おい、佐治。これは――」
すぐそばに控えているはずの守人のほうへ振り返った時だった。空の異変以上の衝撃が、純一の体を駆け巡った。
……確かに、守人は純一のすぐそばにいた。それでも、純一の呼びかけには何も反応しなかった。わかることは、固まってしまったように同じ体勢をとったまま動かないことだけだった。
「どうしたんだよ、おいっ!」
純一が慌てて駆け寄ってみたところで、なにも変わることはなかった。守人は何かからかばうように左腕で顔を覆い、目を細めたまま、純一の問いかけに応じることはなかった。それではと、守人の体を揺さぶるため両手を肩にかけた時だった。
「なんだ、これ――」
守人と初めて出会ったあの日。自分が天使に命を狙われることになったすべての元凶、第七紋『
純一は直感する。いまこの状況は、間違いなく聖紋が引き起こしたものであることを。
ともすれば、この状況は『勝利』が引き起こしたものであろうか。だが、力を使ったというような実感はなかった。もしやと、あたりを見回したところで、その場にいるはずの〝もうひとりの人物〟の姿はどこにもなかった。
「そんな……。どこ行ったんだよっ!朝霞っ!」
名前を呼んでみたところで、返事が返ってくることはなかった。無音の世界で純一の叫びは、虚空の中に溶け込んでいく。朝霞緋依は、どこにもいなかった。
緋依が悲鳴をあげたあの瞬間、背後の彼女の影のなかに間違いなく、聖紋があった。純一にはそれが、『
(こんなことが、あってたまるかよっ!!)
いてもたってもいられず、純一は拳を振り下ろした。虚しくも、空をきった拳は、やり場のない感情で震えていた。その行為に、なんの意味がないことはわかっている。そして、この状況で頼みの綱であった守人は、蝋人形のように硬直したままであった。
――手を差し伸べてくれる人は、どこにもいない。
孤独と絶望が心を締め上げる。短くも、今までにこれほど救いようのない経験をしたことはなかった。純一は、思考もまともに働かず、もはや自分が何をしようとしているのかさえ分からなくなった。
やがて純一は、ふらふらと歩き出す。行く先などない、その場から逃げ出すような不安定な足取りだった。
(帰ったら、課題の続きをやらないと。でもその前にシャワーを浴びようか。潮風に吹かれて、髪がべとべとだ。……にしても、英語の課題はだるいな。分からない箇所は仕方ないから、克人あたりに教えたもらうしかないか。そうだ、他にも部活のことがあった。早く決めないと、期限が過ぎてしまう。だけどなぁ、あの
コツン。
何かがつま先に当たる感触がした。そこで、純一はふと我に返る。
足元を見降ろせば、見覚えのあるものが転がっていた。それは、ピンポン玉より少し小さいガラス玉。ただ、普通のガラス玉とは違って、球の中心からゆらゆらと黄緑色の光を放っている。
〝
おそるおそる拾い上げてみると、右手の
守人と透音はこの球を武器に変えて戦っていたがいたが、あれはいったいどういう原理なんだろうか。純一は、守人の球を、しばらく手の上で転がしながら、見つめていた。
次々と思い浮かぶ、他愛のない疑念に想像を膨らませていた時だった。ガラス玉の中で、法則もなく四方八方へ放散していた光が一つに収束し、一点に集まる。まるで、それは
さすがの純一もガラス玉、もとい
守人だけではなかった。この世にある森羅万象が、動くことをやめて、静止することに徹していた。
(時間が、止まってる……?)
試しに左手にあるWIDを操作してみる。……何も反応はない。フラッシュライトで透音の目を眩ませたり、
海に浮かぶ海月に建つ高層ビル群からは、漏れる光もなく、ただ真っ暗で静かに佇んでいるだけだった。
計り知れない聖紋の力に、ただただ驚愕するほかない。この世のありとあらゆるものが進むことをやめた世界で、純一はただひとり取り残された。
孤独や絶望、恐怖は感じなかった。聖紋に対する畏怖、ただそれだけが純一の心を満たした。
唖然とする純一だったが、すべてが静止するといっても、例外が存在するることに気が付いた。まず第一に、自分がこの状況を知覚できる。理由はおそらく、左手にあるこいつだろう。相も変わらず、幾何学的な模様を浮かべる第七紋、『
そしてもう一つ。守人が所持していた
それでも、目の前の超常的な現象に対して、純一は自分でも驚くほどに冷静だった。それは多分、自分の中の常識が壊れてしまったのだろう。この数日間、いろいろなことが起こりすぎた。
純一はおもむろに右手の
今までコンテナの山が遮っていて、気づけなかった。廃港から一、二キロ離れた海上にヴェールのような白い霧に覆われた島がうっすらと見える。そこに島があるなど、いままで聞いたことも、見たこともなかった。島の大きさは、
突如現れた島をしばらく観察していると、白い霧に覆われた島の真上で、何かが、キラリときらめく。その光を、純一は見逃さなかった。
この世界で、止まることなく、動くことができるもの。それは、聖紋か天使の持つ
(きっと、あの島に朝霞はいる)
自分の勘がそう告げる。根拠などない。だが、残る聖紋の保持者、朝霞緋依がいないのだから、あの正体不明の島にいる可能性が高い。
こうなってしまった以上、緋依にはすべてを話さなければならない。きっと彼女は、とてつもない不安に襲われているに違いない。聖紋の力のことを知っている自分ですら、いまだに目の前で起こったことを事実だと受け入れられない。それすら知らない彼女のことを考えると、純一は胸がずきずきと痛む。
いますぐ、彼女のもとへ向かわねば。そう思うと、純一の心の中に、勇気がどことなく湧きあがる。
透音にさらわれたときは、守人に頼ることができたが、今度はそうはいかない。この世界で彼女を救うことができるのは自分だけ。なんの因果かわからないが、同じ聖紋を持つ者同士。そして、自分が恋した相手なのだから。
純一は廃港の堤防へと向かうと、消波ブロックを下った。海面に一番近いところまで降りたところで、氷のような海をおそるおそる触れてみる。冷たいのは変わらないが、液体ではなく完全なる個体の感触が手に伝わる。意を決して、海面の上に立ってみたが、地面となにも変わらない。一歩、二歩と消波ブロックから離れてみたが、いきなり水中に放り出されることもなかった。
人類の歴史上で、海の上を歩いた人間というのは数少ない。だが、そんなことを考えることもなく、純一はいてもたってもいられず、駆けだした。
――いま、自分にしかできないことをやり抜くだけだ。
「待ってろよ、朝霞っ! いまそっちへ向かうから!!」
緋色の空の下、希望に満ちた快活な声が響き渡る。
天地無境の迎撃者《インターセプター》 出島 創生 @sajinext
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