Chapter:5-3

「なんで……なんで、朝霞あさかが……」


 胸の奥底から絞り出した声はか細く、黒々とした夜の海に吸い込まれていくようだった。

 まだ、透音との別れから立ち直れていない純一に、この状況は堪えることができなかった。落ち着いてきた心臓の鼓動も、再び勢いづく。


 揺らぎ、まばらになる視界の中、いまあそこにいる人物がが幻ではないことを確かめようと、四肢に力を込めた。


「おい、大丈夫か」


 体が素直に言うことを聞かず、よろける純一を咄嗟に守人は抱きかかえた。


「…………」


 無言のまま俯く純一を、守人は無理やり立たせようとする。


「………………………………………………………………いけないんだ……」


「なんだって?」


「朝霞は……俺が……守らなきゃいけないんだ……」


「わかった、わかった。だったら、お前も少しは立つ努力をしろ」


 息も絶え絶えに、呻くように呟く純一を、多少は鬱陶しげに扱う守人ではあったが、最終的には肩を貸すことにした。なんとなくの事情は察したが、それをこの状態の男に問うのは、野暮を通り越して酷であろう。そう思った守人は黙って、純一を緋依のもとへ連れていくことにした。透音に負わされた傷が激しく痛む。だが、それは今この状況下では問題にならなかった。


(問題は、朝霞緋依をどうするかだ)


 焼けつくような痛みの中、守人は冷静に思案する。山県純一はこの騒動の渦中の人物であり、事情を知るべき当事者である。だが、向こうにいる朝霞緋依はなんの関係のない人間だ。天使の存在を知ってしまった以上、何かしらの〝対処〟をしなければならない。


(こんなことになるなんてな。仕方ないが、こうなった以上は――)


 失意に沈む緋依のもとへ、よろよろと歩むふたり。洲崎透音との熾烈な戦いを制した最後の試練になるはずであった。


「悪い。もう……大丈夫だ」


「そうか」


 生気の抜けた顔で、純一は独りでに歩き出した。頭の中では、彼女に対する深い謝罪の念でいっぱいだった。彼女を巻き込んでしまったことを、心の底から悔いていた。そして、彼女を好いているからこそ、を見られたくなかった。そんなこともあってか、なんと話しかければいいのか、言葉が思い浮かばない。


 戸惑いに揺れる中、気が付けば緋依がもう目の前にいた。俯き、肩を震わせている彼女はとても小さく、触れただけで壊れてしまいそうな雰囲気を出していた。


「あの……さ、……朝霞……」


 ぎこちない切り出し方で、言葉を投げかけた時だった。それまで分厚い雲に覆われていた空が割れる。ちょうど、雲の切れ間から差し込む一筋の月明かりが、スポットライトのように二人を照らした。


「…………いや……」


「え?」


「いやあああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」


 廃港の静寂を切り裂く、悲鳴。


 緋依の拒絶反応に狼狽え、足がすくむ。そして、純一は気づいてしまった。月明かりに照らされた緋依の〝影〟に浮かび上がった、どこか見覚えのある


 途端、純一の視界は閉ざされた。それは、世界の終わりを予感させるような緋色の光。目がくらむような光の中で、純一の意識は反転する。途切れる意識の中、ひとつのキーワードが頭の中で浮かびあがった。


――第十紋、救いの『王国マルクト


     ✝


「そういえば、まだ聞きたいことがあったんだ」


「なんだ?」


 校舎の屋上で、守人は先ほど手にした〝電子擬態デジタルミミック〟を眺めながら返事をした。純一から使い方の説明を一通り受け、この後の作戦を考えていた時だった。


「昨日、『勝利ネツァク』の力のことを教えてもらっただろ。この世界には全部で三つの聖紋があるって言ってたよな。残りの二つの聖紋の力は何なんだ?」


「……『栄光ホド』の力の正体は伝承にもなく、未だ解明されていない。だが、もうひとつは最後にして、の聖紋だ」


「最強?」


「第十紋『王国マルクト』、救いの聖紋なんて呼ばれている」


「『勝利ネツァク』に『栄光ホド』、そして『王国マルクト』か…… で、なんで最強って呼ばれているんだ?」


「〝願いを叶える〟 それが『王国』の秘めた力だ」


 それを聞いた純一は拍子抜けした。最強と呼ばれるのであれば、もっとド派手な力でもあるのかと思っていた。


「願いを叶えるって、それは3つまで叶えることができるのか」


「いや、叶えられるのはひとつだ」


「ほんとにそれが、最強の聖紋なのか?」


「疑うのもわかる。なら、いま願を叶えることができたら、お前は何を願う?」


 唐突な話題に、すぐに答えが思い浮かばない。だが、実にシンプルな願いが思い浮かんだ。


「金持ちになりたい」


「随分と俗人的な願いだな」


「急に願いを言えっていったらこんなもんだろ」


「まあいい。で、その願いはどうやって叶うと思う?」


「それは、単に口座の残高が増えるだけだろう」


 あまりに現実的な純一の回答に、守人はため息をついた。


「たしかに最終的にはそうなるな。だったら、増えた分の金はどこからやってくる」


「そんなの奇跡なんだから、いくらでも湧いて出てくるんだろ」


「違うな。答えは、他人の金を持ってくる、だ」


 自分の願いを俗人的と言ったり、回答がつまらないからといってため息をつかれたが守人の回答も似たり寄ったりではないか、軽く癪に障る。


「なんだかなあ……俺が言うのもあれなんだが、夢のない話だな」


 ところが、純一の失望を思った通りとばかりに、守人は得意げな表情になる。


「そうだ。奇跡とはいっても、無から有を生み出せるわけではない。そいつは神の御業みわざだ。その代わりに聖紋は、願いを叶えるためにありとあらゆる手を尽くして実現させようとするのさ。さっきの金持ちになりたい願いは、他の誰かが手に入れるはずだった金をお前の口座に集めることで実現する。そして、それは金を手に入れる予定だった誰かの運命を変えることにもなる」


「要は、願いのために誰かが犠牲になるってことか?」


「その通りだ」


「じゃあ死んだ人間を生き返らせたいっていうのはどうなんだ?」


「その場合だと、おそらく聖紋はまず、過去に遡って死んだ事実をなかったことにするだろう。だが、死を逃れることのできた奴の代わりとして、ほかの誰かが死ぬ。それだけだ」


 奇跡に付きまとう代償。それは、自身が宿している『勝利』にもあるだろうかと純一は思いをめぐらす。

 ふと純一のなかで疑問が思い浮かんだ。金持ちになりたい、死んだ人間を生き返らせてほしい、どれもこの現実や社会があってこその願いだ。その代償についても当然現実的なものになる。だとすれば、それらを取っ払った願いは叶えることができることができるのだろうか。


「なあ、さっきまでの願いの代償は何となくわかる。だけどもし……もし願いの内容がこの現実の垣根を飛び越えた滅茶苦茶なものだとしたら、いったいどうやって聖紋は叶えようとするんだ?」


「それは、どんな願いだ」


「例えるなら、今いるこの世界とは別の、ファンタジーに溢れた世界になってほしいなんて願ったりしたらどうなる」


 ファンタジーを嫌う純一だからこそ、叶うはずのない願いをぶつけてみた。さすがの守人も即答することができず、少しばかり考え込む。


「おそらくだが……それでも聖紋は叶えるだろうな。本人の意図する理想とはかけ離れることになるだろうが」


「どういうことだ?」


「この、今いる現実を。そのあと、本人が望む世界に創りなおす。ただ、再構築された世界で願った人物の記憶や人格が残っているとは到底思えないがな。言っておくが、これはあくまでも俺の推測だ」


「世界を創りなおすだって?……そんなの馬鹿げている」


「さあな。ほんとのところは、それこそ聖紋に願ってみないとわからない。それにこの世界も誰かの願いの結果で成り立ってるのかもしれない」


 誰かの子供じみた願いが、この現実世界を破壊し、別のものへと再構築させる。そんなことが果たして本当にあり得るのだろうか。守人の推測ということもあり、真実はわからない。ただ、ひとつだけわかるのは、第十紋『王国マルクト』が確かにとてつもない力を秘めていることだけだった。


「そろそろいいか。お前からもらったこいつをさっそく試してみたい。俺もお前も悠長に学校生活を送ってはいられないからな、行動を起こすなら今夜がいい」


「あ、ああ……」


夕暮れに染まりかかった空の下、守人との会話はそこで終わった。

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