Chapter:5-2

「ここ……どこ……?」


 気が付けば、知らない場所に横たわっていた。斜めに大きなひびのはいった天井、硬くて冷たい床、薄暗くてよくわからないが、どこかの建物だろう。


 朝霞緋依あさかひよりはゆっくりと体を起こす。硬い床に寝ていたせいだろうか、背中と腰が少し痛む。だが、衣服や下着に違和感はなく、どうやら異常はなさそうだ。ふう、と安堵のため息をつき、胸を撫でおろした時だった。太ももの上に何かが覆いかぶさっていることに気が付いた。手に取ってみれば、それは男物のジャケットだとわかる。


(誰のだろう――)


 意識を失っていた中、誰かが自分にかけてくれたのだろうか。暗い部屋の中では色や柄がよく見えないが、どこかで嗅いだことのあるにおいがする。だが、すぐに思い出すことはできなかった。

 

 それ以上の詮索をやめ、緋依はあらためて室内を見回す。室内といっても家具の類はなく、天井に備え付けられた証明器具は取り外されていた。唯一、割れたガラスを覆うように、半透明のビニールが貼り付けられた窓がこの部屋の光源。部屋の様子をひとことで言い表すなら、殺風景。


 あまりの出来事に、何かを感じる余裕がなかった。だが、次第に周囲の状況を認識していくにつれ、緋依は背筋は凍りついていくような気がした。


 こわい。とっさに左手にはめているWIDに手をのばす。こんなとき、頼りにするのはもちろん、警察官の父だ。ほかにもGPSで今自分がどこかにいることも確認しなくては。だが、手慣れた操作をしているのにもかかわらず、デバイスは何も反応しなかった。


「どうして……?」


 こんなタイミングで機械の故障、もしくはバッテリー切れが起こるだろうか。頼みの綱が使えないことで、より一層、恐怖は心を蝕む。堪らず、震える体を強く抱き締める。


(まだ大丈夫、大丈夫。ケガもしてないし、ここを出て助けを呼びに行くの)


 持てるだけの精いっぱいの励ましは、多少なりとも自分に勇気を湧き立たせることができたようだった。体の震えは少しずつおさまり、思考も再び戻ってきた。


 深呼吸、ひとつ。


 緋依はゆっくと立ち上がる。そして、床へと滑り落ちたジャケットを拾い上げた。持ち主はなぜ自分を起こさず、ジャケットだけ残して立ち去ってしまったのだろうか。だが、考えても答えが出るものでもない。そう思った緋依だったが、ジャケットをその場に残していくことを躊躇ちゅうちょした。なぜだか理由ははっきりしない。ただ、懐かしいにおいのするこのジャケットを手放す気にはならなかった。そう感じた緋依はジャケットを肩に羽織ると、この部屋唯一の光源の窓へと歩いて行く。


 ……外へ出ることはそんなに難しくなかった。ドアは少し錆びついて開けづらかったが、緋依の力でも容易に開けることができた。外に出た途端、生臭くて塩っぽい夜風が頬を撫でる。すぐさま緋依は今いるこの場所が海沿いであることを悟った。風に逆らい、錆びついたコンテナの山をしばらく歩けば、道は途切れ、真っ暗な闇が広がえる。ただ、広がる闇の向こう、燦然たる輝きを放つ不夜城――『海月かいげつ』はいつもと変わらぬ様子で佇んでいた。そこで初めて緋依は、いま自分が天立あまだて市の廃港にいることを確信した。


 家に帰ることができる。思わず安堵のため息が漏れた。廃港を出ることができれば、帰ること自体はそんなに難しいことではない。懸念事項があるとすれば、時刻がわからないゆえに、夜遅くに出歩いていることを父に咎められらやしないか。そんな余裕さえ抱いた時だった。


 突如、二つか三つ先のコンテナの山の向こうから強い光が放たれる。遠くからでは光の正体はわからない。ただ、薄い黄緑色の光が四方八方に散らばっていた。にわかに起こる現象に緋依は警戒心を強める。あのコンテナの向こうに誰かがいるのではないか。もしかすると、それは自分をここに連れてきた張本人かもしれない。


 この状況下なら普通、自分の身の安全を第一に考え、その場から立ち去るのが正解だろう。だが、彼女は違った。あろうことか、発せられる光の方角へと歩みはじめる。彼女の父が警察官ゆえの正義感からだろうか。自分を拉致した犯人の顔を一目見てから立ち去ろうとでもいうのか。


 兎角とかく、朝霞緋依は光へ導かれるように、歩みを止めることはなかった。


 ――それが、のちに〝悲劇〟を起こすことになろうとは、知る由もない。


     ✝


 折り重なった廃コンテナの狭い迷宮を抜けたところで、開けた場所に出ることができた。強い海風が吹き付けるそこは、少し前まで2体の天使が激しく争いあっていた戦場。


 目の前に広がる光景は、信じられない、いや、信じたくないものだった。


(どうして、山県君がいるの……)


 はじめ、緋依の目に留まったのは、山県純一の姿だった。そして、そのすぐそばにもうひとり誰かが立っていることにも気が付いた。


(あれは、同じクラスの佐治君? なんで、山県君と一緒に?)


 緋依の戸惑いは当然のものといえる。学校で純一と守人が仲良くしている素振りなどなく、会話している姿など誰も見たことがなかった。緋依が知っている彼らの繋がりにしても、それは純一との会話のなかで、自分が守人のことを話題に挙げたことくらいしかない。

 首をかしげる緋依をよそに、遠くにいる純一は守人のもとへ、歩み寄ると一言か二言、会話をしているようだった。そのあと、純一が頷いたかと思えば、別の方向へ歩み始めた。


 ――ここで、彼女は引き返すべきだった。ここから先、〝ふたりの〟運命が大きく揺らぐ転換点。


 歩む純一のその先へと、緋依は視線を流す。そこで初めて、彼女はその場にいるのが純一と守人だけでないことを知る。そのことを認識した彼女は、この場にいる前の出来事が頭の中をよぎる。


「なんで……洲崎すざきさんもいるのっ!?」


 静かに見守るつもりだったが、驚きのあまり声を漏らす。純一の向かうその先、コンテナにもたれて地面に座る洲崎透音すざきとうねを緋依は見間違えることはなかった。純一が透音の前に立ち、視線を合わせるかのようにしゃがみ込む姿を緋依ははっきりと捉えていた。


 ふたりが何を話しているのか聞こうにも、距離が離れているのに加え、岸壁に打ち寄せる波の音がそれを遮る。だが純一の表情を見る限り、そこに笑顔はなく、苦悶に満ちていた。どうやら明るい話題ではないようだ。そのことを知った緋依のざわめく胸中は穏やかに、安心感が広がっていく気がした。


 だが、純一と透音の会話は終わらない。見たくもない光景が早く終わってほしいという緋依の願いをよそに、透音は自身の右手を純一の頬へと差し伸べる。


 それは、とても親しげな恋人のようだと緋依には思えた。微かに抱いていた希望はもろくてはかない、ちりの山のように夜風の中で形を失っていった。


 胸の奥が疼くように痛む。呼吸をするのも辛いくらい息苦しい。


 ――どうして彼を、こんなに好きになったんだろう


 ふと、疑問が頭の中に湧き上がる。今、こんな思いをしているのは、すべて彼のことを好きだと思っているからに他ならない。辛い、苦しい思いをするなら、いっそこの想いを捨ててしまえばいい。

 

 それでも、緋依は望みをまだ捨てない。両手を強く結び、胸にあてて嵐が過ぎるのを待った。純一を諦めたくない、その想いにすがること以外に、彼女にできることはなかった。


 ……山県純一と初めて会ったのは、小学校五年生の春。あの時、初めてクラスが一緒になったけど、顔見知り程度の付き合いしかなかった。その頃の彼は、今と違って落ち着きがなく、よく担任の先生に注意されていた。


 その関係に転機が訪れたのは、小学六年の夏休み明けだった。課題の自由研究、彼が作り上げたものは、立体投影ホログラムを利用した衣服の試着装置。彼と彼の父が作り上げた装置はクラスはおろか、学校中で話題になった。もちろん、私自身も試しに触らせてもらった。今でも、その時の感動は忘れられない。


 その時から、彼が私の目に留まるようになる。話す機会も増え、しだいに私たちは親しくなっていく。そうして、放課後にふたりで遊ぶようになり、いつのまにか互いにあだ名で名前を呼ぶようにもなっていた。


 中学校にあがっても、私たちは同じクラスになることができた。だけど、彼は人とかかわることを避けるようになっていた。部活にも入らず、休み時間はひとりで難しい本を読みふけるばかり。どうして彼がそんなことをしているのか、私にはわからなかった。

 だけど、彼は一心不乱になにかに没頭していたことは、はっきりと分かった。なぜなら、彼の目は他の誰よりも輝いていたから。


 そんな彼を遠くから見守る日々が続き、中学二年の夏のある日。放課後、私と山県君と誰かがいた教室で、とても大きな事件が起こった。


 それは…………あれ、どうしても思い出せない……とても忘れられない出来事だったはずなのに。


 感傷とともに、思い出に浸りかけていた緋依だったが、はたと我に返る。遠く目の前では、いまだ透音が純一の頬を撫でていた。

 今すぐふたりの間に割って入り、彼らを引き離したい。そんな衝動が心の奥底から、ふとこみ上げる。もちろん、自分にはそんな関係や資格があるわけでもなく、単なるエゴだということは百も承知だ。


 それでも、このまま黙って見ていたら純一は奪われる。それだけは嫌。よりにもよって、あの女だけは。


 もしも、洲崎透音以外の女の子だったら、その時は諦めていたのかもしれない。なぜ彼女だけにこんな、激しい嫌悪感が湧くのか自分でもわからない。活発な彼女と大人しめな私では相性はあまりよくないかもしれない。だが、強いて言うなら彼女は彼を心の底から好きと思っていない、そんな気がするのだ。


 憤りと躊躇い、ふたつの葛藤に揺れる緋依。そして、彼女の彼方では純一と守人、そして透音が終わりを迎えた戦いの残響に浸っていた。


 やがて、緋依が一歩踏み出そうと決意したときだった。それまで純一と会話をしていた透音と一瞬だけ視線が合う。踏み出そうとした足が、凍り付いたように動かなくなる。揺らぐ決意とともに、しどろもどろしている緋依を横目に、透音はさらなる行動に打って出た。


 透音は、頬をなでていた右手をそのまま純一の頭へ回すと、思い切り自分の顔に引き寄せた。そして、ふたりの唇がはっきりと重なりあう光景を緋依は目の当たりにしてしまった。先日見た光景は夕日の逆行が邪魔だった。しかも、その時のことを純一は否定していた。だが、いま目の前で起こっている情景は、紛れもなく本物だった。


「……いやっ……、そんなのイヤ…………」


 頭の中が真っ白になり、全身の力が働くことを拒絶したかのように、抜けていく。そうやって、緋依は力なく地面にへたり込んだ。


 ――そのあとのことは、よく覚えていない。ただ、私は神様に何かを願った。

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