Chapter:5-1 緋色の王国

 激しい戦いの幕切れにしては呆気ないものだった。

 カラン、と音がしたかと思えば、透音の槍が地面に転がっていた。


「ううっ……、ああ……」


 胸を左手で抑え、苦しげな声を絞り出した透音は、守人から後ずさるように離れた。抑えていた手を離してみれば、赤黒い液体がべったりと付着している。透音は、もう自分が助からない――守人に敗北したことを瞬時に悟った。


 よろよろとした足取りで、透音は歩き出す。目的などない、その場で倒れるのはなんとなく嫌だった。やがて、朽ちたコンテナにもたれかかったと思えば、そのままズルズルと地面へと崩れ落ちた。


 その様子を守人と純一は黙って見ていた。だが、守人は表情ひとつ変えない。対照的に、純一は目の前の光景に戸惑うばかりであった。


 崩れ落ちた透音に、ゆっくりとした足取りで守人は歩み寄る。無論、透音の反撃がないか警戒しながら。3メートルほどに距離を詰めたかと思えば、おもむろに守人は透音に問いかける。


「何か、言い残すことは」


「あんたに……言うことなんて、何もない……」


 透音はそっぽを向いて吐き捨てた。


「そうか」


 淡々としているが、透音と守人のやり取りは最後まで激しいものを内包していた。守人としても、透音から何か情報が手に入ることに期待などしていなかった。そのため、これ以上の追求は無駄だと判断する。

 一方で透音は、激しい痛みと忍び寄る死の恐怖に耐え、苦痛を顔に出すことはなかった。だが、その視線は何かを見つめるように一点に向けられている。透音の視線の先を察した守人は振り返った。


「山県」


 振り返った先、動揺したままの純一を守人は呼んだ。

 おろおろと呼ばれるがままに、純一は守人のもとへと歩み寄る。薄暗い闇のなか、遠目からはよく見えなかったが、守人へ一歩、また一歩と近づくにつれ、純一にはその場の状況がはっきりと見えるようになった。


 力なくコンテナにもたれかかる透音は、虚ろな瞳で純一を見つめていた。だが、透音の白いブラウスは、胸に刺さるナイフから流れ出る血で染まっていた。


 あまりもに痛々しい姿に、純一は透音から目を反らす。たった三週間程度の付き合いではあるが、学校生活の中で一緒に過ごした日々が頭をよぎる。楽しげに笑い、時には不機嫌になり、そんな透音の表情が純一の頭の中を駆け抜けた。

 だが、どうすることもできないことに純一はなぜだか、無力さを感じていた。先ほどまで、自分を殺そうとしていた相手なのに。理解できない無力さに苛まれながら、純一は守人のもとへたどり着いた。


「安心しろ。もうお前に危害を与える力は残ってない」


 深手を負っているのにもかかわらず、しっかりした口調で伝えると、守人は純一を透音のもとへと促す。一歩踏み出すことに躊躇いはしたが、純一は透音のもとへと歩み寄り、やがて彼女の目の前でしゃがみ込んだ。


「へへ……負けちゃったよ……」


 皮肉ぽく笑おうとする透音の口端から、血が零れ落ちる。たまらず、純一は深くうなだれた。


「ねえ、なんか言ってよ」


「どうして……そこまで戦おうとするんだよ」


 怨嗟の言葉を投げられると思っていただけに、透音は一瞬だけ困ったような表情を浮かべる。そして、純一の問いにすぐに答えることができなかった。やがて、少しだけ顔を上げると、意を決したように切り出した。


「だって、あたしは天使だもん。戦わなきゃあたしは天上うえへ帰れない。地上ここにいたら、きっといつか、あたしはあたしでなくなる。……それがどれだけ恐ろしいことか、あなたにはわからないでしょうけど」


 瞳孔が開きかけた目で、透音は純一を見つめる。やがて彼女は血で汚れていない右手をそっと純一の頬へと差し出した。純一は特に何もせず、彼女の好なようにさせた。冷たい感触がしたかと思えば、それは優しく純一の左頬をなでた。


「あたしのこと、憎い?」


「べつに……」

 

 言いたいことや聞きたいことがたくさんあったのに、そっけない返事しかできなかった。それが純一の精いっぱいの反応。そんな純一をよそに、透音は別の話を切り出した。


「覚えているかどうかはわかんないけど、2年前にあんた、聖紋の力を使ったの」


「え――」


 透音からの情報に、純一は眼の色を変えずにはいられなかった。それは身に覚えのない出来事、2年前といえば純一はまだ中学生だ。だが、いくら思い出そうとしたところで、記憶の中に該当するものはなかった。


「それ、本当か? もっと詳しく……」


 詰め寄ろうとした純一だったが、突如、透音は激しくえづき、地面に向けて血を吐き出した。呼吸も少し前に比べ、だいぶ弱まってきている。


「……最後に、ひ……とつだけ、お願い……」


 透音の懇願を聞き入れようと、純一が顔を近づけた時だった。

 純一の頬を撫でていた透音は突如、右手を純一の頭の後ろに回すと、自分のもとへ思い切り引き寄せた。


 なっ!?――


 はじめ、純一は何をされたのか理解できなかった。ただ、分かったことは、口の中に鉄のような苦い味が広がったことだった。つぎに、唇に冷たい冷気が僅かながら伝わってくる気がした。それは、今まで純一が経験したことのない感触。

 

 やがて、純一はそれが何なのか察知する。ただ、それは彼の心に強烈な不快感と拒絶をもたらした。思わず、純一は透音を突き飛ばすかのように、引き下がる。無意識に袖口で口元を拭っていた。


 透音の様子を見れば、純一の一連の動作を「ひどいじゃない」とでも言いたげな視線を送っていた。対して、意図が読めない純一は、ただただ透音の行動を気味悪がった。

 そんな純一の様子を、面白がったのだろうか、透音は目を細めながら口元を緩ませ、にやりと微笑む。


 ――これほど、邪悪な微笑みがあるだろうか。


 透音の微笑みを見た純一はそう感じた。ただ、その時はわからなかった。透音が仕掛けた最後の悪意に。


 最後まで透音の本心をつかめなかった純一であったが、ついに〝その時〟が訪れる。


 天使、洲崎透音の最期。

 どこか虚ろで、一点を見つめていた琥珀色の瞳から光が失われていく。同時にゆっくりと瞼が覆いかぶさる。胸元を抑えていた左手は、体を滑り落ちていくように地面へと落下。それは深い眠りへと誘われるかのように、自然な動きであった。ただ、眠りと異なるのは、寝息を立てることのない、完全なる停止。


 黙って看取ることしかできなかった。先ほどまで自分を本気で殺そうとしていた相手になんて言葉をかければいいのだろうか。

 後悔とは違う、自問が心の中に浮かび上がる。だが、純一には答えを出すことはできなかった。


 透音の亡骸を黙って見つめていた純一だったが、突如、奇妙な現象が巻き起こる。

透音の体から色が抜けていく。それは、透音自身が周りの景色と同化していくようだった。同時に小さな光の粒子がふわふわとあたりに漂いだした。


「これは……」


「俺たち、天使の最期だ」


背後の守人が告げた。


「天使は亡骸を残さない。魂を失った霊体は形をとどめることができず、分解されて、消えていく。もちろん、本人が身に着けていたものはその場に残るが」


 そういえば、自分が天使たちに襲撃され、守人がそのうちの一人を殺したとき、その場に倒れた天使の死体が見当たらなかった。あれはそういうことだったのか。


 純一の心に引っかかっていたものの一つが解きほぐされた気がした。だが、それはそれとして、いま目の前で起こっている事態を納得し、受け入れることなんて到底できなかった。


「お前ら、いったいなんなんだよ……」


 心の整理が追い付かない。今、自分が抱いている感情が怒りなのか、それとも悲しみなのか、頭の中がぐちゃぐちゃになっていく。やがて得体のしれない激情は純一の体にも作用する。心臓が制御でも失ったかに思えるほどの激しい動悸、視界が白黒に点滅したかと思えば、ぐにゃりと崩れていく。たまらず、純一は地面へとうずくまった。


 心をかき乱す感情の濁流が和らいだところで、純一は顔を静かに上げる。視線の先にはもう透音の姿はどこにもなかった。残されていたのは、血に染まった衣服と彼女を死に追いやった片刃が欠けたナイフ。


 ほんとうに彼女は消えてしまった――


 残された透音の遺物を見たとき、純一は喪失を実感した。ただ、それ以外の感情を生み出すことはなかった。透音の亡骸が消えたことで、死の実感が薄れてしまったのだろうか。とにかく、純一の心はそれ以上、揺れ動かなかった。そんな自身の平静さに純一は薄ら寒く感じた。


 そんな純一の心中を気にせず、守人は透音の遺物をあらためようと、一歩踏み出した時だった。


 ――何者かの気配を感じる。


 咄嗟に守人は気配のする方向へ身構える。

 事前に掴んでいた情報では、地上こちらに潜伏している天使は4名のはず。もしも、追加の増員がいたとしたら――その時は完全に詰みだ。

 刹那の中で最大限に思考を巡らせたが、想定外の事態が守人を待っていた。


「まずいな……これは……」


 初めて聞いた焦る守人の台詞に純一も反応する。さしずめ、透音の仲間が現れたのだろう。はたして、ぼろぼろの守人がこれ以上戦闘を続けられるのだろうか。希望を抱くこともできないほどに、純一の心は疲弊していた。だが、そんな純一の見解は外れ、自身にとっても最大の危機が迫っていることにその時は気づいていなかった。ゆっくりと守人の見つめる先へと視線を流す。


 遠く離れた場所にひとり、誰かがいた。地面にぺたりとしゃがみ込み、こちらの様子を伺っていた。だが、どうやら敵ではなさそうだ。なぜなら、〝彼女〟は震えていた。口元に手をあて、信じられないとばかりに目を見開いていた。


 ――いつからそこにいたのだろうか。何をどこまで目撃してしまったのだろうか。


 体も、瞳も震わせていたのは、純一が必死で守ろうとしていた〝彼女〟にほかならなかった。

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