Chapter:2-6
「お前、右手をだしてみろ」
「?」
前触れもなく守人は純一の右手を掴む。温かくも冷たくもない、生気を感じさせないような守人の手に違和感を感じつつも、
「こっちの手には無いのか……なら今度は左だ」
「おい、待て――」
意図の読めない怪しげな守人の行動に、戸惑いを隠せなかった。だが次の瞬間、守人に掴まれた左の手の平が急に光りを放ち始めた。純一は守人から手を振りほどき、左手を自分の眼前に寄せた。
手を太陽に翳したときのように、血潮を浮き上がらせるかのような赤みがかった光が純一の目に飛び込む。そして、光は純一が見たこともない幾何学的な模様を浮かび上がらせていた。光は手の表面からではない、手の内部から発せられているようだ。それでも、手には何の感覚もなかった。
「な、なんだよ。これ……」
「第七紋……か。いいか、その手にあるのがお前が狙われた理由だ、奴らはその紋章を狙ってる」
驚きの色を隠せない純一に対して、守人は至って冷静だった。その冷静さが、純一をより一層不安にさせる。
「これもその霊素っていうやつのせいなのか?」
純一は守人に尋ねる。その声音には怯えの念が混じっていた。
「いや、それは違う。正直なところ、それは天使にも本当の正体が分かっていない。今でも議論が続けられているが、今のところある種の〝奇跡〟ということで結論づけられている」
「奇跡だって?」
純一には守人の言う奇跡とはなんのことなのか、知る由もなかった。
「聖紋、正式には『聖霊より加護を受けた至上紋』だが、その紋章には天使すら及びえない力が秘められている。天上界にはそいつを含めた十の紋章が一か所に集められ、封印されているのさ」
十の聖紋。ということは他にも同じ物が九つあるのか。
「ここから重要なところだ。聖紋は複数集まることで互いの力が暴走しないようにバランスをとり、奇跡とも呼べるような強大な力を発揮する。その力は自然科学や霊素では到底説明できない。だから俺たちはこの聖紋たちを神の力の一部と考え、信仰の対象としている」
超自然的なものを信仰の対象にしている点については、天使も人間もさほど変わらないようだ。
「奇跡って……例えばなんだよ?」
「例に挙げるなら、島ひとつ覆うことができるほどに巨大かつ、あらゆるものの侵入を拒む壁を創りだす。……人間に分かりやすく言うならバリアだな。あとは、一つの都市くらいなら簡単に消し去ることもできるらしい。ま、それはお前たちにもできるだろう」
「信じられないな」
「そう思うのも無理はない。だが、俺は少なくともさっき言った巨大なバリア然り、いくつかの奇跡は見てきた」
「……まあいい。じゃあ、その奇跡を起こす紋章とやらが今、俺の左手にあるのはどういうことなんだ」
純一は左手を閉じたり開いたりさせながら、手中で今にも消えそうな光を放つ聖紋を忌々しげに見つめた。守人が言うには紋章に何らかの力が備わっているというが、手の中のこいつにはいったいどのような力が秘められているのだろうか。
「それは俺にも分からん。しかも、それがいつ流出したのかも判明していない。さっきも言った通り、聖紋に関しては天使も未知の部分が多すぎる。ただ唯一、俺が知ってることは十ある聖紋のうち三つがこの世界にあるということだけだ」
「三つ? じゃあ、ここにあるやつ以外に二つの紋章がこの世界にあるって言うのか?」
「流出したのは第七、第八、そして第十紋だ。お前の手に宿しているのは、七番目の聖紋『
「ねつぁく?」
「勝利って意味だ」
勝利、何とも頼もしい名前じゃないか。もしこれが絶望、なんていう名前だったらどんな顔をすればいいだろうか。ほかの聖紋もどんな名前が付いているのか一応気にはなる。
「その聖紋は天上界では宗教的な
「……でも実際に俺を殺したとして、こいつをどうやって持ち帰るつもりだったんだ? 宿り主が死んだら勝手に剥がれるものなのか」
純一は、聖紋が宿る左手をひらひらと軽やかに振ってみせた。
「それは俺も疑問に思っていた。聖紋には天使の力、魔法は及ばない、それに聖紋が自然に剥がれるまで待つほど連中も気が長くない。必ず何か仕掛けると俺は考えていた」
「で、分かったのか?」
「連中がとったのは恐ろしく原始的な方法だった。……お前も知っているはずだ。高層マンションで成人男性が刺殺、そしてその右手が切り離され、持ち去られた事件を」
純一は思わずあっ、という単音が口をつく。それと共に心臓が再び早鐘を打つ。
それは昨日の夕方のニュース、今朝の緋依とのやり取り、そして透音との会話。今日のうちに何度も話題になった
「お前の考えている通り、どうやら早瀬は聖紋持ちだったようだ。この世界にいる刺客たちは聖紋持ちの一人の特定に成功して、既にその一つを手に入れた」
「じゃあ、殺された被害者の行方不明になっている右手は――」
「間違いなく、奴らが持っているだろうな。……残念ながら」
そのひと言には明らかに後悔の念が混じっていた。しかし、守人がみせた感情の一端を純一は気に留める余裕はなかった。
素人がやったとは思えないような残忍な犯行、行方不明の被害者の右手、そして幽霊とも噂される犯人、その裏に潜む真実を知ってしまった。先ほど襲ってきた男たちの仲間は必ず、自分を再び襲撃してこよう。
「俺は……これからどうすればいいんだ?」
先の見えない恐怖に純一は怯えた。対照的に守人は相変わらず落ち着いたまま、怖気づく純一に告げる。
「まず一つ言っておく、警察や他人にこのことは言うな。信じてもらえるかどうかは別として、もし仮に天使の存在が明るみに出れば、大混乱が起きるのは目に見えている」
守人の言っていることは純一にもよく理解できた。
悲しくも、人間は自分の知覚を超えた存在を過度に恐れる。それが自分たちと同じ姿をしているとなれば、
隣人を簡単に信じるには難しい世の中でもある。それが国同士へと拡大すると抑止力と称して、世界を滅ぼすのには十分すぎる兵器を持つ時代なのだ。
天使の存在が明るみに出て、人間の中に紛れ込んでいるという噂でもが広がれば、それは中世ヨーロッパにあった魔女狩りと同じようなことが繰り返されるかもしれない。
だが、頭の中では不必要に社会に大混乱を引き起こしたくはないと思っていても、誰にも助けを求めることができないというのは絶望的だった。目の前にいるこの天使も、本当に信用に値するのかどうか疑わしい。
「早瀬が殺されてからずっとお前を監視していた。運よく今日までお前は人気のない所で単独行動することはなかった。ただ今日に限ってまさかお前が俺の後を
「…………」
尾行されていたのは最初から気付かれていたらしい。なんと弁解すればいいのかと考えもしたが、守人は特に追及しようとはしなかった。くだらない理由から行為に及んだ純一は顔には出さなくとも心の中で赤面した。
「天使も自分たちの存在が明るみに出ないように白昼堂々とお前を殺すことはしない。だから日中は人目のないに所に行かない限り、それほど警戒することもないだろう。だが、夜中に外を出歩くのは避けろ」
「そのまま元の生活の戻れっていうのか?」
一国を担う政治家でもなければ、有名人でもない
「人間の作りだした防犯システムは有能だ、新市街なら特に不自由はないはずだ」
守人の言うように、この助けを求められない環境下、早瀬のような闇討ちにあわないためには、不特定多数の目が効果的な対策であるように思えた。よしんば自分が殺されてしまったとしても、天使たちはその場で純一の左手に宿る聖紋を取り戻すことはできない。
「仮に元の生活に戻るにしても、それはいつまで続くんだ? とても数か月や一年で終わるような問題じゃなさそうだぞ」
「そこが今のところの大きな問題点なんだがな」
守人は悩まし気にいう。実際のところ、刺客が現れたのは守人にとって僥倖だった。しかし、尋問してみたところで刺客の正体を把握できなかったのは痛かった。
対して純一はいつまで続くか分からない恐怖の日々が待ち構えることにひどく悲観した。
「この町に潜伏する天使の刺客は多くても三、四人。その全員を〝排除〟する」
悲観に暮れる純一を気に留めたのだろうか、守人は強い語調で剣呑なことを言ってのけた。守人の口調と眼差しからは固い決意と重い覚悟が感じられた。
「……お前の決意は理解するよ。そして危ない所を救ってもらって感謝もしている。でも、なんでお前はそんなことをするんだ?」
しばしの沈黙。やがて結論が出たようで、守人が口を開いた。
「天使たちは、遥か昔から地上界、そして人間のことを知っていた。だが、人間へ干渉することは倫理的な観点から固く禁じられ、それは守られ続けてきた。だが奴らはその手で、地上の人間の血を流してしまった。それは絶対に許されるべき行為ではない。だから俺はこれ以上、天使たちが人間を殺すのを止める。例え刺客の天使を殺してでもだ」
それにもうあの世界に戻ることはできない、と守人は心の中で自分に言い聞かせる。今頃、天上界では自分の処遇が審議されているだろう。もっとも、この戦いが終わったとしても素直にあの世界に戻る気もないが。
守人の話を聞いた純一はそれが冗談でもなく本気であるということを察した。守人は既に目の前で二体の天使を殺している。
「仲間はいないのか……?」
身の程知らずのことをしでかしたからには、さすがに仲間がいるはずだと純一は推測した。だが、淡い期待はあっけなく消え去った。
「悪いが、これは俺が単独でやっていることだ。だから他に協力者がいるとか期待はしないでほしい」
重い空気と沈黙がふたりの間に横たわっていた。純一はベンチに腰掛け、守人の与えた缶コーヒーを両手で握りしめたまま地面へと俯き、完全に閉口していた。その向かいで、守人は見下ろすような形で佇んでいた。
十五歳の人間にはあまりに過酷な状況かもしれない――守人は思った。
「だから山県純一、俺に協力してくれないか」
守人は純一に協力を求めた。
もし、純一が協力的な行動をとってくれれば、それは守人にとっても好ましいものであった。純一を狙い、潜伏している天使たちを短期的に排除できる可能性がある。
だが現実はそうはいかないことも容易に想像できる。純一の反応を見る限りでは、いい返事は期待できそうにないと守人は思った。
そうなれば長期戦になるのは必須だった。この状況が長引けば長引くほど、天上界から刺客の増援が送られて有利になる。守人にカバーできる範囲は限られている。
それに、いつまでも命を狙われ続けていれば、狙われている純一の精神が持たないだろう。万が一、自殺でもされれば天使たちは死体から聖紋を回収できる。間接的な原因にせよ、既に魂が失われた肉体から聖紋を回収することを守人が止める理由はないからだ。
もしくは、天使たちがまだ判明していないもう一つの聖紋を見つけ出す可能性もあった。早瀬俊樹と山県純一の例にならい、もう一つの聖紋もこの町にいる人間に宿っていることは否定できない。時間は限られている。なんとかせねばと焦る気持ちを抑えながら、守人は純一が再び口を開くのを待った。
「……悪い。今日はもう一人にしてくれ」
純一には守人の話よりも自分の命が狙われているということで手一杯だった。当然の反応だ、と守人は異論なく純一の申し入れに同意した。
天使たちも今日のところはもう襲ってこまい。このまま純一を独りで家にも帰らせても問題なかろう。と守人は判断した。とは言いつつも、途中で身投げでもされては困るので守人は純一の監視の目は緩めるつもりはなかった。
守人は帰路につこうとする純一の背中を眺めていた。ゆっくりとし動作で先を行く純一の足取りは重く思えるし、どことなく地に足が付いていないようにも見えた。その純一が不意に立ち止まる。
「最後にひとつだけ聞かせてくれ」
純一は夜空を見上げながら、背後いるはずの守人に尋ねた。
「なんだ?」
「この左手にあるこいつは、一体何ができるんだ?」
純一は左手を天へと伸ばしたまま、振り返ることなく守人の回答を待った。
「……その様子だと心当たりはないようだな。確信はないが、第七紋『
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