Chapter:2-4

「目撃者だ、どうする?」


 聞き覚えのない声。その時初めて自分を襲ってきた男たちの肉声を聞く。だが、焦りをほとんど感じさせない口調に冷酷さが垣間見えた気がした。


「こいつはしばらく動けない。厄介なことになったが仕方ない、〝そいつも〟始末しろ」


 先ほどまで純一を締め上げた男が言い放った。日常でこの台詞を聞いたとしても誰も本気にはしないだろう。しかし、抑揚のない男の声音はそれを現実のものにしようとする意図を明確に感じた。


「逃げろ!」


 いままでろくに話したことのないクラスメイトではあったが、それでも純一は危険を伝える。

 自分の声は確かに届いたはずだ。それなのに佐治は前へ一歩、また一歩と歩みを止めたり、緩めようとはしなかった。佐治は歩きながら右手でかけていた眼鏡をゆっくりと外すとそのまま胸ポケットにしまう。まるでこの状況を理解していない様子だ。あまりに自然に近い動作に、注視していた純一を含む三人は軽く呆気にとられた。


 しかし、距離が縮まるにつれ、スウェットの姿の男は我に返ったように佐治へとナイフを突きつけた。明確な殺意を滲ませた構え方は明らかに素人ではない。それは一般人である純一ですら感じ取れた。

 男にナイフを突きつけられたところで、佐治はやっと近寄る足を止める。だが、その無関心を装ったような表情が崩れることはなかった。


 その場は重い沈黙に包まれる。だがいつまでも状況は膠着することはなかった。隙をつくかのように男は身を屈めると、低い位置から佐治の急所、心臓めがけてナイフを突き抜く。


 佐治の体が大きく揺れたと同時に、彼の胴体は九の字に折れ曲がった。その瞬間、純一は苦悶の表情を浮かべながら固く目を閉じる。


 ――現実を直視することへの恐怖に。


 純一は今までにないくらい激しく後悔した。佐治の意図は分からないが、もしかしたら自分を助けようとしたのかもしれない。だがそれは、最悪の結果になってしまった。巻き込まれた自分のせいではないことは分かっている。ただ、目の前で人が死ぬのを見たくはなかった。

 

 だが、塞ぐことを忘れた純一の耳には、佐治の断末魔の声ひとつ聞こえなかった。一瞬の出来事で声をあげる間もなく彼は息を引き取ったのだろうか。閉じ切った瞼を恐る恐る開いてみる。


 そこにはナイフを突き出した男の手を、逆に掴み返していた佐治の姿がそこにあった。


 純一は驚きに声を上げることもできなかった。それはナイフで佐治を刺殺しようとしていた男も同じであった。突然の出来事に狼狽の色を隠しきれない男はすぐに、彼の手を振りほどくと、今度は首筋を狙ってナイフを振り抜いた。

 しかし、佐治は恐れや迷いなど微塵も感じさせない、流麗かつ精密な動きでナイフをかわすと、男の鳩尾みぞおちに掌底を打ち込んだ。


 思わぬ反撃に、男は何とか身を捩って直撃だけは避けた。しかし直撃を免れたとはいえ、ダメージ全く受けないということはない。その場で激しくえずきながら、地面に膝をつかないようこらえていた。


 しかし、佐治の反撃を受けた男の中で何かが切れたようだった。怒りに肩を震わせ、必ず殺さんとばかりに溢れる殺意をむき出す。ナイフを振り上げると再び佐治へと突進していった。

 男の繰り出す遮二無二しゃにむになナイフの連撃はそれまでの一撃必殺のものとは明らかに違っていた。

 

 どんな形になろうと殺せればそれでいい。今まで保っていた男の冷静さはいつの間にか狂気へと変貌していた。

 

 だが、男の繰り出す怒涛の攻撃に佐治は臆することなく、立ち向かった。時には刺突をかわし、ある時はナイフを握る手を弾く。さらに隙があれば男を一撃で沈められるようなカウンターすら放っていた。


 純一は目の前で起きていた出来事がフィクションではないことを認識するのに時間がかかった。たかが普通の高校生がナイフを持った暴漢にひとり素手で立ち向う。流行りの一体型エンターテインメントで体験したアクション系のタイトルでこのような演出を経験した気がする。ただ、その時相手に立ち向かっていたのは自分だったが。


 しかしフィクションとは違い、視界にHPを示すバーや動きをシンクロさせるためのガイドカーソルがない。そして失敗したらリスタートもない。男が勝てば佐治は死ぬ。その次は間違いなく自分であろう。


 戦っている当事者たちを除いて、純一だけがその場にいるわけでもない。スーツを着た男は仲間の男がナイフで佐治を襲う辺りまでは静観していた。だが、想定外の状況、加えて形成が不利になるにつれて焦りが表情に浮き出る。それに、男は背筋に刃物を突き付けられたかのような嫌な予感を感じ取っていた。


「もういい、そいつを置いてこの場は……」


 撤退を決断し、ナイフを振り回す仲間へ声を掛けたときだった。

 

 ドスン、という心地よいとは決して言えないような音が純一の耳に飛び込んでくる。不快なその響きに、純一は思わず肌が粟立った。音の方向に目を向かわせれば、佐治を襲っていた男が崩れ落ちるように地面に膝をついていた。その手には相変わらず鈍く光るナイフが握りしめられている。


 何が起こったのか理解できなかったが、純一は男の背中から異様な〝何か〟が突き出ていることに気が付いた。そして男が着ていたスウェットがインクのようにどす黒い液体にじわじわと浸食されていくのも見えた。


 対して、佐治は身じろぎせずに崩れ落ちる男をただ見下ろしていた。その目はまるで物でも見るかのように機械的で、感情の欠片も読み取ることができない。先ほどまで暴漢の相手をしていた彼の手にはいつの間にか長い刃物、言ってしまえば〝剣〟が握られていた。そして、それは男の腹から背にかけて貫通していた。


「――――――――」


「あがッ――が、がああぁぁ!」


 佐治は何かを言っていたような気がしたが、聞くに堪えない男の断末魔がそれを遮る。佐治は男を貫いていた剣を体から引き抜いた。遮るものが無くなった男の腹の傷口から、血が溢れんばかりに流れ落ちていく。


「ロマリオッ⁉」


 様子を伺っていた男はリーダーから禁止されていたにもかかわらず、仲間の名前を叫んでいた。だが、ロマリオと呼ばれた男は、地面へと吸い込まれるように斃れる。言葉にならない微かなうめき声をあげながら、数回の小刻みな痙攣を繰り返していたが、しばらくするとその体はもう動かなくなった。


 そんなやり取りをものともせず、佐治は血に染まった刃を軽く振る。ピピっと、男の血潮が撥ねとび、地面に一筋の模様をつけた。純一は唖然としながらことの次第を見ていた。はじめは何が起こったのかすぐには理解出来なかったが、今ではよくわかる。目の前のクラスメイトは男を殺したのだ。


「貴様ッ、よくもロマリオを……」


 驚愕の念を押し殺し、残された男は理解する。

 仲間が相手にしていたのはただの人間ではない。自分たちと同じ〝同類〟だったのだ。


 途端、男はギシギシと強い歯ぎしりとともに、吊り上がらんばかりに目を怒らせた。激しい憎悪が男の全身を這いずり回る。

 もともと男には純一を襲撃する予定はなかった。それは順守すべきリーダーの命令でもあるため、いつも通りの対象の観察で済ますはずだった。

 しかし、監視していた対象は予想外の行動を見せる。いつもであれば、そのまま自宅へ帰るはずなのに今日に限って自ら人気ひとけのない所へ移動したのだ。男たちはこれを天から巡ってきたチャンスだと思い、行動に移すことにした。


 しかし、その結果は無残なものだった。

 対象を殺すどころか、逆に長年連れ添った仲間を殺された。この恨みをいま晴らさずして、いつ晴らすのか。

 完全に冷静さを失った男は、離れて向き合っていた佐治に向けて右手をかざす。と同時に、いくつものオレンジ色に輝く光弾が数個、放たれた。


「なん……だ⁉」


 あまりに荒唐無稽な出来事に、純一は目をまたたいた。己の理解を超える事象が、いま目の前で起きている。男が放った光弾は真っ直ぐ佐治へ向かっていく。しかし、彼がとった行動は、純一の予想を超えるものだった。


 佐治は臆することなく男がいる方向へと駆けだしたのだ。佐治と男は約五十メートルくらい離れている。そして男から数メートル離れたところで純一は動けず、ただその光景を見ているしかできなかった。

 無論、佐治が走る向かいからは、オレンジ色の光弾がとてつもないスピードで迫っていた。やがて、とは言ってもほんの数秒だが、互いの間に広がっていた距離はゼロになり、彼と光弾が衝突する。

 間一髪のところで、佐治は迫る光弾を空中で身を捩らせながら脇へとかわす。そして、勢いはそのままに男との距離を更に縮めていく。


 佐治がかわした光弾たちは誰もいない地面へと落ちていく。やがて地面にぶつかったかと思うとボウ、と音をたてて煌々こうこうと輝く炎が迸る。予期せぬ出来事の連続で感覚が麻痺した純一は、そのことを気にしている余裕もなく、ことの顛末てんまつをただ見守るしかできなかった。


「くそっ! 裏切り者風情が」


 男の表情には明らかに焦りが見えていた。それでも、上げたままの手を下ろすことはなく、続けざまに新たな光弾を放つ。先ほど同じオレンジ色の光弾、そして水色の光がきらりと瞬いたかと思うと、白く半透明な塊へと変わる。今度は簡単に避けられないよう光弾の群れは放射状に広がりつつ、佐治めがけて飛んでいった。


 だが彼は立ち止まらない。走り続けたまま、剣を持つ右手とは反対の左手を自身の前へと突き出す。オレンジの光弾と半透明が着弾するその直前、どこからともなく彼の眼前に薄い黄緑色に光る幾何学的な模様をした壁が出現。そこに男の放った光弾の全てがぶつかる。


 ドドド、という固いものがぶつかる轟音と衝撃が離れていた純一の体に届く。光の障壁は衝撃に揺れることも、傷ひとつ突くことなく、すべての光弾を受け止めた。やがてすべての攻撃を受けきった障壁はすっと、空気中へ溶けていくかのように消え失せた。

 

 攻撃を全て防がれた男はしばらく茫然としていたが、何かに気が付いたときにはもう手遅れだった。先ほどの衝撃で巻き上げられた土埃がぱっと割れると同時に佐治が姿を現す。

 

 焦りの色を見せていた男の表情は恐怖に凍てつく。もうどうにもできないほどに佐治との距離は縮まっていた。そして佐治は地面を踏みしめると、右手に握った剣を男の体の中心めがけて躊躇うことなく突き出す。

 

 勢いづく刃は男の腹へと吸い込まれるように入り込むと、止まることなくそのまま背中を突き破る。

 

 恐怖に目を見開いたまま、かは、と男は喀血かっけつする。チャコールグレーのジャケットと、中に来ていたシャツが真っ赤に染まり、地面に滴る血液は小さな溜まりになっていた。


「教えろ、お前たちはどこの組織に所属していた?」


 抑揚のない、冷めた声が男を問い詰める。それは純一が初めて聞いた佐治守人の肉声だった。


「ぐっ……貴様のような……天に歯向かう愚か者に、言うことなど……何もないッ!」


 血で真っ赤に染まった歯をむき出すと、男は佐治に向けて精いっぱいの敵意を向けた。肩を大きく上下させ、息も絶え絶な様子の男を見つめる佐治の瞳にあわれみの念などなかった。


「どうかその魂に、永久とわの安らぎがあらんことを」


 そう佐治が呟いていたのを純一は聞き逃さなかった。

 そして、言い終わった佐治守人は男の体から剣を容赦なく引き抜いた。

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