第11話 中尾さんの涙

中尾さんの涙


その晩、バルの空間は記憶や感情がアルコールとともに膨張して、終電間際に弾けて消えた。後片付けを済ませた午前3時、弾けた後に残された静寂の空間に、ヨッシーはシゲさんが置いていったタバコに不器用に火を付けて、ふわふわと煙を漂わせ、空間に溶けていく煙を見ながら、客が楽しそうに帰っていった姿を思い出していた。窓に煙を吹きかけて、霞んだり浮いてきたりする雑居ビルを眺めていると、1台のタクシーが雑居ビルの前で止まった。タクシーの影で見えないが、男が女を車から抱きかかえているようだった。タクシーが消えるとそこには見覚えのあるジーンズ姿の男が泥酔した女をおんぶしている。ああ、中尾さんの仕事も大変だな、、とぼんやり見ていると、すぐに3階のクリーニング商会の明かりがついて、すぐさま看板の脇の窓がガラッと開き、「(ようやくここまで届く程度の声で)暇ならおいで」と中尾さんが手招きしている。女性をおんぶしながらヨッシーの視線に気づいているのだから、あいかわらず中尾さんの感覚は普通ではない。ヨッシーは、雑居ビルに足を踏み入れるのか、、、とぼんやり考えながらバルを出て路地を渡った。一歩、二歩、三歩、、、と階段を踏むたびに頭が重くなり、クリーニング商会に着いた時にはもう店長ヨッシーの記憶は完全にない。

ノックもせずにドアを開けると、中尾さんが黒い革貼りのソファーの横に高い丸椅子を寄せて座っている。左手でタバコを吸いながら「よっ」と右手を挙げると、みだらにソファーでぐったり横になっている女を、目の動きで(そらさないでしっかり見ろよと)合図した。白くきれいな脚が黒いソファーからはみ出していて、少しでも動けばスカートがめくれて中が見えそうだ。しなやかで張りのある腕にはだらしなくブラジャーの紐が垂れていて、香水の匂いと厚い唇から漏れる酒の匂いがたまらなく興奮を誘う。ソファーにぺったりくっ着いている横顔がテレビCMで見かけるよりも幼くて、あと先のことなど考えずにこのまま脱がせてしまいたいという欲望が頭をよぎる。

中尾さんがにやにやしながら「※※※※のこんな姿見ると、犯したくなるよね」と言いながら、タバコの煙を静かに扇ぐように、バスタオルを体の線に沿ってふわりとかけてあげた。「歩道の脇でぶっ倒れてたから、とりあえず連れてきたんよ。犯されたらかわいそうじゃん。まあ、タクシーから降ろすとこ、ヨッシーから見られてなかったら俺が犯してたかもしれんけどね」中尾さんは、自分の本性を見破られる前にさらけ出して、相手の本性を見透かす能力に長けている。ヨッシーは中尾さんに見透かされて情けなくなったが、依然として興奮が冷めないでいると、「犯すか犯さないかの境界線ってさ、ほんとこのバスタオルくらいの薄さでしょ」とヨッシーの興奮を少し和らげてくれた。「こんな※※※※と2人きりになると抑えきれないからさあ、ヨッシーを呼んだんよ。起きるまで付き合ってね。」ヨッシーは、中尾さんはいつもそうでもないのにたまにカッコ良いこと言うんだよなあと思いながら、中尾さん、仕事つらいことないですか?と投げかけてみた。すると、これでもいろいろあるんだよ、と突然目に涙を浮かべた。目が細いので涙目になるとすぐわかってしまう。「みんないろいろあると思うんだけど、俺はもう今が限界。限界を知ると限界がまた大きくなるっというけど、違う、もう今、今が限界、先週、ひどい現場の掃除をしてさ、疲れた。」

ヨッシーが神妙な顔をして気の利いた言葉をかけようとするが言葉が出ない。

中尾さんはタバコを灰皿にぐりぐりやると、「ちくしょう、、、限界だ、、、もう仕事やめたい、、」と小声でつぶやく。すると両手でそっとバスタオルの端を持ち、ゆっくりめくろうとした。ヨッシーが「ちょっと?!」と慌てて中尾さんをとめようとすると、すばやくタオルから手を離して両手を挙げ、「限界!我慢!」と笑って見せた。

今の声で※※※※が目を覚ましそうになると、「この娘さん、ただで帰すわけにはいかんね、サイン書いてくれたら帰してやろっか」と冗談をかました。ヨッシーは、そうしましょうと笑って中尾さんの目を見た。目の奥に光る涙を見ていると、何だか生きる強さを感じたような気がした。

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