第4話 大家と店子は親子も同然です。

「ふぅん、この子がねえ」


 朝起きたら目の前に女将さんが立っていた。

 猫の首をつまんで持ち上げてる。後ろ足を縮めてクロはおとなしく掴まれたままになっている。


「お、はようございます。女将さん」

「あー、その呼び方そろそろやめてほしいな。こうやって住み込みすることになったんだし、さ?」


 太陽のように晴れやかな笑顔で彼女は言う。えっと、住み込みということは……。


「大家さん?」


 途端にブリザードのように冷たい表情になった。


「わかって言ってるんじゃないわよねえ? ……あたしの名前、教えたわよね?」


 ということは、名前で呼んだらいいんだろうか。


「はい、エティエンヌさん」


 再び太陽の笑顔が戻る。


「エティでいいよって言いたいところだけど、娘と同じ呼び方になって紛らわしいからね」


 そんな呼び方するのは旦那だけで十分だよ、と少し照れたように笑う。

 食堂の女将さん、としか認識してなかったけれど、この人は可愛い。明るい金髪に緑色の瞳。笑った時による目尻のしわも含めて彼女の可愛さだな、と思う。年齢はまだ四十すぎだと聞いた。でも、おばさんという感じはしない。


「じゃあ、アンヌさんってどうですか?」


 エンヌだけだと呼びにくいし。


「ああ、それいいね。店の子たちにもそう呼ばせようかしら。彼女たち、みんなエティーさんって呼ぶでしょ? 娘が店を手伝うようになったら混乱しそうなのよねえ」


 それなら娘をティーファと呼べば、とも思ったのだが、多分それは彼女の主人の意向ではないのだろう。

 エティたち、と店のご主人が言うのをたまに聞く。彼にとってはどちらもエティなのだ。


「で、アンヌさん?」


 何か御用で、と首を傾げると、彼女はキッチンの方を顎で指した。


「あんた、夕べご飯に降りてこなかったでしょ? お腹空いてんじゃないかなと思って持ってきたら、こっちでごろ寝してるし、寝具も出してないし。その上でこの猫がとぐろ巻いてたから重たいんじゃないかと思ってさ」

「あ、ありがとうございます」


 言われてみれば確かにお腹は空いている。

 窓の外を見ると空はすっかり明るくなっている。そろそろモーニングタイムだろう。


「すみません、すっかり寝ちゃって。すぐ準備しますね」


 ばたばたと奥に走り込んで顔を洗う。

 そういえばたらいも欲しいな。洗面台がないし水を貯めるものがないから風呂の手桶を使うしかないし。


「ああ、いいわよ。今日は休んで残りの掃除しちゃいなさい」

「え?」

「ずいぶん綺麗にしてくれたじゃない。大変だったでしょう?」


 答えに窮する。うん、実に大変だった、とは言いづらい。


「向こうの部屋もまだだったみたいだし。あっちが片付かないとちゃんと寝られないでしょ?」

「えっと、わたしはこっちでも十分……」

「ダメよ、寝台があるんだからあっちを使ってちょうだい。こっちは本来、使用人部屋であり物置なんだから」

「いやでもあっちの部屋は広すぎて……」

「ダメ」


 きっぱりとアンヌは言う。


「もし中古のベッドが使いたくないって言うなら新しいの入れたげるから、ちゃんとした寝台を使いなさい。野宿とは違うんだから。ね?」


 これ以上断ると、住み込み自体をなかったことにされてしまいそうな勢いに、わたしは結局屈した。


「わかりました。じゃあ、今日はあっちの部屋を片付けます」

「よろしい。……で、この子なんだけど」


 にっこり微笑んだアンヌは、いまだに片手でぶら下げたままのクロに視線を移した。喉の部分を引っ張られているせいか、いつもの鳴き声がかすれて聞こえる。


「クロ!」


 慌てて手を伸ばすと、アンヌはすんなり渡してくれた。クロはわたしの腕の中でしがみつくように肩に爪を立てている。


「トイレのしつけとかはできてる? ご飯はまあ、うちの賄いでなんとかなるとして、あとは爪研ぎよねえ」


 至極真っ当な内容で、逆にわたしは拍子抜けした。

 アパートで猫を買う場合の最低限の注意事項、みたいな。


「大丈夫だと思います。なんだかわたしの言ってることをちゃんと理解してるみたいで」


 そういえばトイレの使い方を確認してなかった。クロと一緒に確認しておこう。


「ふうん?」

「一度もわたしに爪を立てたことがないんです」


 今みたいに肩にすがりついてる時も、服だけに爪がかかるようにしてて、肌を引っ掛けたことは一度もない。


「遊びたい盛りなんだと思うので、時々森に連れて行ってやろうとは思ってるんですけど」

「そう? じゃあそのあたりは任せるわ。猫のすることだから大目には見るけど、家具や柱に爪痕残すようだったら考えさせてもらうから」


 ということは、その場合はやっぱり野宿に逆戻り……。


「あー、勘違いしないでね」


 あわててアンヌが言葉を継いだ。わたしの思いが顔に出てたんだろう。


「追い出すって意味合いじゃないわよ。ひどく爪研ぎするようだったら、お給金から差っ引く家賃、少し上げさせてもらおうかなっておもっただけ。もともと野良猫なのよね? じゃあ、外に出たがると思うし、裏の窓を開けておけば出入りはできるだろうから。……それでどう?」

「はい、ありがとうございます」


 わたしは目尻を拭ってにっこり笑った。


「もうお店に出ないと。ご飯、食べ終わったらお皿はそのまま置いておきな。あとでランチを持って来るから」

「ありがとうございます」


 もう一度礼を言うと、アンヌは目の前で人差し指を振ってみせた。


「固い固い。ありがとうだけで十分よ。住み込みになるってことは、家族と一緒だからね。あたしも息子だと思うことにしたから。よろしくね? シロ」

 アンヌから初めて「くん」なしで呼ばれた。なんだかドキっとして頬を赤らめた。

「はい、ありがとう、アンヌ」


 胸がほんわかと暖かくなった。


◇◇◇◇


 アンヌがいなくなったあと、キッチンに置かれたお盆を引っ張ってきてクロと朝ごはんにする。

 今日の朝ごはんは野菜スープとパン、目玉焼きとハムステーキ。クロはハムステーキが気に入ったみたいで、一枚ぺろっと食べてた。わたしはパンに目玉焼きを乗っけてかじり、スープで流し込んだ。

 お茶が欲しいところだけど、キッチンにはヤカンもないしカップもない。生活用具一式、買ってこないとだめかなぁ。

 もしかすると隣の部屋の収納に何かあるのかもしれない。こっちの収納も全部は確認できていなかった。どこかに余分な道具が入っているかもしれない。

 今日はあっちの部屋を片付けて、宝探しだ。

 食べ終わった食器をお盆ごとキッチンに置いて、バケツに水を張る。雑巾を放り込んで、ハタキと箒を小脇に抱え、クロを抱き上げた。

 そうそう、トイレの使い方と、裏の窓を開けるのは忘れなかった。

 ニャア、とすがりついてくる。


「まずは階段の掃除かな。クロはこの部屋にいてくれる?」


 再びニャア、と鳴いてクロは部屋の中にとんと降りた。


「じゃ、待っててね」


 わたしは部屋の扉をきっちり閉めた。 


◆◆◆◆◆◆◆◆


 誰かが階段を登ってくる音がした。

 目を覚まして彼女を起こそうと試みるも、全く反応がない。よほど疲れていたのだろう。

 顔をざりざりと舐めてみたら、ほんの少しだけまつげが揺れた。


「あーあ、やっぱり」


 扉を開けて入ってきたのは大柄な金髪の女。

 彼女に手を出そうとするなら俺が退治してくれよう、と背中を丸め、牙を剥いて威嚇する。


「で、お前さんがシロくんの相棒かい?」


 相棒、という言葉は悪くなかった。

 うん、なかなかいい響きだ。牙を向けるのはやめておいてやろう。

 背を丸めるのはそのままに、牙を剥いての威嚇をやめると、ひょいと女はおれの首根っこを掴みやがった。


 ――息、できねーっ!


 ジタバタもがいてると、彼女が起き上がるのが見えた。

 早く俺を助けろ! と声を出そうとするも、かすれた声しか出ない。

 俺に気がついた彼女は、なぜかぐだぐだとこの金髪女と会話を続けている。

 早く気がつけってば、おい!

 そりゃ猫とはいえ俺の一部だ、死にやしないが、息ができなくてしびれるのとか、ダイレクトで俺自身が味わうことになるんだってば!

 彼女はなんだかのんきに名前の話やらベッドの話やらしている。

 隣にもう一部屋あるのか。まあ、こっちの部屋でも寝るには困らない程度に広いが、ちゃんと寝台があるならそっちのほうがいい。彼女をいただくのも固い板の上よりはやわらかいベッドの上がいいに決まっている。

 ああ、そういえば隠れ家にはベッドがひとつしかない。俺の肉体を置いておくだけのこじんまりしたものだ。獲物とかは別の部屋に移してしまえばいいが、寝台が狭い。

 近々二人でゆっくり寝られるように大きなものを設えるとしよう。天蓋つきベッドがやはりよいだろう。

 それに浴場もなかったな。二人で入れるゆったりしたものを作るとしよう。総鏡張りで、どこからでも彼女を眺めることのできる浴室。……いいねえ。鏡の前に手をつかせて後ろから責めて、善がる顔を眺めながらいじめ倒す。いいねえ。

 ああ、いかんいかん。おれの体が青息吐息だ。息苦しいものだからついつい妄想に逃げてしまった。

 ようやくおれの状態に気がついて、彼女がおれを抱きとめてくれる。

 ふぃー、ようやく呼吸ができる。

 ニャア、と声を出してみるがかすれて声が出ない。

 金髪女はひとしきりおしゃべりして帰っていった。結局何しに来たのだろう。食事を持ってきただけか?

 まあ、彼女の様子を見に来たようではあったので、今回の不法侵入は許すとしよう。

 食事を広げて二人で摂る。分厚いハムは食べられそうなので、一枚かっぱらって食べる。多少しょっぱい。もう少し塩の抜けた普通の肉が良いのだが、猫用とは考えておらんのであろうな。

 食事をぱぱっと終えた彼女は掃除の準備を始めた。

 ここの階段のホコリっぽさはさすがにおれでも耐えられない。きっと綺麗にしてくれるのだろう。

 待て、と言われれば待とうじゃないか。

 だが、裏の小窓を開けていた。あれは、あの金髪女の話からすると、自由に裏から出て良い、という意思表示と取れた。

 彼女が掃除をしている間に、新たにテリトリーになったこの周辺をぐるりと回ってくることにしよう。

 森とは異なり、ここは街中だ。滅多なことで力は振るえぬ。よほどの敵は排除するしかないが、排除できないならばうまく折り合いをつけねばならん。

 ピンとしっぽを立て、俺は窓からスルリと出ていった。


◇◇◇◇


 ……店に来る客の連れには二度と手を出すまい。


 というか、アレは何だ。

 ワイバーンやスモールドラゴンが街中に闊歩しているとは。それ以外にも狼やら獅子やら大鷲やら。

 この間森で駆逐した天敵がなんでこんなにここには集まっているんだ。

 彼女が働いているという店を見学しておこうと想っただけだったのだが、客に連れ添っている奴らの声が気に入らなかった。

 どいつもこいつも我が姿を侮蔑しおって。確かにまとわせている魔力も弱ければ、契約の儀式もしておらぬ。ぱっと見はただの野良猫にしか見えぬであろう。

 だから、契約の儀式で縛られている奴らにのみ、この仮の姿の後ろに立つ我が真の姿を見せてやったのだ。幻の中で、我が真なる力をもって彼らを圧倒する姿を。幻であるゆえ、普通の人間には悟られぬ。

 契約の儀式で縛られていた奴らは全員、恐怖に襲われ畏怖の目でおれを見、怯えた。

 それがなぜなのかわからない飼い主たちは、自分の言うことを聞かない彼らをなだめすかして帰っていった。いい気味だ。

 それ以外の隷属の首輪で縛られた者たちは、その様子をみて恐怖だけが伝染したのであろう。飼い主の命令に従えず、苦痛に悲鳴を上げる様子を少し離れた棚からおれは見ていた。

 おれに気がついたのはあの金髪女だった。彼女に不利になるようなことはしたくないので、おとなしく金髪女につまみ出されて裏庭に放り出された。


「……あんたが何者かは知らないけど、店の客に手ぇ出すんじゃないよ。目に余るようなら……分かるよね?」


 彼女には絶対見せないであろう、冷え冷えとした瞳。

 うむ、この女なら感情を一つも揺らさず、彼女の目の前でおれを殺すだろう。

 これは予想外だった。この女、只者じゃない。


「それに、あの子にとって害になるようなら、容赦なく排除するから」


 それだけ言って女は店に戻っていく。

 仕方がない、彼女のためだ。店には二度と顔を出すまい。ボロをだしてこの体を滅せられるのは面倒だ。


 ……この後、掃除が終わった彼女に連れられて、店の一角に看板猫としての仕事を与えられることになるとは、この時のおれは全く思いもしなかった。

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