第3話 女将さんはいい人です。

「ねえ、シロくん」


 それはお昼時の殺人的アワーが終わってまかないのお昼を頂いていた時の話。

 食堂の女将さんはカウンターの中で忙しそうにしながらわたしに声をかけてきた。

 珍しい。いつもならこの時間でもティータイムのお客が絶えなくて、急いでかきこめとせっつかれるのに。今日だってそんなにお客が少ないわけじゃない。


「はいっ?」

「うちで働き始めてから何日経ったっけ」

「えっと……十日ぐらい?」


 実のところ、時計もカレンダーもないし日を刻んで数えるようなものもなかったので、召喚されてからの日数がだんだん曖昧になってきていた。


「もう十五日目よ」


 呆れたような女将さんの声に、わたしは恥ずかしくなって頭を掻いた。


「すみません、もうそんなになるんですね」

「何か思い出した?」


 その言葉にわたしはうつむく。

 ここで働きたいと飛び込みで交渉した時、事実をそのまま話すわけにはいかなくて、どこかから落ちて頭を打ったらしくて記憶がない、という設定で話をしたのだ。

 言葉も喋れるし、文字も読める。でもこの世界の常識には疎い。わたしのような姿の人間はこの辺りにはいなくて、かなり怪しまれたのは事実だ。

 もしかしたら、他所の国からさらわれてきたんじゃないか、とまで言われた。

 それにしては言葉が理解できるし、生活する上で困ることはない。だから、日にも当てられないほど大切にされていたどこぞの王子か、もともと色素の薄い突然変異でどこかに幽閉されていたか、と女将さんたちは勝手に結論づけ、わたしはその案に乗った。


「そうかい。そりゃ仕方がないねえ。何か一つでも思い出したらあたしに言いな。ここは辺境だけど人の出入りは多いからね。情報はいろいろ入ってくるんだ。例えば隣のユーティルム王国の滅亡の噂とか」


 女将さんの言葉にびくっと体を揺らしてしまった。


「なんでもねえ、勇者を召喚しようとしたんだって。それに怒った魔王が国を滅ぼしたって命からがら逃げてきた人たちが口々に話しててね。もともと勇者を召喚しようとしてたって噂はこっちまで流れてきてたから知ってたけど、本当にやろうとしたって聞いて呆れたよ」

「え?」


 女将さんの物言いは、まるで「魔王に逆らおうとするなんて愚の骨頂」と言わんばかりだった。

 驚いて顔を上げたけれど、女将さんの顔はいつも通りの営業スマイルだ。


「だって、考えてもごらんよ。勇者一人呼び出して、その子に全部やらせるんだよ? まあ、魔王なんてよほどのことがなきゃ出てこないから、ほとんど伝説になりかけてたし、なんでユーティルム王国の王様が勇者に頼ろうとしたのかは知らないけどさ。ああ、でも今回のことでやっぱり魔王は恐ろしく強い力を持ってて、逆らったら命がないって近隣の国に知らしめたろうから、当分は逆らおうとする国なんて出てこないだろうけどねえ」


 うん、やっぱり。女将さんの口ぶりはまるで「隣の山が噴火したらしいよ。いつか噴火すると思ったけどねえ」程度の軽い口ぶりだ。


「あの、魔王って嫌われてる存在なんですか?」


 そう聞いた途端に女将さんは顔をしかめた。


「なんだい、そのあたりも落っことして来ちゃったのかい? 当然嫌われてるよ。今回だって国一つ問答無用で潰したんだ。恨みを買わないはずがないだろ? 人間が束になっても敵う相手じゃないよ。だから勇者召喚なんて術が存在するんだ。伝説では暴れる魔王を退治できるのは勇者だけって言い伝えだったと思うけど」

「じゃあ、昔はもっと暴れてたんですね」

「だろうね。……魔王の話はもういいよ。こんな話してたら魔王が寄って来ちまう。あんたの話をしようと思ってたんだよ」

「えっと、はい?」


 いきなり話が変わってわたしはふたたび目を丸くすると、女将さんはじっとこちらをのぞき込んできた。。


「シロくん、どこで寝泊まりしてるの?」

「えっと……その」

「それにその服も」


 咄嗟に顔を伏せる。やばい。ここで働くときに住み込みも打診されたんだ。でも、それだと性別がバレる可能性があるから、別に宿があるからと嘘をついた。


「もしかして……宿追い出されたのかい?」


 女将さんの言葉にどう返そうかと頭を働かせる。うんといえば住み込めばいいと言われる。いいえといえばこのまま野宿継続だ。


「あの……」

「あたしも頭が回らなくてさ、ごめんね」


 急に女将さんが柔らかい口調で言ったもんだから、わたしはびっくりして顔を上げた。


「あんたがお給金の代わりに三度の飯でいいって言うもんだからその言葉にのったけど、考えて見りゃ金がなきゃ宿屋も泊まれないし服だって買えないものね」


 これ、と差し出されたのは、小さな麻袋だった。受け取って中を開けると、数枚の硬貨が入っている。


「女将さん……」

「うん、エティーファに言われて気がついたんだよ」


 エティーファとは女将さんの下の娘で、今年十歳になる。時々遊び相手に呼ばれるんだけれど、十歳でもすでにわたしと同じ体格な上に力も強いので、どちらが遊ばれてるのかわからなくなる。


「エティーちゃんが?」

「いつも同じ服を着てるのは替えがないからじゃないかって。でね、あんたが宿賃しかなくて何も持ってないって言ってたことを思い出したんだよ。服はエティーファのものならサイズがあうだろうからっていくつか持ってきたんだ。シロくんが着ても違和感ないものばかり選んだから」


 そう言って女将さんは隣の席に服を何着か置いてくれた。

 食事をかきこんでそれを開いてみる。

 お下がりにしては手触りがどれも新品だ。半袖の白いシャツ、長袖の白いシャツ、茶色のベストに膝下までのパンツ。体に当ててみるとどれもゆったりしている。

 エティーちゃんの方が出るとこ出てるので、パンツもおしりが余りそうだけど、ブカブカなのはベルトでなんとかなる。


「ありがとうございます。嬉しいです」


 ああ、これで川に落ちても乾かすの待たずに済む。


「それと宿なんだけど、ほんとにうちに住み込まないかい? 今日は夜から雨になるし、宿がないならうちは全然構わないよ?」

「でも……」


 やはり躊躇する。確かにありがたいんだけど……。


「もちろん宿代はお給金から差し引くけどね。ここの上は昔あたしが住んでたんだけど、結婚して引っ越したから、今は誰も住んでないんだ。だから、使ってくれる分には問題ない。風呂も沸かせるし。それならだろう?」

「……女将さん、知ってたんですか」


 モーニングとランチタイムをこなしたあと、ディナータイムまでの間に三時間ぐらいは比較的手の空く時間がある。

 他の給仕の子たちはその時間に交代で休憩を取っている。お昼のまかないを食べるか一度家に戻って食事をしてからディナータイムに出勤してくるのが普通だ。

 でも、わたしはまかないを食べたあと、すぐホールに出ていた。休む場所もないし、どこか行きたい場所もない。お金もないから何を見ても仕方がないしね。


「馬鹿にするんじゃないよ。もう十日以上あんたのことは見てきたからね。他の給仕の子たちとは仲良くできてないみたいだけど、あれもあんたがお金がなくて遠慮してるからだろ?」


 他の子たちはランチが終わったら街にショッピングに繰り出すことが多い。お店の男性と逢引してる子がいるのも知ってる。でも、何をするにも先立つものがないから、誘われても断ってばかりだ。


「あの子たちからも言われたんだよ。あんたと遊びに行きたいのになんで働かせるのかって」

「えっ、ご、ごめんなさい」


 自分が勝手に働いてたのに、まさか女将さんが悪者になってたとは知らなかった。


「今度からはちゃんと相手してやっておくれ。今まで休憩時間も働いてくれてた分、上乗せしてあるからね」

「はい、すみません」

「で、住み込みの件だけど、今日から使うかい?」


 これは、これ以上断ると失礼になりそうな気がする。

 わたしはちらっと外を見た。今までは雨といえば昼間のスコールぐらいで、夜に雨が降ることはなかった。

 寝る時に草が濡れてることがあっても、直接雨に打たれたことはない。……最初のあの森以外は。


「わかりました。お世話になります。あの、でも一つだけ……」

「なんだい?」

「……猫を連れてきてもいいでしょうか」

「猫?」


 女将さんの声がとたんに不機嫌になった気がする。顔を見るのが怖くなってわたしはうつむいた。


「はい。……わたしが目を覚ましてからずっとついてきてくれてる子なんです」

「あんたが飼い主なのね?」

「飼い主というわけじゃなくて……そのあたりもよくわからないんです。ただ、夜になるといつも一緒にいてくれて、最近は帰りを待ってくれてるので」

「ふうん、まあいいわよ。ああ、ペットならちゃんと契約の儀式は済ませてあるのね?」

「契約の儀式?」

「そこも忘れてるのかい? うちの店に来るお客の子たちは従順だろう? 主人の意に沿わないことは絶対にしない。それが契約の儀式さね。まあ、もともと契約の儀式ってのはある一定以上の知能を持つ相手との契約だからね。魔術師がドラゴンを従えたりするのに使ってたというから、猫だったら意思疎通するのは難しいかもしれないね。いいや、連れておいでよ。悪さをするようだったら隷属の首輪をつければいいし」

「わ、かりました」


 クロはペットじゃない。わたしの唯一の仲間だ。

 ペットと同列にはしたくない。女将さんには悪いけど、隷属の首輪もつけたくない。

 だって仲間だから。


「じゃ、今日はもう仕事はいいから、上の部屋の掃除と風呂場の掃除をしておいで。これが二階にあがる扉の鍵。裏から直接二階に上がれるから。必ず鍵をかけるようにしてね。ああ、その前にその猫を連れてきたほうがいいかもね。雨は夕方には降り始めて明日まで降るよ」

「わかりました、ありがとうございます」


 わたしは服とお金を掴んで鍵を受け取ると、案内してくれる女将さんについて行った。


◇◇◇◇


 案内されたのは店のちょうど裏手にある扉だった。朱色の塗りがだいぶ剥げて来ている。


「あたしが結婚してからも年に一度は風通ししてあるから、掃除すれば大丈夫だと思うんだけどね。ああ、掃除用具は店のを使っていいよ。場所はわかるわね」

「はい、ありがとうございます」


 じゃ、と女将さんは店に戻っていくのを見送り、改めて二階を眺めた。

 全部が使えるわけじゃないと思うんだけど、ベランダが作られてて、そこが物干し台になってたのが見て取れる。風呂で洗濯してそこに干せばいいみたい。

 とにかく中に入ってみよう、と鍵を差し込んで回す。きしむような音を立てて鍵は周り、扉を引き開けるとすぐ階段だった。

 埃っぽい。マスクがないと肺をやられそうだ。クロを迎えに行く間だけでも部屋の窓を開けておかないと、息苦しくて仕方がない。

 内側から鍵をかけ、階段をあがると舞い上がるホコリがすごい。

 とにかく上がり切ると正面と右手に扉がある。

 正面を開けると広い部屋が見えた。何かは置いてあるようだけど雨戸が降ろされてて真っ暗だ。

 窓に駆け寄って鍵を開け、雨戸を引き開けると眩しい光が部屋に満ちた。

 振り向くと、二十畳ほどのだだっ広い部屋に応接セットらしきものとベッドが置いてあった。

 ソファの上にかけてある布をめくると新品同様に綺麗な布地が見える。掃除が終わるまではこのカバーは取らないほうがいいかもしれない。

 とりあえず抱えてた服をカバーの下に潜り込ませると、戸口に戻って右の扉を開けた。

 こちらも同じく真っ暗だ。

 窓をあけて振り向くと、こちらは六畳程度のこじんまりした部屋だった。

 隣がミニキッチンになっている。奥に扉がもう一枚あって、そこが風呂場だった。

 さすがに現代日本みたいにひねればお湯が出てくるようにはなってないみたい。井戸からここまで汲み上げないとダメなのかもしれない。

 それはかなりの重労働だ。風呂は諦めたほうがいいのかもしれない。

 全部屋を確認して、ベランダに出る。キッチンから直接出られるようで、足元はしっかりしていた。

 ロープや物干し竿はなかったから、ロープを買ってこよう。

 掃除するには水がいる。キッチンの流し場にも蛇口のようなものはなくて、やはり桶で汲み上げるしかないらしい。

 仕方がない、今日だけは下の炊事場から水を分けてもらおう。

 わたしは髪をいつものように後ろで縛り、下に降りていった。

 バケツと雑巾、箒とハタキはすぐに見つかった。掃除機でない道具で掃除するなんて、学校以外でやるのは初めてだ。

 女将さんに水の在り処を聞いたら「は?」と返された。


 ――えっと、わたしなにか変なこと言いました?


「そんなの魔法の初歩じゃない。それくらい……ああ、そうか。それも忘れてるんだったね。そんなに魔力量は低くないと思うんだけどねえ。じゃあ、少し教えようか」


 女将さんは手っ取り早く三つの魔法を教えてくれた。

 水を呼ぶ魔法。火を呼ぶ魔法。風を呼ぶ魔法。


「風呂の場合は水を呼ぶ魔法で水をいれて、それから水に手をつけながら火を呼ぶ魔法で水を湯に変えるんだよ。この三つを覚えていればいろいろな組み合わせができる。火と風で温風が出せるから、髪の毛を乾かすとかね。呪文を組み合わせるのはちょっとコツがいるから、今は使わないほうがいい。確かエティーファが使ってた入門書があるはずだから、探しておいてあげるよ」

「ありがとうございます」


 女将さんが引き上げたあと裏庭でこっそり試してみた。

 初級の呪文は比較的短くて覚えやすかった。が、そのうち呪文を実際に口で唱えなくても心で思い描いただけで発動するようになった。

 これは嬉しい。いちいち口で呪文を言うの、実は恥ずかしいのだ。ロボットアニメで技の名前を連呼するのが恥ずかしいのと同じで。


「よし」


 なんだか嬉しくなって二階に舞い戻った。魔法が使えるなんてこと、現代日本じゃありえなかったもの。

 特別、という言葉がちらっと見え隠れする。

 いいの、今はこの世界で生きていくのでせいいっぱいだから。


◇◇◇◇


 結局、風呂に湯を貯めるのも『湯がほしい』と思うだけで満たせるようになった。

 どれだけ魔法を短縮化できるのだろう。これもチートの一種? それともスキルの一つかな。アニメとか小説でよくある無詠唱スキルというやつ。

 この世界はファンタジーだもの。あってもおかしくない。

 掃除は思ったより捗った。ハタキをかける片端から風で窓の外に吹き飛ばす。店の方に落とすと迷惑だろうから、全部裏庭の方に回した。

 六畳の部屋はさほど時間はかからなかった。キッチンとお風呂はやっぱり綺麗にしておきたいので念入りにする。

 そこまで終わった頃に顔を上げると、すでに外は暗くなりかけていた。

 しまった、掃除の前にクロを迎えに行くの、すっかり忘れてる。

 奥の二十畳の掃除は明日に回して、窓を全部閉めて慌てて下に降りる。

 あ、着替えがソファのカバーの下だ。すっかり埃っぽく茶色に煤けた格好のままだと気がついたが、迎えのほうが先だ。

 女将さんにクロを迎えに行くと伝えて、わたしは走った。森まではいつもなら一時間だけど、走れば往復一時間でいけるはず。

 町外れまで来たところで雨が降り始めた。間に合わなかった。雨具もないからあきらめてそのまま走る。靴の中がぐちゃぐちゃだ。後で洗わないと。

 いつもの野営地に着いたらクロは水があたらないところにいて、顔を見た途端にニャアと鳴いた。


「ごめんね、雨が降る前に迎えに来るつもりだったのに……」


 そっと抱き上げる。わたしもクロもずぶ濡れだけど、クロはがしっとわたしの胸に爪をたてて抱きついてきた。雷も鳴ってるし、怖かったのかもしれない。


「ごめんね。今日から食堂に住まわせてもらうことになったから、そっちに行こ?」


 ニャア、と返事をする。

 濡れた手でなでても気持ち悪いだけだろうけど、わたしはクロをそっとなでると街に引き返した。


◇◇◇◇


 びしょ濡れのまま店に入るわけにはいかないから、店の子に女将さんへ伝言してもらい、わたしはそのまま裏に回った。

 鍵を開けるとまだ埃っぽい。そういえば階段の掃除はまだだった。ここで下ろすとクロの体がホコリまみれになる。仕方がないのでそのまま上に上がった。

 部屋に入る前に靴を脱ぎ、ぺたぺたと裸足で風呂まで行く。後ろを振り向いたけど、足の裏は汚れてなかったみたいで、床についたあしあとはただ濡れてるだけだ。風呂上がったら綺麗にしなきゃ。

 ためておいたお湯は少しぬるくなっていたのでもう一度沸かし直して、洗い場で服を脱ぎ捨てると湯船につかった。体を洗う余裕もないくらい、冷え切っていた。

 クロはニャアニャアと鳴き続けてた。湯船に連れ込んで溺れても困るので、桶に入れて持ち上げる。

 ここのお風呂ってまるで日本のシステムバスだ。蓋があって、シャワーもある。

 シャワーは風呂の湯船につながってて、湯船の湯が上から出るらしい。どういう仕掛けなのかはわからないけど、湯船にお湯を張りさえすればいつでもシャワーが使えるのは嬉しい。

 体を温めてから全身を洗う。とはいえ石鹸もシャンプーもなかったから明日買いにいかなきゃ。

 いつもの水浴びと同じ要領で体を洗い、クロもついでに洗うとクロはあっという間に風呂から逃げ出した。やっぱり濡れるのは嫌だったのかな。

 脱ぎ散らかした服に飛び乗ろうとするクロを抱っこして、服を全部湯船に放り込む。茶色く汚れたズボンもTシャツも洗って絞ってから、着替えがこっちにないことに気がついた。


「どうしよう……」


 この格好でベランダに出るわけにはいかないし、出たところで雨だ。干すロープもない。

 それにタオルもなかった。いつもの野宿だとそれほど寒くないから気にしてなかったけれど、濡れたままじゃ部屋の中が水浸しになってしまう。

 覚えたての風で水を散らし、ちょっと怖かったけど温風で体を吹き上げると、あっという間に体も髪の毛も乾いてしまった。


「すごい……」


 ニャア、とクロが寄ってくる。クロも温風で乾かした方がいいのかな。そういえば、この温風で服も乾かせばいいのよね?

 手に持った状態で温風をかけると思ったよりもうまく乾かせた。ズボンもシャツも下着もこの要領で乾かして、ほかほかの湯上がりで部屋に戻る。

 床に残ったあしあととクロのあしあとを綺麗に消して、クロを乾かした雑巾で拭いて――だって温風をいやがったんだもの――部屋の壁に背中をつけた。

 キッチン横の六畳間はもしかしたら子供部屋だったのかもしれない。二十畳の部屋においてあったベッドはキングサイズで、二人でも三人でも余裕で寝られそうだ。

 こっちの人たちはみんな大きいからあれでちょうどいいのかもしれないけど、わたしだと広すぎて落ち着かない。こっちの部屋だけで十分だ。

 クロがお腹に乗ってきた。そろそろおねむの時間だろう。

 わたしはいつものように体を横たえた。クロが体の上で身づくろいしてるのを見ながら、心地よい眠りに落ちていった。


◆◆◆◆◆◆◆◆


 水の匂いがする。

 これは今日の夜から雨が降る兆候だ。それまでに彼女が帰ってくればいいが。

 それよりも、ここで今日も野宿するつもりだろうか。

 最初の森で見つけた時、雨に打たれて彼女は震えていた。

 いかに常夏の世界だからといって、雨に一晩打たれては風邪を引く。

 それまでに戻ってくれば、我が隠れ家に案内するとしよう。


 ――一度案内したら二度と帰す気はないが。


 それにしてもこの体は弱い。

 時折大鷲がこの体を啄みに来るので護身の魔法をかけている。この間は腹を突かれた。

 もともとが肉ではないのだから突かれたところで大したことはないのだが、痛みはダイレクトに来る。

 感覚を切り離してしまえば痛みなどわからないのだが、そうすると彼女に撫でられる気持ちよさも味わえない。

 もう少し大きな動物にしておけばよかったと今は思う。同じネコ科でもたとえば彼女を背負って走れる程度の。

 そうすれば、どこに行くにも彼女に抱っこされるのではなく楽に移動もできる。


 ……胸に抱かれるのは好きなので、それがなくなるのは残念だが。


 そういえば食堂に連れて行く、という話は結局まだ実行されていない。

 どうも、おれが野良でないことを示すにはどうすればいいか、と言う点で悩み続けているらしい。

 彼女の世界では首輪をつけていればどこかの飼い猫だという認識がされるのだそうだ。

 こちらでもそれは同じだが、隷属の首輪など、無一文の彼女に買えるはずがない。

 契約の儀式は知能のない猫には普通は使わない。魔法は……野宿の際に一切焚き火をしないところから、使えないのだろう。

 魔力量はおそらく俺に匹敵するだろうに、使い方を知らねば意味がない。

 また大鷲が飛びかかってくる。

 隠れ家の肉体を呼び寄せ、鷲を散らす。

 久々に元の肉体に戻ったが、感覚は忘れていないようだ。

 体の隅々に行き渡る魔力、本当に久々だ。

 思わず力の限り暴れたくなる。が、ここを壊してしまっては、彼女が戻って来られなくなる。

 とりあえずこの森のおれの天敵は全て排除しておこう。

 生態系が狂おうが、俺には関係ない。

 久々の狩りだ。

 血が騒ぐ。

 暴走だけはしないように気をつけておこう。

 街から離れているとはいうものの、余りに強い魔力を撒き散らしては気づく者も出るやも知れぬ。

 ぺろりと唇を舐めると、俺は駆け出した。


◇◇◇◇


 狩りは概ねうまく行った。

 狩りそこねた者たちは俺の魔力の大きさに森を出ていったようだ。そこまでは追いかけることはすまい。

 獲物は隠れ家に放り込んでおく。

 便利なもので、隠れ家の中は時が止まっている。狩った肉もいつまでも腐らない。だからこそ、隠れ家に我が肉体を置いておくのだが。

 そろそろ暗くなってきた。雨の匂いも強くなる。

 元のように猫の姿を切り離し、肉体を隠れ家に送る。

 日が落ちれば彼女が戻ってくるだろう。

 今日ここに泊まるかどうかは分からないが、寒いというならば温めてやろう。

 ぱらぱらと雨が降ってきた。猫は雨が嫌いだが、場所を動くわけにいかない。

 足音がする。雨のせいで匂いが嗅ぎ取れなかった。

 ふわりと包まれて、おれは彼女の胸に抱かれる。

 頭からびっしょり濡れそぼった彼女もまた美しかった。

 ニャアニャアと言いながら彼女の胸にすがる。冷たくてべちゃべちゃなのはもう慣れた。


「ごめんね、雨が降る前に迎えに来るつもりだったのに……」


 だろうと思った。だが、迎えにとは? 別のところに行くのだろうか。


「ごめんね。今日から食堂に住まわせてもらうことになったから、そっちに行こ?」


 ああ、やっぱり。そういうことか。

 ニャア、と返事をすると彼女は機嫌良さそうに歩きだした。

 彼女に抱っこされたまま、おれは街に入った。

 この街自体には魔封じの結界はかかっていない。

 王都に行くとばしばしに結界がかかっていて歩きづらいのだが、これなら元の肉体で歩いていても問題はない。

 通りに面した一件の家の裏に周り、彼女は扉を開けた。埃っぽい階段が覗く。そのまま風呂に放り込まれた。

 湯船には湯が張ってある。彼女の魔力を感じるところから、彼女が沸かしたのだろう。ということは魔法は覚えられたのか。

 目の前で彼女は湯に手を突っ込んだ。魔法を感じるが口は動いていない。無詠唱で魔法を使っているのか。

 昨日までは使えなかったはずの魔法が使えるようになったということだ。

 などと考えている間に彼女はあっという間に服を脱ぎ、湯船に浸かっていた。

 濡れそぼったままのおれは手桶にいれられて湯船に入る。暖かい湯に包まれて体が温もってくる。


「はぁ〜」


 風呂がよほど嬉しかったのだろう。

 半分だけ閉めた蓋の上におれの入った手桶を置き、肩までゆっくり浸かる彼女は実に幸せそうな顔をしていた。

「あー、生き返るぅ。こっちに来てから一度も暖かいお風呂に入ったことなかったんだよね。やっぱり気持ちいいや」


 そう言いながら彼女はおれに指を差し出す。

 おれは指を舐め、ちらりと彼女を見る。ニコニコと幸せそうに笑う彼女が眩しい。


 ――今すぐ風呂に飛び込んで抱きしめたい。撫で回したい。咥えたい。


 だが、今はニャア、と鳴くのが精一杯だ。

 ざっと湯で洗われて、おれは風呂から出された。

 ポタポタ落ちるしずくとあしあとがフローリングに残るが、これは仕方がない。あとで彼女が始末してくれるだろう。

 脱ぎ捨てた服はびちょびちょだったのでさすがに飛び乗ろうとはしなかったが、上に乗っていた下着だけ引っ張り出そうとしたら、やっぱり邪魔をされた。

 風呂の中で服を洗っているのだろう。風呂場の前でうろうろしてみたが、なかなか出てこない。

 そのうち魔法の発動を感知した。彼女が使ったのだ。やはり、無詠唱で。


「すごい……」


 自分で驚いているようだ。


「便利なものよね……思い描くだけで魔法が発動できるなんて」


 何? それは……無詠唱どころの話ではないだろう。もはや魔法を凌駕しているのかもしれぬ。

 こうしたい、と思えば叶えられる。それは――我が力と同じ種類ではないか。

 それが彼女の能力だというのか。召喚された彼女に与えられた、勇者の力。


 ……これはまずい。本格的に力に目覚めてしまったら、あっという間に彼女は勇者として認められてしまう。


 生活魔法程度は誰でもできる。

 だが、それ以上の魔法は複雑な詠唱を必要とし、力の拠り所となる杖も必要だ。

 魔術師たちの羽織るローブはその力を高める効果をもたらし、様々な護符で身を守る。

 それは、ごく一部の素養ある貴族か、よほどの力を持つ飛び抜けた異能者バケモノにしかなれない職業だ。

 それが、記憶も失いこの世界の人間ではないと明らかに分かる姿の彼女が操れば、間違いなく勇者として祭り上げられる。

 それは――面白くない。

 勇者は結局魔王を倒さねばならない。倒さずに済む勇者はいないのだ。俺と彼女の未来にはあってはならない未来だ。

 やはり何らかの妨害はせねばならん。

 いろいろ考えている間に彼女は服に着替えて出てきた。

 雑巾でざっとしずくを拭われたのはちょっと不本意だが、拭う布がないのは仕方があるまい。

 猫(おれ)のあしあとも始末して、彼女はようやく部屋におちついた。

 いつものように腹によじ登ると、彼女はにっこり笑って横になった。

 我が褥になるつもりなのであろう。よい心がけだ。

 身づくろいをしている間に彼女は眠ってしまった。

 よほど疲れたのだろう。

 初めて魔法を使ったこともその原因の一つだ。

 湯を沸かすのに必要以上の魔法を込めている。力の九割が無駄に漏れている。いずれ効率的に力を使う方法を覚えるのだろうが、それまでは仕方がなかろう。

 夢の中ででも俺が教えてやるとするか。

 彼女の夢に潜り込むなど、魔王おれには容易いことだ。

 風呂上がりの暖かな体から降りるのは残念だ。

 暖かな乳房をふにふにと揉もうとするが分厚い胸当てのせいでわからない。 

 仕方ない。報酬はまた今度もらうことにしよう。

 寝る彼女の枕元に歩み寄ると、彼女の額をぺろりと舐め、おれの額をくっつけた。

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