第20章 新たなる盟約者

第86話 境海の羅刹王 

 虚空に大音響が響く。橙星王が九星王剣を一閃する度に、形あるものは砕けて塵に帰す。

 それでもすぐに、その行く手は、血気にはやった羅刹たちに埋め尽くされる。その様を見て、橙星王は軽くため息をついた。


……よもや、羅刹の存在までも、この私に片付けさせる積りではあるまいな……

 それも今では時間の問題だ。


 冥府を脱出しようとしている橙星王に、冥王は羅刹をその追手として差し向けた。その名誉の回復という餌を与えて。 しかし、戦司の力を知っている冥王ならば、それがただ、自分を足止めし、僅かな時間を稼ぐ程度にしかならない事を知っている。 その上での、この手なのだとしたら、自分は実に後味の悪い、大掃除の続きをやらされているという事だ。

「……この様に一方的な殺戮を……この戦司に強いるなど……ふざけおって」

 羅刹も羅刹だ。少しは、こちらの言うこともにも耳を貸すべきだろうに、問答無用とは。

 たかが冥府の守護部族の分際で、天界の戦神に楯突こうなどと、どんな向こう見ずが、そんな愚かな事を考えるのか…


 橙星王は、最大限の苛々を込めて又、九星王剣を振った。

 その殺戮の残響が消えるか否かという間合いで、すぐ傍に羅刹の気配を感じた。橙星王の殺気は、最上級に研ぎ澄まされている。手にしている剣が、羅刹の首をはね落とすべく、微塵も無駄のない動きで翻る。 しかし、その動きが完結する寸前に、橙星王は相手の顔を見てその手を止めた。

 刃は相手の首に触れはしなかったが、そこに一筋の線を描き、そこからは血が滲んでいた。


「……ひっ……酷いじゃないですか……勘弁して下さいよ……」

 顔を強張らせ、消え入りそうな声でそう言ったのは、翠狐だった。

「何だ、道案内か。丁度良いところに来た。冥王の遊戯に付き合うのに、嫌気がさしていた所だ。境海まで案内しろ」

「何で私が、そんな事をしなければならないんです」

「お前が、この騒動の最中に、わざわざ私の元に戻って来たのは、探し人が見つからなかったからではないのか」

 その理由を言い当てられて、翠狐は複雑な顔をする。


 橙星王を冥王府に送り届けた翠狐は、その足で、王城に保管されている死者の名簿を調べに行った。地上で命を落とした者はみな、この名簿に名を刻まれ、次に転生の時を迎えるまで、その魂を冥王府で管理される。 それを調べれば、麗妃が冥府のどこにいるのか分る筈だったのだ。だが、そこに彼女の名前は無かった。


「あの癒しの君も、今度の冥王のやり方には、ご立腹だ。麗妃とやらの魂を、只で冥王に渡すのは、面白くないと、そう考えたのかも知れないぞ」

「では、その行方は、緑星王様にしか分らないと?」

「……かも知れないな」

 そう言われて翠狐は肩を落とした。

「それで、どうするのだ?お前は、ここで、お前の仲間たちが、無為に殺されていくのを、見物しているのか?それとも、私を境海まで連れて行くのか?どっちだ」

 答えるまでもない問いに、翠狐は、憮然とした顔をしたまま、八卦陣を描いた。翡翠の色をした光が橙星王の体を覆い、もう次の瞬間には、二人は境海の波の音を聞いていた。



 橙星王は、境海で捕まえた小物の羅刹に、剛來の居場所を問うたが、その小物は怯え切っていて、話す内容が支離滅裂で要を得ない。元々、そう気は長い方でない橙星王である。おまけに冥王に獲物の様に追い立てられて、大いに機嫌も悪かった。 怯える相手に対して、高圧的にしかも詰問口調で言ったものだから、小物は追い詰められて半狂乱になってしまった。

「全く、武器の扱いは上手くても、人の扱いはなっていないのですね、戦司様は」

 翠狐に揶揄やゆされて、橙星王は肩を竦めて交渉役を彼に譲った。翠狐が宥めすかして、ようやく、剛來は海に出ているらしいという答えを得た。

 境海を見渡せる高台に上った二人は、遠く沖合に、小舟が一艘浮かんでいるのを見つけた。そこに人影が二つある。

「あれか」

 橙星王が満足げに笑みを浮かべる。

 その影の一つは剛來。そしていま一つが、どうやら彼の捜していた劉飛の様だった。




 船上の二人は、釣り糸を垂れていた。

 と言っても、魚を釣っているという風情ではない。劉飛は、黙ったまま釣り糸を垂れている羅刹の王をそっと横目で見た。


 気がついた時には、この船の上に寝かされていた。剛來と名乗った、この羅刹の王の言葉によれば、自分はこの海に浮かんでいた所を助けられたらしいのだが……


 以来、昼も夜もない、ずっと黄昏が続くこの海で、ずっと釣りをしている。腹も減らず、眠くもならないから、すすめられるままに始めた釣りを止めるきっかけがなかった。どのぐらいの時間がたったのか分らない。 ただ、どうにも退屈で、いつまでここにいればいいのかと、一度尋ねてはみたのだが……

「迎えが来るまでですかね」

 と、その羅刹は答えた。

「迎えって、一体誰が迎えに?」

 劉飛がそう問うと、剛來は少し首を傾げて、

「さあ、誰でしょうね」

 と、謎を掛ける様に言った。


 どうも、あれこれ聞いても、ちゃんとした答えは返って来ない。劉飛がそんな雰囲気を感じて、言葉に詰まると、会話はそこで途切れてしまった。 ともかく、誰かが迎えに来なければ、この退屈な釣りは終わりにならない。それだけは確かな事であるらしかった。


 劉飛の視線を感じたのか、水面を見ていた剛來がこちらを向いた。視線が合ってしまったので、何か言わないと気まずい気がして、劉飛は咄嗟に適当な言葉を口にする。

「あのさ……前に言ってた迎えって、誰なのかなって」

 劉飛の問いを聞いて、剛來が微笑した。

「誰に来て欲しいですか?」

「え……俺が望めば、その人に迎えに来て貰えるのか」

「……そうですねぇ……あなたが死んでしまったのなら、それぐらいの願いは叶えて差し上げられますが」

「……俺、死んだんじゃないのか?」

「あなたは、今、挟間にいるのですよ」

「挟間?」

「そう。生と死の挟間です。あなたが死の誘惑を退けて、生を望むならは、あなたは元の世界へ戻る事が出来ます……」

 剛來がそこで言葉を切り、竿を置いて立ち上った。その視線が虚空を見据えて言う。

「お迎えが来た様ですよ」

 つられて見上げた瞳に、橙色の輝きが落ちた。一瞬、視界が橙色に支配される。今まで感じていた虚無感が消えていく。体の中に大きな力の存在を感じた。

「……橙星王」


……感動の再会は、後回しだ。来るぞっ……


「え?」

 劉飛の意志に反して、その体が半ば強引に動かされる。いつの間にか、手には剣を握っていた。そして、その瞳が見据える先に捉えたものは、空を埋め尽くすばかりの、羅刹の大軍だった。

「何を……やらかしたんですかあなたは。あんなものを引き連れて来て、俺に、あれをどうにかしろって事じゃないだろうなっ」


……出来るなら、やってもいいぞ……

「ご冗談でしょう」

……なら、黙って見ていろ……


 橙星王が剣を振る。その剣圧で、彼方の羅刹が、あっけなく吹き飛ばされる。その凄惨な光景に劉飛は思わず叫んでいた。

「止めろよっ、こんな一方的な……」


……躊躇ちゅうちょは隙を生む。私の選んだ覇王ならば、そのぐらい、言わずとも理解しろ……


 橙星王が苦々しそうに言う声が聞こえた時には、もう、船の周りを、立錐りっすいの余地もないほどに羅刹が取り囲んでいた。数え上げるのも馬鹿馬鹿しい程の数多あまたの武器が、劉飛の急所に狙いを定めている。

「さて、どうしましょうか」

 横で剛來が言う声が聞こえた。喉元に刃を突き付けられているから、劉飛にはそちらを見ることも出来ない。


「目の前に、自分たちの望みを叶えてくれるものがある。これだけ多くの意思を示されて、この者たちの王として、それを手に取るなとは言えません……橙星王、ここは素直に降服して頂けませんか」

 劉飛の体が橙色に光り、橙星王が表に現れる。

「冗談を言うな」

「あなたは、頑丈だから構わないでしょうが、ここは、境海。生よりも死に近き場所です。これ以上こんなことを続けていては、あなたの大事な覇王候補が、本当に死んでしまいますよ。 あなたがこんな場所まで彼を迎えにいらしたのは、本当に彼を大切に思っているからなのでしょう。あなたが服従の意を示せば、この者は地上へ送り返して構わないと、冥王様からはそう言われています」

「……そうして、お前たちはまた、あの男の従属物になるのか。これ程の屈辱を強いられ、仲間の命を弄ばれて。羅刹とは、もっと誇り高き戦士であると、そう思っていたが、それは私の認識違いか」

 橙星王の挑発する様な言葉に、剛來の眉が僅かに吊り上がる。

「……誰が好んでこの様な事……緋燕様も羅綺様もおられない今、私が一族を守らなければならないのです。だから私は……」

「それが、本当に羅刹を守る事になるのか、と聞いている」

「何だと……」


 突きつけられた問いは、剛來が心の底でずっと疑問に感じていた事だった。その迷いを突かれて、剛來の心に隙が生じた。もうその瞬間に、橙星王は向けられていた刃を薙ぎ払い、その剣は剛來の喉元に突きつけられていた。

 橙星王が僅かに剣を突き出すだけで、剛來は命を絶たれる。その状況で、羅刹たちの剣や槍は、未だ目標を捕えてはいるものの、それに刃向かう力を失った。剛來が、屈辱に唇を噛む。 だが、その清冽せいれつな瞳が橙星王を捕らえた時、剛來の口からは、思いがけない言葉が発せられた。


「構わぬ。今すぐ、この者を捕らえよ。この私の命と引き換えにしても、冥王様の命を果たせ」

「呆れた馬鹿者だな。羅刹の滅亡が望みか。ならば、その願い果たしてやろう」

 言って、橙星王の剣が翻る。だが、その剣は、中途半端な所でその動きを止めた。

 その剣を押しとどめたのは、劉飛だった。橙星王の意思を、ありえない程、強力な意志が抑え込もうとしている。

「何を考えているんだ、お前は、死にたいのかっ……やめろ」

 橙星王が片膝を付く。

 その体が一瞬橙色に包まれて、そして消えた時にはもう、そこから星王の気配はなくなっていた。

 顔をあげて剛來を見たのは、劉飛だった。


「……どうしてこんな事を」

 剛來が呆然としながら呟く様に言う。

「……迎えに来て欲しい人がいる。死ななきゃ迎えに来てもらえないっていうなら、こんな命はもう、いらない。俺には……もう一度逢いたい人がいる……その人に逢わせてくれるのなら、この命は、お前にくれてやる」

「……お前は……」

 その顔に深い悲しみの痕を見て、剛來は胸を突かれた。この者も大切な人を喪ったのだ。生を放棄しても構わないと思う程の悲しみと共に、この境海へ落ちてきたのか。ならばもう、この者が地上へ戻る事は難しい。その悲しみを癒す為に、その魂を輪廻の輪へ戻してやる方が良いのかも知れない。

「……分かった。お前の望みを、叶えよう」

 剛來は劉飛の手から九星王剣を取ると、その刃を劉飛に向けた。劉飛が穏やかな笑みを浮かべて、瞳を閉じた。


……これで、全て終わりだ……


 辛いことも、悲しいことも、全て。もう、何もかも全て終わる……それでいい……

 剛來が、九星王剣の刃を、劉飛の心臓に突き立てようとしたその時、虚空に凛とした声が響いた。

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