第87話 我が名は、真白

「剣を退けっ。その者の命を奪う事は、許さぬ」

 とてもよく知っている、そして、世界で一番愛しい声を聞いて、劉飛は思わず目を開けた。その瞬間に、船が傾いで、舟べりに軽い音と共に舞い降りたものがあった。

「……麗妃」

 雪の様に白い鎧に身を固めた麗妃が、そこに立っていた。


「……ええと……お迎えには、まだ早いんじゃないのか。俺、まだ、死んでないし……」

 状況が飲み込めない劉飛が、そう言うのを聞きながら、麗妃は目に涙を浮かべて劉飛の傍らに跪くと、その体をそっと抱き寄せた。そして、耳元に諭すように言う声が聞こえた。

「……あなたには、まだ地上でやるべきことが残っているのでしょう。それが終わるまでは、こちらに来てはなりません」

 言われた瞬間に、劉飛の目からは止めようもなく涙が溢れ出した。

「……だって麗妃……お前も虎翔もいなくて、俺にこれ以上何をしろって……もう……何も出来ないよ……もう……」


 麗妃が身を離し、その両手で劉飛の顔を包む。

「しっかりなさって下さい、劉飛様。虎翔は生きています」

「えっ」

「生きているのです。だから、あなたは、まだ死ぬ訳にはいかないの。いい?」

 麗妃の力強い言葉に、劉飛は思わず頷いた。

 その劉飛の様子に、満足そうな笑みを浮かべると、麗妃は立ち上がった。


「剛來、この者の命を奪う事は、なりません。橙星王と共に、地上へ返すのです」

 そう言われた剛來は、怪訝そうな顔をして麗妃を見る。この自分に、こんな風に命じる事が出来る者は、この世界にたった一人しかいない。 そう思いながら半信半疑で、その気配を探ると、目の前にいる女から、その高潔な魂の鼓動を感じた。

「……あなたは」

 信じられない思いで、剛來は女の姿を見据える。返された笑顔は、彼のよく知っている羅刹の王のものだった。

「そうね……以前の名は、まだ封じられているから、今は、真白ましろ。そう呼びなさい」

「真白様……」

 剛來がその名を呟くのを聞いて、真白は頷くと、舳先へ立った。そして、そこにいる羅刹たちに宣言する様に言った。


「皆の者、良く聞くが良い。たった今、この瞬間から、我ら羅刹の民は、冥府の王の従属から解き放たれる。お前たちが従うべきは、ただ、この羅刹の王、真白。そして、剛來だけと心得よ」

 その声の波動が、静まり返った羅刹たちの間に広がっていく。そして、そこに巻き起こるざわめきが、それを追うように大きくなっていく。

「羅綺様だ……」

「本当に羅綺様がお戻りに……」

 そのざわめきに、真白はやや皮肉の交じった笑みを浮かべる。

「間違えるでないぞ。我が名は真白じゃ」

 その姿を、劉飛は呆気に取られて見ている。

「……麗妃」

 呼ばれて、麗妃が振り向いた。麗妃は、何時も通りの笑みを浮かべていた。


「これが、私が新たに与えられた使命。緑星王の力によって、私は死して後、羅刹として転生した」

「そんな……」

「だから、劉飛様。私は、ここで、ずっとあなたを待っています。あなたが来るまで、きっと……だから、今は、地上へ戻って。あなたがやるべきことをする為に。虎翔の為に、戦のない平和な国を作るのでしょう?」

「でも麗妃……」

「……私達の息子を、虎翔を頼みます」

 そう言って、麗妃は劉飛の肩をとんと押した。

「れいっ……」

 不意の事に、劉飛の体は思いがけない方へ傾ぐ。そして、そのまま派手な音と共に、水中に落下した。と同時に、その体は温かな橙色に包まれる。 水面に戻りたいという劉飛の思いとは裏腹に、その体は、深く深く水の底へと落ちて行った。





 燎宛宮の政庁の一角にある、吏部りぶ尚書しょうしょの部屋にやって来た人物を見て、その部屋の主である崔遥さいようは露骨に嫌な顔をしてみせた。


 帝国三軍を動かしながら、この燎宛宮にまで敵に攻め込まれるという失態を演じた、無能な元帥の一人が殊勝な顔をして、自分の目の前に立つのをただ黙って見ている。

 用件は分かっている。

 分かっていて、あえて、その話題を切り出せない様に、無言の圧力を掛けてやった積りだったが、相手はそんな意図も意に介さずといった風情で、にこやかに挨拶をして寄越した。

 先ごろ戦死した天海は、崔遥がこの宮廷で唯一尊敬していた人物であるが、その天海が自らの右腕にと育てたこの男は、成程、その眼鏡に叶っただけの逸材である様だった。


「吏部尚書、崔遥様には、ご多忙の所、お時間を取って頂き、誠に有り難き幸せにございます」

「勝手に押しかけてきておいて、調子の良いことを申すな。璋翔しょうしょう、そなたと話す時間などないと、そう申し渡しておった筈じゃが?見ろ、この書類の山を」

 崔遥は大げさに、机上の書類の山を叩いてみせた。

「これらは皆、そなたら無能な軍人どもの尻拭いなのだからな。それが分かっていて、よくもまあ、わしの前に、その間抜けな面を出せたものだ」

「お口の悪さは、相変わらずで」

「そなたには、このぐらいでは堪えまい」

 崔遥は忌々しそうにそう言うと、ふんと鼻を鳴らした。



 吏部とは、宮廷の人事を管轄する役所である。先日の宮内での戦のお陰で、信じられない程に多数の死傷者が出た。それも、帝国三軍ではなく、宮廷の官吏の方に多く被害を被った。 お陰で、元々不足ぎみだった官吏に、多数の欠員が出てしまったのだ。崔遥は、目下、その補充に頭を悩ませている最中なのである。

 しかし、彼に時間がない理由も、彼が不機嫌な理由も知っていて尚、璋翔には、ここに来なければならない理由があったのだ。


「先に、書状を届けさせて頂きましたが、それには目を通して頂けましたでしょうか……」

「書状とな?はて、この紙の山、何処かに紛れてしまったかの」

 飽くまでも本題をはぐらかそうとする崔遥に、璋翔は肩をすくめ、その用件を口頭で単刀直入に伝えた。

「この度、貴族会議において、崔遥様に、宰相の任をお受け頂く旨の決議がなされました。陛下にもご異存はなく、近く勅命が下されます」


「わしは、今日から病気じゃ。諸侯にはそう申し伝えよ」

「この難局、怯むお気持ちはお察しいたしますが、我らが帝国の為、どうかご尽力をお願いしたく……」

「そなた、華煌京の民が、荷物をまとめてこの都から逃げ出しているのを存じておるか?」

「はい。思いがけず戦禍に晒され、人心に不安が広がっているのでしょう。しかし、それも陛下の命により、皇騎の兵が治安と復興に力を注いでおります故、いずれ落ち着いてゆくものかと存じます」

「鼠はな、船が沈むのを敏感に感じ取る。都の民も同じじゃ。陛下のお膝元であるこの都は、もはや安全な場所でないと、そう感じて逃げ出して行くのだ。ここに陛下がおられる限り、この華煌京には、幾度でも敵が押し寄せて来る。 もはやこの都こそが、帝国で、もっとも危険な場所であるという事だ」

「これは、手厳しいですな」

 璋翔が苦笑いをする。

 帝国元帥である自分を目の前にして、歯に絹きせぬその言い様は、小気味よささえ感じる。


「いかな大きな船であっても、沈みかけている泥船に、好んで乗る、物好きはおるまい」

「確かに、大きく傾いているのは認めますが、そう簡単に沈めは致しませんよ。帝国二百五十年の重みは、その様に軽いものではない筈です。かつて天海様は、何かあれば、あなたを頼りにせよと、そうおっしゃっておられました。 この帝国が滅びるのだとすれば、それは、臣下が皆、帝国の安定よりも、我が身の保身を考え始める事でそれは始まると。我らが持てる力を惜しまずに、この帝国に注ぎ込めば、まだ望みはあるのだと。 ……それがご遺言となってしまわれましたが」

 そう言われて、崔遥は不愉快な顔をしたまま押し黙った。



 実は、この戦が始まる前に、宰相就任以来、多忙を極め、とんと御無沙汰だった天海が、珍しく酒を持って崔遥を訪ねてきた。 そして、久し振りに酒を交え、共にいい気分に盛り上がった所で、ほんの他愛のない世間話を話す様に軽い口調で、同様の事を言われた。


 もしもの時は、後を頼むと。

 そして、その時に、彼が背負ってきた重荷も、半ば強引に託された。


……雷将帝が女であるという、とんでもない秘密を打ち明けられたのだ。


 自分ごときが背負うには、重すぎる荷だと思った。

 今の話は、聞かなかった事にする。

 深刻な顔をしてそう言った崔遥に、天海は静かに笑って、ただ酒を飲んでいた。それが良いとも悪いとも言わずに。


 何事もなければ、聞かなかった事に出来たのだろう。だが、最早、天海がいない今、その秘密を知るのは自分だけだ。もう必然的に、何とかしなければならない立場に追い込まれていた。 勝手に期待を押し付けられて、当然のようにお鉢を回される。それがまた、癪の種だった。

「……一つ、条件がある」

 しばらく考え込んでいた崔遥が、顔を上げて言った。

「仕事をするには、人が足りぬ。地方に散らばっている優秀な人材を、早急にかき集めろ。これがその名簿だ」

 そう言って、崔遥が一巻の巻物を璋翔に投げて寄越した。それを広げて、中身を確認した璋翔は頭の下がる思いがした。 そこには、優秀でありながら、太后の意向に沿わぬという理由で、かつて地方に送られた官吏たちの名前が書き連ねらていた。崔遥は彼なりに、帝国の状況を憂い、それを打開する為の方策を考えていた様だった。


「それから、直ちに早馬を飛ばし、岐水領官の稜鳳という者を召喚せよ」

「岐水の稜鳳ですか?」

「かつて、わしが目を掛けていた愛弟子でな。田舎の領官にしておくには、勿体のない逸材だ。奴を、吏部尚書の後任に推挙する……もっとも、上手く捉まえられたらの話だがな」

 崔遥が付け加える様に言ったその言葉の意味を、璋翔が理解したのは、後日、岐水に送った使者が手ぶらで帰って来た時だった。


 稜鳳の屋敷はもぬけのからで、村人の誰も、その行方は知らなかった。そして、使者がそこで聞き込んできた情報から、恐るべき事実が露見した。河南軍が、この岐水を通り、秋白湖を船で横切って進軍したのだという事。そして、岐水領官であった稜鳳が、これに加担していたらしいという事。

 璋翔からその報告を受けた崔遥は、さして驚きもせず、ただ、貴重な人材が河南へ流れてしまった事を真っ先に悔しがった。どうやら崔遥は、河南の進軍に関して、独自に分析し、すでにその事を予測していた様だった。



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